シチュエーション
![]() 「なあ、身分の差ってなんだろうな?」 私の問いかけに隣でしこたま酔っ払っていた年かさの男はむっくりと顔を上げた。 「お偉い人々はビールを飲まねえし、下賎の俺らは料亭で飯を喰わねえ。そういうことだ。」 ポツリと呟いたつもりだったが、しっかりと聞いていたようだ。 まるで用意していたように年かさの男は答えた。 「でも金がありゃ俺達だって料亭で飯を喰うだろう?」 「いいや、喰わねえ。」 「何でだ?金さえあれば行ってみたいと思うのが普通だろう?」 そう言うと、年かさの男は少し首をめぐらせてから答えた。 「お前はそう思うのか?」 「ああ、思うね。金さえあれば、そういうところに行って美味いもん沢山食ってみたいと考えるに決まってるさ。」 「そりゃあ・・・お前が若くて、そしてまだこっち側の人間じゃないのさ。」 年かさの男はそう言ってにやりと笑った。 「こっち側?こんな所で飲む人間なんか皆一緒だろうよ。皆、貧乏人だ。」 そう言うと、その声を聞きとがめたか、酒場の婆がぎろりとこっちに視線を向けてくるのを感じた。 婆、その男、そして私。狭い店には3人しかいない。 構わず会話を続ける。 年かさの男は会話に興が乗ってきたのか、婆にビールと怒鳴ると腰をすえたように此方に振り向いた。 「そりゃあ、自由主義ってくらいだ。金さえあれば俺らだって料亭だろうが何だろうが行けるさ。」 「だろう?だったら。」 「だがいかねえ。」 「何でさ。」 「お偉い人たちはこっちにこねえだろう?」 「そりゃ汚いからだとか、危ないからだとかじゃないのか?」 又ぎろりと睨まれる。 「違うな。」 「なにがさ。」 「違うといってるんだ。俺達だって金を持てばあっちに行ける。 好景気とやらで給金だって最近は上がってるんだ。行こうと思えば年に一度くらいはいけるさ。 でもここに来る連中の中に料亭に行った事がある奴なんていねえ。 行こうと思う奴だってそうはいねえ。俺もいかねえ。 お偉い人たちはこっちにこねえ、俺たちはあっちにいかねえ。」 一息にビールを煽る。 「料亭の料理だって美味いだろうが、ここのビールだって悪くねえ。」 そう云って年かさの男は婆にウインクをして見せた。婆はぐっと親指を立てて返す。 「でも同じ所で、同じ物は食べねえ。それが身分の差ってやつだ。」 強引だが、なんだか筋は通っているような気もする。 私だってお嬢様に連れられて共をする以外に自分の給金で料亭に行こうなどと考えた事も無い。 しかしなんとなく理屈で言い包められたような不愉快な気持ちになって、私は店の奥に視線を逸らし、 そして異常な雰囲気を感じた。 なんだろう、とふと考えて、 水場で洗い物を始めようとした婆があんぐりと口をあけて入り口の方を見ているのに気づいた。 ふと視線を戻すと、今まで熱弁を振るっていた隣の男もいつのまにかあんぐりと口を開けている。 完全に店の空気は凍りつき、どことなくホラーだ。 私はなんとなく恐怖心を感じて、ゆっくりと入り口を振り返った。 ---すると。 そこには寝間着にコートを羽織っただけの若い女性がいた。 胸元は薄く開いていて真っ白な肌が覗いている。 着ている物も寝間着とはいえどちらも高級な素材を使っている為、娼婦のようには見えないが、 とにかくやたらと派手だ。目に付く。 週末とはいえ、時刻は日付を通り過ぎようとしており、町も静まる時間帯。 最近、一時期よりも治安も良くなってきたとは言え、普通こんな時刻に歩くのは男しかいない。 あまりの事態にふっと意識が飛びかけるのを感じた。 何とか持ち返し、そしてゆっくりと叫んだ。 「何をしているのですか!!!お嬢様!!」 と。 @@ 物珍しげに狭い入り口に放り投げられていたビールの樽を覗き込んでいたお嬢様は私の声に悪戯っぽく笑い、ついと顔を上げた。 「あら、こんな所で会うなんて奇遇ね。」 全然奇遇ではない。私はパニックになって叫んだ。 「ええ奇遇ですね。全く驚いた。吃驚させるにも程がある。さあ私と帰りましょう。 ああ、どうしようこんな時間にお嬢様が外に出ていただなんてそれこそ旦那様に殺されてしまう。」 がたがたとガラクタをどかしながら入り口へと走る。 「あら、その時こそこの前言いそびれた私とあなたが恋なむむむぐうっ!」 慌ててお嬢様の口を塞ぐと私はお嬢様の肩を掴み、首だけ振り返って婆に怒鳴った。 「明日払いに来るから、つけといてくれ!」 しかしその瞬間、お嬢様はあんがい強い力で私の腕を振り切るように解いた。 乱暴だったかと思わず手を離すと、乱れた髪を押さえながら、 私の言葉にこくこくと頷きかけた婆にびっと指を突きつけるとお嬢様はまるで重大事を宣言するように言った。 「あら、折角だもの。一杯くらい飲んでいくわ。」 そして止める間もなく背筋のすっと伸びた格好ですいすいと私の座っていた横に来ると、 背の高いカウンターの椅子をしばらく眺めそれから意を決したように息を吸い、 それからよじ登るようにして椅子に座った。 そしていかにもレディー然とした装いをしようと努力していますという感じでちょこんと膝に手を置くと、 「紅茶をいただけませんでしょうか?そうね、夜も遅いからアップルティーかカモミールが良いわ。」 と料亭で何かを頼む時のような声で言った。 賭けてもいいが、こんなところにアップルティーやカモミールは無い。 飲む奴がいないからだ。 婆は困り果ててじっと俺の方を見ている。 年かさの男は口をあんぐりとあけたままだ。 私もなんと言って良いかわからない。 三者三様に固まったまま、それでも婆はこの界隈で長くやってきた飲み屋の誇りを思い出したのか、 ゆっくりと動いた。 「紅茶と言っても・・ティーバックマシーンのリプトンくらいしかないですが・・・」 お嬢様の顔が綻ぶ。。 「あら、リプトンは私大好きなの。ロイヤルは毎年取り寄せてるくらいですもの。 じゃあ少し薄めにして、そちらをくださいな。」 だれも『そのリプトンは名前ばかりの安物だ』とは言えなかった。 婆は観念したようにごそごそとカウンターの後ろの下のほうから埃まみれのティーバックマシーンの袋を取り出す。 かちりとガスが燃やされると、うす暗かった店内がかすかに明るくなる。 その上に婆の手で古ぼけたやかんが置かれた。 何が珍しいのか、お嬢様はうっとりと婆の手元を見つめている。 ふと横を見ると、年かさの男がお嬢様の胸元を舐めるように見ていた。 お嬢様に判らないように足を思い切り踏んづけてやると、年かさの男は声も出さずに仰け反った。 「一杯飲んだら帰りますよ。」 溜息混じりにそういうと、お嬢様は素直に頷いた。 ニコニコと笑っている。自分何をしているか、判っているのだろうか。 危険とかそういう問題ではない。 悪意のない世界を信じるお嬢様は素敵だが、世界に悪意が無い試しは無いのに。 そしてそういう悪意にとって、お嬢様は格好の獲物だというのに。 「こういうところに来てはいけないのです。」 そういうと、何故かしら。と言ってお嬢様は首を傾げた。 「お嬢様が来るようなところではないからです。それに自分が今、どのような格好をされているかも考えてください!」 強い調子で言ったにも拘らず、お嬢様は全く気にしていない風にまた婆の手元に視線を移しながら、 「あら、あなたが行く所ならきっと私が行っても大丈夫な所の筈だし、 あなたが行かない所には私は多分行かないし、行けないわ。 今日だって、もし危険だったとしたらあなたが連れて行ってくれなかった所為よ。」 と涼やかな声で言った。 「私が来るようなところに来てはいけないのです。」 私は繰り返した。 「私はあなたが行く所には行くわ。たとえ誰に禁止されたって。 だって私は行きたいと思うし、きっと楽しいと思うもの。 ・・まあ、勿論あなたの楽しみの邪魔をするつもりは無いけれど。」 即答される。 詭弁だ。 だけど私は何故だか言い返せずに黙った。 お嬢様は私は何でもお見通しなの。 という顔をしながらしゅんしゅんと音を立て始めたやかんを楽しそうに見ている。 そして・ お嬢様はやかんから目を離さないまま、こっそりと私の耳に口を近づけて。 「安心したわ。私、酒場と云うからにはお酒しかないのかしらと心配していたのだけれど紅茶も置いてあるのね。 それにポットではなくて、お水を沸かす所から傍で見られるなんてとっても楽しいと思うわ! これからは毎週週末にはここで紅茶を頂きましょう。」 と、なんだかまるで全然懲りていない顔で笑った。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |