君知らず我が心
シチュエーション


ジャンがいつものように黒いキュロットのお仕着せに身を包み、使用人たちの監督のために
邸内を見回っていると、まだ年若い女中たちがかたまって、困ったようにひそひそと囁き声で
話をしているのが目の端に映った。
屋敷で働く者たちをたばねる執事としては放っておけずにジャンは声をかけた。

「どうした? 何があった」

すると無駄口を咎められるとでも感じたのか、女中たちは一瞬ぎょっとした表情をして振り向いた。
だがジャンの顔をみるなり、女中たちは思わずといった様子で頬を緩める。

「ギルベール様……!」

彼女達の顔にはあからさまに『助かった』と書いてある。
その様子を見てジャンは、一体何が彼女達の困り事の原因なのかを一瞬にして察する事ができた。
そして呟く。

「……お嬢様か」

*******

ジャンが湯気の立ったカップを持って部屋の中へ入ると、天蓋つきの寝台に
寝そべっていた少女が半身をおこしてジャンを睨みつけるのが目に入った。
レースのドレスを身に纏い、艶やかな金色の髪を貴婦人らしく結い上げている。
だが、突っ伏すように寝そべっていたせいでその髪は今や緩み、ほつれていた。
彼女の名はアンティエット。ジャンが仕えるギュスターヴ家の令嬢であった。

こちらを見据える大きな青い瞳はサファイヤの輝きをはなっている。
そしてその白い肌はなめらかで、まるで陶器の人形のような少女だった。
おまけに血筋は王家の縁続き、とそこまでは完璧なアンティエットであったが、
一つ玉に瑕といえる部分があった。お嬢様育ちのせいか“癇の強い”性分なのだ。

「お嬢様」

ジャンの口からすべりでるように出た呼びかけは静かで、どこにも激しさのない
声であったが、アンティエットは一瞬びくりと身を震わせた。
だがすぐに取り繕ったように、ふんと顔を上げて口を開く。

「なによ。わたしはお前のことなど呼んでいないわ」
「ええ、まぁそうですがね。侍女のジルからお嬢様が夕食を食べないと言い張られていると
聞きましたので。……食欲がなくてもショコラなら召し上がれるでしょう」

そう言ってアンティエットへと差し出されたカップからは甘い香りがふんわりと
立ち上っていた。誘われるようにカップへと目を奪われたアンティエットだったが、
すぐに顔をそらすと強い口調で言った。

「いらない」

その態度はかたくなであったがどこか稚く、ジャンは毛をさかだてた猫の姿を想像した。
思わず漏れた笑みをかみしめる。

「なにがおかしいのよ!」
「いいえ別に。さぁ早くしないと冷めてしまいますよ」

そう言いながらジャンはアンティエットの傍らの机にコトリと微かな音を立ててカップを置いた。
唇を噛み締めてその様子を見ていたアンティエットだったが、思いつめたような
表情を浮かべてジャンの顔を見上げた。

「……お前、わたしに何か言う事があるんじゃないかしら」
「“どうぞ召し上がれ”?」
「違うわ!!」

寝台の上でばっと身を起こし、背を伸ばすとアンティエットは頬を紅潮させて叫んだ。
それに合わせて金色の巻き毛が揺れて動く。

「今日の、ブレモン夫人のお邸での夜会。あれはどういうつもりなの!?

夫人からみな聞いたわ。お前の差し金だというじゃない」

「差し金とはまた大袈裟な。私はただ奥様に一筆手紙をしたためたまでですよ。
お嬢様のことをよろしくお願いしますと」

「そうやってわたしの婚約者候補の品評会を開いてくれたというわけ。
やめてちょうだい。言ったでしょう、わたしは結婚なんかしないって」

そう言い募るアンティエットの瞳にはまぎれもなく怒りの色が浮かんでいた。

強い感情を見せる時、アンティエットはその美貌をひときわ輝かせる。

幼い頃から彼女を見てきたジャンはその事を良く知っていた。
少年の時から彼女を妹のように大切に思い、慈しみながら仕えてきたのだ。

今はそれ以上の感情を抱いているからこそ、アンティエットには確実に、
堅実な幸福を掴んで欲しかった。だからはらわたが煮える思いをしながらも
結婚相手を見繕い、ブレモン夫人に仲介を頼んだのだ。
だが、自分の未練などアンティエットには絶対に悟らせたくなどなかった。
ジャンは低い声で言い聞かせるように言った。

「……そういう訳には参りません。このギュスターヴ家のためにも
お嬢様には早く立派な紳士を旦那様として迎えて頂かなくては」

その瞬間、アンティエットの瞳が傷ついたように揺れたのをジャンは気付いていたが、
あえて分からない振りをした。そしてそっと目を伏せる。
アンティエットがぎりぎりと手のひらを握り締めるのが分かった。

「そう、そうなの……。家、義務、しきたり。お前ときたらそればかりね」

アンティエットは小さくため息をつくと、首を振った。

「わたしが何を思って、どう感じているかなんてお前にはどうだっていい事なんでしょう。
何故わたしが結婚しないと言ってると思ってるの。……わたしは、お前が。お前の事が」

「お嬢様」

その呼び方にはたしなめるような響きがあった。手のひらを握りしめたアンティエットは、
ジャンに顔をきっと向けると挑むような口調で言った。

「キスして」

思わずジャンは目を見開いてしまっていた。
そして自分でも間の抜けた声だと思いながら聞き返す。

「は……?」
「キスしてと言ったの。……そのショコラを口移しで飲ませて。
そうしてくれなかったら、もう明日から二度と食事は取らないし、金輪際夜会にも行かない」

アンティエットの表情は真剣だった。その目はただジャンの姿だけを写している。
それがジャンにとっては例えようもない喜びであったが、理性という彼の番人がそれは
許されない事だとはっきりと告げていた。

だが、ジャンは一歩前に出るとカップを手に取り、甘い黒茶色の飲物を口に含んだ。
そしてすっとアンティエットの頬に手を触れる。
やわらかな頬だ。ジャンはふとそんな事を思った。
そして滑るように指を動かし、アンティエットの顎に当てると彼女を上向かせた。

これはけして彼女の気持ちに応えるためではないと言い聞かせながら。

「ジャン……」

アンティエットは泣きそうな顔をしている。母親に顧みられないままそれを亡くし、
父親も失った彼女が涙を見せるのはいつも自分の前だけだった。

――わがままを言うのは、いつだって寂しいからだ。

ジャンはそのままアンティエットの唇へと口づけた。

「ん……ふ…」

白い喉元が動いて嚥下する音が聞こえる。ジャンは、口づけが甘いのはショコラのせいだけではないと
思った。アンティエットは段々と夢見るような瞳になっていく。その後頭部に手をあてると
ジャンは彼女へとおもむろに深く深く口づけていった。

「ん………っ」

急な欲求に、アンティエットは思わず逃げようとした。だが、ジャンはその体を抱えるように抱きすくめ、
離れる唇を執拗に追う。舌を入れて歯列をさぐり、アンティエットの舌を自分のそれとからめる。

「んっ、んん――!」

アンティエットは首をふろうとした。だがそれさえもジャンは許さない。強引に肩に力をこめて
寝台に押し倒し、動けないよう押さえ付けて何度もアンティエットの口内を蹂躙した。

「…………ッ!」

酸欠のためか、彼の口付けのためか、段々アンティエットの抵抗が収まってきた。
そろそろ潮時だろうとジャンが力を緩めると、アンティエットは渾身の力でジャンを押し返して
彼の腕から逃れた。
確かに自分がそう望んだのだが、実際に口づけを受けたアンティエットの心中は複雑で
嵐のように荒れていた。ドレスの裾を握りしめ耐えたつもりが、目尻に浮かぶ涙を止められない。
肩越しにジャンの低い声が聞こえた。

「……男を誘惑するような真似を安易になさらないことです。たとえそれが戯れでも。
結婚したくない、と仰るならなおさらです」

「た……れ…なんかじゃ…」

戯れなんかじゃない、と言いたいのだがうまく言葉がでてこない。
そのもどかしさにアンティエットは自分自身に激しく腹を立てていた。

「それでは、明日の朝食はご用意して構いませんね。それから今度はマダム・フランソワから
明後日に夜会のお誘いの手紙が来ております。いかがいたしますか?」

さっさと服の裾を直してそう告げるジャンの姿は、アンティエットにとって
小憎たらしいほど落ち着き払っているように見えた。
悔しさが喉元までこみ上げてくる。アンティエットは泣くものか、と胸の辺りに力をこめて返事をした。

「……行きます。そうお返事してちょうだい」
「かしこまりました、お嬢様」

礼を取り、部屋から出て行くジャンの背中をアンティエットは視線に力があるのならば
燃え上がるほどに見つめていた。

だが、彼女の執事は一度もアンティエットを顧みる事もなく部屋を去って行った。






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