シチュエーション
![]() 一人になると母はいつも泣いていた。 悲しげな啜り泣く声に少女は胸が締め付けられる気がしたものだった。 そんな母が他界して数年が経ち、少女は母の涙の理由が理解できる歳になった。 母は概ねすべての女がそうであるように弱かったのだ。 男のいいなりになるしかない、弱い女であった。 あのような弱い女にはなりたくないと少女は思う。 母が懸想した相手への恋情を捨てきれなかったように、少女もまた芽生えた想いを捨てることなどできないと悟っていた。 母のように泣き暮らすのを避けるには強くなるしかない。 男と対等に渡り歩けるだけの強さが欲しかった。 大切な人を手放さずにすむだけの力が欲しかった。 少女は恋をしていた。 少女は愛を知ったのだ。 「それは違う」 少女は手にしたペンを机に叩きつけ、顔をしかめて青年を見た。 「大事をなすには多少の犠牲はやむを得まい」 「殿下が正しいのでしょう。私は人の上に立つ器量は持ち合わせておりませんから」 「お前は優しすぎるのだ。しかし、民を守る為には時に残酷とも思える手を取らねばならんこともある。心を殺すことができなければ己だけでなく国や民まで滅ぶ」 青年は曖昧に頷き、悲しげに少女を見つめた。 「殿下はご立派になられましたね」 少女は怪訝そうに眉をよせた。 「何が言いたい?」 「あなたをそこまで追いつめるものは何ですか?」 澄んだ蒼眸が青年の瞳を射抜く。 「男の真似事などやめにして、女としての幸せを手にしてはいただけませんか?」 青年の黒い瞳は悲しみだけを映し出す。 「女としての幸せとは何だ。私にそれが手に入るのか?」 少女の瞳が蒼く煌めく。 「私は町娘とは違う。好いた相手と想いを交わすことはできない。愛していると口にすることすら私には許されない。私は産まれながらの道具だ」 自嘲めいた笑みが少女の口元に浮かぶ。 「男に産まれたならば違う道もあったろう。いっそ男装して男として生きようかとも思った。だが、私はもう男にはなれぬ」 少女の声が掠れ、青年は息を飲む。 「男にはなれぬよ。私は女でありたい」 「姫様……」 「道はあるさ。今、探っている。そのためには帝王学だろうが花嫁修業だろうが何だってやる。役に立つなら何だってな」 少女は椅子から立ち上がり、青年の側へ歩みよる。 背の高い青年を見上げ、少女は弱々しく微笑む。 「だから、そんな顔をするな。私は望んでこうしている。心配はいらない」 こつんと青年の胸に額を当てる。 「私は大丈夫だ」 青年の腕が少女の肩に近づき、けれどそれは触れる手前でぴたりと止まる。 しばらく躊躇し、青年は腕を下ろした。 「どうか、ご自愛下さい。ご無理はなさらぬよう」 青年の腕が近づく気配を感じていた少女はその腕が離れた瞬間に落胆の吐息をついた。 無理をしていないわけではない。 抱きしめて、この場から攫ってくれたなら、町娘のように素直に愛を語らうことができるのに。 きつく抱いてくれたなら、その時はただの女になれる。 女の幸せを手にできる。 「お前は……優しすぎるのだ」 攫ったところで現実は優しくない。 苦労するのは目に見えている。 王宮育ちの少女には外の世界は厳しすぎるだろう。 青年はそれがわかっているから、少女に触れることはしない。 それでも、二人で手を取って逃げることができたならと思わずにはいられない。 叶わぬ望みを胸に抱き、少女はしばしの間目を閉じて青年の腕を待つのであった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |