シチュエーション
夜の静寂(しじま)を破る耳障りな靴音が辺りに響いていた。 満月に照らされて浮かぶのはいくつもの影、影、影――― 闇に溶ける紺色の法衣を身につけた男達が、銀の鎖をはめた犬を連れ、一人の男を追っていた。 身につけている法衣は銀糸で十字が縫いこまれた聖教会のもの。 彼らは、教会が独立組織として抱える魔物祓い(エクソシスト)であった。 今彼らが追っているのは、一人の男だ。だが、それはただの男ではない。 人間ですらない。男は、魔物祓い達が滅ぼさんとする、“闇に生きるもの”であった。 人の血を吸い、命を繋ぐ吸血鬼。彼はその一族であり、中でも幾人もの魔物祓いたちを 返り討ちにし、戯れに下僕と変えた強大な力を持つと噂される吸血鬼、 エドガルド・ブラドゥと呼ばれる男であった。 久方ぶりの大物の“祓い”に魔物祓い達は、緊張気味に自身の法力を銀の楔に封じ込めていた。 特別な訓練を受けた犬達も連れ、用意は万端。あと少しでエドガルドを殲滅する所まで迫っていた。 既にエドガルドの身につけた黒の上着は所々が破れており、彼の顔も、むき出しになった腕も 傷だらけになっていた。 ウォォ、と犬達がエドガルドに向かって吼える。犬の吠え声には魔力が宿っている。 特にこの犬達は聖教会が魔物殲滅のために育てた犬達だ。その力も大きい。 吠え声にエドガルドさえも不快気に眉をひそめた。すると彼の動きが数瞬ばかり遅くなる。 力の弱り始めた彼には些細な妨害も感にさわるほどの効果をあらわしてしまうのだ。 「忌まわしき吸血鬼! もはや貴様に逃げる場所は無い。 おとなしく我らが神の裁きを受け、塵に還るが良い!」 魔物祓いの頭首らしき者がそう、声を張り上げた。 その声を皮切りに、次々と法力のこめられた銀の楔がエドガルドへと投げ放たれる。 一つ、二つ。空気を切り裂く音を立てながら。 「甘いわ!」 エドガルドが一喝すると、突如砂の混じった風がごぉと魔物払いたちの周りに吹き荒れた。 慌てたように身を引く紺服の男達。風に追い返されて放たれた楔の多くが、エドガルドの傍まで 辿りつかずに地に落ちてしまう。だが、それでも防ぎきれなかった楔のいくつかが エドガルドの腕に腿に腹にと突き刺さった。 「…………ッ!」 鮮血が満月に照らされ光を返す。エドガルドは小さく舌打ちをした。 今宵は月が強すぎる。魔物祓い達も法力を高めるのに月の魔力を借りているのであろう。 だがそれは逆手にも取れるはずだ。エドガルドは月を背にして振り向くと、魔物祓い達を 目をかっと見開いて見つめた。その瞳が爛々と紅く光っている。 空恐ろしいまでに輝く瞳の光が魔物祓い達を捉えた瞬間。 「「ぐぁぁっ!」」 幾人かの魔物払いたちが頭を抱えながら苦痛の叫びを上げた。 両の目から血のように赤い涙が流れ落ちる。彼らはエドガルドの『邪視』に射抜かれたのだ。 その様子を見て、エドガルドは鼻で笑った。 この程度で壊れるようなやわな生き物が自分を追い詰めるなど、馬鹿馬鹿しいと。 だが、突如胸の痛みを感じ、エドガルドは中空で身を折った。 激しい咳を繰り返し、吐き出たものにはだいぶ血が混じっている。 既に彼は満身創痍なのだ。人間相手に、と彼の矜持は絶対にその事実を認めはしないけれど。 (……思っていたよりも傷が深い。こざかしい人間どもが……。 だが、俺はお前達に滅ぼされなどしない!) エドガルドは小さく舌打ちをすると、痛む体を無視しながら風を蹴り、夜闇の中を更に大きく跳躍した。 そして苦痛に呻く者、エドガルドを睨みつける者たちを傲然と見返しながら言い放った。 「お前達、このブラドゥを倒したくば風を操り闇に溶ける術を覚えることだな!」 風を絡ませ、息を吐き、もはやぎりぎりの力を振り絞りながらエドガルドは闇祓い達を振り切った。 そして苦痛のためか屈辱のためか、唇をかみ締めながら闇の中をいくあてもなく跳躍していった。 ******* ユーリエは夜道を、辺りを気にしながら歩いていた。 彼女は隣村の知り合いに頼まれ、その村で出産の手伝いをしていたのだが、長丁場のために すっかり遅くなり、辺りが既に真っ暗になってからの帰宅になってしまったのだった。 「やっぱり……小母さんが言ってくださった通りあちらのお家に泊まっていった方が良かったかしら」 不安げに瞳をめぐらしながら独り言のように呟く。 そう時間はかからない距離とはいえ、女一人で夜道を歩くのは不安であった。 けれどユーリエは他人に心配をされる事を極度に避けていた。 もの柔らかな物腰と、人当たりの良い性格の割りに、彼女はどこか人との関わりを避けるようなきらいがあった。 それはもしかすると『自分は孤児である』、という彼女の意識がそうさせているのかもしれなかった。 ユーリエはしばらく歩みを進めることをためらっていたようであったが、気を取り直したように 小声で知っている限りの唄を歌いながら不安を紛らわせ、家路を急ぎ始めていた。 満月のためか道は比較的明るい。彼女の、銀に近いほどの髪も月光を弾いて艶やかに輝いていた。 月を見上げながらユーリエはふと思った。 (今日が満月でよかった。真っ暗だったらとてもじゃないけど家に帰れない。それに……) それに、ユーリエは月が好きだった。 美しく滑らかに輝く白の光を見ていると嫌なことも不安なことも全て忘れてしまう。 胸がきゅんとなるような、郷愁にも似た感情が浮かぶのだ。 そして……、上手く例える事はできないけれど体の奥から不思議な力が湧いてくるような そんな気さえするのだ。その力を勇気と呼ぶのか、希望と呼ぶのかは分からないけれど。 唄を口ずさみながら歩くユーリエの歩みがふと止まった。何か、黒い影を目の端に捉えたのだ。 (何……?) 途端、胸が警戒をあらわす早鐘を打ち始めた。恐怖がじわじわと背骨を這い上がり身をすくませていく。 ぎゅっと一度目をつむってしまったユーリエだったが、必死に自分を鼓舞しながらそっと 目を開け、恐怖の源を見据えようとした。 「……な、何なの……?」 ユーリエは驚愕に目を見開いた。満月に黒い影が映りこんでいる。 それは人の形を模していた。そして段々と大きくなっていく。 形がはっきりとしていく。男だ。紅い目をした男が月を背に、空を舞っていたのだ。 男は黒い服を纏っている。その服は所々破れ、裂けてしまっているが不思議とその男に 野蛮な感じはない。まだ若い男のようだが、どこか老成したような雰囲気も持っていた。 そして男はユーリエの目の前でゆっくりと地上へと足を下ろしていった。 驚きと恐怖でユーリエは、身動きできないほどに固まってしまっていた。男は、 そんなユーリエをためつ眇めつ眺めると、唇の端をあげて笑って言った。 「……若い女か。今の獲物には丁度良いだろう」 SS一覧に戻る メインページに戻る |