シチュエーション
![]() ――いい天気。 見上げると、抜けるように高く青い空に、白く鰯雲がたなびいている。 美しく色づいた楓の葉が、ひらり。と、少女の袿の袖に落ちてきた。 秋らしい、濃紅と濃黄の朽葉の重ね色目の袿に、楓の鮮やかな赤色が良く映えて美しい。 ――都の秋も、悪くは無いのだけれど。 それでも、懐かしく思い出すのは、生まれ育った山々の錦のような紅葉の美しさだった。 ――帰りたいなあ。北山の僧都殿はどうしておられるのかしら。おばあさまの菩提にも、もうずいぶん長く 行けずにいるもの。塚の周りは荒れてはいないかしら。花なども手向けてあげたいのだけれど――。 見下ろすと、少女の住む部屋がある対屋の簀子(外廊下)や渡殿(渡り廊下)を、女房や女童がうろうろと 藤花様。と少女の名を呼びながら、行ったり来たりを繰り返している。 もうしばらくは、見つからないだろう。と思いながら、ここからでは見えるはずも無い、侍所のある方に目をやった。 ――犬鬼は、元気にしているかしら。 4年前、あの粗末ながらも丁寧に整えられた、小柴垣で囲まれた山中の小さな庵から、こうして都の大路に面した 立派な築地塀がぐるりと張り巡らされ、大きな寝殿に対屋が三つもあるような大邸宅に来る事になったときも、 一緒に付いてきてくれた少年の事を思う。 最近では、滅多な事では逢えなくなってしまった。前に顔を見たのは、もう2週間も前の事だ。 ――おばあさまの庵にいたときは、毎日、一日中でも一緒だったのに。 ふう。と溜め息をついて、体の位置を調節する。その拍子に、座っていた枝が、がさりと揺れて、 楓の葉がはらはらと落ちた。 しまった。と思う間もなく、下を見ると、庭を探そうとでも思ったのか、ちょうど階を降りてきていた女童と ばっちり目が合った。 「きゃあ―――――っ!?と、ととと、藤花姫様―――っ!?」 まずい。と思うまもなく、最近になって邸に勤め始めたばかりで、自分の使える姫君の日頃の行状を知らなかった 女童は、ものすごい悲鳴を上げたあと、そのまま失神したのが見えた。 先ほどの声に、わらわらと女房達が集まってくる。 まずいなあ。と舌打ちをひとつして、袿の裾を手早く束ねて脇に挟み、切袴の裾をからげ、殆ど猿(ましら)の ように素早く枝を伝って、やんごとないはずの姫君は桧皮葺の屋根の上に逃げた。 「(誰か、犬鬼丸を呼んでおいで――)」 ざわざわとした女房達の声の中、一際通る凛とした美声がそのように命じているのが、微かに聞こえた。 ちょうどいいわ。とにやりと笑って、姫君は屋根の上に大の字に寝転んだ。 ―――それから、程なくして。 「……藤花さま」 音も無く、屋根の上に17歳ほどに見える少年が現れた。 その身に纏う水干も小袴も、清潔ではあるが何度も洗濯してくたびれている。 少年らしく、折烏帽子はかぶらずに、日焼けして赤茶けた硬そうな髪を、無造作に首の後ろで縛っていた。 普通ならば、とても貴族の姫君が直接顔をあわせる事など、まずありえない郎等(雑用係)の少年だった。 「犬鬼!」 その姿を見た途端、子供のような、ひどく無邪気な笑顔になって少女が飛び起きる。 「……まったくもう、少納言様、かなり怒っていらしたようですぜェ?」 先ほど、少年を呼びに命じていた美声の主、教育係でもある女房の少納言の、冷静なだけに余計に恐ろしい 叱責を思い出し、思わず知らず首をすくめてしまう。 「……だってさあ」 「だって。じゃ、ねェでしょう。新しいお衣装の仮縫いの予定だったんでしょう?その最中に、主役のはずの 姫様がいなくなったら、そりゃァ大騒ぎにもなるってもんでしょうが。オマケに、新しい子まで失神させて」 「あ――、あれは、私が気絶させたわけじゃ――」 「普通、貴族の姫君ってなァ、猿(ましら)みてェに樹によじ登ったり屋根に跳び移ったりはしねェんです。 そもそも、こんな名門のお邸の女房殿になろうってお人ァ、それなりに良いお家の出なんですぜ? そんな育ちの良いお嬢さんが、いきなり猿の仔よろしく樹の上にいるお姫さんなんてモン見ちまったら、 それァ、気絶のひとつやふたつ、しちまうだろうってモンでさァ」 立て板に水。とばかりにとうとうと説教され、両手を挙げて降参の意を示す。 「わかりましたっ!私が悪かったわよ!あの子――、えっと、小春にはちゃんと謝っとくから!」 「そうしてくだせェ。後で、俺の倍は、少納言様からの説教が待ってると思いやすが、途中で逃げちゃいけませんぜ」 その言葉を聞いて、がっくりと肩を落とす少女を流石に気の毒に思ったか、先ほどまでより口調を和らげる。 「――ところで、今日はなんで屋根の上まで逃げたりしたんです?いつもならせいぜい厨(くりや)にいって ツマミ食いしたり、雑舎で俺らの仕事の邪魔したり、犬かまったり猫かまったりとか、その程度でしょう? それだって、今日みたいに女房殿たちに見つかって大騒ぎにならないよう、こっそりやってのけてるじゃねェですかい」 「……少納言にはすぐにバレて怒られるんだけどね……」 なんでかなあ。と、おもわず遠い眼をして呟く。 「姫様―――」 わかってる。と、非難を込めた少年の声に、言葉を返す。 「別に、誤魔化そうとしてるわけではないったら。……あの衣装ね、裳儀の衣装なのですって」 裳儀。と鸚鵡返しに言ったまま、少年は沈黙してしまう。 「ええ、裳儀。……これで私も成人して、いつでもどこでも嫁にやれる立場になってしまうのよ」 「……そ、それは――、その。その――」 おめでとうございます。そう、言うべきなのだろうが、どうしても言葉が出ない。 冷や汗をたらしながら硬直する少年に、視線は秋空を向いたまま、声をかける。 「――ねえ、犬鬼。覚えている?おばあさまの庵に住んでいた時の事」 は。と、思わず間の抜けた声をあげてしまう。 「……覚えてない?忘れちゃった?」 「――い、いえ。無論、覚えておりますぜ。……忘れるわけが、ありやせん」 そう。と呟いて、空を見上げる。 ――あの日の空も、このような美しい秋空だったわね――。 ――これは、すこしばかり、むかしのこと。 犬鬼丸には、親がいない。 とはいえ、昨今ではそんな事は珍しくも無い事だし、それなりに大きな、身分卑しからぬ人たちが良く参詣に 訪れるような、羽振りの良い寺に拾われたのだから、破格に運が良かったといえるだろう。 犬鬼丸。という聞き様によってはかなり仰々しいというか、おどろおどろしい名前にしたって、誰かが特に意味を 持って名付けたわけでもない。 そのころ寺にいた、鬼若という僧兵見習いの飼っていた犬が咥えて拾ってきた赤子だったから、犬鬼丸。 正直言って、寺の僧達はかなり困ってしまった。 普通だったら、そのまま里の者にでも預けてしまって終わりにしていただろうし、そうしたかったのだろうけど。 その鬼若の犬は、ご丁寧にも口から赤子をぶら下げたまま、参詣に来ていたやんごとなき貴人の奥方様や女房殿たちの 真ん前を堂々と通って、この寺のいちばん偉い僧都の前に、これ見よがしに赤子を置いたのだ。 そうなっちゃうと、もう見捨てるなんてわけにも行かない。だってその奥方様、寺にいちばん寄進を良くしてくれる、 犬鬼丸なんかには思いもつかないような、とんでもなく偉い大貴族の北の方で、しかも無類の子供好き。 そのときも、犬が死に掛けてたかわいそうな子供を拾ってきたっていうんで、大感激したらしい。 『きっとこれも、御仏のお慈悲のなせる事でしょう。流石は、徳の高い阿闍梨殿のおられる寺ですね』と、お褒めの言葉を 賜れたそうな。 で、そうなっちゃうと、次の年あたりに『あの時の赤子はどうしていますか?』なんて聞かれて『里にやりました』 とはちょっと言えないよなー。と、いう事で、そのまま寺で育てられる事になったのだ。 そんな事を、育ててくれた僧達からよく聞いていた事もあって、犬鬼丸は良く働く子供になった。 いくらそれなりに羽振りが良いからといって、何もしない子供を食べさせておけるほど、寺というのは金持ちでもないし 甘くも無い。 犬鬼丸も、それはよく解っていたし、恩返しをしたいという気持ちもあったから、僧達を見習ってよく働いた。 誰よりも早く起きて厨仕事や掃除をしたし、人より体が大きくて力も強い子供だったから、寺にいる僧兵や、 参詣にくる貴人方の随人に、武術を教えてもらいもした。 だから、大人になったら寺男か僧兵になって、一生をこの寺で過ごすのだと、漠然とそう考えている子供だった。 ――だけれど、ある日。 とある尼僧の庵に行けと、寺でいちばん偉い坊様に言われたのだった。 当然、何故かと犬鬼丸は聞いた。自分は何か悪い事をしただろうか。と。 いやいや違ゃうでェ。と坊様は笑って言われた。 ――まあ、さるやんごとなきお方の、北の方(正妻)であらしゃったお人や。その尼御前は。赤子やったお前が覚えとる ワケもあらへんやろうが、鬼若の犬がお前を拾うてワシの前に連れてきた時に、取り成してくらはったお人やで。 犬鬼丸にしてみれば、そんな赤子のころのことを言われても。という気分である。そもそも、そんな雲の上の人の事を 言われた所で、ピンとくるはずもない。なにしろ、拾われてからこのかた10年の間、山寺育ちの子供なのだ。 参詣者の泊まる僧房に近づくと酷く怒られるので、犬鬼丸の知っている僧以外の人は、里の村人たちぐらいのもので、 都人などというものは、貴人の乗る牛車や牛を世話する牛飼童や郎等くらいのものだった。 だから、その方がどれほど高貴な血筋や身分かという事を説明されても、なんだかよくわからなかったりする。 その時も、その立派な尼さんが自分にどう関係するのか。と、坊様に正直に聞いてみた。 ――まあ、最後まで聞かんかい。そのお方はな、前は都にいてはったんやけどな。 お気の毒にも、娘さん夫婦が若くして身罷らはってな。 その子供――まあ、孫さんやな――を、引き取らはったんや。 まあ、そんな色々があったからな、娘さん夫婦の菩提を弔う為にも、都から離れた辺りの静かな山中に 庵を結んでな、俗世から離れて静かに暮らしたいと思ってはるそうや。 ただな、昔からのお付の女房達はおるそうやが、下働きの者が足りんで困っとるそうでな。そこでな、犬鬼丸。 お前はな、まだ子供やゆうのにホンマによう働くし、気ィもつく方や。この辺の山の事もよう知っとる。どうや、行ってくれるか―――――。 そこまで言われては、犬鬼丸も断る事は出来なかった。 別に、どうしても寺に居たい訳ではなかったので、その、都から来た尼さんが住んでいる。という庵に働きに行く事にしたのだった。 行ってみた先の庵は、思っていたよりも大きかったが、あちこち微妙にボロかった。 裏の木戸の方に回って声をかけると、とてもじゃないけど自分みたいな下働きの子供に直接指示を与えるような 立場の人にはどうしたってみえないような、山の中だっていうのにきっちりと女房装束を着込んだ中年の女性が 立ち居振る舞いも優雅に出てきたものだから、もうものすごく驚いた。 そのいかにも貴人に仕える雅やかな女房殿といった風情の人の、優雅極まりない裾捌きに、廊下の埃がもうもうと 立った事にも驚いた。 あまりの事に、犬鬼丸が唖然としていると「ああ、おまえが僧都殿が仰っていた下働きだね?早速で悪いのだけれど、 掃除をしておくれ。埃っぽくてかなわない」と、仰られたので、想像よりもかなり酷い状態に驚きつつも、 掃除をするために腕まくりをして箒を握り締めた。 ――てっきり、そこそこに広い庵を全て自分ひとりで片付けなければならないのか。と犬鬼丸は思っていたが。 単に、少しばかり予定の調整が上手く行かず、先に里から下働きの者を雇って片付けておく手筈のはずが、何かの 手違いで庵の主人となる尼御前とその女房殿たちのほうが先に到着してしまったらしい。 犬鬼丸は下働きの中でもたまたま一番乗りで来ていただけだったようで、その後すぐに里の女たちや子供達が手伝いに やって来て、見る見るうちに庵はどこもかしこも清潔で気持ちの良いふうになっていった。 いちばん最初の大掃除。という事もあって、雇われた人間は多く、その辺の里の男衆や女衆、そしてその子供達まで かなりたくさん来て入り乱れ、ぺちゃぺちゃとお喋りをしながら働いていたから、その時に犬鬼丸が気がつかなかった 事を叱るのは、少しばかり可哀想。と言えるだろう。 犬鬼丸が、簀子縁を拭いて汚くなった桶の水を替えるために、裏にある井戸まで水を汲みに行くと、 まだ少し小さな子供らが、わらわらと井戸の縁に取り付いて遊んでいた。 どうも、井戸に石を投げこむと音がするのが楽しく、誰がいちばん大きな音をたてるかを競っているらしい。 一人の子供が、赤子の頭ほどの大きな石を放り込もうとしているのを見て、慌てて井戸から引き剥がす。 「なァに悪さしてンだ、お前らッ!ンなことしたら、井戸の水が濁るだろうがッ!」 悪ガキどもをとっつかまえて、順番に脳天に拳骨を振らせていく。 びいびいと泣き喚く子供らの中で一人だけ、涙をその大きな目にいっぱいに溜めながら、犬鬼丸を睨み返してくる、 年の頃は七つかそこいらの女の子がいた。 (……なんだァ?こいつ) よく見れば、一緒にいる子供らの着ている着物とはまるで違う、明らかに貴族の子供の着るような単衣に切袴を 履いており、顔立ちもどこか雅やかで里の子供らとは明らかに異質なはずなのに、田舎育ちの悪ガキどもと、 恐ろしいくらいに馴染んでいた。 その、違和感におもわずあっけにとられていると。 「まあ、姫様!こんなところに居られたのですかっ!」 先程、厨であった女房殿が、簀子縁からそう呼んだ。 「あ、讃岐」 「まあまあまあ、何てことでしょう!こちらの房は片付きましたから、早く中に入ってくださいまし!」 はあい。と返事をしてから、犬鬼丸のほうを振り返ると。 「おまえ、名は何というの?」と、実に尊大に呼ばわった。 「……犬鬼丸、と申しやす。姫様、ご無礼の程、申し訳――」 「そう、それよ。先程は、どうして私をぶったりしたの?」 む。と眉をひそめる。――正直に、言うべきか少しだけ迷い。 「……恐れながら、申し上げやす」 結局、不興を買うことを覚悟で、ありのままを述べる事にした。 「井戸に、石を投げ込まれると、水が濁ってしまいやす。そうなったらしばらく井戸が使えなくなっちまうんで。 もうじき夕餉の支度も始めなけりゃァなりやせんし、あんな悪戯をされちまったら、困るんでさァ」 そういうと、その悪戯な姫君は形の良い眉を可愛らしくひそめ。 「……私、何かとても酷い悪さをしてしまったのね?」 そう、困ったように呟いた。 「ごめんなさいね。音がするのが楽しくて、やってしまったの」 ぺこり。と頭を下げられて、今度は犬鬼丸が慌てふためいた。 「い、いや、顔を上げておくんなせェ。あなた様みてェな身分の方が、俺なんぞにそんなふうに謝られちゃアいけやせんぜ」 その言葉を聞くと、いかにも不思議そうにきょとん。として。 「どうして?私が悪かったのだから、謝らなければならないわ。私、こちらの事は、何も知らないの。 いつも、お水をどうやって汲んでいるのかさえも知らなかったわ。ねえ、犬鬼は山の事や色々に詳しいの?」 「え、ええ。まあ、俺ァずっとここで育ちましたから――」 そこまで言ったところで、先程の女房が子供を呼ぶ声がもう一度聞こえた。 「ああ、もう行かないといけないわ。――じゃあね、犬鬼。また、山の事など教えてね?」 それだけをいうと、ぱたぱたと単衣の裾を翻して走っていった。 ――そうして、宮家にも繋がるやんごとなき血筋の姫君と、山寺育ちの孤児の少年は出会ったのだった。 「ねえ、犬鬼、あれはなに?これはどうすればよいの?」 「ああ、それは箒でさァ。そっちはハタキで。 ……その、姫様?お部屋に戻っちゃア、くれやせんかね?」 何故かハタキを珍しそうに逆さまのまま持っている藤花姫に、そのまま振り回されて 物を壊されたりしたら一大事。と犬鬼丸がおずおずと声をかける。 「だいじょうぶよ。今日のお勉強はすんだもの。二条もね、遊んできていい。って言ってたもの」 だから平気よ?ときょとん。とした顔で見上げてくる姫君に、少年は溜め息をひとつ吐いた。 「ねえねえ、犬鬼。これはどうやって使うものなの?掃除というのをするのでしょう? わたくし、ちゃんと讃岐に聞いてきたのだから」 ハタキを逆さまに持ったまま、えへん。と小さな身体を反らせて得意満面になっている姫君に、犬鬼丸は苦い顔で言葉を返す。 「……俺にとっちゃア、これァ仕事なんでさァ。遊びじゃねェんで。 申し訳ありやせんが、邪魔なんです。 後でおやつを作ってさしあげやすから、女房殿か庵主様の所にでも行っててくだせェ」 しっし。とばかりに手を振っておっぱらう。 仮にも主家の姫君に対して、あんまりといえばあんまりにぞんざいな扱いだが、 この小さな庵に人が住み始め、犬鬼丸が下働きとして勤め始めてからの半月ほどの間。 毎日毎日、何かといえばちょろちょろと顔を出し、手伝いと称して仕事の邪魔をしてくる この小さな姫君に、最初のうちは戸惑い『貴族の姫様にそんなことはさせられん!』と思うものの、 さて、どうやって断ればよいのかも解らずに困り果てていた犬鬼丸だったが、 姫君の祖母であり、この庵の主である尼君自ら。 『孫はあなたのしている仕事が珍しいのでしょう。良ければ、様子を見せてやってくれませぬか。 邪魔になるようであれば、断ってかまいませんから』 ……こうまでおっしゃられると断りにくい。 なので、水汲みや庭掃除などの簡単な事は一緒にやってもみたのだが。 本人にやる気と好奇心はあれど、なにせ今まで屋敷の奥深くに引きこもり、禄に太陽にも風にも当てずに 蝶よ花よと育てられた、それこそ箸より重いものなど持った事は無い姫君で、庭を掃かせれば葉っぱを散らかす。 水汲みをすれば桶を引っくり返すといった有様で、とてもではないが、壊れやすい調度品もある部屋の掃除などはさせられない。 ぷくー。と可愛いほっぺを膨らませて拗ねていた藤花姫だが、犬鬼丸のおやつ。の一言に目をたちまち目を輝かせる。 「本当!?あのね、あのね犬鬼。わたくし、あれが食べたい。こないだの黒いお団子がいいな」 ……ちなみに『こないだの黒いお団子』というのはそば粉を練って丸めて炙っただけの、 シンプル極まるもので、犬鬼丸の昼食を藤花が食べてしまったのだが、あの味が忘れられなかったらしい。 ちなみに、孫が勝手に食べてしまったお詫びに。と、尼君様の命令で、その日の夕食の膳を藤花と取り替えることになってしまい、自分が口にする事など想像もしなかった米や魚や、上等の唐菓子などを食べる事になって、 犬鬼丸は相当に慌てる事になった。 それはさておき。 「……いえ。そんなもんじゃなくても、麦粉も米粉もありやすし、唐菓子の真似事みたいなのなら 俺でもどうにか作れやすぜ?なんなら、山で果物でも探してきやすが……」 短い間に、すっかり味覚が平民ナイズされた姫君に、戸惑いながら言葉を返す。 その言葉に、藤花は、さきほどよりもさらに顔を輝かせる。 「果物?果物が山にあるの!?」 内心、しまった。と思いながら肯きを返す。 「え、ええまあ。でも、山に行くのは大変なんでさァ。ですから、すいやせんが今日はちょっと……」 「そうね、もう午後だものね。それじゃあ、明日ならば良いでしょう? わたくし、果物が生えているところ、見てみたいわ。ねえ、山に連れて行って頂戴。良いでしょう、犬鬼」 駄目です。と言おうとしてこちらをじーっと見つめてくる姫君の視線に根負けする。 「……わかりやした……」 わーい。と嬉しそうにはしゃぐ藤花を見て、これだけ喜んでもらえるならば、よいか。と思う。 さて、問題は庵主さまの許可が下りるかどうかだったのだが、これもあっさりと許可が下りた。 朝から大はしゃぎで待っていた姫君に朝餉を取らせ、籠を背中に背負い、山刀を腰に差して出発する。 「ねえねえ、犬鬼。果物って、どんなのが取れるの?甘い?わたくし、たくさん採って帰るわね。 きっとおばあさまも讃岐も二条もびっくりするわ。みんながお腹いっぱいになるくらい、採れるかしら」 「……そうでございやすねェ。今の時期はヤマモモや枇杷がなっているはずですし、たくさん採れると思いやすが」 いつもの単衣に切袴といった、いかにも貴族の子女という服装ではなく、今日の藤花は犬鬼丸が里の家から借りてきた小袖に紐を巻き、犬鬼丸の一足しかない草鞋を履いて付いてきている。 普段、藤花の身の回りの世話をしている女房の二条は、その格好を見て卒倒せんばかりであったが、 まさか、普段着にしている豪華な絹の単衣で山の中を歩かせるわけにはいかないので、どうしようもなかった。 頼むから、山になど行かないでくれ。という二条の涙ながらの懇願も、姫君の固い意志とはちきれんばかりの好奇心の前に、あっさりと拒否された。 里の中の道を、裸足の少年といかにも履きなれないように、草履を履いた少女がとことこと歩いていく。 さて、今回二人の目的地であるヤマモモの木の場所は、子供の足でも庵からさほどかからない所にある。 山の中に何本も生えているヤマモモの木に、まんまるの深紅の実がたくさん実っている様子をみて、 うわあ。と歓声をあげて小さな姫君が走っていく。 「犬鬼、犬鬼!すごいわ!こんなにたくさん!」 はしゃぎながら、小さな手のひらを精一杯伸ばし、実を摘もうとする。 「ああ、青い実は採っちゃアいけやせんぜ。赤くなってるぶんだけです。……そうそれ」 手の届く枝になっている実は少なく、犬鬼丸の肩に登って腕を伸ばしては赤い実を摘む。 すぐに果汁でべたべたと手が汚れたが、構わずに実を採り続けた。 「……甘い。美味しいのねえ、ヤマモモって。わたくし、桃か李しか食べた事がなかったわ」 籠に半分ほどを摘み終わり、よく熟れた真っ赤な実を頬張る。 幸せそうな笑顔に、犬鬼丸のほうも自然と頬をほころばせた。 ……枇杷の木には、残念ながらまだあまり熟れた実がついてはおらず、結局、ヤマモモだけを籠に入れて庵へと帰った。 その帰り道に。 「……足がいたい」 もう一歩も歩けない。と泣き声で姫君が言い出したのは、まだようやく、里へ下りる道に差し掛かった時だった。 言われてみれば、当たり前の話で、今まで屋敷の外に出た事も無いような姫君が、むしろよくこれだけの間 頑張って歩けたものだといえよう。 草鞋を履いていたとはいえ、柔らかい足は擦り切れて赤くなり、血が滲んでいる所すらあった。 仕方が無い。と籠を首から下げ、姫君をおんぶして庵へと帰る。 「……ごめんなさい、ごめんなさいね。犬鬼」 「謝らねェでくだせェ、俺が悪いンでさァ。……あの、傷、痛みやすかい」 「ううん、だいじょうぶ、少しだけだから。……あのね、降ろしてちょうだいな。わたくし、もう歩けるもの」 「駄目です。歩いたりしたら、傷が酷くなっちまいやすぜ。それが元で悪い病魔にでも取り憑かれたら、 そっちのほうが一大事でさァ」 いくら犬鬼丸が歳よりも大柄で力があるとはいえ、まだ十にしかならない子供が七つの子をおんぶして 帰るのは骨が折れる。 だのに、犬鬼丸は泣き言一つ、重そうな素振り一つ見せずに庵までの道を歩いたのだった。 途中、一度だけ姫君を下ろし、里の中を流れる小川の川縁に生えている濃緑の葉を摘んだ。 「犬鬼、それはなあに?」 「ドクダミでさァ。キズにはこれがよく効くンで。さ、遅くならねェうちに帰りやしょう」 「犬鬼は、凄いのね。なんでも知ってるのねえ」 心の底から感心したように、こっちを見上げてくる姫君になんとなく気恥ずかしい思いを覚えつつ、 少年と少女は家路を急ぎ、帰っていった。 ――それからしばらくたったある日の事。 小さな事件が起きた。 特に何という事も無い、小さな小さな事件だったが、犬鬼丸にとっては大きな事だった。 「犬鬼のばか!いじわる!」 「……いくらお怒りといえども、こればっかりは聞けやせんぜェ。 お願いですから、しばらくはお部屋で大人しくしていてくだせェ」 さて、小さな姫君が愛らしい顔を真っ赤にして怒りながら怒鳴っているのには、訳がある。 大好きなお婆さま。すなわち、この小さな庵の女主人である尼君さまが、夏風邪をお召しになってしまわれたのだ。 最初のうちは、ただの風邪だと、みんな軽く考えていたのだが、 尼君さまの身の回りのお世話をしている女房たちまでもが、ばたばたと病に倒れ、 庵の大人たち全員が病の床につくハメになってしまったのだった。 さて、こうなってしまっては犬鬼丸1人ではどうにもならない。 幸か不幸か、ちょうど真夏という事もあって、近くにある貴族の山荘に避暑に来ている人がいたため、 尼君さま自ら病の床の中で書いた手紙をもって、助けを求めに言ったところ。 いたく同情されてしまい、身の回りの世話に。と、女房を幾人かよこしてくれたので、どうにかまともに看病が出来るようになったのだった。 かといって、犬鬼丸が楽になるわけでもなく。 結局は、現在ダウンしている女房と同じく、貴人の身の回りの世話をするために来てもらっている訳である。 従って、雑用の類は犬鬼丸が一手に引き受けることとなる。 具体的に言えば、病人三人分+子供一人+自分の洗濯物や繕い物。前途の人数分に加えて助っ人の分の食料調達&食事の支度。 果ては、今まで女房殿たちも多少は手伝ってくれていた、屋敷中の掃除など多岐に渡る。 話を戻す。 姫君のお怒りの理由である。 「だって、こないだ犬鬼が取ってきた枇杷、おばあさまもみんなも美味しい美味しいって食べてたでしょう? 熱があっても、あれなら甘くて美味しいから身体に良いと思うのよ」 「……ですから、今日は忙しいンでさァ。洗濯も沢山残ってやすし、布団も洗っちまいたいンで。 庵主様や女房殿たちも、少し回復してきたようですし、今日は鯉を釣りに行こうと思ってやす。 そういう訳で、山には行きやせんぜ。行くなら、明日にしやしょう?よろしゅうござんすね?」 「――……わかったわよ、もういいわ」 ほっぺを膨らませたまま、ぷい。と横を向いて自分の局へと帰ってゆく。 その後姿を見て、やれやれ、解ってくれたか――、と。内心ほっとする。 その安堵が大間違いであったことを思い知らされるのは、犬鬼丸が大物を釣り上げて夕方帰ってきたときの事であった。 ちょうど夕立に会い、濡れ鼠のままで帰ってくると、普段静かな庵の中がやけにざわついており、 ようやく起き上がれるようになったばかりのはずの、寝込んでいた女房までがうろうろと何かを探し回っている。 「ああ、犬鬼丸!お前、姫様と一緒では無かったの!?」 何が、と聞く前に、そんな言葉を投げかけられる。 「い――、いえ。違いやす。……まさか、居ないんで?」 なんてこと。と呟き、今にも卒倒しそうなほどの、紙の様な顔色の女房に逆に聞き返す。 「……ええ、どこにもお姿が見えないの。皆で探しているのだけど、一体何処に行ってしまわれたのかしら。 もし、もしもの事がありでもしたら……!」 そこまで言うと、わっ。とその場に泣き伏してしまう。 折りしも、外では雨が強くなり、雷鳴が轟きはじめる。 「お、俺、外を探してきやす!誰か!讃岐殿を奥にお連れしてくだせェ!」 まさか。 まさか、山へ、枇杷の木のある場所へ行ったのではないのだろうか? 昼間、分かれる直前に言っていた事を思い出し、どしゃ降りの中を山へと走った。 「姫様――っ!藤花さま!どこにおられやすかァ――っ!」 轟く雷鳴の轟音に負けじと、必死に声を張り上げて姫君の姿を探す。 途中、出会った顔見知りの里の子供に聞くと、山の方に向かう藤花姫らしき子供の姿を見ていたらしい。 『このへんの子供じゃない、見たことないようなきれいなおべべ』との証言から、おそらくは間違いないだろう。 枇杷の木の近くにも、ヤマモモの木の傍にも、姫君の姿は見えなかった。 おそらく、雨と雷をさけてどこかに移動したのだろう。 さほど深い山ではない。ないが、危険な場所がないわけではない。 川に落ちて溺れていたら。切り立った場所から落ちていたら。数は少ないが、山犬や熊といった危険な生き物も 存在する。もしもそんなものと鉢合わせていたら。 雨を避ける為に、木の下や洞の中に居て、雷が落ちたりしたら――? 焦りながら、必死で覚えている限りの洞穴や人が隠れられそうな木の洞を探していく。 ――探し始めて、小半時ほど経っただろうか。 七つ目に見た洞穴の中で、すすり泣く小さな人影をようやく見つける事が出来た。 「――姫様」と、脅かしてしまわぬよう、そう、小さく声をかける。 その人影は、びくり。と涙と泥で汚れた小さな顔を上げて、犬鬼丸の姿を確認すると、 「――うあ。うわあああああんっ!犬鬼、いぬき――っ!」 泣きじゃくりながら、しがみついてきた。 みると、ひどく転んだり、藪に引っ掛けでもしたのか、高価な絹に、丁寧な刺繍が施された単衣は 泥まみれで、あちこちに酷いかぎ裂きがいくつも出来ていた。 そんなひどい有様だというのに、懐には大事そうに枇杷をいくつも抱えている。 「かみ、かみなりがね。ごろごろってなって、雨もいっぱい降ってきて、くらくなって、 わたくし、どっちから来たのかわからなくなってしまったの。ごめんなさい、ちゃんとすぐに帰るつもりだったの。 心配をかけてしまうつもりはなかったの。本当にごめんなさい……っ」 べそべそと泣きながら、何度も何度もごめんなさい。と謝る。 姫君の小さな身体を抱きしめながら、慰めるように頭をなでた。 最初は、何と言って怒ってやろうか。と思っていたが、すでにそんな気は消えていた。 「――謝るのァ、俺にじゃアねェでしょう。讃岐殿、卒倒しそうなほどに心配しておられやしたぜ。 それに、庵主さまたちァ病み上がりなんですから、心配かけちゃア、いけやせん」 「…………うん。本当に、ごめんなさい……」 しょぼん。と肩を落とす姫君を、雨がやんだし、もう帰りやしょう。と促して立ち上がらせる。 よく見ると、草で切ったのか、足のあちこちに傷があったので、いつかのように少年は少女を背中に背負う。 どうも、この姫君は自分が思っていたよりも、余程無鉄砲であるらしい。 また、今回のような事が起きるかもしれないし、次があれば、その時も無事でいられる保障は無い。 「――姫様」 「なあに、犬鬼?」 「山の事、今度はちゃんと教えやす。どういうときに、どんなことに気をつければいいのかとか、 何が食えて何が食えないかとか、天気が変わる前兆とか、そういうことを」 返事がないので、恐る恐る背中を振り返ってみると、目をまん丸にした姫君と目が合った。 「……いいの?」 「……はあ。と、いいやすか、姫様の場合、覚えておかないほうがマズそうなンで――」 そう言いかけた途端、背後からぎゅうっ。と抱きしめられる。 「ありがとう、ありがとう、犬鬼!だいすきよ!わたくし、がんばって覚えるわね!」 ――その後、家に帰ってから、姫君は心配していた女房たちにもみくちゃにされたり、 憔悴しきった尼君さまのお姿を見て、心の底から申し訳なく思い、反省したりする事となった。 「ねえ、ねえ犬鬼。これ、食べられる?」 「――それ、毒キノコでさア。籠に入れちゃアいけやせんぜ」 秋には、そんな会話をしながら山中を歩き回る少年少女の姿が見られたという。 ――俺が、姫様を守らねェと。 この日から、犬鬼丸は藤花の師で、従者で、兄で、友で、守護者だった。 二人にとって、蜜月とも言える幸福な子供時代は、それから三年ほど続く事となる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |