シチュエーション
シーブスっていう執事の話をするなら、彼はなにをとっても素晴らしい。 主人を気持ち良く起こす時間というのも心得ているし、なによりもジー ヴスの作った特製ジュースは二日酔いに抜群に効く。 これだけでブラヴォーってもの。 誰もが羨む比類なき執事。パーフェクト。 これが私の執事だ。 私とこの執事はもう何年もロンドンのアパートメントに気侭に2人暮らし をしているわけなんだけれど相性ってものなのか私の人徳ってものなの かしら、それがこれまでにないってくらい快適な暮らしだ。 それにはシーブスの能力っていうのも大きく関わってくるのだけれど、 上記の通りシーブスの能力は疑い様もないので私は今まで彼を雇った誰 よりも彼の事を重宝している。 休日のハイドパークで彼の良さを演説したっていいくらいには召使いな がらも彼のことを尊敬しているが、しかしまぁ人間誰しも欠点がある。 そしてシーブスだってその例外じゃない。 シーブスの欠点をあげるとするなら、家事でもなく(彼の料理はロンド ン一よ。少なくとも執事の中では)運転技術でもなく(私よりは上手い。 これまた少なくとも)、実はその保守的な服装の趣味だったりする。 気持ち良く目覚めたきっかり5分後にシーブスが目覚めのソーダ水を持 って寝室に入って来た。 ノックはあるけど挨拶はない。 「おはよう、シーブス。良い朝ね」 仕方ないのでこちらから極めて好意的に朝の挨拶をすると、シーブスが 少し驚いた顔で返事をする。 「お早う御座います、ご主人様。まだ眠ってらっしゃるかと。」 あんまりな言葉ににっこり笑い返してみるけど、いくら私だってジーヴ スのこの言葉が嘘かぐらいなんて見抜けるってもの。 シーブスにとっては私の起床時間を当てることなんかボートレースの順 位当てより簡単なものだ。 というのも、今の私達の間にはテムズ河より不透明で陰鬱な深い溝が出 来てるのだ。 原因は分かってる。昨日の昼間のことだ。 ウィンドウでそのブラウスを見つけたとき私は神から天恵を受けた。 素敵なブラウスだった。触り心地も最高だったし形も良かった。 なによりその色が一番気に入った。 こんな色のブラウス、ロンドン中捜したって見付からないだろう。 もう一目で心を奪われてしまって後先の事が考えられなかった。 だって気が付いた時には既に私はそのブラウスを手に入れていたのだも の。 それなのに弾んだ心持で部屋に帰った私を迎えたシーブスの顔ったら! 子どもの頃ラテン語を教わった50を過ぎたカヴァネスが、ラテン語の 暗誦に詰まった私を見る時の顔にそっくりだった。 またやっちまったな。 しかし私だって主人だ。服装まで召し使いの言い成りになってなんかい られない。 今まで虐げられていた分、今日こそ断固として自由を勝ち取ろう! ヴースター家不屈の精神は今こそ発揮されるべきだ。 「朝食はこちらにお持ちしますか?それとも先に」 お決まりの朝の台詞を吐くシーブスを遮る様に、私はこほんと咳払いを した。 「うん、先に着替えようかな。」 「…左様で御座いますか。では着替えを。」 とクローゼットに行きかけるシーブスを慌てて引き留める。 「あー待って。今日は昨日のブラウスを着るわ。」 よし言った!えらい、私ったら! 「…左様で御座いますか。」 シーブスの苦苦しい声。 私は自分を褒め称える高揚感とそれを隠そうと努めた冷静さの入り混じ った顔でシーブスの顔を覗き込む。 「ん?なにか不満そうね。」 「滅相も御座いません。」 「いいえ、そんな顔じゃあないわよ。不満があるなら言って御覧なさい。 召使いの話を聞くのも主人の勤めというものよ。」 言いながらついでに勝利の笑みをするとシーブスは仕方がないと口を開く。 「でしたらご主人様。昨日のブラウスですが…」 「あら、その話は昨日きちんと説明したじゃない、素敵なブラウスだって。 お前はあれのどこが不満なの?」 「いえ、御座いません。ただ虹色は大衆受けは難しいかと存じます。」 俯きながら応えるシーブスの気持ちを抑えた哀しい声に、少し調子に乗り 過ぎたかと反省する。 私だって悪魔じゃない。落ち込んでいる召使いにはそれなりに情が移る。 「シーブス、お前なにか欲しい物でもある?」 化粧台にいくらかあったはずだ。ブラウスを諦めてもらう代わりにこづか いくらいやってもバチは当たらないだろう。 「よろしいのですか?」 「いいよ。何でも言ってご覧。」 それでシーブスの機嫌が直るのなら安いものだ。 正直、昨日からのシーブスの不機嫌に付き合うのはそろそろさよならした い。 「ではお言葉に甘えまして」 シーブスは務めて嬉しそうな顔を作ると、それに騙されああやっぱり執事 にはこれくらいの広い心で接しないとと油断した私の背中をぐっと抱いて 顎を掴んだ。 驚きに思わず目をつぶると、吐息かなにかもわからない空気の揺れを感じ た唇に柔らかい物が降りてきた。 唇と唇が擦れあうと、今度は角度を変えて私の下唇を唇ではさんでくる。 ちょっと歯をたてられるとそのかすかな痛みに反応して開いた唇に、素早 く舌が侵入する。 「あ…はぁ」 息が苦しくて顔を離そうとするけれどシーブスががっちりと私の後頭部を 掴んでいるのでそれが適わない。 シーブスの舌が私の上顎を撫ぜると寒気のようなものがぞくりと背中を駆 け上がった身震いに反応した舌がシーブスの舌と擦れあう。 戸惑う私を置いてきぼりに、その舌をシーブスの舌が絡めとるとぎゅっと 引張る。 快感と酸素不足で頭がクラクラしてきた。 「あふ……」 でももう少し、と伸ばしかけた私の手はその相手によってするりとかわさ れた。 シーブスが前倒しにしていた自分の体を起こしたからだ。 彼は突然なにかを思い出したかのように立ち上がると、キスの余韻もなに もなかったかのように私の唇からだらしなく垂れたよだれを拭いた。 綺麗に伸ばされた背筋がカーテンを開けた窓から差す日の光に映える。 「申し訳御座いません、まずお着替えでしたね。昨日のブラウスをお持ち 致します。」 シーブスはそう言うとくるりと私に背を向けた。 あまりの態度に私はあわてて彼の服の袖を掴む。 「いかがされましたか?ご主人様。」 もう一回、とは貴族の沽券にかけて言うわけにはいかない。 しかしなにかを言わなくては。 「シーブス、あのブラウスだけど…」 「なんで御座いましょう?」 私は胸の中であの素敵なブラウスとの別れを惜しんだ。 あぁ、せめて一度位は袖を通しておけば良かった! 気分はまるで無実の被告に死刑を告げる裁判官のようだ。 「処分して頂戴。」 「有り難う御座います。もう致しました。」 シーブスは繊細な仕草で彼の右腕を持ち上げると にっこり微笑みその袖を掴む私の指先に軽くキスをした。 やれやれ、まったく! というわけで再開までの時間が短縮出来たってもの。 どうだろう、やっぱりシーブスより完璧な執事はこの世にいまい。 SS一覧に戻る メインページに戻る |