お嬢様と身分の差 恋衣(非エロ)
シチュエーション


屋敷の皆はもう寝静まっていて、しんと音がなるくらいに思える。
時折風が木の葉を揺らす音が窓の外から聞こえてくる。
図書室はいつも落ち着いた空気だけれど外が暗いからか、肌に感じる温度よりも寒々しく感じられた。

あの人がいなくなってから一ヶ月。
私は夜になるとここへ来て、あの人が読んでいた本を片端から読んでいる。
なんて女々しいと自分でも思うけれど。

でもぼんやりと星の本や、とりとめもない冒険活劇などを読んでいるとなんとなく気が紛れた。
部屋に篭っていると煩い位に声を掛けてくる父親も
夜中にそうして本を読んでいると気づいてからは見守ろうと思ってくれているのか、
あまり声を掛けてこなかった。

そうしてぼんやりと一時間ほど幾つかの本をめくっていた時、私は意味の判らない単語に行き当たった。
判らなくてもなんとなく文脈はつかめるものの、気になるような単語。
ゆっくりと立ち上がり、膝掛けを椅子の背もたれにかけて辞書のある棚へと歩く。

そして急に思い出した。
ある日私があの人にキスをした時。
あの人はここの辞書の箱からブランデーの壜を取り出していた。

慌ててひっくり返すように手に取った辞書を確かめる。
百科事典の棚じゃない。国語辞典、会話辞典、違う。そう。その向こうの棚。その辞典。

これだ。辞書の中身は何処へやったのだろう。
手に取った古ぼけた辞書のカバーの中には小さい壜が入っていた。
私が半分紅茶に混ぜたから、半分しか残っていない。
大事な物らしかったけれど、あの人は持っていってはいなかった。

思い出して、くすくすと笑いながら私は壜を手に取った。
あの時、あの人は目を丸くしていた。
あの人は鈍いから気づいてくれなかったから。
そう、全く気づいていなかったような顔をして分別たらしくこの辞書からブランデーの壜を取り出したのだった。

辞書の事などすっかり忘れて椅子へと戻る。
あの人の小さな壜の中で、琥珀色の液体が揺れている。
あの人のブランデーをもう一度、少しだけ口にしてみようと思った。
あの時のように倒れない位に少しだけ。
蓋をきゅいきゅいと開けると、アルコール特有の匂いと、
果実のような甘い香りが混じったような匂いが部屋へと広がる。

私はゆっくりと丸く開いた壜の口に唇を寄せた。
目を閉じて、あの人の事を思い出して、壜の口を舐めた。
そして壜を傾け目に写る琥珀色の液体が喉に流し込む。

その液体が流れ込んだ瞬間、まるでそれが火のように感じられて私は慌てて口を離した。
吐き出さないように慌てて飲み下す。
物凄く刺激が強い。気が遠ざかりそうになって、
私はへたり込みながら慌てて椅子から滑り落ちないように背もたれに捕まる。
カッカと胸が火照るように感じられ、慌てて両手で胸を抑える。
濡れた唇を舌でぺろりと舐めた。

「不味い・・・」

何であの人は、こんな物を大事に持っていたのだろうか。
どう考えてもあまり美味しい物ではない。

それでも壜の中に1/4程残った液体を眺めて、もう一度口をつけた。
悪戯をしても叱ってくれる人はもういないから。

「・・・なにが宇宙よ。そこにいた癖に。」

なんだか気分がよくなって、あの人がいつも座っていた椅子に向かって壜の蓋を投げる。
でも私の非力な力では椅子までは届かない。壜の蓋は分厚い絨毯に音もなく転がる。

もう一度壜を呷った。喉が焼け付くように痛む。
こんなもの、もういらないのだ。全部飲んでしまえばいい。
もう一度壜を傾ける。

「私は宇宙にはいけないわ。でもあなたはそこにいたじゃない。」

いつのまにか私は椅子の上にしゃがみこみ、子供のように膝を丸めてながら喋っていた。
子供と違うのは酒壜を抱えこんでいる事くらい。

「星の彼方になんかいないくせに、私が困ったら直ぐに来られる所にいたくせに。
遠くに行きたいのなら、例え星の彼方でも私をさらって行ってくれれば良かったのに。」

壜の残りはあと少しになっていた。
そういえば小間使いの女の子が言っていた。お酒を飲むと泣いたり怒ったり、そういう風になるんだって。
今の私のがそうなのだろうか。
お酒を飲んだらこんなに悲しくて悲しくて、胸が潰れそうな気持ちに皆なるのだろうか。
あの人は毎週毎週お酒を飲んで、こんなに悲しくて胸が潰れそうな気持ちになっていたのだろうか。

そんな事を考えていたら、いつの間にか涙が毀れて滴り落ちた涙が壜の中へと入った。
抑えようとして、抑え切れないことを感じて私は下を向いた。
一人になってから今まで泣かずにいたのに、私は悲しくて悲しくて涙を止める事ができない。
喘ぐように酸素を求めて呼吸をし、落ち着くとまた止め処もなく涙が毀れた。

悪い事をしたら叱ってくれて、いつも隣にいてくれて、一緒に星を見て。
もしこの琥珀色の壜の中が涙で満たされたら、あの人は帰ってきてくれるだろうか。
なんてとりとめもない事を考えて、私は頭を振る。

考えなきゃいけない事は沢山あって。
私にも父の云う言葉の意味くらい判る。
あの人の言葉の意味も。
あの人は私に相応しくないと父やあの人は言う。
でもあの人が相応しくないだけじゃない。
私だってきっとあの人には相応しくなんかない。
だって私には毎週、こんなに悲しくて胸が潰れそうな気持ちになってお酒を飲む事はできそうにないから。

父のいうこともあの人のいう事も判るけれど、全然判らなかった。
きっとこの気持ちよりも大事な事が世の中には沢山あるっていうこと。そうなんだろう。
無理をしたって良い事なんか一つもない。そんな話だ。
時間を掛けて、あの人の事を忘れてそして相応しい人を好きになる方がきっと良いのだって。

「でも、そんなものは嫌よ。」

泣きはらした私の声は、空ろに響いた。
こんなにわんわんと泣いたのは、いつ以来だろうか。
汚い言葉を使うと怒られるけれど。

「だってそうじゃない。私は紅茶が好きだわ。飲んじゃ駄目っていわれたって、忘れられるはずなんてないもの。」

又ブランデーを呷る。

そう、泣いている暇があるのなら、私は迎えに行かなくちゃ。
学園に行く以外、あの人と一緒でないかぎり一人で出た事など無い屋敷の外へいこう。
何処にいるか判らないけれどきっと探し出してみせよう。
17光年の遠くに行くのなら、早く行かなくちゃ間に合わない。

お尻を押してくれる人はいないけれど、私にあの塀が登れるだろうか。
隣を歩いてくれる人はいないけれど、一人で街を歩けるだろうか。
あの人を見つけて、連れて帰ることが出来るだろうか。

きっとできる。あの人はきっとまだ星の彼方にまでは行ってはいないから。

あの人の気持ちを知りたいのだ。そして言おう。
星の彼方に17年をかけて行く事はとても難しいかもしれないけれど。
でも両方から出発すれば8年で会えるかもしれないって。
もし良かったら、嫌じゃなかったら早く会えるようにあの人にも一緒に手を伸ばしてもらって。
いや、8年だなんて。
もっと速く。光の速さよりも速く。
私は、私のこの胸に残る思いをもっと速く届けたい。ちゃんと伝えたい。
あの人に今すぐ会って、そして頭を撫でてもらいたい。手も繋いで欲しい。

イギリスにでも星の彼方にでも何処にでも一緒に行くから。

私があの人に相応しくなればいい。あの人が私に相応しくなればいい。
2人で手を伸ばせば、きっと8年も掛からない。
紅茶とブランデーを半分ずつ混ぜた物はとても飲めたものではなかったけれど、でも私は飲んだもの。
手元の壜を眺める。

「紅茶を入れてくるわ。」

半分ほどあったブランデーの残りはもうちょっと。私は酔っているのかもしれない。
もう一度飲んで、涙を拭いてそして落ち着いたら支度をして出かけよう。
私のこの心を忘れないように。この気持ちを捨てないように。
あの人の胸に飛び込んで、
あなたがいなくてとても悲しいから一緒にいて私の胸が張り裂けないように見張っていて欲しいのだと、
そう伝えよう。






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