鬼を憐れむ唄・第一夜(非エロ)
シチュエーション


噎せ返る程の熱波の中を歩く物がいる。
陽炎の中を、豪く無様に歩く物がいる。
辺りは一面焼け野が原で、視界に移る色は赤と黒の二色である。
熱い。
歩いてゆく物は、人間の形をしている。
男と、女。
男が、意識を失った女を背負いながら歩いているのである。
熱気に朦朧とする意識の中、男を支えているものは背に負う女から伝わる優しい鼓動。
まだ、生きている。
食い縛った唇の脇を、また汗が流れ落ちた。
無意識に踏み込んだ足元の焦げた大地が不意にぐずと崩れて、男は前のめりに躓いた。
勢いで、まるで人形のように力のない女の体が、男の背から滑り落ちかけ、

「……ッ」

男は慌ててその華奢な体に手を回して、煮え滾る土に女が触れる前にようよう止めた。

「……ミルキィユ」

がっくりと仰け反った、折れそうに細い首に手を当て、男は何度かその頬を指で撫ぜながら、女の名を呼んだ。
長く透明質な睫がゆっくりと開かれることを期待して。
女は、ミルキィユと呼ばれた女は目を覚まさない。
男はしばらくそうやって女の顔を眺めていたが、
やがて、ひたひたと滴り落ちる己の汗が、彼女にまで及んでいることに気付いて、その汗を拭い、再び彼女を背に負った。
また、苦行とも思える行程に踏み出す。
果ての見えない焦土の中を、歩いてゆく二人がいる。
男が、意識を失った女を背負いながら歩いてゆくのである。
よろめきながら歩く男の名は、ダインと言う。


出会いは偶然。
その夜は暗かったように思う。
見張りの交代時間を迎え、ようやくありついた夕飯……と、言うよりはいくらか早い朝飯を掻き込み、
咀嚼ついでに見上げた空に月はなかった。
ような気がする。よく覚えていない。
半分眠りかけた頭で、それでも貧乏性か普段の癖か、飯は詰めるだけ詰め込んで、
ダインは睡魔に追い立てられるように立ち上がった。
ぼりぼりと無精ヒゲの生え始めた頬を掻きながら、一般兵が所狭しと寝転がる宿泊小屋とは名ばかりで、
むしろ掘っ立て小屋だと、皆が不平を垂らす木戸を開き、すれ違いざま肩の触れた交代要員に唸り声ひとつ返しながら、
無造作にブーツの紐を緩め、皮手袋を枕元に脱ぎ投げて、男臭い隙間に潜り込む。
ブーツを脱がない癖は、長年に染み付いた職業病のようなものだ。
次の交代までおよそ四時間。
騒々しい寝言と鼾と歯軋りを聞きながら――それも慣れた耳には子守唄にしか聞こえない――頭の上まで湿気た毛布を引っ張り上げ、
訪れた開放感にダインはようやく大きな欠伸を漏らした。
野営地である。

ここは、束の間訪れた静寂の中の戦場であり、そしてそこにいる彼は、傭兵軍の一員だった。
傭兵軍とは、正規の騎士団や職業軍人とは畑が違う。傭兵には守る国王も、領土も存在しない。
その集団は、戦いが自分自身に直接的にまたは間接的に関係があろうとなかろうと、金銭のやり取りによって雇用される集団である。
時節も、正逆も関係ない。
彼らの基準はただひとつ、「命と金を天秤にかけて儲かるかどうか」それだけだ。
ダインが傭兵の道に進んだ理由も、同じところにある。
金が欲しい。
実に単純明快だった。
幾度とない死線を渡り歩き、その度に生き残り、
大金を手にして尚、傭兵家業を続ける彼に付けられた、ありがたくない二つ名は「守銭奴」。

初めて耳にした時、ダインは自分事ながら思わず大笑した。
まったく似合いの渾名だと思ったからだ。
そしてそう呼ばれることを気にしない。
彼のモットーもまた、「命と金を天秤にかけて儲かるかどうか」、それだけだったからだ。
その名が付いてからも、幾度となく戦場に出かけ、今もまた戦場に身を置く。

――俺ァひょっとすると殺人狂とか言うヤツなのかもしれねェなァ。

そんな風に思うこともある。
だがそれ以上は考えない。
面倒くさいからだ。
今回ダインが大金に釣られて決めた任務地は、攻城戦。
厄介だとは思ったものの、それでもまだ篭城しているほうに比べればマシな方だと、すぐに考えを変えた。
皇国軍に反旗を翻したのは、現皇帝に不満を持つ旧臣一派。
不満を掲げた拳は次々に砕かれて、残るはこの城の主ルドルフ公ただ一人である。
四方を囲まれた相手に、援軍は来ない。
篭城とは、自軍からの援軍の望みが期待できるときにのみ、有効な手段である。
援軍のない防衛戦は、言ってみればジリ貧でしかない。
次第に底の見え始める食料と、水。
増えていく死傷者。
どん底に下がった戦意。
どれをとっても最悪で、経験したことのあるダインは、出来れば、と言うよりかなり避けたい戦いである。
正直なところ、自分が向こう側だったら途中で逃げ出すかもしれない、などと物騒に思った。
傭兵の基準とは矛盾しているかもしれないが、それでも命あっての物種。
今回ダインの属したエスタッド皇国軍は、ほとんどを傭兵で固められていた。
皇国、と名のつく割には珍しいものだと、ダインはふと思ったものである。
彼の今までの常識で思うと、神官騎士だの皇帝騎士が雁首揃えていておかしくない。
もっとも、ダイン並びに従事している傭兵にしてみれば、
無駄に権威を掲げる無能集団との接触がないこと、その事実だけで満足であった。
軍紀だとか敬礼だとか、無駄な部分に労力を割いて、実際の戦闘面で活躍できなければ全く持って意味がない。
貰った金の分は働いて返す、それが傭兵の言い分だったからだ。

ところで。
鬼と呼ばれる将が、この軍にいるのだと言う。
傭兵間で密やかに囁かれている噂である。
酒に酔い食らった誰かの流言だろうと、誰もが最初は気に留めもしなかったが、思えばそもそも戦場に酒はない。
軍紀により飲酒を制限されているだとか、そういうことではない。
自分の身は自分で守らないとならない世界で、泥酔することは以ての外なだけだ。
節制できない命知らずは、既にこの世に亡い。
割とシビアな世界なのである。
この軍に、新規の傭兵は見えない。
皆、戦場の敵で味方で、付き合わせたことのある馴染みの顔だ。
つまり、ダインほどではないにしても、幾度も死線を潜り抜けたことのある、
簡単に飲酒には逃避しない、臆病者ばかりである。

――慎重と呼んで欲しいね。

一人ごちながら、ダインは寝返りを打った。
噂の出所はどこだろうと、かなり信憑性の高い話なのかもしれない。
そこまで思った彼を、人肌にぬくもってゆくざらついた毛布が、夢も見ない暗闇へと意識を引きずり込む。
あたたかなそれは、少しだけ女の肌に似ている。
大きな揺り篭。
そのまますぅと意識が途切れ、
途端、先頭を告げる半鐘が割れんばかりに鳴り響いた。

付随して、突き上げるような地鳴り。
ぱらぱらと急ごしらえの天井から、埃が舞い散る。
眠っていた辺りの男達から、殺気の込もった呻きが漏れた。
ダインも同じように、呻き、
いっそこのまま、素知らぬ顔で寝続けられないものかと、無理な願いを思ったものの、
そうも言ってられない。
渋々と起き上がる。
手探りでブーツの紐を締め、手袋をはめ、ブレストアーマーの付け心地を確認して。
獲物の長剣と短弓を腰に挿し、最後に一振りの短剣をブーツの脇に潜ませて立ち上がった。
小屋の外、恐らく馬止めの木柵のところからだろう、剣戟の音と怒号が聞こえる。
この様子では、戦闘終了とともに、休息時間の終わりだ。
ここ最近、売れすぎた名前の祟りか、明らかにダインを狙ってくる輩が多い。

――俺の素っ首一つ取ったところで今更戦況は変わらないだろうによ。

そうも思う。
若しくは、守銭奴ダインの首に、相手方の上官がいくばくかの賞金を賭けているのかもしれない。
満足に眠りを取れていないふらついた頭で、

「……の野郎」

豪く物騒な声。
唸った。


応戦の場へと躍り出ると、同じように宿泊小屋から飛び出してきた傭兵の一人が、見張りは何をしていた、と叫んだ。

「見ていましたよしっかりと!」

比較的新顔のまだ若い青年兵が、離れたところで誰に言うとでもなく怒鳴っていた。

「見てたらなんで見落とすんだよ!」
「この闇夜に黒く塗装した騎兵を見つけろと言う方が無理でしょうが!」
「気合の問題だろう気合の!」

それぞれに、眼前に迫る敵方と切り結びながらも野次を飛ばしあっている。
戯れているのだ。
本気になってしまっては、それはただの虐殺に過ぎないと、心のどこかで恐れているから。
相手方の先陣を切らされているのは、やはり同じ傭兵軍である。
金に目が眩んで、身を振る先を間違った、愚か者の集団とも言う。
だが、それは自身の今の状況と紙一重であると言うことを、彼ら自身が知っている。
いつ、こうなってもおかしくない。
だから、なるべくなら殺したくはない。
殺したくはないが、頭上に剣を振り翳されては、反撃せざるを得ない。
そんな葛藤する思いが男達の中に渦巻いている。
軽口でも叩いて慰めあうしかない。

「……ふざけた公爵さまだ」

ダインのすぐ側で不機嫌な声がした。
見やった。

「ヤオ」

ダインとの腐れ縁は戦場一の、巨漢である。
呼ぶと、視線は抜け目なく辺りへ配ったまま、ヤオは皮肉な笑いを一つ投げやってくる。

「いい夢」

見てたのによ。
凄むところへ、いいじゃねェかとダインは慰めて見せた。

「俺なんか夢も見てねェよ?」

返されたものは薄い笑い。
野営地に対して、丁度横腹へ直角に敵軍は突っ込んでいた。
防備の薄い、相手が楽に突っ込める角度である。しかし逆を返せば、急な戦線離脱もまた、ない。
深く食い込んだ先陣は、この奇襲が運試し程度の襲撃でなく、はっきりと殺意の意思表示。
要は、相手軍が全滅するのが先か、ダイン達の皆殺しが先か、そのどちらかでしかないと言うことを示す。
死を覚悟した人間は厄介だ。
楽に勝てる相手ではなさそうだった。
どこかで断末魔の声が上がり、ダインの耳がふと反応する。
聞いた覚えのある声。
仲間の声である。

「間違ってる」

よよよと、隣で戦斧を振るうヤオがおどけたように泣き声をあげた。

「用兵の何たるかをさっぱりわかっちゃいねェ」
「……そんなモンかな」

意識を、傍らにいる男に向けなおしながら応えた。
奇襲は、先手必勝。
通常は獲物に音もなく忍び寄り、砲撃もしくは射撃とともに、まずは相手を混乱に陥れる。
例え目的が、敵の殲滅だったとしても、近寄った分だけ被害を被る可能性のある接近戦は、一番後回しにしようとするもの。
それが怨恨目的のない傭兵同士の戦いなら尚更だ。
威嚇射撃もなしに、

「なんだっていきなり突っ込む必要がある」

嫌な連中だ。ヤオが呟いた。
相手の目的は、

「玉砕か?」

死なば諸共。
主に忠誠を誓う騎士団を道連れに散ろうと言うなら、それはそれで話のつじつまが合わないわけではないが、
金銭契約の傭兵に忠誠心は皆無だ。

「一人で死ぬのが怖いか」

ダインは吐き捨てた。
それを耳にし、ああ嫌だ嫌だと首を振る隣の男が、瞬間膝から崩れるように仰け反る。巨体に似合わない俊敏な動作である。
残像の中に白く光る刃。

「挨拶も無しかよ!」

崩した体勢のまま、手にした戦斧でヤオは無造作に地面と平行に薙ぎ払う。
ぶつりと鈍い音と共にぎゃ、と悲鳴。
暗い中にも何かの迸る音。
鉄錆の臭いが空気に溶ける。

「……汚すなよ、ヤオ」

後始末を考えろ、とうんざりした声のまま、やはり背後から忍び寄った敵の一人をダインは長剣で薙いだ。

「お前の方が汚してんだろうよ」

くく、と含み笑い。
その声を背後に聞きながら、前から襲い掛かる数人の中にダインは飛び込む。
長年の戦場の主だけはある。
斬り付けると言うよりは、優雅に舞うようなその動き。
今は流石に暗くて見えないものの、音だけでも感心するような、無駄のない戦い方。

「おいおい……」

交戦中にも余裕がある。彼は不意に上空を見上げ、心外そうな声を放った。

「あちらさん……櫓にまで御登頂なさってんぜ?」

前方から無謀にも飛び掛ってきた相手を、一刀両断に切り結びながら、言葉につられてヤオもまた振り仰いだ。

「本当だ」

間の抜けた声で同意が返る。

「どうするよ」
「行ってくる」

一人、また一人と血の海に沈めながらヤオが尋ねたのに返し、同時にダインは梯子に走った。
人間は、頭上からの攻撃に対して一番無防備だ。
頭上より射撃でもされようものなら、数では完全にこちらが有利ではあるものの、豪い手傷を受けることになりかねない。
襲撃前、見張り櫓に何人がいて、今現在敵方が何人いるのか見当も付かなかったが、
どうも加勢に行ったほうが良いとダインは判断した。
と、言うよりは、これ以上戦いを長引かせられて余計な後始末を増やしたくなかったのと、
自分の所属する獅子模様の軍旗が、蹂躙されることが少々癪だったせい。
辺りに飛び交う火矢。
野営地内は、混戦状態に陥った様子。

「くそ」

梯子に足をかけて唸りながら、その矢来の中をまるで無頓着にするすると伝うダインの動き。
一種無防備とも見える背中。

「気をつけろ、」

噎せ返る血煙の中で、ヤオが笑った。
彼の隆々たる腕に彫られた髑髏のタトゥーも、一緒になって笑っていた。

「馬鹿とナントカは高いところが好きと言うからな」
「……そのナントカじゃないことを祈りたいね」

物騒な笑顔をダインもそのまま返す。
歳の割には老成した顔、やはり髑髏と同質の微笑み。


身軽なのが自慢である。
暇つぶし、見張り櫓に登るまでの時間を競った賭けには、まだ誰にも負けたことがない。
ダインが梯子の先端まで辿り着くのにおよそ十秒弱。
少し前に座興よろしく目隠しをして上ったこともあったが、いつもの通りふらつきもよろめきもしなかった。
戦勝祝いで久しぶりに飲んだ酒のあとも、物は試しと手をかけてみたが、やはり変わることがない。
生来のバランス感覚の賜物だと吹聴しまくった記憶もある。
櫓の上はそう広くない。
長剣は鞘に戻してある。
代わって咥えた短剣は、武器としては少々頼りなくはあったが、愛用のそれにダインは全幅の信頼を持つ。
見張り台の鼠返しの陰から、様子を伺う。
剣戟の音は聞こえてこなかった。

「……全滅させたか」

全滅したか。
ふと見下ろせば、味方は善戦している模様で、
そのまま、躊躇いなくダインは見張り台へと飛び込んだ。

朱。

暗闇の中だったのに、
色として見えるはずはないのに、
それは酷く沁みる光景だったのは、何故だろう。
悪酔いしそうな鉄錆の臭いが、辺り一面に充満していて、その中に人影がぽつ、と立っていた。

ダインには見覚えのない立ち姿。
虚脱感にも似た、その光景。
彼が息を呑んだ音を聞きつけたか、<そいつ>がこちらを振り向く。ゆらりと空気が崩れたような気がして、
刹那。見蕩れた。
だらりと垂らした片手に、冗談かと思うほどの長さの大剣。
全身に血液を浴びたその姿は凄惨。
辺りに他に気配のないところを見ると、<そいつ>が敵方を叩き伏せたか、
それとも味方を皆殺したか。
東の空が僅かに白み始める明け闇の中で、ダインを見つめる瞳には一切の光がなかった。
即座に鮫を連想した。肌が粟立つ。

――コレは、危険だ。

培った本能が、ダインに語りかける。
とは言え、ここでこの奇異な人影に背を向け、さようならと降りるわけには流石に行かないだろうし、
そもそも<そいつ>が見逃してくれそうにもない。
無言で短剣を構えると、それを合図に辺りの闇が急速に濃縮されたように皮膚にまとわり付く。
相手がこちらに対して、そしてこちらが相手に対して、殺気を放ち始めた為だ。

――やべェ。

自身を叱咤しながらもダインは空気に呑まれる。
こんなことはあまり無い。脇の下を冷たい汗が伝った。
体が重い。
滑るように、<そいつ>が動いた。
無理矢理体の動きを取り戻したダインが、は。と間一髪仰け反るところに、必殺の篭った一撃。
避け損なった髪が数房宙に散った。
返しざま<そいつ>の逆刃。
二度目は避けきれず、手にした獲物で危うく受け流す。
短剣を握り締めた右手が斬撃の余韻に震えた。
ところに三度目の右からの刃。

「野郎」

紙一重で抜いた腰の長剣で、防ぐ。
そのまま勢い、相手の足を蹴り上げた。
よろめいて、隙を作るかと思った<そいつ>はダインの意に反してそのまま、重力に逆らわずに倒れた。

「な……?」

体が。
獣のように、頭より先に動いた。
伏せ避ける。
そこに突き立つ長大な剣。
ダン、と言う音が彼の耳に響く。
床板に深々と突き立つ切っ先。彼の頭すれすれの位置。思わず凝視した。
次の一撃だとか、相手の動きを封じるとか、これは、考えていない。
捨て身の攻撃だ。
はたと気付けば、辺り一面の倒れ伏した敵か味方かの体は、塊ですらない。
肉片。

――コレは、危険だ。

「野郎」

跳ね起き、反撃とばかりダインは短剣を突きつけた。

その攻撃を<それ>は避けようとはせずに、
片腕に確かに片刃が食い込んだ感触がする。しかし<それ>は呻き一つ上げはしなかった。
食いしばって、ダイン。相手の体から飛び散る飛沫が頬を濡らした。温もりの残る液体。
すかさず振りかざしたもう片方の長剣は、無造作にも見える、その実渾身の力の篭った一撃で払われた。
低く宙を舞った刃が、やけに硬質な音を立てて床へと突き刺さる。
目の端で獲物を眺めてダインは舌打つ。
短剣一振りでは、この大剣は受け止めきれない。
気付いて思わず数瞬呆けた。
受け止めきれないと言うことは、死ぬと言うことだ。
自身が死ぬと言うことが、ダインには理解できなかった。
死ぬのが怖くないといえば嘘になる。
戦闘にいつも痛みは付いて回ったし、幾度か終わりを覚悟した傷も負ってきた。
それでも、死ななかった。
俺ァこんなところで終わるのか。
そんな豪く冷静な声が頭の中で聞こえる。
視線を上げると、音もしない斬撃が顔面に迫っていた。
上手く逃げ道は封じられていて、飛ぶより他に道はなさそうだった。
がむしゃらに相手の鳩尾を蹴り上げ、流石に一瞬見せた<それ>の隙に、
ダインは躊躇うことなく櫓の手すりを飛び越える。
無論、手すりの向こうは空である。
頬へ、風を切る感覚とともに透き通るような痛みと、猛烈な熱さ。避け切れずいくらか斬られたのだ。
落下しかけたダインの首筋に、容赦ない二撃目が襲った。

「ちィッ」

駄目だ。避ける術が無い。
瞬間ダインは思わず喘ぐ。

「畜生ッ」

一筋。光。

いつの間にか、夜明けであった。
血で血を洗う戦場の光景をも、光は浮き立たせ、
束の間どちらの兵士も東を思う。
次々に差し込み始めた光は、見張り櫓にも手を差し伸べた。
落下するダインの姿を<それ>が見やって、
途端、
退いた。
刹那、火花を散らして手すりに逸らされたのは、大剣。
無造作に、次の動作も無いままに振り下ろしてきた勢いのまま突き立った。
その動きを視界に納めながらダインは落下してゆき、

「ご……っは」

受身を取る余裕すらなかった彼は、ものの見事に背中をしこたま打ちつけた。
空気が肺腑から全て叩き出されて、彼は七転八倒する。

「おいコラ大丈夫か」

涙を流して苦悶するダインを見て、ヤオや他の傭兵仲間が近寄ってくる。
どうやら大勢は決した模様。
確認してダインは、呼吸困難からようやく立ち直り、ようよう立ち上がった彼の体の真横へ、
突如唸りとともに銀の一筋が流れ落ちる。
ざく、と音がした。

「……ってオイ」

見咎めてから一呼吸遅れて冷や汗が噴出す。
刺さっていたのは、ダインの長剣だった。
上から投げ落とされたのだ。

「忘れ物だ」

ふらつき、口を拭うダインの耳に、涼やかな声が飛び込む。
慌てて顔を上げると、梯子から降りた先程の相手が、真っ直ぐに彼へと向かって来た。

「て、めェ……」

腰を低く落とし身構える彼に、まるで邪気の無い様子でずかずかと<それ>は近付き、

「う、」

ダインの喉から思わず声が上がる。
柔らかな栗色の目をしていた。
太陽を背にした相手は、長身のダインよりも頭二つ分は小さく、細身と言うよりは華奢と言うのが正しい。
全身をくまなく覆い隠した真っ黒な上下。それにキルティング加工されたクーロスアーマー。
今は、血によって赤く染め抜かれていた。
纏わり付くのを煩わしそうに払いのける髪は、とても長い。
その色は、白というよりは透明。
皇かに通った鼻筋と、くっきりと弧を書いた眉。
無骨な戦場に似合わないほど、可憐だ。
先程の大剣は、既に鞘に仕舞われて背に負われている。
とても綺麗な少年なのである。
先頃の粘ついていた殺気が嘘のように、まるで警戒心の無い動作でダインの前に立つと、

「悪かった」

詫びた。

「は?」

まるで突拍子も無い声が出た。

「暗かったのでな。敵方の残兵と見誤った。貴様があの有名な守銭奴傭兵か」
「はァ?」

まるで悪びれも無い声で、彼の又名を口にして、興味津々な視線を投げかけ、
それから、ぱっくりと割れたダインの頬を眺めて眉をひそめた。

「手傷を負わせて仕舞ったな。許せ」

そう言って手を伸ばし、不意に少年は彼の頬に触れようとする。
何とはなしに気恥ずかしくて、ダインは思わず一歩退いた。

「こ、こんなのはカスリ傷に過ぎねェよ。……それよりも、アンタは一体」
「アンタではない。わたしの名はミルキィユと言う」

ダインの言葉を軽快に遮り、跳ねるような動作でミルキィユは応えた。

「はァ、……ミルキィユ……。……様?」

様と慌てて付け足したのは、少年の身に纏う鎧や装飾が、実にシンプルだったものの、
細かで高価な細工がされているのに気が付いたからだ。

「上官と呼べばいい」
「……上官?」

そこまで鸚鵡返しに呟いて、思考の止まっているダインの背後であ、と声が上がり、彼は振り返る。

「なんだよ」
「……確か、この軍の将軍がそんなような名前だったような」
「鬼と呼ばれていただろう」

にっと白い歯をこぼしてミルキィユ。好奇心を含んだ男たちの視線を意に介さない。

「……アンタが鬼将軍か……」

ぼんやりと繰り返したダインは、そこでようやく少年の右腕から、血が滴っていることに気が付く。

「アンタ、そう言えば」

夢中で突き付けた短剣の確かな手応えを、ダインは思い出していた。

「ああ、」

彼の視線に気付いて、ミルキィユは軽く右腕に手を当て、そう深い傷ではない、と言った。

――嘘付け。

あの手応えは、かすった程度のものではない。その位は判る。
いくら追い詰められていたとは言え、ダインも傭兵の端くれだ。
貫通しないまでも、かなり深く突き刺さった手応え。

「お前の頬と天秤にかけて差し引きゼロだな」

そう言ってミルキィユが笑ったので、ダインもそれ以上言及できなくなって黙った。

「皆、ご苦労だったな」

噂に聞こえた鬼将軍とやらに、物珍しげに辺りに群がり始める男たちを見回し、

「散った同胞の体は丁重に葬ってやって欲しい。それが終わったら腹ごしらえをして、報襲に移る。
長引いてもこの季節、尻にカビが生えるだけだ。今日明日で片を付けよう。以上。解散」

てきぱきと指示すると、ミルキィユは踵を返して颯爽と去ってゆく。

「……なんか、鬼のイメージと随分違うよな……」

その背中に思わず見蕩れた傭兵の一人が呟くところへ、幾人もが首を縦に振った。

「……若いよな」
「あの顔で将軍か……」

ぼそぼそと、今見た鬼将軍談義に花を咲かせ始める仲間を背後に、ダインは一人不機嫌そうに少年の姿を見送った。
点々と、土の上に咲く赤い花が、傷の深さを物語っていたからだ。


そのまま、ミルキィユの姿を見ずに数日が過ぎた。
この戦いが始まってからの三ヶ月、一向に姿を見なかったのだから、
数日程度で再び見える、とは流石に甘い考えだとダインも自身苦笑した。
露払いを引き受ける傭兵軍と、その背後に本部を置く将軍だの元帥だのとは、そもそも全く接点が無い。

――噂を目にしただけでも役得かねェ。

そうも思う。
攻城戦は、圧倒的にダイン達エスタッド軍の勝利で幕を閉じた。
まだ数週間はかかると、ダインなどはそう踏んでいたのだったが、
実際のルドルフ軍には、もう城壁どころか各城門を守備し切る力も残されてなかったらしい。
と、言うよりは今朝方、奇襲をかけてきた傭兵一隊が最後の戦力だったとも言える。
従来の、最後の一兵まで戦い抜こうとする気概は既に公爵の騎士軍に無く、
呆気なく白旗を掲げて降参する姿に、気負っていたダインたちはかなり拍子抜けした。
あの少年の示したとおり、二日と半日での決着だった。
戦勝祝いに、糧食部隊から各グループに労いの酒が配られる。
今夜ばかりは、無礼講だ。
この夜ばかりはと、今まで張り詰めていた神経分、傭兵達もあちらこちらで大いに盛り上がっている。
追随して、この戦が終わって契約が切れてしまえば、
いくら糧食庫に酒樽が積んであっても、傭兵達には縁の無いものになるのだから、
だったらいっそ呑める分は呑んでおいたほうが。
などという多少貧乏臭い計算も中には含まれていたりもする。
ダインもまた大いに飲んで盛り上がった。
こちらが気の毒になるほどに壊滅した相手だ。
酒宴の隙を狙っての、最後の報復攻撃が出来そうな肝のある将も見当たらない。
腹帯緩めて散々に、喰らった。
戦場に名の通った傭兵であるから、知り合いも多い。また、この機会に近付きたいものもいる。
差し出されるままに杯を口に運んで、気付けば既に深更。
辺りの仲間も泥酔して寝崩れている者が多く目立ち始め、
ふと、軽く催してダインは立ち上がる。
守銭奴と呼ばれる傭兵はまた、酒に強いことでもかなり有名で、
今日だけでもヤオと二人で四分の一樽ほどは呑み開けただろうか。
瓶にしておよそ25本。
流石に真っ直ぐに歩く、と言うわけにはいかない。
頬を、ぼりぼりと掻きながら焚き火から離れる。
流石に夜は冷えた。
少年に付けられた彼の傷は、鋭く真っ直ぐ斬られていたから痕も残らず綺麗に治りそうだった。
とは言え、ダインは流れの傭兵家業であって、深層の姫君ではなかったから、
例え痕が残るだろうと言われたところで、ああそうかと応えるより無かったが。

――いいさ、むしろハクが付く。

豪快に笑い飛ばした。
ただ、傷口が塞がる際のかさぶたが、ダインは苦手だ。
痒い。
見ているほうが痛いから毟るなと、周りから苦情を聞かされてもついつい手が伸びる。
今もまた、掻いていた。
用を足したついでに酔い覚ましにと、野営周りをぐるりと周回するのは癖の様なものだ。
奇襲は無い、と判っていても体がついつい確認に回る。
大分酒宴の場からは離れ、つい先日幾つもの仲間の体を葬った裏手に回ると、

「また会ったな守銭奴」

静かな声がした。

一瞬身構えたダインは、その声の主を確認して肩から力を抜く。
篝火に照らされて、声の主は、肩越しに振り返って柔らかに笑っていた。

「……アンタか」
「上官と呼べ」

酒臭い息で返すところに、ぴしりと跳ね返るミルキィユの一声。
それにダインは構わずに、少年の傍らへ、ふらふらした足取りで近付く。

「……なんだ、アンタ酔ってねェな」

意外な声を上げる。
目の前に立つ少年からは、酒の臭いがしない。
ミルキィユは頷いた。

「うむ」
「まだ、酒に呑まれる歳……かぁ?」
「そうではない。今日は呑みたい気分になれなかった。それだけだ」

そう言って、ミルキィユはダインに背を向け、
彼が邪魔しに訪れるまでそうしていたのだろう、また地面へ跪いた。
動きに自然にうながされて、同じく地面へと目を落としたダインが見たのは、
簡素な土饅頭の上に一輪ずつ手向けられた、黄色の小さな花。
ダインは、その花の名を知らない。

「なんだ。アンタずっとそうやってたのか」
「そうだ。存外時間がかかるものだな。早くに終わる予定だったが」
「ふぅん」

夜風に震える花弁を、何とはなしに眺め、ダインは頬を掻きながら生返事する。

「……いちいち花ブッ挿して祈り捧げてたら、明け方になっても終わらないぜ」
「自己満足なことは判っている」

次の土饅頭へ体を運びながら、ミルキィユは静かに答えた。

「わたしがこうして祈ったところで、逝ってしまった彼らが戻ってくるわけでも、浮かばれるわけでもない。
故郷に残る彼らの家族もまた、悲しみが癒えるわけでもないだろう。……判ってはいるのだ。
ただ、こうしないとわたしの気が済まないので、こうやって祈る。それだけだ」
「ふぅん」

――そんなモンかね。

その返事は酔った頭でも不謹慎な気がして、流石にダインは飲み込んだ。

「じゃあよ、」
「ん?」
「俺が死んでも、そうやってアンタは祈り捧げてくれるのかね」

ふと、思いついた戯れを口にしてみる。

「さぁ。どうだろう」

くく、と肩を揺らして、ミルキィユは笑った。

「そうしてほしいなら、そうしてほしいと今のうちに言えばいい」
「……俺ぁ一週間後、皇都着いたら無職の身だぜェ?不吉なことは言わない主義だ」

肩を竦めて返すダインへ、心配ない、と低い声が囁いた。

「あ?」
「心配ない。すぐに仕事が見つかる。皇都に帰還次第、次の任務地だ。募集をかける」
「……アンタがか?」
「そうだ。休まる暇が無い」

貴様と同じく有望だから。
そう言って邪気の無い顔でミルキィユは笑う。
見ているダインまでが楽しくなるような、そんな笑顔である。

「貴様の名を聞いていなかったな」

不意に笑いを収めて、それでもまだ唇の端に微かに名残を見せながら、ミルキィユは尋ねた。

「……俺ァ、ダインだ」
「ダインか。いい名だ」

少年は鷹揚に頷いて、それから、

「ダイン。貴様さえ良かったら、次の任務地にも来て貰えると助かる」

そう言った。

「俺……か?」

言われてダインは首を傾げる。今回の攻城戦で、特段目立った活躍をしたわけでもない。

「うむ」
「……俺のどこが、将軍様はお気に召されたんでありましょうかね?」
「わたしと切り結んだろう」
「そりゃ……あの時は悪かったよ。こっちもアンタが味方だとは思わなかった」
「貴様は強い」

言い訳がましく呟いたダインへ、違うと首を振って見せながら、ミルキィユは重ねて言った。

「あの時わたしも、貴様を敵だと思ってたから必死だった。正直床に転がされたときは、死を思った」
「いやそれは……」

言われてダインは立つ瀬が無い。彼もまた必死であったし、死を覚悟したからだ。
ダインが思っていたほどに、相手をしていたミルキィユにも余裕は無かったらしい。

「……明けの光に互いに救われたな」

だから、そう言ってやった。
そうだな、とミルキィユが小さく笑う。

「殺さなくて良かった」

言ってから、ダインはふと気付いて、

「そういやアンタ、腕の傷はどうなった」
「う、ん……?」

問いに、思わず語尾を濁したミルキィユへ、ぴく、とダインは反応した。

「アンタ……ちょっと見せてみろ」

言うが早いか、ダインはさりげなく背後に隠しかけた、少年の腕を取る。
酔った勢いも兼ねてはいた。

「……おい」

包帯を巻いたミルキィユの腕は、驚くほどに華奢。
ダインの手のひらで、握りつぶせるほどに細い。
腕を取った瞬間に、苦痛の声を呑む音が、ダインの耳に微かに届く。

「おい」

巻いた包帯には、まだ赤い染みが所々に滲んでいる。
ダインの頬の傷より、よっぽど深いのだ。

「……アンタ……」
「もう、ずっと、良いのだ。神経が傷ついていたわけでもない。獲物も手に取れる。心配は、」

いらない、とまるで自分が痛そうに、しかめ面になったダインへ言い訳がましくミルキィユは呟き、
彼の腕より逃れようと身をよじる。

「平気だ。放してくれ」
「……細っせェなァ……。これじゃ、いくら将軍様つったって、女押し倒して抱けねェだろう?」
「え?」

逃れようとする様に、思わずダインは悪戯心を起こして、揶揄するように目を細め、

「知らばっくれるなよ。皇都じゃ、さぞかしモテるだろう?何でか知らんが、女はキレーな顔ってのが好きだぜ」

手を放してやりながら言った。
単に酔っ払いの絡みと、取れないことも無い。

「アンタいくつよ」
「17だが」
「じゃあ今が一番お盛んな時期だろうさ?俺も十代の頃は大変だった」

目の前の少年は、自身と一回りちょっと歳が離れているのだと知り、ダインは急に先輩よろしく頷いて、少年の肩を叩く。

「今日の酒盛りにしたってそうだ。アンタ、もっと呑んで喰わねェと、でっかくならんぜ?
こんな女みてェな体つきじゃなくて、俺を目指せ、俺を」

どん、と張り切ってがっしりした胸板を叩き、俺に任せろとダインは笑ってやった。

「まァなんだ、良かったら今度一緒に妓館にでも繰り出そう。安いが良いトコ知ってるんだ。
将軍様も、もっと下々の生活をお知りになったほうがいいってコトよ」

俯いてしまったミルキィユへ、恐らく恥らっているのだろうとダインはそう踏んだ。

――まだまだ青臭ェガキか。

「なに、心配するなって。アンタ、ちょっと見た感じ女みてェだが、
そう言う年下の可愛い男のコを、好きな女も俺は知ってるからよ」

俯いたミルキィユは、長い髪の影に隠れて表情が良く伺えない。

「な?」

同意を求めて、ダインは少年を下から覗き込んでやった。

「お、女みたいと言うのは誰のことを指しているのだ」
「アンタに決まってんじゃねェか。……なんだ、意外に気にするタチかァ?」

何かを堪えるようなミルキィユの声に、内心首をかしげながら、ダインは真っ直ぐに少年の顔を指差してみせる。
一呼吸、二呼吸。

「……も、も、も、も、」
「……あん?」

も?

小刻みに震え出した細い肩を見て、なんだ寒いのか、などとダインが口にしようとした瞬間。
硬く握り締めた鉄拳が、躊躇い無くダインの横頬に叩き込まれ、

「もとより女だこの大馬鹿者!!!」

不意を食らった酒臭い傭兵は、ものの見事に勢い吹っ飛んだ。
彼が、ミルキィユの懐刀と噂に上るのは、未だ先の話。
大の字に倒れた彼を、故意にぎゅっぎゅっと踏みつけて、ミルキィユは長い髪をなびかせ、憤然と去ってゆく。
逆さになった後姿を見送りながら、痺れる頬に手を当て、ダインは情けなく呟いた。

「お……女……?」

守銭奴傭兵ダイン。
そのまま混沌の闇に意識が紛れ込んだ。






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