エステルとゲイル(非エロ)
シチュエーション


近頃はめっきり肌寒くなってきたもので廊下を歩む足も知らず早まる。
先ほどの上官とのやりとりを思い出し、考えごとをしていたゲイルは正面から歩いてくる人影に気づかない。
ほどなくして彼は正面の人物と衝突することとなるのだった。

「……失礼」

倒れかけた人物を支え、ゲイルはすぐさま謝罪を口にする。
そして、相手の姿を確認し、慌ててその手を離した。

「エステル……いや、失礼いたしました。大佐、お怪我は?」

桃色の髪を器用に編み込んで一つにまとめ、士官服を身に纏った二十歳前後の若い娘。
暁に似た色をした瞳がゲイルを移して光を増した。

「まあ、ゲイル教官!」

腕を掴んでいたゲイルの手に手を重ね、微笑を浮かべる。

「戻っていらしたのですね」
「ええ、五日ほど前に戻りました。その様子だと平気そうですね」

エステルの手からさりげなく自身の手を引き抜き、ゲイルは一歩引く。

「それでは、私は急ぎますので失礼させていただきます」

早々に立ち去ろうとするゲイルの腕をエステルは両手で掴んだ。

「教官、せっかく会えたんです。もう少しお話を」
「大佐、私はもうあなたの教官ではありません。それに、私のような男と親しくしていては兄君たちがお怒りになるのではありませんか?」
「なぜそう思われるのですか?」
「あなたはハインツ家の大切なご令嬢ですから」

ハインツ家と口にした途端にエステルの表情が曇る。
ゲイルの腕を掴む手にも更に力がこもった。

「教官の仰る意味が私にはわかりません。どうして教官とお話をしてはいけないのですか。私は教官とお話がしたい」

困ったように眉を寄せるゲイルをエステルは真っ直ぐに見上げる。

「上官命令です。ゲイル少佐、私が屋敷に戻るまでの護衛を命じます」

そんな命令があるものかと呆れながらもゲイルにはエステルの手を振り払うことがどうしてもできなかった。



エステルと向かい合って乗った馬車の中、ゲイルは無言で車窓から外の景色を眺めていた。

三年前、エステルが十八になったばかりの頃にゲイルはエステルを含めた数人の士官候補生の指導係に任命された。
国の権力を握る御三家の一つハインツ家。
軍人を多く排出してきたハインツ家の末子エステルは愛らしい容姿と慈愛に満ちた性格が民に人気で昔から何かにつけて父とともに表に出ていた。
軍人になるのだと聞いた時は軍のマスコットキャラクターにでもしたいのかと呆れたものだ。

しかし、周りがどうであれ本人は至って真面目に責務に取り組んだ。
優秀な成績で士官学校を卒業したエステルはゲイルの指導の元優秀な成績で研修を終えてはれて中尉となった。
あれから三年で大佐になってしまったが、それが親の後押しばかりではないことはゲイルにもわかっている。
エステルは人の三倍も四倍も努力する。
ハインツ家の名に恥じぬように──教官時代によく聞いた言葉だ。

これみよがしに大きな溜め息が聞こえ、ゲイルは正面のエステルへ顔を向けた。

「教官はユリシス兄様の部下ですものね。本当ならこんなことしなくても……」
「大佐のご命令とあらば従いますよ」
「命令でなければ送ったりしてくださらないのですよね」

すっかり気落ちした様子のエステルにゲイルは言葉をつまらせる。
一度部下に指示を出すエステルを影から覗いたことがあったが、なかなかどうして様になっていた。
口調から振る舞いから軍人そのものであり、一度ならず指導した者として嬉しく思ったものだ。
しかし、あの凛々しさがゲイルの前では露と消えてしまうのだから困りものだ。
教官時代に少々甘やかしすぎたかと昔を思い出しても甘やかした記憶など微塵もないのだから不思議だ。

「困ったって顔に書いてあります」

エステルが好意を向けてくれていることに気づかないほどゲイルも鈍感ではない。
ゲイルは美丈夫ではないし、家柄がよいわけでもない。
長身ではあるが、いかつい体と常に眉間に皺が寄っているような無愛想な顔。
気の利いた言葉をかけてやれるほど口がうまいわけでもない。
自分が女性から高評価を得られるような男でないことを知っているからこそ、エステルに好意を向けられるとたじろいでしまう。
今もそうだった。
エステルが身を乗り出して顔をのぞき込んでくれば、ゲイルは反射的にのけぞって顔を反らす。

「わがままをいっているのはわかってます。でも、軍に入ってから三年も経つのに教官と同じ任務に就いたことは一度もないし、たまにお会いしても教官はすぐにどこかへ行ってしまわれるし」
「私と大佐では所属する部隊が違いますから」
「今日だけでかまいませんから、お茶に付き合ってください。お願いします」

すがるように見つめるエステルを無碍にはできず、ゲイルはまたしても頷くことになるのだった。



二杯目の紅茶を飲み干し、ゲイルは後悔の溜め息をついた。
やはり断るべきであったとエステルに部屋へ通されてから何度も思った。
きっちりまとめていた髪は下ろされ、白いワンピースに着替えたエステルは出逢った頃のまま、若く愛らしく麗しい。

「ゲイル教官」

立ち上がったエステルが向かいのソファからゲイルの隣へ移動する。
ふわりと甘やかな香りが立ち上る。

「もう一つだけわがままをきいてください」
「私に拒否権は」
「ありません」

にっこりと微笑むエステルは天使のようだ。

「今日は私の誕生日なんです」
「それは、おめでとうございます」
「ありがとうございます。だから、プレゼントをください」

言いながらエステルはゲイルの腕を掴んで引き寄せた。
ゲイルの唇にエステルの柔らかな唇が押し当てられる。
不慣れな、ただ唇を押し付けるだけの口づけ。

「エステル! 君は何を……」

呆然としていたゲイルだったが我にかえってエステルの体を引き離した。

「私……」

声を張り上げたゲイルに怯えたかのように、じわりとエステルの目に涙が滲む。

「ご、ごめんなさい」
「泣くくらいならこんなことをするんじゃない」
「だって、だって、教官がちっとも私の気持ちに気づいてくださらないから」

気づいているさと口にしかけ、ゲイルは慌てて飲み込んだ。
エステルはぽろぽろと大粒の涙をこぼして震えている。
箱入りのエステルがどんな思いでキスをしたのか考えると頭が痛くなる。

「嫌いに、なりましたか?」
「いや、そんなことはない」
「本当に?」

見上げてくるエステルの頬を両手で包む。
厄介な感情が頭を擡げ始め、ゲイルは呻いた。
一平民の自分が惚れていい相手ではないと何度言い聞かせてきたことか。

「本当に嫌いになっていませんか?」

エステルの目尻に唇を押し当てる。
そして、唇をそっと重ねた。
優しく触れた後、そっと下唇を唇で挟むようにして口づけを深めていく。

慣れないエステルが怖がらないようにゆっくりと舌を絡めて口腔を犯していく。
エステルの手が手首を掴んでもゲイルは口づけを止めなかった。
エステルが息苦しさに身じろぎをして、ようやくゲイルはエステルの唇を解放した。

「誕生日プレゼントなんだろう」

深い呼吸を繰り返しているエステルにゲイルはそう呟いた。

「キスというのはこうするものだ」

言いながら照れてきたのか、ゲイルは顔を背けて咳をはらった。
その耳が赤く染まっているのをエステルはぼんやりと眺めている。

「き、教官」
「なんだ」
「今のは突然すぎてよくわかりませんでした。もう一度お願いします」
「……断る」
「で、では、私が実践しますから正しいかの確認を」

ぎゅっと胸にしがみつくエステルを引きはがそうと肩に手を置いたゲイルだが、目の前に迫ったエステルの顔を見て観念したように目を閉じた。






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