シチュエーション
![]() 「はい、ありがとうございます。」 私がそう云い、頭を下げると旦那様は優しく微笑まれた。 肩に手が置かれ、ぐいぐいと揺さぶられる。 「お前には期待を掛けている。立派になって帰ってくるんだぞ。」 温かく、情愛の篭った言葉に聞こえた。 す、と顔を上げると、私を拾って下さった時のままの旦那様の優しい笑顔が見えた。 私にとっては父親代わり、いや、父そのものでいてくれた方だった。 「お心遣い、感謝いたします。精一杯、努力して参ります。」 もう一度深く、深く頭を下げる。 もうお会いする事も無いだろう。 向きを変え、扉へと向かった。 @@ お嬢様の誕生日は、昔は盛大に行っていたものだった。 戦争が終わり、浮かれかえった空気というのもあったのだろう。 様々なお客様は数百人にも及び、屋敷は人で溢れ帰り、 お嬢様が綺麗なドレスを着て登場し、皆が拍手で迎えると お嬢様が文字通り物語の中のお姫様のように眩しく見えたものだった。 屋敷内には歓声が溢れ、私はお嬢様の挨拶回りに後ろからくっついて付いて回っていた。 近年では身内で行いたいというお嬢様の意向もあって、 ご商売の方は呼ばずに身内の親戚一同で執り行ってはいるが、 パーティーの人数に関わらず、ドレスを着たお嬢様は変わらず美しく見える。 いや、年々美しくなっていくように私には思える。 そう、今年もバラの刺繍の入った真っ白なドレスを着た今年のお嬢様はいつにも増してとても綺麗に見えた。 今迄で一番、綺麗に見えた。 私が愚かだった。止めるべきだった。 私はそれに目を眩ませてしまったのだ。 世界を手に入れようと目を眩ませたあのドイツ人のように。 身に余る物でも、両手を広げさえすれば受け止められるとでも思っていたのだ。 私は耳元でそっと囁くお嬢様を止められなかった。 止めようともしなかった。 私は嬉しかったのだ。 それは破滅的な喜びではあったかもしれないけれど、 耳元でそっと囁いたその時から、お嬢様が乾杯の合図と共に 「私、結婚相手を決めました。」 と首まで真っ赤に染めて皆の前で私を連れて宣言したその時まで私は不思議な浮遊感にも似た歓喜の渦の中にいた。 お嬢様の新しい冗談と受け止められ、 大きな笑いと共に皆に好意的に受け取められ、そして傷ついたお嬢様の顔を見て私が初めて自分の過ちに気づくその時まで。 そして私は今日、旦那様に呼ばれる事となった。 イギリスへの長期留学。戻った暁にはグループの重要な仕事も与えられるという。 考え付く事もなかった身に余る栄誉だ。 聡明な旦那様は悩んだのだろう。 そしてこれは旦那様の最大限の配慮で、好意であるのであろう、と私は思った。 @@ 扉を出て、自室へ帰る途中。 コツン、と脇の窓がなったので庭に目を向けるとお嬢様がぼんやりと立っていた。 ちょいちょい。と手招きをされ、それにつられる様に庭へと降りる。 夕暮れが過ぎ、庭を覆っていた光が徐々に薄れていく時間だ。 お嬢様の顔は良く見えなかった。 「お父様に呼ばれたの?」 聡明なお嬢様は判っているのだろう。声は硬かった。 「はい。イギリスへ留学させて頂ける事になりました。」 「それで・・・あなたは行くの?」 「はい。行きます。」 私はきっぱりと答えた。 「どうして?」 薄く闇に覆われたお嬢様の顔は見えない。 私はお嬢様にゆっくりと近づいた。そして薄く見えてきた空に瞬く星を指差した。 「覚えていますか?昨年の夏頃でしたか。お嬢様が寝られないとおっしゃられていた時に一緒に庭に出て、アルタイルという星を見ました。」 お嬢様はきょとんとしている。それからゆっくりと笑った。 「彦星よ。アルタイルは洋名ね。」 「私は昨年まで星の事など、一つも知りませんでした。彦星という名もお嬢様に教えられて、初めて知ったのです。」 「興味を持ったみたいね。その後よく天文の本を読んでたでしょう?知っているわ。」 「ええ。とても面白いですね。星一つ一つに名前だけでなく、話まである。 それにいまではどれくらい離れているだとか、大きさまで判るようです。 で、そのアルタイルですが、あれは大きく見えるだけあって案外と近いそうです。 ここから光の速さで17年程度だとか。 だから今見えているのは、17年前のアルタイルなのだそうです。」 「近いといってもずいぶん遠いわね。」 お嬢様は少し考えてから、答えた。 「そうですね。行って、帰ってきたら34年です。」 「光の速さの乗り物はないわ。それに宇宙というのは空気がないのよ。行く事なんて出来ないわ。」 「そうです。不思議ですね。決して行けないのなら、距離なんて何故計るのでしょうか。」 私は声を続けた。 「お嬢様はあの時仰っていましたね。星の向こうにも同じような星があって、住んでいる人がいて、 そしてこちらを見ているのかもしれないと。」 「ええ。そうね。私はきっといると思うわ。でも。」 「私もいると思います。行けない限り本当にいるかどうかは決して判らないでしょうが、その考えはとても素敵だと思います。」 私はお嬢様の言葉に被せてそう言うと、お嬢様の前に膝をついた。 「あなたの考えは間違ってる。決して判らないかどうかなんて判らないわ。 いつか行けるかもしれないじゃない。」 お嬢様の声が、激昂したように震えを帯びて、私は下を向く。 「本に書いてありました。光の速さより早いものはないのだそうです。行って、帰ってきたら34年。 行くだけで、帰るだけでそれだけの時間を使ってしまうのです。」 「それでもきっと行けるわ。」 今にも足踏みをしそうな切迫した声で、お嬢様は叫ぶように言った。 私は顔を上げ、お嬢様の顔を見つめた。 眉根を寄せ、今にも泣き出しそうに歪んではいるけれど。 それでもその美しさは全く損なわれてはいない。 ふと小さい頃の思い出を思い出した。 昔から優しい方だったけれど、欲しいと思ったものは梃子でも欲しがる強情さも持っていた。 私は夏になる度、綺麗な模様の蝶を捕まえるために走りまわらされたものだった。 「来てはいけません。これでお別れです。星の彼方の人間にするのは、恋ではありません。」 薄暗い庭の中でも、お嬢様の目に涙が溢れたのが見えた。 「あなたは星の彼方にいるわけじゃないもの。ずっと私の隣にいたじゃない。」 「いえ、近くにいて手に取れるように感じられても、それは錯覚でしかないのです。 元から私は向こうにいたのです。今までもそうです、これからもそうです。」 「手は届くわ。あなたは向こうになんかいない。 今までも、これからもあなたはずっと私の隣に」 近づいてくるお嬢様を避けるように私は立ち上がった。背を向ける。 後ろからは、なんだか子供の時に聞いたようなお嬢様の声が聞こえる。 蝶が取れなくて、駄々を捏ねるような。 私はゆっくりと歩み去る。 イギリスなどに行く気はなかった。 女王の国だそうだが、残念ながら忠誠を誓うに足る人物であるとは思えない。 忠誠を誓うに足る人など、恋い慕うべき人などそういるわけがないのだ。 そう、これも本に書いてあった事なのだが。 地球には20億人も人間がいるらしい。私には想像もつかない数字だ。 しかしそれでもきっと見つからないに違いない。 もしかしたら星の彼方にだったらいるのかもしれないけれど。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |