島津組/兆し(非エロ)
シチュエーション


わたしのママはクラブを経営している。当たり前だが、クラブといっても「ク」にアクセントがくるほうのクラブだ。
お客さんは会社の経営者や政治家といった人たち。ちょっとした高級クラブといったところだ。会社経営者にもいろいろ種類があって、もちろんその中にはヤクザだって含まれる。
そもそもそのクラブをママが開く時に資金を出してくれたのは、ヤクザの組長なのだから。
ママの名前は長浜都(ナガハマミヤコ)。資金を出してくれたヤクザは島津隆尚(シマヅタカヒサ)。
関東の裏社会を支配する広域暴力団の2次組織・東征会の幹部であり、島津組の組長。そしてわたしとお兄ちゃんの父親だ。


なんで苗字が違うかといえば、ママは戸籍上は結婚していないからだ。ヤクザの奥さんで内縁状態の人は多いようだけど、ママの場合はそれともちょっと違う。
父には正式な妻も、内縁の妻もいない。いるのは愛人関係の女性だけ。ママのほかに子供がいる人はいないみたいだから、愛人たちの中でも少し別格なのだろうけど、でもはっきりと言われているらしい。

「お前は愛人で女房ではない」と。

だからなのか、わたしたち兄弟には父親との記憶がほとんどない。一緒に住んでいるわけでもないし、誕生日にプレゼントをもらった記憶も、一緒に食事をした記憶も、もしかしたら笑いかけてもらった記憶もないかもしれない。

それでもわたしたちが父を嫌わなかったのは、ママのためだ。
昔はママは今自分が経営しているようなクラブでホステスとして働いていて、夕方出勤する時はいつも憂鬱な顔をしていたものだ。
だけど父が店に来ると連絡をしてきた時だけは、うきうきと少女のように頬を染めて一番気に入っている服を着て上機嫌で出かけていった。
そんな嬉しそうなママを見るのが好きで、どうして父はいつも一緒にいてくれないのだろうと不思議に思っていた。その疑問を投げかけるとママが悲しそうな顔をする理由もよくわからずに。

昼休みのチャイムが鳴った。窓際の席のわたしはぼんやりと外を眺めていたが、友人の声で我に返った。

「瀬里奈(セリナ)!早く行かないとパンなくなっちゃうよ!」
「あ、ごめん。万理(マリ)。今行く」

わたしは財布を持って駆け出し、万理とふたり売店へ向かう。売店は食欲旺盛な高校生で埋め尽くされ、わたしたちは近寄れもしない。

「あーん。ヤキソバパン〜」
「ヤキソバパンだけでいい?他に欲しいのは?」

大袈裟に嘆いた万理の声にかぶせて、背後から声がした。お兄ちゃんだった。

「お前は何食うんだ」
「あ、同じのとグレープフルーツジュース」

待ってな、と頭を軽く撫でられ、あっという間にお兄ちゃんは売店の中へ入っていく。
はっと横を見ると、目にハートマークを浮かべた万理がお兄ちゃんの後姿を見つめている。

「かっこいいわよねぇ……。長浜先輩」

お兄ちゃんは妹のわたしから見てもかっこいい。
父譲りの切れのある顔だち、がっしりとした体、頭の良さを持ち合わせていて、入学時点から今まで女子生徒の間で人気ナンバーワンだ。
そんな女子生徒を見るにつけ、父がいかに女の人にもてるのかを教えてくれるような気がしたものだ。
わたしがこの春入学してまず言われたのは、「あなた、長浜尚(ナガハマショウ)の妹ってホント?」ということだった。

「ほら、適当に買ってきたぞ」

お兄ちゃんが本当に適当にいくつか買ってきたパンの中から、わたしと万理は自分が欲しいものを選び礼を言った。

「そういやさ、親父、結婚するらしいぞ」
「は?」

今更?ようやく?と言いかけたわたしに、お兄ちゃんは雑誌をわたしにつきつけた。ほとんど見たことのない、いわゆる実話系の雑誌。
そのページには大きな文字で「島津隆尚(39)ついに結婚!お相手は20年思い続けた幼なじみの女性(34)!?」と書いてあった。
ママだってまあ、父と知り合って20年だよね?幼なじみだったんだ?だけど、そこに載っていた女性の写真はどう見てもママとは違う女性だった。
お父さんはとうとうママを捨てるの?わたしたちはママごと切り捨てられるの?
唐突に自分たちの未来への不安がわたしを襲う。
ママはどうなるの?わたしたちはどうなるの?わたしの疑問に、お兄ちゃんは口をつぐんだ。

午後の授業はほとんど覚えていない。昼休み、お兄ちゃんと別れて教室に戻ったわたしは、パンをかじりながらその雑誌を穴が空くほど読んだ。
読んだものの、内容はやはりほとんど頭に入ってこない。
わかったのは、父が結婚するのはママでも、今いる愛人の誰でもなく、7年前に姿を消して最近再会した父の幼なじみの女性であるということだけ。
わたしは言いようのない感情を抱えたまま、家に戻った。
家の前には黒塗りのでっかい車と人相の悪い男が待機していた。お父さんが来てるんだ。わたしはますます暗い気持ちになって、玄関に向かった。


「ただいま」

玄関にはお兄ちゃんのローファーと、ぴかぴかに磨かれている、いかにも高そうな黒い革靴。靴を脱ぎリビングへ顔を出す。

「いらっしゃい」

父に対して「いらっしゃい」は普通じゃないよなあと、自分で言いながらいつも思う。だけど我が家では、どう考えても「いらっしゃい」だ。

「瀬里奈。話があるから着替えたらいらっしゃい」
「着替える必要ない。今でいいよ」

すでに着替えてダイニングの定位置の椅子に座っているお兄ちゃんの横に座る。父はソファにゆったりと腰掛けて煙草を吸っている。ママはその横に座ってお茶を急須から入れていた。

「ふたりの顔が見えねェな。こっちへこい」

ずっしりと重みのある低い声。自分の言うことに逆らう人間はいないと思っている声。ぐずぐずしているとすぐに怒鳴られる。
子供相手だから本気じゃないとママは言うが、睨む顔と殺気を漂わす声だけで人を殺せそうな雰囲気をかもし出している。これで本気じゃないなら、本気で怒ったらどうなるんだろう、と想像して震え上がったことがある。
わたしとお兄ちゃんはL字形ソファセットの、ママと父の向かいの床に直接座った。

「今度の冬に、俺は都とは違う女と結婚する」

へー、今度の冬なんですか。床に座っている自分とは違う自分が心の中で呟いていた。

「都は来月になったら、自分の実家へ帰って、そこで地元の男と結婚する」

へー、ママ、実家なんてあったんだ。そりゃあるか。
へー、ママ、結婚するんだ。
って、え、結婚?

「えっ!?ママ、どういうこと?」

驚かないということは、お兄ちゃんは先に聞いていたのかもしれない。仏頂面のお手本のような顔をしてそっぽを向いていた。

「このまま俺のところへ来て東京に残るか、もしくは都の実家へ行くか、どっちにするか考えろ」

父は煙草を灰皿に押し付け、立ち上がるとわたしたちを見下ろして言った。

「どっちでも俺はかまわん。お前たちの好きにしろ」

わたしは本日何度目かの「茫然」という感覚を味わっていた。

父はそれだけ言うとさっさと出て行ってしまった。ママはわたしたちをじっと見つめ、ごめんね、と呟いた。

「ごめんね、勝手に決めてて。今年のお正月、京都の実家から――あなたたちのおじいちゃんから電話があって、地元のある企業の社長さんとお見合いしないかって言われて……」

そしておじいちゃんとやらは、その社長さんを連れてママの店に来たのだそうだ。社長さんは奥さんを亡くしていて、子供はいない。一目みてママを気に入って、是非後妻に、と言ってくれているのだとか。
その後も何度か京都からママを訪ねてきて、お客としてお店で飲んだり、その後一緒に食事をしたりしていたらしい。


それで思い出した。わたしの高校の合格祈願、といってママがくれたお守りが、京都の北野天満宮のものだったことを。いったいいつ京都へいったのかと思っていたが、もしかしてお父さんがくれたものかもしれないと思い、わたしはママに訊いたのだ。

「これ、お父さんから?」

と。その時ママは少しためらい、そして頷いた。
お父さんがわたしにお守りをくれた。今までわたしのことなんか何もきにかけてくれなかったお父さんが、と思うと無性に嬉しかった。
だけど本当は、その社長さんがわたしのことを聞いて、ママに渡したものだった。そのうち社長さんがわたしたちのお父さんになるのだから、とママはもうその時には心を決めていたのだろう。


「お父さんが結婚するから、後釜を探してたの?」

わたしは言った。横にいたお兄ちゃんがぎょっとしてわたしを見たほどの、暗い声だった。

「違うわ。隆尚さんの結婚のことは、ついこの間聞いたのよ」
「それでいいの!?」

わたしはママに怒鳴った。

「20年も籍も入れてもらえないで、子供ふたりをひとりで育てて、愛人扱いされたままで、あげく他の女と結婚するって言ってるのよ、お父さんは!」

ボロボロと涙が零れてくる。お兄ちゃんが横でわたしの手をそっと握ってくれた。それでもわたしの気持ちは収まらない。

「ママ、お父さんにずっとバカにされてたんじゃないの!?
面倒かからなくって、都合のいい時に抱ける、都合のいい女だって思われてたんじゃないの!?
きっとそうよ。だってヤクザなんだもん、女なんて利用するだけなのよ!最低よ!あんな男!」
「瀬里奈!」

パシッと音がして、わたしの頬が赤く染まった。ママがぶったのだ。

「ママもママよ!お父さんの結婚のこと知らなかったんなら、どうして他の人と結婚しようとするの!?
お父さんのこと、本当は好きじゃなかったの?自分のことを好きと言ってくれる人なら誰でもいいの?
わかんない、わかんないよ!ママのバカ!」

わたしは叫び、じくじくと痛む頬を押さえて、涙もそのままに家を飛び出した。

靴を履いて飛び出したものの、カバンを置いてきたのでわたしは途方にくれた。取りに戻る気にもならなかったし、誰かと遊びにいくにしても財布も携帯もないから連絡のつけようがない。
結局わたしは街をうろうろした挙句、わたしの顔を知っている父の子分に見つかってしまった。子分はお父さんに言いつけようとしたので、それを阻止しようとしてわたしは子分と言い争った。その時、

「お嬢さん、どうしたんですか」

わたしを見つけた子分とは別の、優しい声がした。

「辻井さん……」

その人を見つめたわたしの顔が涙でひどいことになっていたからか、彼、辻井さんはぎょっとしてポケットからハンカチを出してくれた。

「こんなところを泣きながら歩いてたら、危ないですよ」
「その危ないことをするのが仕事のクセに」

ハンカチで涙をぬぐいながらわたしは言った。

「はは、確かにそうですな」

辻井さんは小さく笑って、後ろにいる子分に事務所へ戻るように指示を出した。

「カシラはどうするんで……?」
「野暮なこと訊くんじゃねェよ。とっとと行け」

一喝された子分が慌てて立ち去ると、辻井さんはわたしの肩に手を置いて、歩き始めた。


往来から離れた公園の前まできて、辻井さんはわたしの顔を覗いた。背の高い辻井さんがわたしの顔を覗くには膝を曲げる必要がある。まるで子供に話しかけるかのように、辻井さんはわたしに言った。

「お嬢さん、何かありましたか?」

わたしはうつむいていた顔をあげて辻井さんを見た。赤い夕日を背にわたしに微笑みかけている辻井さんは、その顔だけみるととてもヤクザには見えない。
短く刈り込んだ髪、狭いおでこ、普段は恐いのに笑うととたんに優しくなる目、四角い顔、太い首。
幼い頃わたしが泣いているといつも髪を撫でてくれた、不器用そうな大きな手で、今日もまたわたしの髪をそっと撫でてくれた。泣かないで、と言いながら。
一度は止まっていた涙が、また溢れてきて止まらなかった。わたしは声を上げて辻井さんの大きな胸の中で泣いた。

ほとんど子供と接することがなかった父の代わりに、わたしたちに父か兄のように接してくれたのが、辻井さんだった。
父がまだヤクザとして駆け出しだった頃からずっと一緒にいる、父の盟友。どんな時も父と一緒にいて、父が組を立ち上げた今は若頭として父を支えている人。
ヤクザの子だからといじめられていたわたしは、いつもお兄ちゃんとふたりで遊んでいた。みんながブランコで遊んでいれば、砂場で。ジャングルジムならブランコで。
だけどいつもふたりだった。他の子供たちが母親に呼ばれて家に帰っていっても、暗くなっても、わたしたちはふたりで遊んでいた。
あまりに遅くまで遊んでいると、いつも辻井さんがやってきてはわたしたちを家に連れて帰ってくれた。「こんなに遅くまで遊んでたら危ないですよ」と言って。
初めて肩車をしてもらったのも、ママとは違う腕にだっこされたのも、全部辻井さんだった。
そのうちわたしとお兄ちゃんはそれぞれの友達を見つけ、友達と遊ぶようになってからは彼はあまり現れなくなった。
同じ街にいるだけに道ですれ違うこともあるが、その時も会釈や挨拶をするだけで、わたしたち兄弟からヤクザの影を少しでも減らそうとしてくれた。
話す機会も少なくなったけど、それでもわたしの中で彼は、ずっと優しいお兄さんのままだった。
泣いているわたしの身体をそっと包み、泣き止むまでずっと髪を撫でてくれた辻井さんの、その広い背中に泣き止んでからもわたしはしがみついていた。

「お嬢さん、座りましょうか」
「嫌。このままがいい」
「お嬢さん。……ほっぺた。痛いでしょう」

優しく、だけどはっきりと、辻井さんはわたしの肩を押して自分の身体から離した。公園の中のベンチへわたしを促して座らせ、給水場でハンカチを濡らし、絞って手渡された。
そのハンカチを自分の頬に当てる。冷たくて、頬の腫れだけでなく気持ちもすっと落ち着いていくようだった。

「何かありましたか?」
「ママと……お父さんのこと……」

そう言うと、ああ、と合点がいったように彼は呟き、大きく息を吐いた。

「どっちのことが聞きたいですか?」
「ママのことか、お父さんのことか?」
「ええ。話せる範囲のことはお話しますよ。……とはいっても、お母さんのことは自分も兄貴からの話しか知りませんがね」

わたしは考えた。何が気に入らなかったのだろうか、と。

お父さんがママではなく違う女性を、生涯の伴侶として選んだこと?
ママは選ばれなかった。その女の人よりもママのほうが劣ってるってお父さんが言っているようなきがすること?
そして、わたしはそんな「劣った女」の子供だということ?
それとも、ママがわたしたちに内緒でお見合いしていたこと?
今までママはママ自身のことはなんでも話してくれていたと思っていたのに、裏切られたこと?
ママが、自分を選ばなかった男をあっさり捨てて、違う男になびこうとしていること?


「わかんない……。お父さんが、違う女の人と結婚するっていうのもショックだったけど……。ママは、お父さんのこと、好きじゃなかったのかな」

ぽつりぽつりとわたしは自分の思いを口にした。それを辻井さんは黙ってきいてくれた。話しているうちに、頭に上った血がようやく下りてきて、張り裂けそうだった胸も落ち着いてきた。

「お父さんは、ママのこと好きじゃなかったのかな。都合いいから繋ぎとめてただけなのかな」

そんな内容のことを何度も繰り返していると、ようやく辻井さんが話し始めた。独特の、掠れた声で。

「違いますよ。兄貴は確かに女性関係は派手ですが、子供を作ったのは都さんとだけです。
他の女性とは長続きしませんが、都さんとはこんなに長く続いてる。
それにね、昔はよく兄貴を女性のところへ送ったり、迎えにいったりしましたがね。都さんのところへ行く時だけは、車の中でじっと黙ってるんですよ」
「どういうこと?」
「他の女性の時はね、仕事の話をしながら行くんです。
でも都さんと会う夜は、『ヤクザ』じゃなくて『男』に戻ってるんですよ。
一番いいカッコをしてね、都さんは何を作ってくれてるだろうか、とか、どんなカッコをして待っててくれてるだろうか、なんてぽつりと話してね」

それはわたしが全く知らない父の姿だった。父が、『父』だけでなく『男』でもあることを、今更ながら知った。
一番いい格好をしてママのところを訪ねる父は、確かにただの男だ。クラスの男の子が、次のデートに着ていく服を雑誌で探しているのと大して変わらない。そして父を待って料理を作るママも、恋する女そのものだ。


「兄貴は確かに都さんを愛してますし、都さんも兄貴を愛してると思いますよ。それを疑ったら、ふたりが可哀相ですよ」

はっきりとした口調で辻井さんはわたしに言った。その言葉を信じようとすればするほど、父がママと結婚しない理由がわからない。

「じゃあどうしてママと結婚しないの……?」
「それは……」

辻井さんが口を濁した。さっきまでの口調とは正反対だ。

「お父さんはその幼なじみの人を選んだ。ママはやっぱり、選ばれなかった。劣ってる女なんでしょ。そうなのよね?」

いっとき落ち着いていた感情がまた湧き出してくる。駄々っ子のようにわたしは横に座る辻井さんの胸を叩いて叫んだ。

「ただでさえヤクザの娘って言われてるのに、選ばれなくて捨てられた女の娘だなんて、わたしなんか女のクズなんだ。だからママもわたしには何にも話してくれなかったのよ!」

落ち着いて、という辻井さんの言葉が聞こえたが、湧き出してきた感情は止まらなかった。
ママが一大決心をして、これから新しい生活を迎える大変な時期だというのに、わたしが心配しているのは自分の女としての価値、自分の存在価値のことだけだった。それがママを二重に裏切っているような気がして、罪悪感を打ち消すためにわたしは叫んでいた。

「どうせわたしなんて生まれてこなきゃよかったのよ!」

胸を叩いていた腕をぐいと掴まれ、そして彼の顔が目の前にあった。いつの間にか辻井さんはわたしの腰に腕を回していて、その腕でわたしを引き寄せた。自分の唇が塞がれていることに、そこで初めて気がついた。

辻井さんの薄い唇がわたしの唇をゆっくりと吸う。
わたしの口を割って辻井さんの舌が入ってくる。驚いて身体を動かそうとしたが、強い力で逆に抱きすくめられる。辻井さんの硬くすぼめた舌先でわたしの舌をなぞっていく。
一番奥にたどり着いたその舌は、今度は今までなぞっていたわたしの舌を絡めとった。脳髄がとろけるような刺激がわたしの身体を走る。
そのうち舌が抜かれ、辻井さんの唇はわたしの上唇をそっとついばみ、鼻の頭に触れ、そして名残惜しそうに離れていった。
どうしていいかわからず、ただ高鳴る胸が静まるようにと手を置いてわたしは彼を見た。辻井さんに掴まれているところだけ、腕が熱くて燃えそうだ。
わたしの背中に回っている腕の感触だけで、背中がわなないていた。

「自分は今でも覚えてるんですよ。
15年前、あなたは都さんのおなかの中でなかなか成長しなかった。このままじゃもしかしたらダメかもしれない、と医者に言われて、見たこともないほど激怒していた兄貴の姿を。
やっと出産までこぎつけて、分娩室の中からあなたの泣く声を聞いた時の兄貴の心底嬉しそうなほっとした顔を」

ぎゅ、ともう一度辻井さんはわたしを抱きしめた。

「その時一緒にいた尚くんをこうやって抱きしめて、お前のお母さんはえらいぞ、と何度も呟いた細い声を」
「……」
「恥ずかしそうに、ちょっと遅いクリスマスプレゼントだな、と自分に言ったあの笑顔を。自分は覚えてるんですよ」

辻井さんの声が泣いているように聞こえた。


「だから、生まれなかったほうがいいなんて、二度と言っちゃあいけません」

わたしを抱きしめる彼の腕が震えていて、逆にわたしの震えは止まっていた。ただ、広い彼の背中を抱き、彼の胸の中で彼の鼓動を聞いていた。心臓の音が一番人間が落ち着く音なのだ、ということを実感していた。

「それに……。お嬢さんは十分お綺麗で魅力的ですよ。女のクズなんかじゃありません、決して」

わたしの二の腕をじんわりと辻井さんは撫で上げる。
トクン。
急に顔が赤くなった。先ほどのキスを思い出して、一旦は落ち着いた心臓がまた高鳴ってきた。

「兄貴と都さんのお嬢さんなんですから。自信を持って大丈夫ですよ」
「わたしじゃなくてママとお父さんが魅力的だってコト……?」
「いいえ。お嬢さんはお嬢さんとして、とってもいいオンナですよ」
「辻井さんにとっても……?」

辻井さんの腕の中で、彼を見上げる。

「は……?」
「わたし、辻井さんにとって、女として魅力、ある?」


「ありますよ」

にっこり笑い、ふいにまたわたしを抱きしめた辻井さんはわたしの耳元で囁いた。

「理性を保たないとこの先まで進んでしまいそうです」

キュウンと胸と下腹部が締めつけられた感触がして、ドキドキ高鳴る鼓動は最高潮に達し、頬から火が吹き出そうなくらい顔が火照った。
火照ったのは顔だけでなく、キュンと鳴った下腹部からとろりと液が溢れてきて、下着が濡れた。
これが「カンジる」ってことなのかな、と蕩けた頭で考えた。
恥ずかしいとかいやらしいとかそんなことは思いもせず、ただ、もっと触れて欲しい、もっと抱きしめて欲しい、そんな衝動で一杯だった。
「進んでも……いいよ?」

恐る恐る言ってみた。
すると辻井さんはもう一度軽く笑って、わたしのおでこに小さく口づけて言った。

「大切なお嬢さんにそんなことはできませんよ。さあ、落ち着いたなら帰りましょう」

立ち上がり、わたしに手を差し伸べる。その手を取って立ち上がると、辻井さんはわたしの頭をぽんぽんと叩き、わたしの手をさりげなく外した。
家まで歩く途中で探しにきたお兄ちゃんと遭遇したので、辻井さんはお兄ちゃんにわたしを託して、街へと戻って行った。
わたしの身体と心に、熱情の兆しを残して。

お兄ちゃんと家へ戻ったけど、わたしはママと話をする気になれなかった。
辻井さんにはああ言われたけど、やっぱりママの気持ちを理解することができなかったからだ。
お父さんのことを愛しているから、わたしたち兄弟をひとりで育てたんだと昔ママは言っていた。他の男の人にいろいろ誘われても、お父さんへの気持ちがあったから、ここまでひとりで育ててきたんだと。
なのにどうして今になって、ママは他の男の人と結婚しようとしているのか。お父さんを心から愛しているといったのは本当はウソなんじゃないだろうか。生活費をふんだんにくれ、お店の開業資金をくれたのがお父さんだから、しかたなくひとりでいただけなんじゃないのか。
結局、お父さんに抱かれているのもお金のためだけなんじゃないんだろうか。
わたしの頭の中をぐるぐるとそんなことが駆け巡り、わたしはママの顔を見られなかった。


家に帰ってすぐに自分の部屋へ入り、じっとそんなことを考えていた。

「瀬里奈。入るぞ」

お兄ちゃんがドアをノックして入ってきた。

「お前、どうするんだよ」

ママと行くか、お父さんといるか、どっちを選ぶのか。お兄ちゃんはそれを確かめにきたのだ。

「わかんない……」
「オレは東京に残る」

お兄ちゃんはきっぱりとそう宣言した。
もう少しで大学受験で、志望校はどれも東京にある。一度京都へいくよりもこのまま東京にいるほうがいい。
ママと行くことを当たり前のように考えていたわたしには、青天の霹靂とでも言うべきお兄ちゃんの宣言だった。だからわたしはごねてみた。お父さんと一緒にすむことになるんだよ、と。
京都に行ったって親父と暮らすことになるんだぜ?とお兄ちゃんは口の端で嗤って言った。だったら知ってる親父のほうがいいじゃねえか。
「お前は、オレと離れて暮らしたりしないよな」

いきなりお兄ちゃんが真剣な顔でわたしを見つめてそう言った。

「母さんには新しい生活が待ってる。そりゃあ初めての生活だから大変かもしれない。だけど、母さんを必要としてる男がいるだろ。だけどオレたちにはオレたちしかいないんだぜ?」

それを聞いたら確かに東京に残ったほうがいいような気がしてきた。
それに、お兄ちゃんと離れて暮らすのは嫌だ。いつも一緒にいて、いつもわたしを守ってくれるお兄ちゃん。離れ離れになるなんて、そんなの考えられない。

「そうだね」

ぼんやりとそう答えた。本心は、ママと一緒にいるのが嫌だったからかもしれない。ママが、新しいお父さんと一緒に幸せに暮らすのを見るのが嫌だったからかもしれない。

「じゃあ、決まりだな。母さんに伝えてくるよ」

お兄ちゃんは微笑んで、大丈夫だよ、とわたしの頭を撫でてから部屋を出て行った。
話を聞いたママの悲しそうな顔が思い浮かんで、やっぱりママと行くと言おうと立ち上がった瞬間に、辻井さんとのクラクラするような甘い口づけの感触が自分の唇に戻ってきた。
どくんとわたしの下半身が疼き、ママと行ったらもう辻井さんには会えないと気づいた。
わたしはまた床に座り、傍にあったクッションを胸に抱きしめて辻井さんの名前を呼んだ。唇をそっと指でなぞりながら。


バカなわたし。辻井さんは20も年上で、わたしみたいな小娘なんか相手にするわけないのに。
ヤクザのキスを本気にしちゃうなんて、バカだ。
そもそも、わたしは別に辻井さんのことが好きなわけじゃない。単に、いつも優しいお兄さんがほんのちょっとキスしてくれたのが嬉しかっただけ。好きとか恋とかじゃ、ないんだから。
そうよ、あの人はやっぱりヤクザで、ヤクザにしてみれば高校生だますのなんて、朝飯前なんだから。信じちゃだめよ瀬里奈。
必死で自分に言い聞かせたが、それでもこみあげてくる甘い波に、わたしはなんとか逆らおうとした。

辻井が事務所のドアを開けると、島津は応接セットのソファで新聞を読んでいた。
長い付き合いだが、今も昔も島津は変わらない。
黒い髪をゆったりと襟足のあたりまで伸ばして軽く形をつくった髪型は、今の若者の髪型と大差ない。昔の喧嘩で作った額の傷を隠すための長い前髪を、いつもうっとうしそうにかきあげている。
薄く日焼けした肌に直接シャツをまとい、イタリア製のスーツをさらりに着こなし、大振りの指輪をいくつも指にはめるスタイルも、シルエットこそ時代とともに変わってきたが昔からそのままだ。
才気と狂気がない交ぜになったようなオーラを発し、鋭い眼光で相手を射抜いたかと思うと、突然人懐こい笑みを浮かべて翻弄する。
ドスの効いた重低音でヤクザをビビらせるその声も、女を口説く時には媚薬のように甘い。ホステスの中には、島津に見つめられただけ濡れ、話しかけられただけでイッてしまうと言う女もいるくらいだ。
急激にのし上がっていく様と、いざ戦闘となった時の腕っぷしの強さを背中の刺青とひっかけて暴れ龍と称される、東征会きっての武闘派だ。腕力だけと思われがちだが、これがところが経済にも政治にも強い。
そんな二面性、いや多面性のある島津の魅力は、昔から変わらない。むしろ昔よりも実力も貫禄もついてきた今のほうが、彼の魅力は増しているともいえるかもしれない。
だからこそ、この組の男たちは島津のために命を張る。島津をたてるために日々走り回る。その筆頭が、まぎれもない自分であることを辻井は自覚している。
島津の変わらない不遜な姿を見てほっとする自分を自虐的に嗤うことはあるが、島津を自分の世界から消してしまうことは考えられない。
そんなことを思いながら、微笑さえ浮かべて辻井は目の前の島津を見る。
ソファの上の島津は、そんな辻井の心を知ってか知らずか、辻井の姿をちらりと見ることもしない。


「組長、遅くなりまして申し訳ありません」
「おう。まあいいさ。今日は特に何があるわけでもねェからな」

そう言うと島津は読みかけの新聞を無造作にソファに放り投げる。若い衆がそれを慌てて拾い、丁寧に端を揃えてたたみ、テーブルに戻す。
テーブルにある煙草入れから煙草を取り出し、口に咥えると即座に若い衆がライターを取り出す。。

「あ、あれ」

音はするが火が点かず、若い衆は脂汗をかいて何度も何度もライターのスイッチを押す。その脇から辻井が自分のポケットのライターを取り出して火をつけ、島津の口元へ差し出す。
島津は煙草を近づけ、満足そうにライターを持って顔を青くしている若い衆の顔に煙を吐きかけて、くつくつと笑う。
彼の教育係をかねている兄貴分の男がバカヤロウ!と彼の頭を張り倒したのを見て、島津は肩をすくめて組長室に向かった。もちろんドアはまた違うチンピラがさながら自動扉のように開けるのだ。

「辻井よ」

組長室へ半ば入ったところで、島津が振り向きもしないで声をかけた。

「はい」
「ちょいと野暮なことを訊きたいんだがな」
「……はい」

島津の後を追って辻井も組長室へ入る。ふたりが入ったのを合図に、ドアはやはり自動ドアのようにするりと閉まった。

島津は何食わぬ顔で、正面の大きなデスクの後ろにそびえる革張りの椅子にふんぞり返った。足をデスクに投げ出し、くわえ煙草のまま胸ポケットから取り出したジッポライターのフタをカチカチと開け閉めする。規則的な金属音が組長室に響き渡る。
ふと島津の視線が辻井に向く。次の瞬間、パチン、とライターのフタが閉まり、辻井の顔をめがけてライターが投げつけられた。飛んできたライターは直立不動で立っていた辻井の頬にあたり、コトリと床に落ちた。辻井の頬に赤い傷ができ、血がにじんだ。

「俺の娘に手ェ出すな」
「そんなこと、するわけないでしょう」

ライターを拾いながら辻井が言った。ライターをデスクに乗せると、その手をガツリと掴まれた。

「せめて、瀬里奈が他の男を知ってからにしろ」
「いまどきの女子高校生は進んでますからね。もしかしたらもう条件満たしてるかもしれませ……ッ」

熱ッという呻きを辻井は寸でで堪えた。島津が吸っていた煙草を辻井の手の甲に押し付けたのだ。

「チッ。根性焼きって年でもねェな」

くだらねえと吐き捨てて島津は新しい煙草をパッケージから取り出した。その煙草を辻井に向けて振って、帰れ、と意思表示する。
押し付けられてデスクに転がったままの煙草を灰皿へ片付けてから、入り口に向かうべく島津に背を向けた辻井の背中に、矢のような島津の視線と言葉が突き刺さった。

「キスで止まっといてよかったな。うちの若頭が女子高生の誘惑に負ける男じゃなくて、ほっとしたぜ俺は」

辻井の動きが一瞬止まる。コツン、とまたライターが背中に投げつけられる。

「いいか、俺はプライベートでお前にお父さんとは呼ばれたくねえ。気色悪ィ」
「肝に銘じておきます」

振り向き、ライターを拾ってデスクに再び置いた。

「失礼します」

一礼し、組長室から退室する。一体どこからそんな情報を仕入れるのやらと、辻井は背中に冷や汗をかきながら扉を閉めた。
暴れ龍もなんだかんだ言って人の親だな。
思わず辻井は笑みを零した。


組長室を出ると、事務所の電話が鳴っている。若い衆がそれにちゃんと対応していることを満足そうに見ながら、辻井はあちこちから届けられる回状に目を通した。
目の前にちらつく瀬里奈の身体の残像を消すために煙草を口にくわえた瞬間、組長室の扉が派手に開く。

「辻井ィ。大人の女に会いに行くぞ」

あてつけのようにニヤリと笑う。運転手役の若者が車のキーを片手に表へ飛び出していく。

「お供いたします」

辻井は煙草をパッケージに戻して立ち上がった。
お前らは適当にこれで遊んで来い、と財布から万札を無造作に抜き取り部屋にバラ撒きながら、島津は表へ出ていく。その背中を追いながら辻井は、ついさっき忘れようとしていた唇の感触を思い出していた。






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