ジン×姫君(姫君の選択編)
シチュエーション


目を開ければ自分を見下ろすジンの顔が見える。その表情が冷たく無機質なものだということを改めて思い知らされるのが嫌でアイーシャはきつく瞳を閉じたまま身動きせずに呼吸を整えていく。
性急な行為だった。
今までも強引に奪われてはいたがジンはジンなりに優しく抱いていたのだと今更ながらに気づかされた。
達したばかりだというのにアイーシャの中に埋め込まれたジンのものは萎えることがなく、それだけでアイーシャの緊張は解けることなく持続する。

「……アイーシャ」

掠れた低い声。

「アイーシャ、目を開けろ」

ジンの手が頬に触れ、アイーシャは観念したように目を開いた。
先ほどの熱など微塵も感じられないほどにジンの瞳は冷めている。
初めて奪われた時よりもずっとアイーシャの胸は痛んでいた。

「そんな目で私を見ないで」

毅然と言い放ったつもりだったが、どうしても声が掠れてしまう。
アイーシャはそれ以上話すことを諦めた。あまり喋ると泣いてしまいそうだったからだ。

「お前は何もわかっちゃいない」

痛みを堪えるようにジンは顔を歪める。

「どうして俺がお前の側から離れないのか。そんなこともわからないのか?」

それは私がいつまでも願いを口にしないからでしょう──そう答えかけてアイーシャは口を噤んだ。

(違うの?でも……)

困惑に瞳を揺らすと、ジンがもどかしげに舌打ちをする。

「…………それで、さっきの話によれば俺は強欲な国王に金で売り飛ばされるってわけか」

唐突にジンの体が離れる。

「抜けない指輪に宿るジンを。指ごと切り落としでもするのか?」

ずるりとジンのものが抜け出る感触に不完全燃焼だった体が反応する。しかし、アイーシャの漏らした吐息にジンは気づかないふりをする。
「指輪は抜けるはずだとお兄様が」
「お兄様!そうか。またサーリムがお前に余計なことを吹き込んだわけだ」

ジンは低く悪態をついた。

「お兄様のことを悪くいうのはやめて」

アイーシャにはジンがなぜそんなに腹を立てるのかわからなかった。

数日前に父に呼ばれ、さる国の国王がジンを欲しているのだと聞かされた。指輪は抜けないのだからと父に断りをいれたが、兄から指輪は抜けるはずだと言われてしまった。ジンがその気になれば簡単に抜けるはずだ、と。
兄と父に頼まれれば拒むことなどできるはずもない。そもそもジンを手放すことにデメリットなどないはずなのだ。

(喜ぶべきだわ。これでもうアルジャジールに振り回されることもなくなるのだもの)

父にジンを手放すと約束し、それをジンに打ち明けたのが数時間前。話を聞くが早いか問答無用で押し倒された。怒りに任せた行為は陵辱と呼ぶにふさわしいものだった。

「アイーシャ」

不意に抱き寄せられ、アイーシャの思考は急停止する。

「アイーシャ、アイーシャ」

何度となく名を呼ばれ、息ができないほどきつく抱き締められる。
ジンの声が胸を締め付ける。苦しくなるほどに切ない声。

「離れろというならそうしてもいい。お前がどうしてもと望むなら俺はそうせざるを得ないからな。わかってるだろ。……だが、お前は本当にそれでいいのか」

その問いに返すべき答えがアイーシャにはわからなかった。
頭で考えれば肯定するのが正しい。きっとそうするのが一番いい。ジンにとってもアイーシャにとっても。
けれど、気がつけばジンの背に手を回し、きつい抱擁を受け入れている。離れたくないと胸が押しつぶされてしまいそうなほどに願ってしまう。

「あ、アルジャジール」

口を開いたとたんに涙が溢れた。大粒の涙が頬を伝う。

「わからないのです。あなたは我儘で意地悪でいやらしくて、でも、気がつけばいつだってあなたは優しくて……でも、あなたはジンで、ずっと側にいたりできなくて。だから、だから……」

時折しゃくりあげながらアイーシャは胸に溜まったものを吐き出していく。

「私はわからないのです。どうすればいいの?アルジャジール、私はどうすればいいのです?」

涙が止まらずに、アイーシャはジンの胸にすがって声をあげて泣いた。

「……アイーシャ」

すっかり泣き疲れて膝の上でぐったりとしているアイーシャの髪をジンは優しく梳いてやる。

「悪かった。泣かせるつもりじゃなかった。俺は、ただ……」
「ただ?」

ジンを見上げ、アイーシャは首を傾げる。
何かを口にしようとして、ジンは小さく首を振る。そして、力なく微笑んでみせた。

「お前が可愛くて仕方なかったよ。お前の頼みなら何だって叶えてやりたかった。……初めはお遊びのつもりだったんだがな」

そっと頬を撫でた指がそのままゆっくりと下へ下りていく。そして、指輪の上で止まった。

「さあ、姫君。忠実なる下僕の最後の奉仕だ」

ぴたりとはまっていたはずの指輪がジンが動かすとくるくると回る。少しずつ緩んでいくのがわかった。

「俺を誰かに譲るか一生側に置いておくか。宝物庫に放り投げるのもありだな」

ジンが何をするつもりなのか、アイーシャは悟った。兄の言葉はやはり正しかったのだ。しかし、今はそんなことを考える余裕はない。
アイーシャはとっさにもう片方の手でジンの手を掴んだ。

「後悔しないようによくよく考えてから選べよ。二度目はないぞ」

確かに掴んだはずだった。

「アルジャジール……?」

けれども、掴んだはずのジンの腕はなく、代わりに握られているのは外れなかったはずの指輪。

「意地悪……」

止まったはずの涙が再び溢れ、零れた。

「あなたは意地悪です。……わからないと言ったのに」

疲れて果てて眠るまで、アイーシャは指輪をきつく握りしめて泣き続けたのだった。

少し前までの日課と同じくアイーシャは紅玉の指輪を眺めていた。相変わらず星は静かに煌めいていたが、動き出しもしなければ形が変わることもない。ジンが現れたなど夢ではないかと思わせる。
指輪をしまいこみ、アイーシャは宝石箱に鍵をかけた。
ジンが指輪に戻って以来つきたくもない溜め息ばかりがこぼれ、胸が締め付けられるように苦しい。恋しいだなどと認めたくはないけれど、この胸の痛みが何であるかアイーシャには少しずつわかってきていた。
アイーシャは寝台に倒れ込み、全身の力を抜いた。ゆっくりと体が沈んでいく。
気づいてしまったからこそ、アイーシャはジンを呼び出すわけにはいかない。再び目の前に現れてしまえばきっと今までのようには振る舞えない。それに、ジンは気の遠くなるほど長い時間を生きるのだ。永遠に側にいることなどできない。
じわりとアイーシャの瞳に涙が溢れこぼれた。

「アルジャジール……」

目を閉じれば声が聞こえる。肌に触れる腕を感じる。それが幻だとわかっていても、その幻にすがることしかできない。
幻に抱かれ、アイーシャは緩やかに眠りに落ちていた。



「目が覚めたかい、お姫さま。また泣いていたんだね」

少しばかり痛む目を擦り、アイーシャは傍らに置かれた手に手を重ねた。優しくアイーシャの髪を撫で、サーリムは微笑んでみせる。

「こうなる前に私としては手を打っておきたかったのだが」
「お兄さま」
「仕方がないな。一度傾いた想いは落ちていくばかり。そのくらいは私にもわかる」

アイーシャはサーリムの顔を見上げた。昔から兄に隠し事などできなかった。今回も兄は何もかもお見通しなのだとアイーシャは悟る。

「お兄さま、わたくしは……」

愛しい兄の膝にすがる。膝が濡れるのもかまわずにサーリムはただただ優しくアイーシャの髪を撫で続けるのだった。



かたりと音がしてサーリムは傍らに視線を移した。アイーシャの髪を撫でる手はそのままに、もう片方の手で髪をかきあげる。

「……ジン」
「よお、サーリム」

腕をおろすとさらりと髪も落ちる。サーリムはさして驚きもせずにジンに笑いかけた。アイーシャに見せる微笑とは違う、少しばかり呆れを含んだ笑みだ。

「そんなに心配なら素直になればいいのに」

サーリムの呟きには答えず、ジンは寝台で休むアイーシャの側へ近づいていく。

「まったく。どこまでも世話のかかる奴だ」
「誰のせいだと思う?」
「元はといえばお前が余計なことを言うからだ」
「兄として可愛い妹をジンに渡したくはないさ。当然だろう。……アイーシャがこうなるとは計算違いだったがね」

小さく舌打ちをしてジンはアイーシャから離れて窓辺に近づく。窓枠に腰掛け、顔をしかめて兄妹へ視線を向ける。

「俺はどうするべきだと思う?」

サーリムはアイーシャを愛おしげに見つめながらそれに答えた。

「それを私に訊くのか?愚問だな」
「わかってるさ。お前は俺が嫌いだからな」
「そんなことは言ってないだろう。私が厭わしく思うのはアイーシャを傷つけるものだ。アイーシャが大切に思うものは私にとっては守るべきもの」

ジンが整った顔を心底嫌そうに歪めるのをサーリムは楽しげに眺める。

「お前に守られたいとは思わんな」
「君のことを言った覚えはない。君を守るなど私としても御免被る」
「……性悪め」
「お互い様だ」

ふっとサーリムが表情を引き締めてジンを見上げる。

「冗談は抜きにして、私が願うのはいつだってアイーシャの幸せだよ。お前はお前のしたいようにすればいい。それがアイーシャにとって幸せなものであれば私は全力で援護する」
「幸せなものでなければ?」
「ありとあらゆる手を使って阻んでみせよう」

くつくつとジンは笑う。赤い瞳がきらりと煌めいた。

「言うと思ったぜ。シスコンが」

ジンは窓枠からおりて、再びアイーシャの側へ歩み寄る。その頬に軽く触れ、唇を寄せた。

「とにもかくにも姫君に選択権を与えたんだ。選んでもらわなければ俺には何もできない」
「それで、捨てられたらどうする気だい?」
「地の果てに追いやられたって舞い戻ってやるさ。捨てていいとは言ったが戻ってこないとは言ってない」

ジンの顔をまじまじと眺め、サーリムは堪えきれないとばかりに吹き出した。

「知っているか。諦めの悪い男ほど見苦しいものはないんだぞ」
「お前に言われたくない。十も下の女に頭が上がらんくせに」

二人は黙り込んで睨みあう。あわや口論になるかと思いきや、ジンが小さく溜め息をつき、空気が和らぐ。

「そろそろ姫君がお目覚めだ。俺は退散しよう」

サーリムが視線を落とすとアイーシャが何事か意味をなさない言葉を呟いた。

「アイーシャが……」

ぽつりとジンが言葉を落とす。

「アイーシャが俺のことを忘れたがっているなら、その時は」
「わかってる」
「……頼むぞ」

それきりジンは姿を消し、宝石箱は変わらぬ姿をさらしている。
ジンの開け放った窓からは少しばかり冷たい風が吹き込み、サーリムの髪を揺らした。

──こんなことをお前に頼むのは癪だが、お前にしか頼めないのだから仕方ない。
アイーシャが指輪をなくしたと父に伝えた晩、サーリムの枕元にジンが現れた。手渡されたのは小さな青色の瓶。中に入った液体を飲み干せば望む記憶をなくせるのだという。

「馬鹿な男だ。なあ、アイーシャ」

眠りから覚める頃なのだろう。僅かに身じろぐアイーシャを見つめながらサーリムは深々と溜め息をついた。

夢を見る。愛しい人に抱かれる夢。けれども、感極まって愛を囁こうとした途端に優しい腕は消えてしまう。
アイーシャは緩慢な仕草で目を擦り、夢の余韻を追い払う。

(ダメだわ)

連日連夜夢に惑わされて泣いている。このままではいけないとアイーシャは深く吐息をついた。
決心したはずなのにいざとなるとやはり気が引けてしまう。しかし、先延ばしにしたところで何も変わりはしないのだ。
アイーシャは寝台から降り立ち、宝石箱の鍵を開けた。二重底の下に隠した紅玉の指輪を摘みあげる。
捨ててしまえればどんなに楽であったろう。他人に譲ることができればどんなに楽であったろう。アイーシャにはジンを遠ざけることがどうしてもできなかった。
指輪のまま側に置くことも考えたが、あの逞しい腕にきつく抱きしめてほしいという思いの方が強かった。例えそれがジンの長い一生の中の刹那に過ぎずとも。
深々と呼吸を繰り返し、アイーシャは指輪を指にはめた。それがアイーシャの指に沿って形を変えても今度は驚かなかった。そのまま指を口元へ寄せ、そっと唇を押し当てる。

「アルジャジール。私のジン。使えるべき主の呼びかけです。出てきなさい」

毅然として言い放てば視界が一瞬眩む。

「アイーシャ」

ふわりと宙に浮き、眩しげに目を細めた青年がアイーシャを見つめている。

「アルジャジール」

声がかすれた。ジンの腕に飛び込み、胸にすがりつきたい衝動をこらえてアイーシャはぎゅっと拳を握った。

「アイーシャ。我が主。再び見える日が来ると信じていた。お前は俺を手放したりしないだろうと」

アイーシャの頬を撫で、その指で顎を持ち上げる。ゆっくりと近づく唇から逃れるようにアイーシャは顔を背けた。

「アイーシャ?」

不審げに顔をのぞき込みながらアイーシャの腕を引いて抱き寄せる。

「観念したんじゃないのか?」

耳に唇を寄せ、ジンは低く囁く。

「アルジャジール。私は決めました」

ジンの胸を軽く押し、アイーシャはその顔を見上げる。

「あなたに約束してほしいことがあります」
「約束?」
「あなたを長く側に置くために必要なことです」

こほんとアイーシャは小さく咳をはらう。

「まず一つ。むやみやたらと人を傷つけないこと」
「わかった。ただし、俺とお前に害があると判断した場合は容赦しない」
「出来る限り寛容に頼みます」
「心得た。寛容にね、寛容に」

そっと唇が重ねられ、アイーシャは抗議するようにジンの胸を拳で叩く。しかし、ジンはそんなことはお構いなしに口づけを深めていく。唇を舌でなぞり、強引に割り入れていく。悦びに流されてしまいそうな自身を叱咤してアイーシャは口づけに応えてしまわぬよう努力した。
熱烈な口づけに応えないアイーシャを訝しんでジンが唇を離した。アイーシャは呼吸を整えて話を続ける。

「アルジャジール。まだ話は終わっていません」
「まだ何かあるのか。後にしよう」
「いけません。大切な話なのです」

おあずけを言い渡された犬のようにうなだれながらもジンはアイーシャを抱えて寝台に座り込む。アイーシャを膝に横抱きにし、背中を撫でながら髪に口づける。

「人前では人間のように振る舞うこと。あなたがジンだと知れると色々と面倒なのです。宮殿に外の者が訪れている時は気をつけなさい。姿形は自由に変えられるのでしょう?」

項をなぞるように唇が触れ、アイーシャの体はびくりと震える。求めてやまない刺激に誘惑されながらもアイーシャはジンに語りかけることはやめない。
サーリムへの態度を改める、宮殿内の女性に色目を使わない、ところかまわず押し倒さない、アイーシャの意志を尊重する等々。アイーシャはジンに約束してほしいことを並べ立て、答えないジンを不満げに見上げた。

「約束してくれますか?」
「つまり、行儀よくしていろってことだろ。一つ訊きたい。肝心なことだ。お前は夜ならかまわないのか?」
「何の話です?」
「お前を抱きたくなったら夜まで待てばいいのか?日が落ちればいくら求めてもかまわないんだな」

アイーシャの頬が一気に朱に染まる。ジンは至って真面目に問いかけているようで表情にからかいの色は見られない。

「アルジャジール、あなたという人は!」
「昼間がだめなら夜しかないじゃないか」
「知りません!そんなこと、訊かないで」

羞恥と怒りに震えるアイーシャを見て、ジンは小さく笑う。

「わかった。その時その時のお前の態度で判断する」

ちゅっと音を立てて頬に口づけ、ジンは微笑む。

「もういいだろう?お前が約束しろというなら何だって約束してやるさ」

寝台に押し倒し、ジンはアイーシャに覆い被さる。

「アルジャジール」

唇が重なり、今度はアイーシャもジンに応える。優しく肌を這う指を受け入れ、激しく熱く絡みつく舌を受け入れ、アイーシャは自分が満たされていくのを感じた。

「待って」

しかし、アイーシャはジンの腕を掴み愛撫を中断させた。項に舌を這わせていたジンが不満げに呻く。

「アイーシャ!俺はもう我慢したくない。後にしろ」
「だめよ、だめ!んっ、待って」

これだけはどうしても訊いておかねばならない。アイーシャは苛立つジンの頬を両手で挟み込む。
問いかける言葉はすぐには出てこなかった。何度も口を開閉し、アイーシャは困りきって眉根を寄せる。

「あ、アルジャジール」

焦らされながらもジンは黙ってアイーシャの言葉を待つ。

「どうしても、訊いておきたくて……わ、私、私の…ああ、どうすればいいの?」
「アイーシャ、落ち着け」
「ええ、そうね。あなたは…私と、離れたくないと、思ったの?正直に言って」

不安に揺れる瞳と震える唇から漏れた言葉にジンは安堵の吐息を漏らす。アイーシャの欲しがっている言葉が何か理解したからだ。

「当たり前だ。お前は俺がお前から離れたがっていると思ったのか。俺はお前がほしかったよ。ずっと側にいたかった」
「本当?」
「俺は嘘はつかない。お前は血も肉も魂も俺のものだと言っただろ。俺がお前を手放したがるわけがないだろう」

じわりとアイーシャの瞳に滲んだ涙をジンは口づけで拭いとる。

「それなのに、お前が望むなら離れてもいいと思えた。お前は特別だ、アイーシャ」

にっこりとジンはアイーシャに微笑みかける。

「だが、お前は俺を選んだ。もう二度と離したりしないからな」
「約束、してくれますか?」
「ああ、誓う。だからお前も誓え」

誓いますと口にしかけたアイーシャの唇はジンの唇で塞がれ、その腕は少しばかり荒々しくアイーシャの体に触れていく。しかし、アイーシャは拒まずにそれを受け入れた。
求めてやまなかった愛しい人が愛を囁いても消えないことを確かめ、アイーシャは幸せを強く実感するのであった。






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