無造作紳士 優しい嘘つき(最終話)(非エロ)
シチュエーション


金木犀が甘く薫る頃に、わたくしは家を出た。
花によく似た陽にかざせば薄白の、長い長い裾を引いて。
花によく似た風も羞恥らう、まるで霞のようなベールを被って。
振り仰いだ空は、立ち眩みがするほどに青く、突き抜けて青く、
初秋の日差しがわたくしの目を焼いた。
くら、と振れた頭の奥に、漂いこむ甘い香り。
むせ返るような香り。
わたくしは視線を泳がせてその花を探す。
あなたの姿を探す。
わたくしの執事。
いつもと同じ黒のフロックコートを着込んで、
この天気に汗ひとつ掻かずに、済まして立っているであろうあなたの姿を。
喉元まできっちりとタイを絞めて、平然と立っているであろうあなたを。
表門噴水前の見送りに集まった使用人の中に、あなたの姿は見当たらない。
振り直り、花の香の中を泳ぐように、わたくしは停めてある馬車へと乗り込む。

―――おめでとうございます。
―――おめでとうございます。

窓の外では、口々に歓声。笑顔。わたくしへと手向けられる、花束。
皆、今日の祝いごとを心から喜んでくれているのだ。
誰かが花籠を掲げて、また誰かが色とりどりの花弁を馬車いっぱいに振りまいた。

―――おめでとうございます。
―――おめでとうございます。

皆、嬉しいのだ。ようやく訪れた今日が、晴れがましくてならないのだ。
馬車の中は外と比べると少しひんやりとして、薄暗い。
わたくしはぱちぱちと瞬きし、まるで切り取られたようにも見える外を眺める。
切り取られた四角の向こうは、明るくて眩しくて、
けれどわたくしが手を伸ばしても、きっと届かない。
そこは笑顔で満ち溢れていて、本当に何故か幸せそうで。
車止めが外された馬車は、鞭の小さな唸りと共にゆっくりと動き出す。
花弁が舞い散る。
歓声がまた一段と大きくなる。
わたくしはいつのまにか、すがるように窓の外を眺める。
わたくしの執事。
使用人の中に、紛れ込んでいるはずのその姿。
思わず窓から身を乗り出してあなたの姿を探す。
これで、最後だ。
あなたとはもう会えない。
今日、わたくしは住み慣れたこの屋敷を出て、公爵家に嫁す。
婚礼衣装をなびかせて、初めてわたくしは皆の中にあなたの姿だけを探す。
誰かに気付かれてしまうのが怖かったから、今まで一度もそうしたことのなかった事だった。

皆がはしゃぎ、手を振っている。
花弁が舞い散る。
お幸せに、お幸せに、口の動きが言っている。
金木犀の甘い香りが、風に流れて消えてゆく。
流れる中にあなたの姿を見出そうと、わたくしは目を走らせる。
このわたくしの婚礼の日にも、きっとあなたは黒服を着ているはず。
いつものように、直立不動の姿勢でわたくしを見ているはず。
まるで祭りの雑踏ではぐれた子供のように、必死であなたを探したけれど、
もし見送りに出ていたのなら、そんなに探さなくても、すぐに見つかるはずだと判っていたけれど、
わたくしは視線を右に左に走らせて、
それでもやっぱりあなたの姿は見当たらなかった。
これで、最後だ。
目の前の風景が、滲んで見えなくなる。皆の輪郭がぼやけて、誰の顔だか判別が付かなくなる。
いやよ。
涙であなたを見失うのは嫌だった。
幸いベールに覆われて、見送る皆からはわたくしが泣いていることは判らない。
それをいいことに、もう一度ぱちぱちと瞬いて、涙を頬へ流した。
これで、最後だ。
わたくしの執事。
あなたの姿が見たかった。
けれど、何度探しても探してもあなたの姿はそこにはなくて、
とうとう屋敷は次第に遠ざかり、やがて小さくなって見えなくなった。


頭を鈍く殴られたような衝撃、という表現を以前に本で読んだことがあり、
本当に、そんなに衝撃を受けるものなのかと不思議に思ったことがある。
それはこういう状況、こういう場面なのだと、身をもってわたくしは理解した。

「ウェルリントン公との結婚が正式に決まったのだよ」

急な話だった。
父の書斎へ呼ばれたわたくしが、最初に突きつけられた言葉だった。

「……断るわけには行かないだろう?公は、お前をお気に召されたようなのだ。
先方から何度も話を頂いてね。それはそれは熱心でね。こちらは伯爵家とは言え、お前は一人娘……、
できれば娘婿に来て頂ける家柄が良かったのだが……。どうしても、と度々催促の御使者を送られるものだから」

足を止めたわたくしに、済まなそうな、
けれども裏には上爵位家と、姻戚関係を結び取れた喜びが、滲み出る父の声だった。
救いを求めるように、思わずわたくしは父の顔を見た。
父は、嬉しそうだった。

「結婚……、」
「そうだ」
「わたくしが、ウェルズリー家へ参るのね」

掠れた声がわたくしの喉から絞り出る。まるで別人の声だと、思った。

「……そうだ。同爵、下爵ならともかく、公爵様を我が家にお呼びするわけにはいかないだろう?」

父は言う。
降嫁というわけにはいかないだろう?

「でも、この家に、誰もいなくなってしまうわ」

わたくしが、この家からいなくなる。
僅かな思いつきに助けを求めて、わたくしは口を開いた。

「20代続いた我が家がなくなってしまってよ」
「なに、心配しなくていい。お前の最初の子を、我が家の養子に迎えることで御使者と話が付いている。
あちらには、先の亡くなられた奥様の遺された御子が二人おられることだし、
大きな声では言えないが、公は何かと浮いた話の多い方だから、お前の長子云々で揉める必要もない。
むしろ、揉める必要がない分、嫁ぐお前も跡継ぎ問題で頭を痛めなくてもいい。気が楽だろう?」

後釜。
わたくしの脳裏に、ふとそんな言葉が浮かんだ。
つまりは、放蕩と耳にするウェルリントン公爵が、奥方のいないままでは何かと風聞が悪いので、
彼の周りの者達がわたくしを選んだ、それだけのことなのだろう。
いいえわたくしを選んだのではない。
丁度手ごろな家柄と爵位を持った年頃の女が、たまたまわたくしだっただけの事だ。
まるで、気に入った馬でも買い求めるように、事務的に。機械的に。

「……そうね」

顔も不透明な相手の許へ、わたくしは嫁ぐ。
わたくしがこの家からいなくなる。
もちろんそんな状況を想像してみなかった訳ではなかったけれど、
あらゆる状況を想像したことはあったけれど、その実まるで実感の湧かない言葉だった。
でも。

「失礼いたします」

重い沈黙が滞った部屋に、張りのあるバリトンが響いて、あなたがノックと共に入ってくる。
父が何か用事を言いつけていたのだろう、あなたは書類を抱え、かつかつと父の許へ近づき、
そっと何かを耳打ちした。

「……ああ、そうか。判った。今行こう」

父は頷き、促されるまま退室しかけて、ふと思い出したようにわたくしを顧見た。

「そうそう、時期は秋に決まったよ。お前もそれで、いいね」

父を見つめる視界の端に、あなたが見える。
あなたの表情は変わらない。
きっとあなたはもう全てを知っているのだろう。そんな気がした。

「そうね、」

父がわたくしをここに呼んだのは、その縁談話に否かどうかの返事を聞きたいために呼んだのではない。
それは既に決定事項だった。
わたくしは、事後承諾を促されるためにここに呼ばれたのだった。
全身が瘧にかかったように震えだす。
それが、我が意が通らない静かな怒りのためなのか、それとも理由のない絶望のためなのか、
わたくし自身よく判らなかった。

「ええ、」

それでも唇が動くのが不思議だと思った。

「楽しみにしていてよ」

言葉は空ろで、すぐに宙に掻き消えた。
いっそこのままシャボン玉のように体が消えてなくなってしまえばいい。

ひと夏は、どこかしら気忙しくて矢のように過ぎていった。
婚礼衣装の仮縫いだの、その儀式を行う付き添いの選抜だの、そういった諸々の事柄から、
わたくしにはよく判らないけれど、持参金だの両家のしきたりだの、裏ではかなりやり取りされていたようだ。
正直、わたくしはなんだか気の抜けた紙風船のように、ぼんやりと過ごしていただけだった。
遠くに見える草原が、春の色から夏の色に移り変わり、そして静かに秋に染まり始めるのを
空高くを鳥が整然とした列を成して飛んでゆくのを、何とはなしに、眺めていただけだった。
刻一刻と迫りくる無音の執行日に、それ以上わたくしにどうしようがあったろう。


我に返ると、婚礼は明日に迫っていた。
気付いて初めて、わたくしは慌てた。
わたくしがこの家からいなくなる。
今夜を境に、わたくしはもうこの窓から庭を眺めることもなく、少しだけ絨毯の擦り切れた階段を降りることもなく、
見慣れたシャンデリアを目にすることもなく、大広間の軋む扉の音を聞くこともなく。
いやよ。
気付いて初めて、日常が溢れ出す。
使い馴染んだフォークとナイフの感触も、噴水の落水音も、愛馬の嘶き、池を泳ぐ家鴨の声。
みんな、なにもかもがわたくしから零れていってしまう。
気付くまでなんとも思っていなかったのに、気付けばそれはとてもとても怖いことだった。
満たされない孤独感に急き立てられるように、わたくしは一人で屋敷を、その内と外を歩いて回った。

これは、わたくしがまだ幼い頃、誰にも見つからないようにこっそりと書いた落書き。
これは、わたくしがまだ幼い頃、庭を野原に変えたくて撒き散らした零れ種から咲いた花。
ああ。
幼いわたくしがあちらこちらで駆けている。
ひとつひとつを確認する度に、まだ何も知らないわたくしが笑っている。

あなたに悪戯を叱られた場所。
あなたと一緒に歌った歌。
あなたのいたあの遠い日々。
笑っていた。
わたくしが笑っていた。
いつだって、笑ったわたくしの側に、変わらない表情であなたが立っていた。
変わらない表情の、けれど本当は優しいまなざしで、包み込んでくれていたあなたがいた。
わたくしの執事。

泣きじゃくりながらわたくしは、大きくなってしまったわたくしは、外灯を頼りに最後に裏庭へ回る。
どこからか金木犀の香が漂う。
裏手に回り、蝶番に少し癖のある木戸、用具置き場の倉庫、そして、

「お嬢様」

あなたがいた。
戸締りの確認をして回っていたのだろう。預けられた鍵の束を持って、あなたが立っていた。
ぐしゃぐしゃになっているわたくしの顔を見て、ちょっと驚いたように、眉を上げて立っていた。
なんという偶然。

「……よろしければ、どうぞ」

そう言ってすっと差し出されたのはいつか見たハンカチ。
洗いたての糊の匂い。
受け取ったハンカチに鼻を埋めて、止まらない嗚咽を押し隠す。
ここから去ることもできないあなたは、律儀にそんなわたくしに付き合って、立っている。
そう思うと、たまらなく悲しかったはずなのに、おかしくなった。

「……ごめんなさい」

ようやく自分を取り戻したのは、それからかなりの時間が経ってからのことだ。
あなたは鍵束に目を落として、じっとわたくしが落ち着くのを待ってくれている。

「どうなさいました」

視線を合わせないまま、あなたは言った。

「……なんでもないわ」

涙声を取り繕いながら、わたくしはあなたから顔を背けた。
落ち着くと同時に、急に恥ずかしくなった。きっとわたくしは酷い顔をしているに違いなかったから。

「なんでもないのよ。……少しだけね、我が家を離れることがさびしくなった、それだけよ」
「左様でございますか」

こちらを気遣うようなあなたの声に、わたくしは苦笑した。
生真面目なあなたが、なんとか場の空気を和ませようと、頭を悩ませているのが判ってしまったから。

「おまえはこんな時間まで仕事なのね。大変だこと」
「いいえ、とんでもございません。これが私の仕事でございます。それにここで、この用具倉庫で最後なのです」
「まぁ。じゃあ、わたくしはおまえの仕事の終了時間を、延長させてしまっているのね」
「とんでもございません」

慌てて取り繕うあなたがおかしくて、わたくしは鼻を赤くしたまま声を立てて笑った。
そんなわたくしを、困った表情でちらと見て、
それから僅かにあなたも笑って、

「……この場所でございました」
「……え?」

囁く様に呟いた。
一瞬空耳と思うほどの小さな、小さな声。
促されなければ自身から口を開くことも珍しい、あなたの言葉だった。

「お嬢様に初めてお目にかかったのは、この場所でございました」
「ええ」

私も頷く。

「あなたはやっぱりそうやって、鍵を持って立っていたのだったわ」
「はい」
「そうしてやっぱりもう夜だった」
「……あれからもう15年。早いものでございました」

15年。
あなたがわたくしの側にいた、その月日。
礼儀正しいあなたは、わたくしより数歩向こうに畏まって立っている。
それが、わたくしとあなたの距離だ。
それ以上近づくことはできなかった。
近づけばきっと、あなたはここから逃げてしまうから。
わたくしの為に離れて行ってしまうから。
臆病者は、あなたではない。
臆病者は、わたくしである。
わたくしが、何もかもを捨て切れないことをあなたは見抜いている。
例えばおとぎ話の騎士と姫君のように、国を捨て二人で幸せになるということ。
自由と言うものに憧れつつも、それでもやっぱりわたくしは、
この家というものや、しきたりと言うものから離れられないわたくしは。

両親の愛情が欠乏していたとは思わない。
何不自由なくこの歳までこの屋敷で過ごせていたのだから、
蝶よ花よと傅かれて育てられてきたのだから、
だから。
どんなにどんなに憧れても、
どんなにどんなに手を伸ばしても、
それでもわたくしは、この”家”というものから逃れることはできないのだろう。
籠の鳥は、大空を知っているからこその籠の鳥なのだ。
もとより籠の中で生まれた鳥は、仮に解き放たれても大空は飛べない。

「明日にはわたくし、この屋敷からいなくなってよ」
「はい」

あなたは静かに頷いた。

「なにか、最後に言い残している言葉はなくて?」

両手をねじり合わせるようにしてわたくしは言った。
それが、わたくしの精一杯の強がり。
あなたはしばらく黙っていた。真っ直ぐに立ち尽くしたまま黙っていた。

「……夢を見ておりました」

あまりにじっとしているので、わたくしが半ばあなたの言葉を諦めかけた頃、
あなたは、ゆっくりと目を閉じ、それから柔らかなバリトンで囁いた。

「長い長い夢を見ておりました。……あなた様と出会ってよりずっと。
それは、たいそう幸せな夢でございました。まるで陽だまりのような、あたたかで、やさしい夢でございました」

その声にわたくしは俯いた。
そうね。わたくしも同じ。
あたたかくてやさしい夢を、あなたと一緒に見てきたのだ。

「ですが、」

言いかけてあなたは躊躇する。
優しい、優しいわたくしの執事。

「……いいのよ。おまえが言わなくていいのよ。判っていてよ。夢はいつか覚める。そうね」

今までは朝になるのを待っていた。あなたが来るのを待っていた。
これからは、一人だ。

「……私は、あなた様に出会えて、私は幸せでした。どうか……お元気で」

そうしてあなたは何もかも受け入れた顔で、いつもの鉄面皮をほんの少し崩して、

「さようならでございます」

さびしそうに、笑った。
さようなら、と言う言葉の意味を教えてくれたのも、そう言えばあなただった。
然様なら。そうならば、そうならねばならぬのなら。
そのような運命だったのなら、だから私は諦めましょうと、
諦めてあなたと別れることにしましょうと。美しい諦観の言葉。
そんなあなたを見て、わたくしも笑った。
出来るだけ楽しい、いい顔をしようと思って笑った。
きっと、あなたと同じ、さびしい笑みを浮かべているのだろうと思った。

婚礼行列の足を止めて野原で下ろしてもらったのは、もう一度だけあの風景が見たかったからだ。
裾を濡らして降り立ったそこは、シロツメクサではなく、秋の野原ではあったけれど。
秋の野草に白い色はないようだった。
いつか駆けたあの頃のわたくしはもうそこには見えなくて、
一面緑のクローバーの中に、ぽつりぽつりと赤や黄色の花が風にそよいでいる。
それは春の花よりどこか凛と生えていて、そして少しだけ孤独そうだった。
あなたに似ているような気がした。

「……もう、いいわ」

野原を眺めているのが辛くなって、自分で言い出したことだというのに、わたくしは早々に馬車に乗り込んだ。
あなたとの世界が、遠くに離れてしまったのだと言う感じがして、恐ろしいほどの喪失感に打ちのめされる思いだった。
馬車に乗り込むと、屋敷から付いてきた金木犀の残り香が、微かに鼻腔を掠めた。
薄らいでゆくそれは、わたくしの育った屋敷の全ての思い出のようにも思えた。
ゆっくりと、ゆっくりとそれは消えていってしまう。
わたくしにとって都合のいいことに、花嫁の馬車の中には付き添いの一人もいない。侍女は皆、後続車の中だ。
体を小さく縮こめて、自分を自分で抱きしめて、わたくしは怯えて呼吸する。
金木犀の香りが、これ以上散ってゆかないように。
これ以上あなたの思い出が、消えないように。
ひとつひとつ息を吸い込む度に、わたくしの心は乾いてゆく。
ひとつひとつ息を吸い込む度に、金木犀の香りも薄れてゆく。
乾ききったわたくしから、もう涙は出なかった。


黒い喪服を着ようと思う。
一日半かけて辿り着いたウェルズリー家の屋敷は、酷く大きくて、屋敷と言うより最早王城のようだった。
それはわたくしの目には要塞にも映る。
堅牢な石の壁。
固い石畳の中央通路を通り、両脇に立ち並んだ、これから世話になるだろうこの城の使用人たちへ軽く愛想を振り巻いて。
長い廊下をしずしずと進んで、わたくしは玉座にも見える応接間へと足を踏み入れる。
どんな方かも知らない、ウェルリントン公が待っているはずだった。
そこで初めて花婿に出会い、それから教会へ向かう手はずになっていると、向かう道すがらに聞いた。
けれど開かれた扉の向こう側には、所在無さ気に背を丸める、この城の執事が立っているだけだった。
あなたには、似ても似つかないような、その男。

―――申し訳ございませぬ。

耳に馴染まない甲高い声で、おどおどと彼は言葉を捜す。

―――旦那様は、その……、御気分が優れないため、寝室から……その……。

語尾は尻窄みになって、わたくしに聞き取ることはできない。
伏せていた視線をそっと上げると、物知り顔で目配せをするこの城の使用人たち。
その仕草を見て、何とはなしに理解した。
何かと浮いた噂のある方だから、と父が口にしていたことを思い出す。
恐らく、男を捕らえて離さない美姫がこの城の、寝室にでもいるのだろう。
それとも、男はこの城にすらいないか。
うっすらと浮かぶ冷めた微笑は、口の中で噛み殺した。流石にここで笑っては、不謹慎な気がしたからだ。
神妙な顔でベールの下から先を促すと、額いっぱいに汗をかいたこの城の執事は、ですから、と続ける。

―――ですから。その、申し訳ありませんが、ひとまずはお部屋にてご休養遊ばしては。

滑稽でしかない。

おとなしく用意された自室に誘導されたわたくしは、人払いをするなりベッドに倒れこんで、一人くつくつと嗤った。
嗤うより他にどうしたらいいのだろう。
新婚の、いいえ、そもそも新婚にすらなっていない花嫁。

一人きりの寝台はとても広い。
一人きりの部屋もとても広い。

けれど、好きでもない、顔も知らない男に無理矢理同衾を強いられるよりは、一人寝のほうがまだましかもしれない。
わたくしの役目は、ここで公の子を成し、その子を伯爵家へ送り返す、それだけのことだ。
価値はそれ以上でもそれ以下でもない。
黒い喪服を着ようと思う。
とてもいい考えだ。
わたくしは黒い喪服を身に纏おう。あなたと同じ黒のそれを身に纏ってここで暮らそう。
誰も咎めたりしないに違いない。
だってわたくしは仮にも公爵夫人なのだから。
でも。おかしいでしょう。
花嫁だと言うのにこの城には誰もいないのだ。
この城には誰もいないのだ。
金木犀はもう香らない。
わたくしは一人きりだ。
寝具からこの城で使われているのだろう石鹸のにおい。慣れないにおい。
まるで古びたインクにも似たにおい。
違和感のある枕に顔を埋めて、もう眠ってしまおうと、いっそさばさばと思った。
眠ってしまえば、朝がやってくる。
例え、いつもと迎える朝が違っても。
半ば不貞腐れて、わたくしは眠ってしまったようだった。


不快な違和感と共に目が覚めた。
目覚めると、朝だった。
広い寝台の上にやっぱりわたくしは一人きりで、
何故かほっとしたような、がっかりしたような感があり、
それから、白のドレス姿のまま眠ってしまったことに気付いて、衣装を調えてくれた侍女たちに対して申し訳なく思った。
寝乱れたドレス。
指の先で伸ばしても、強く付いた皺は伸びない。
溜息をついて顔を上げると、カーテン越しに差し込む光は、もう朝のそれで。
寝台に起き上がり、階下の音に耳を澄ませる。
若い声が聞こえる。この城にいる侍女たちのおしゃべりだ。どこかのテーブルを動かす音。これは、箒。
なんだ、意外に屋敷と同じじゃないか。
わたくしは、自分自身に言い聞かせて微笑んだ。
少しだけ色や形が違うだけで、大きさや匂いが違うだけで、本質にそう変わりはないのだ。
園丁同士の朝の挨拶。日が昇る前の散水。番犬の鳴き声。鳥の囀り。
慣れてしまおう。早くこの城に、この石牢に慣れてしまおう。
それがきっと一番楽な道。

遠くかけ離れた世界が、朝の訪れと共に薄らいでくる。
ほら。
かちゃかちゃ音を立ててと、銀食器が食堂に運び込まれるのも一緒。
焼きたてのパンのにおいが漂いだすのも、屋敷と一緒。
決まった歩幅の靴音と、そして規則正しいノックの音も、屋敷と一緒。
3回。

「お嬢様。おはようございます。ご朝食のご用意が整いました」

ああ。夢が。
夢が覚めてしまう。
声が耳に入ったか、入らなかったかどちらとも付かない瞬間に、
わたくしはベッドから跳ね降りて、見慣れない扉の見慣れないノブに取り付いた。
皺だらけの婚礼衣装のままで、わたくしはノブに取り付いた。
今までは扉が開くのを待っているだけだったけれど、どうせ覚めてしまうのならもう一度。
開け放す。
扉の向こうにあなたが立っていた。
鉄面皮と噂されるポーカーフェイスの仮面をつけて、黒のフロックコートを着たいつもの姿で、あなたは立っていた。

「まぁ」

自分の声が掠れるのが判る。

「これは、夢ね」

目の前がぼやけて、けれどそうしてあなたの姿がぼやけて消えてしまうのが怖かったから、強張る頬で無理に笑った。
きっとわたくしは、まだ夢を見ているのだ。
ほんの二日ほど離れていただけなのに、それはとてもとても懐かしくて。

「おはようございます」

乱れるわたくしと対照的に、あなたは小憎らしいほど平然としていて、慇懃に腰を折る。
開け放した扉に驚くこともなく、頭を下げる。
そして歪に泣き笑うわたくしに、顔を上げたあなたが差し出したものは、一輪、吾亦紅。
秋の野原の花。
あの野原で見つけたのだろうと思った。
呆けたように、まじまじとそれを凝視するわたくしを見て、
あなたは珍しくおかしそうに笑って、ちょっと照れくさそうに笑って、
それから生真面目な顔に戻ると姿勢を正して、

「大変申し訳ございません」

そう言った。

「思い違いをしておりました」
「思い……違い……、」
「はい。……騎士の一番の役目は、囚われの姫君を助け出して他国に逃れることではなく、
飽くまでも姫君の側でその御身を守り続けること。それを見誤った私は愚か者でございます」

わたくしを見つめる視線は、落ち着きと深さのある深緑。
日なたの匂いがする。
わたくしの執事。

「……おまえ……、おまえ、屋敷の仕事はどうしたの」
「お暇を頂きました」
「どうして。折角……長年勤めたのでしょう」
「私は、執事である前にお嬢様の従僕にございます」
「……こんなところまで来て。こんなところまで来て、おまえはきっと後悔してよ。
わたくし、死ぬまでおまえをこき使うわ」
「こき使って下さいませ。それで本望にございます」

駄々を捏ねるように言い募っても、あなたは明快に応えるだけ。
それ以上は胸がつかえて何も言えなくなった。
言葉を捜してわたくしは俯く。
俯いた先には、差し出されたままの小さな吾亦紅。
まるで、自分のものではないような震える指で、わたくしはそれを受け取った。
砂糖菓子のように小さくて赤い花。
それは全く色は違ったけれど、冠にもなっていなかったけれど、あの春の白い花ととてもよく似ていてささやかで。

「囚われの姫君はね、」

胸の奥が熾き火のようにじんわりと熱い。
気付かないうちに涙が頬を伝った。
ああ、わたくしは、泣いている。
けれどその滴は、悲しみのそれではなくて。
吾亦紅。
吾もまた君を思う。
決して言葉には出さないあなた。少しだけ、狡いと思った。
けれどそれがわたくしとあなたの距離だ。
小さな花粒に顔を寄せると、青い野原の匂い。

「きっと姫君の望みは、騎士とずっと一緒にいる、それだけよ」

言いながら顔を上げると、やや首を傾げ、柔らかい笑みを浮かべていたあなたは、
やがて泣きべそをかいたわたくしに、微かに頷いたのだった。


あなたはいつも優しい嘘つき。






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