シチュエーション
![]() 「……んぅ」 小さな吐息と共に、少女が起き上がる。 寝乱れた襦袢から細い鎖骨が覗いている。 黒い髪が一筋、唇に張り付いていた。 煩わしそうにそれを払いのけ、少女は差し出されたコップを受け取った。 コクッ、と小さい音がして、喉が妖しく微動する。 空になったコップを、私は静かに受け取った。 神聖な儀式のように、厳かに、澱みなく。 「直樹、おはよう」 鳥の囀りのような、ささやかで柔らかい声が少女の唇からこぼれた。 静かな空気に、その声は完璧なほど溶け込んでいた。 だから、最初はその声が私に向けられたものだとは気がつかなかった。 「お は よ う」 「……おはようございます、結花様」 私の目を見て、少女が改めて朝の挨拶をする。 一文字ずつ、区切るように。 私はそれでようやく反応できた。いつものように朝の挨拶を交わす。 「いよいよ、今日ね」 くぅっ、と伸びをしながら、少女が言った。 長い髪が波打って、止まった。 「はい、いよいよ今日ですね」 「あら? 随分と不満そうじゃない」 いえ、と曖昧な返答をしながら、私は困惑していた。 自分は平静を装っているつもりだったが、少女には通じなかったらしい。 私の戸惑いが面白かったのか、彼女がクスクスと上品な笑い声を漏らした。 「私より直樹が緊張してるみたい。大丈夫よ。上手くやるわ。 オンカミ様にもきっと気に入られる。大丈夫よ、大丈夫」 後半は独白のように、自分に言い聞かせていた。 必死に平静さを装ってはいるが、やはり彼女も不安なのだろう。 「朝食の準備が出来ています。今朝は旦那様もご一緒に召し上がるそうです」 告げた途端、少女の顔があからさまに曇る。 「父は……嫌い……」 少女の呟きを聞かなかったふりをして、私は部屋を出た。 入れ替わりに着物を抱えた侍女が入っていった。 年季の入った柱に身を預け、息を吐く。 私の役目はここまでだ。 少女の世話係として、この神谷の家に来てから十年。 少女は私の手を離れて、神の嫁となる。 神谷の家に代々伝えられてきた、悪しき因習。 数えで十六歳になる神谷の長女が、捧げられる儀式。 どんな儀式かは知らないが、神に気に入られず、廃人になった者も少なくないと聞く。 私は知っている。少女は知らない。 知っていたにも拘らず、私は言えなかった。いや、言わなかった。 分家の小倅が口を挟める問題ではない。 儀式に異を唱えた瞬間、災いが降りかかる。 それは神の力じゃない。人の力だ。 狭い世界の中で行われる排斥。 それは時として、神の怒りより恐ろしい。 私は知っている。 私と同じように儀式に疑問を抱き、抵抗し、葬られてきた人々を。 だから、私は何も言わなかった。 我が身可愛さで少女を神に捧げる。 結局は私も、私が蛇蝎の如く嫌ってきた神谷の人間と同じだ。 ガンッ!! と柱に頭を打ち付ける。 噛み締めた唇から、鉄の味がじんわりと広がった。 その痛みは、私の後悔を消してはくれなかった。 儀式は夜に行われる。 彼女は昼から物忌みの儀に入り、男は傍に近付くことが出来ない。 儀式が始まるまでの十数時間を、彼女は一人で過ごす。 そして、儀式が終わった次の日から、彼女は神の嫁として特別な存在になる。 近づける男は本家の長男だけ。 身寄りの無い私は、何かしらの役割をこの家で与えられ、死ぬまでここで過ごす。 彼女には近付くことも出来ないまま。 朝に交わしたあの短い会話が、十年を共に過ごした彼女との最後の会話だった。 そう思うとやりきれない。 こうして後悔と懺悔だけを繰り返す。時間は刻々と過ぎていく。 腰を下ろしていた岩から立ち上がり、歩き出した。 私は―― 【逃げ出す】 ← 【逃げ出さない】 【逃げ出す】 神谷の家に来た時に宛がわれた自分の部屋に戻る。 持って行くべきものはすでに入っている。 大き目のボストンバック一つ。 それが私の神谷の家での十年全てだ。 それを抱え上げ、私は神谷の家を出た。 儀式? 神谷? 災い? そんなもの、もう私には関係ない。 遠いところに行こう。 いつか、今日の事を笑い話に出来るように。 車の後部座席に、ボストンバックを置き、走り出す。 遠出したい、と言った彼女の我儘を叶える為に、免許を取ったんだっけな。 彼女との思い出が甦り、知らず知らずに微笑んでいた。 車は神谷の家の物だ。 退職金代わりに、少しの間拝借しよう。 私は、逃げ出す。 身寄りが無いというのは、こういう時には便利だ。 ただ彼女のことだけが気がかりだった。 あんな耐え難い環境に押し込められて……。 車を道の脇に寄せて、停めた。 後部座席のドアを開け、ボストンバックに近付く。 ゆっくりとバックのファスナーを下ろした。 私の神谷の家での十年。 そこで得た全てが入っている。 「暑い! 狭い! ……直樹ぃ!」 少女が飛び出してくる。私の首に強く腕を絡める。 私は黙って少女を抱き返した。 儀式? 神谷? 災い? そんなもの、もう私達には関係ない。 遠いところに行こう。 いつか、二人で、今日の事を笑い話に出来るように。 私達は、逃げ出す。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |