鬼を憐れむ唄・第二夜(非エロ)
シチュエーション


往来の多い大通りを歩いている。
正午少し前。通りは、大変な賑わいである。
昼時の食材を買いに来た主婦。母から使いを頼まれ、走ってゆく子供。
早目に仕事を切り上げ、飯にありつこうとぶらつく役人。
軽食屋の客引きの声。日雇いの仕事を探す者。昼間から酒精でも引っ掛けたか、やけに声の大きな者。
中にはその人の多さにかこつけて、懐を狙う不貞の輩も紛れ込んでいるようだ。
皇都エスタッドの大通りである。
その通りを、ダインは歩いている。
傭兵仲間の巨漢ヤオほどではないが、ダインもまた図体がでかい。
身長は六尺。かなりの長身だ。
これで、すらりと細身なら、他人の目にも見栄えも良く映るのかもしれないが、
あいにく無骨で鋼のような筋肉質に覆われている。
高さ自体は人並み外れて、と言うほどに大袈裟ではない。ただ、幅のあるおかげで大きく見られることが多い。
大きく見られること自体は、何らダインに支障は無いので、自身も気にしていない。
むしろ、対峙した相手を恐怖させる効果があるなら儲けモノ、と思っている節がある。
しかし、人混みは苦手だ。
よくぶつかる。
戦場で獲物を振り回し、力任せに薙ぎ払う行為は得意な彼でも、細やかな動作というものは身についていない。
今も、人の多さに閉口していた。

「体のでかさも、仇になるものなのだな」

妙に感心した声が不意に背後から聞こえて、ダインは振り返る。

「……お嬢じゃねェか」
「上官と呼べ」

振り返った視線の、頭二つ分下にあった顔を見つけて彼が呟くと、
口調ほどには気にした様子も無くミルキィユが応えた。

「なんだ、随分こざっぱりした格好してるんだな」

遠慮と言う言葉はダインには無い。
じろじろと上から下まで、目の前の少女の姿を睨め回し、

「もっとこう、女女な格好してるもんじゃないのかね」

割と本心からそう言う。
戦場では知る由も無かったが、皇都に戻ってきてから、それとはなしに耳に入ってきたのは、
「鬼将軍」と呼ばれるミルキィユの噂だった。
曰く、実は将軍職だけではなく現皇帝の異父兄弟である、とか、
曰く、有能なその仕事ぶりの割に、皇帝取り巻きからの風当たりは強い、とか。

「着飾るのは性に合わない」

そう応えたミルキィユの格好は、確かに質素である。
戦場で常備している鎧金具を身につけていない分、ずっと質素だ。
細身の体の線が、浮き彫るような黒の鎧下。朱色のサッシュ。手袋。皮の軍用ブーツ。
目立つ大剣は背負っておらず、代わりに細工の施された細剣を腰に挿しているのが、唯一の装飾品と言える。
実にそれだけなのだ。

「供の一人もつれていないのかアンタ」

辺りにミルキィユ以外の誰もいないことを確認して、ダインは首を傾げる。

「将軍様なら、こう、もっとお連れの部下がいるだろ」
「残念ながら人望がなくてな」

ずけずけと物言うダインの言動に、全く気分を害した様子も無く、

「貴様がお供で付いてくるか?」
「お断りだね。俺ァ単独行動が好きなんだ」
「冗談だ」

肩を竦めてミルキィユは応えた。

竦めた肩に、糸のように長い髪が纏わり付く。それを面倒くさそうに後ろに流し、では、と彼女は手を上げる。

「邪魔をしたな。見かけてつい、からかいたくなった」
「……誘い文句にゃまだ日が高すぎらァな。アンタ、飯は済んだのか」
「まだだが?」
「じゃあ、」

付き合えよ、そう言ってダインは、手近な飯屋の看板を指し示す。

「俺もまだなんだ」

にぃ、と笑いながら入り口に進んだ。


うまそうに飯を食う女が、ダインは好きだ。
女らしさと言うものなのかもしれないが、上品ぶって、やたらと食べる時間が長い女は、余り好みではない。
単に、短気な性格なのかもしれない。
熱いものは熱いうちに頬張るのが、自身好きなせいかもしれない。
お近づきになった女と、飯屋に足を運んだはいいが、
料理の原型が判らないほどに、細切って食べるのを見て、萎えた事もある。
自分勝手な性分である。
好みの問題なのだから仕方ない。
目の前の少女は、実に幸せそうに、運ばれた料理を食らっている。
感心したようにダインは眺めていた。

「どうした。冷めるぞ」

あまりにぼんやり眺めるものだから、流石に気づいてミルキィユが顔を上げる。
怪訝そうに眉を寄せている。

――無自覚か。

腹の中で呟いてみた。

「……いや。うまそうだなと思って」
「なんだ。一口食べたいのならそう言え」

そう言って、皿をダインに寄越してみせる。

「いや……そうじゃなくて」
「?判らん奴だな」

僅か高めのアルトが、耳に心地よい。
傾げた首は、折れそうなほどに細い。
粉をはたき、紅の一つ注してなくても、涼やかな女気は隠せない。
今になって思えば、どうしてあの時、目の前の少女を男だと思い込んでいたのか、自身不思議だった。

「腹でも痛いのか?」

頬杖付いて思わず考え込むダインを、半ば本気で心配したのか、ミルキィユが向かいの席から覗き込んだ。

「いや……、」

途端、わっ。と。
喚声が沸いた。
狭い店内である。
もちろん二人も振り返る。
20人も入れば、溢れかえってしまう店の入り口付近で、どうやら小競り合い。
給仕の娘が盆を胸に当て、身を竦めて立ち尽くしている。
目の前には赤ら顔の兵士が二人。
腹を押さえ、床にうずくまった店主。
酔った兵士が女に手を出し、諌めに入った店主が蹴倒された様子だった。
辺りの客の多くは、野次馬根性で眺めてはいるものの、助太刀する手合いもいない。
下手に手を出して、酔った頭に油を注いでしまっては、余計厄介なことになりかねない。

「なんだァ?」

うっそうと呟き、しばらく様子見を決め込もうとした、ダインの横をすぅと通り過ぎる白い影。

「ってオイお嬢……!」

止める暇もなかった。
引きとめかけた指は宙を掴む。
そのまま、ミルキィユは恐れ気も無く兵士二人に近づくと、
いつの間にか手にしていた水差しの中身を、彼らの頭上に盛大にぶちまけた。

「冷てェェ……ッ」
「何すんだこの野郎!」

怯えた娘に手を伸ばしかけていた二人は、殺気立ち振り向く。

「この大馬鹿者共」

乱杭歯をむき出す男達に、顔色一つ変えることなく、ミルキィユは凛と言い放つ。

「嫌がっているだろう。放してやれ」
「なんだてめェは」

顔色変えた男達は、水を掛けた相手が小娘一人だと気付き、たちまち下卑た笑いに代った。

「随分と可愛らしい助太刀だなァ?」

先刻のダインとは違う意味で、上から下まで彼女を睨め回す視線。
ミルキィユは平然と立っている。
と言うよりは呆れ顔である。

「……姉ちゃん、俺らは別に苛めてた訳じゃないのね?ちょっと外に出て俺達とイイコトして遊ぼうって」
「……よく見りゃ姉ちゃんもまぁまぁの体付きしてんじゃねェか。お兄さんたちと遊ぼうぜェ」

にやにやと口の端を歪め、給仕娘はどこへやら、
照準をミルキィユに定め直して、彼等は腕を、細い体へと伸ばしかけた。

「つまらん連中だな」

迫る腕に恐れる風も無く、大胆にもミルキィユは、欠伸と共に小馬鹿にした。

「……んだとォ……?」
「台詞がありきたりすぎて笑える」
「……このアマ……ッ」

にやけた笑いから、怒りの表情に置き換わった彼らが、彼女の胸倉をつかもうとした瞬間、

ばしり。

と、しんと静まり返った店内に、小気味よい音が響いた。

「いっ……てェェ……」
「ダイン」

兵士二人の呻きに、そこで初めて、困惑を含んだミルキィユの声が被さる。
抜きかけた細身の剣を見止めたダインが、即座に席を立ち、自身の短剣で二人を打ち据えた音であった。
もちろん、鞘は抜いていない。

「店内で刃物沙汰は、ちょっと物騒だろお嬢」

薄く笑ってみせる。

「まァ、アンタなら峰打ちさせるつもりなんだろうが」

む、と彼女が口を噤んだのを確認し、

「なんだったら俺が相手になんぜ」

隣に並ぶと、床に転がった二人を見下ろす。

「……畜生……なんだ、男連れだったのか!」

後頭部を抑えた兵士二人は、痛みに涙を滲ませながらぼやいた。
生意気な口を利くのはともかく、非力な小娘一人ならまだしも、
壮年の男連れでは、例え酔っていても勢いというものが違う。
更にその男が、物騒な笑みを浮かべた巨躯であったなら。
そして腰に挿した長剣と、今手に持つ短剣の使い込まれ具合を、酔眼でも尚確認したなら。
二対一であっても、ダインのほうが格が上、と判断する能力はまだ持ち合わせていたのか、
覚えていろ。
最後までありきたりな捨て台詞を吐いて、兵士二人はぎらついた目でダイン達を睨み、
だがそれ以上手を出してこようとはせずに、唾を吐き捨て、店を出て行った。

「すごいな。どこもかしこもベタすぎる」

ミルキィユは、ぱちぱちと瞬いて妙に感嘆している。拍手もしそうな勢いだった。
凍っていた店内に、やがて息を吹き返したかのように、音が戻ってくる。
皇都では、酔った兵士の絡んだ喧嘩事など、日常茶飯事だ。

客もそれに慣れている。
何事も無かったかのように、食事を再開するもの。
丁度いいタイミングと、勘定を支払い、席を立つもの。
ひそひそとこちらを眺めながら、何事か囁いているもの。
おそらくはダインか、もしくはこの勝気な少女の正体を、耳にしたことのある者なのだろう。
見るとはなしに、彼は店内をぐるりと眺め、大きく息をつく。
表に出て一戦するかと踏んでいたので、多少拍子抜けしたせいもある。
一方ミルキィユは、蹲っていた店主に手を貸し、立たせてやり、しきりに感謝された。

「良かったな。将軍様の株は上がるぞ」

先に、席に戻っていたダインがそう揶揄してやると、少女はにっと笑う。

「この程度で上がる株なら、苦労は無いな」

飄々としたものである。
鼻に掛けることもない。
大いにダインは気に入った。

「だが」

腰を下ろし、再び料理に手を伸ばしかけたミルキィユの、不意に煌かせた眼光は、猛禽類のそれである。

「手出しは無用だった」
「……あん?」
「アレは皇帝軍の将校クラスだ」
「すげェな」

そうダインが呟いたのは、酔った兵士二人の身分に感心したからではない。
皇都の人口は、併せておよそ三十万。内の二割が職業軍人という大軍事国家である。
それだけ近隣の国々が安定しなかったとも、未だ大陸を制覇する力を持つ一国が無いとも言える。
どこの国も、起興から終焉までを戦いに明け暮れて過ごしていたのだ。
そしてそれは、大国と言われるエスタッド皇国もまた、例外ではない。
二割の六万。
もちろん、全ての人数が皇都に結集することは、まず無い。
それぞれ小分けに分類され、各分都市や、山塞に居を置く。
皇都に寝起きしている者は、そのおよそ三分の一ほどだろうか。
それにしても大変な量である。
戦争時の全体数が、では無い。
職業軍人とは。その名の通り、平素より軍職に就いているものを示す。
で、あるから無論、いざ事が起これば、更に人数は増える。
傭兵を雇う。国民より徴兵を募る。同盟国と連絡する。
皇国の強さは、戦略ではない。虱潰しの質より量、である。
正攻法でもあった。
そして、軍人が多いと言うことは、その統制されているそれぞれの部署の数もまた、多い。
人数が集まっても、それでまとまりが無ければただの雑兵群である。
うまく統括できるようにまとめるのは、至難の業なのだ。
事細かに分類されていた。
最高位が元帥。その下に上級将、さらに中級、下級といった具合である。
因みに、ミルキィユはその中の下級将に入る。
ただしこれは、叩き上げた才能ゆえではなく、多分に、皇帝の異父兄弟である、身分からの職位であろう。
鬼将軍の噂が芳しくないのは、その手腕ではなく、そう言ったやっかみのせいだと、ダインはふんでいる。
軍人ほど、上下関係や肩書きを気にかけるものも無い。
けれどミルキィユにおいては、戦いの勘は天賦のものがあると、先日の戦ぶりをみて彼は思っている。
いずれは周りも、その才能に口を挟むこともなくなるだろう。
何しろまだ、若いのだ。

それはさておいて。
つまり、人数に比例して、やたらと数が多い。
将軍職からしてみれば、部隊長と言う下の下の下の存在の顔触れを、
ミルキィユは、事細かに覚えているということなのだ。
並外れて記憶がよいのか、日頃人一倍の努力をしているのか。

――きっと後の方なんだろうな。

ダインは一人ごちた。

「面倒なことになりかねない」

ミルキィユの言っているのは、雇われ兵である傭兵と、職業軍人との衝突があるかもしれない、という危惧だ。

「まぁ、」

同じく料理を掻き込みながら、ダインはにやと笑った。

「そうなったらそうなったで」

捻じ伏せるさ。
肩書きの無い彼は、気楽なものである。
なにせ、目の前にある出来事が全てだったから。
案の定、そんなダインを眺めて、ミルキィユはやれやれと溜め息をつき、
それから、唐突に、慌てた動作で服の隠しをまさぐって、

「大変なことに今気付いた」

酔った兵士二人を目前にしても、変えなかった顔色を青褪めさせて、彼女は彼に耳打ちする。
深刻な表情である。
つられてダインも身を乗り出した。

「……なんだァ?」
「持ち合わせが無い」

本気で慌て始めるあまりのギャップに、
込み上げた爆笑と共に、ダインは噴飯し、たいそう彼女の顰蹙を買った。


男が室内を歩いている。
品の良い調度に装飾された、全体的な色調は薄灰色の、しっとりと落ち着く部屋の中である。
絨毯の毛足も、踝までめり込むほどに深い。
足音を感じさせることの無い部屋である。
見る目があるものが見れば、かなりの金額がかけられていることが判ったろう。
その中を、落ち着き無く、歩き回っている。

「……陛下」

苛立ちを低く抑えたような、相手の返事を促すような、
けれど、失礼のない程度には敬意を滲ませた、絶妙なバランスで、男が苦々しげに何度目かの問いを口にした。
返される視線は、やはり何度目でも同じ事で無言。

「考え直してはいただけませぬのか」

なじる。
男は皇軍の一上級将である。
午後も半ば過ぎ、あと少しで今日の仕事も終了、と言うところで部下から苦情を受けた。
街中で、傭兵と皇国兵士が小競り合いを起こした、と言うものである。
いつもなら捨て置く。
小競り合い程度に、いちいち首を突っ込んで仲裁していては、身が持たないからである。
面倒くさい。
聞き捨てにならなかったのは、その騒ぎの中に、どうやら例の女将軍が紛れていた、と言うことだ。
彼女を糾弾するには、もってこいの機会である。
男は、彼の将軍の存在を認めていない。
部下の報告に喜んで耳を傾けた。
大きな声では憚られるものの、同僚各位に女将軍についての悪評を、流布するときもある。
実務経験とか、能力の有無とか、若いとか、そんな理由はこの際どうでもいい。

――女の癖に小賢しい。

男権の世界に女がいるのが嫌だ。
とことん気に食わないのである。
ある種の逆恨みにも似ている。
できることなら、苛め倒して今の地位から追い払いたい。
しかし面と向かって彼女へそう告げるのは、風聞もあるし、彼女そのものの肩書きがそれを許さない。
皇帝と異父兄弟。
仲間内、酒に酔ったついでにグチを垂れるしか、発散方法が無い。
ゆえに、揚げ足は、取れるときに最大限、取るに限る。

「こちらとしても困るのです」

幸い男は、皇帝への直言可能な肩書きを持っていたから、

「ミルキィユ将軍御自ら、我が軍の規律を乱されては、下にも示しが付かんでしょう」

豪く困った顔をして、目の前の皇帝を見やる。
片肘を執務机に凭れさせ、煙った視線が外を眺めていた。
心ここにあらずの態であった。
男は聞こえない程度に、小さく舌打ちする。
エスタッド皇帝。
その名と、風体がここまでずれている人物も珍しい。
陽に透かすと、蜘蛛の糸にも似た金糸が、白磁の頬を縁取り、それは柔らかに渦巻いて床へとなだれ落ちる。
柳眉。
ともすれば伏せがちな睫は女と見紛う程に長く、切れ長の眦までも淡く覆う。
通った鼻梁。薄い、血の気を感じさせない硬質の口唇。
うすものを羽織った細い肢体が、物憂げに椅子に深く沈む。
どこもかしこもまったく作り物じみている。妖艶な陶器人形にも、似ている。
絶世の、との賛辞がまさに似合う容貌なのである。
仮に。
隣接しあう国へ献上品として差し出されていたなら、たちまち国王は虜となったろう。
妓館にいたなら間違いなく、国一番の、と前置きが付いたはずである。
数多の粉黛も霞む。
傾国の美女と言っても差し支えない。
もし、彼が女であったなら。
皇帝は、男であった。

「……私に、どうしろと言うのだね」

沈黙を破って不意に室内に声が響く。
不機嫌な声色である。
薄氷が砕ける寸前に、震え打つ音にも似ている。

「ですから。はっきり申し上げますと、ミルキィユ将軍は、我が軍における風紀の乱れの原因にもなると思」

言いかけた言葉が途中で遮られる。
皇帝が、刹那男を直視したせいだ。
冷え切った薄茶のガラス玉がまともに男を貫いた。
明らかに、殺気が混じっていた。

「で?」
「……え、ですから、その」

次の瞬間には、すぐまた視線は伏せられていた。
促され、しかし男は言葉の続きを失い、戸惑う。

「君の言葉をまとめると」

皇帝が、深く沈んでいた椅子から身を乗り出し、真っ直ぐに男を見た。
起こった微風に、片袖がひらひらと風に揺れる。
左肩口より、中が無い。
かたわなのである。

「君の直属の部隊の部下である将校が、昼日中から職務中というのに飲酒行為に及び、
市民に迷惑をかけた際に、そこに居合わせた、ミルキィユ第五特殊部隊下級将軍が、
怪我人も出さずにその悶着をうまく取り収めたと。
そして君としては、自ら部下を律するべき立場にありながら、他部隊の将軍の手を煩わせてしまった。
それにたいして、君は大変申し訳なく思っており、
本来ならば例え微罪とは言え、軍法会議にかけると共に、君の、部下への教育指導態度を、
改めなおさなくてはならない立場にありながら、現在は多忙ゆえにそれはなかなか難しい。
仕方が無いので、物事の前後こそ異なるが、こうして私の許に謝罪しにやってきたと。
できればくれぐれも、彼女にはよろしく伝えて欲しい。本当に感謝している。
……そういう解釈でいいのかね」
「……は、」

皇帝は指折りながら、静かに、しかし一気にまくし立てた。

実は、悶着のあったことは陳情したものの、飲酒云々について、男は一切口に上らせていない。
報告した覚えの無い事実に、男は何度か口を開閉させ、

「な、何故それを」

ようやく声を絞り出した。

「いやなに」

微かに肩を落として首を振りながら、皇帝は薄く笑う。
獲物をいたぶる笑みである。

「君達からのミルキィユ将軍に対する意見が、あまりにもこのところ多いもので、
現在の軍職に、彼女を推薦した私の立場上、これは監督を怠ってはいけないと思ったのでね。
特に皇都に帰還している際は、それとなく彼女の行動を監視するように、私が直に手配した。
……そうだったね、ディクス」
「はい」

皇帝の最後の促しに、それまで陰に控えていた大柄な黒甲冑姿の男が、すっと足を踏み出す。
皇帝直属の護衛の一人である。

「……恐れながら、私が市井に出向いて聞き調べました。
店主、及びに事の発端になったと思われる、給仕女への質疑応答、
さらには騒動の起こった際、店内にいた客からの証言も取れております。
こちらに書類としてまとめてありますので、もしお疑いのようでしたら目を通していただければ」
「……ぬ、ぬ、」

ミルキィユを、不利な状況に追い詰めるつもりでやってきた場で、逆に自分の不備を指摘され、
男は歯軋りしながらも、唸るしかない。
下手をすると自分の地位が危うい。
嫌な汗が背筋に伝う。

「ところが、だ」

そんな男の様子を楽しげに眺めながら、皇帝は更に酷薄な笑みを浮かべた。

「念のために、問題のミルキィユ将軍にも、事の是非を問うてみたのだが、
これが、実に彼女はそんな騒動は一切起こらなかったと、そう言うのだよ。
確かに自分はその店を訪れはした、けれど話に聞くような事は何も起きていない。
普通に食事を済ませ、何事も無く店を後にしただけだ、
きっとその兵士が夢でも見たのではないかと、そうとしか自分には思えない、と。
……そうだったね、ディクス?」
「はい」

「と、言うわけでね。君の部下はきっと、連日の激務のために白昼夢でも見たと私は思うのだがね。
それを信じた君は、大変に部下思いの良い上司の鑑であるとは思うものの、
少し早計だったのでないかね。ここに来た分、帰っても仕事が残っているのだろう?
ご苦労だった。もう下がってもいい。大層楽しい物語だった

皇帝は、そう言い終えると、ひらと片手を振って、退室を促す。
物語、と称してこの件については不問にすると、暗にそう言っていることに男は気付き、
最初の勢いはどこへやら、我が保身が無事であったことに豪く安堵して、
敬礼もそこそこに、そそくさと執務室を後にした。

「……よろしいのですか」

しばらくしてから、ディクスと呼ばれた黒甲冑が、静かに問いかける。

「何をだね」

執務机に山と詰まれた懸案書類を、面倒くさそうに斜め読みしていた皇帝がやはり静かに返す。

「放って置いては、また有事の際に騒ぎ出すのが目に見えております。
ミルキィユ様の御為にもなりますまい。今のうちに、騒ぎの芽は摘んでおいたほうがよろしいのでは」

先程の男が聞いたら、卒倒したろう。
丁重な言い方とは裏腹に、ディクスは物騒な内容を呟いた。
それがねェ。
皇帝は早々にやる気をなくして、書類を放り出すと長く息を吐く。

「……実は、ミルキィユ自身が、放っておくことを望んでいるのだよ」

言いながら皇帝は立ち上がり、執務机へ背を向けた。
一枚ガラスの向こう、皇軍の演習の行われている中庭を見下ろして、僅かに口唇を緩める。
そこでは、女将軍が張り切って兵士と剣を交わせていた。
兵士達の士気も高い。
下の連中からは大層支持されていた。
彼女を気に食わない顔で眺めるのは、将校クラスの上官ばかりだ。
実力を実力と、素直に認める兵士達は、鬼と呼ばれる女将軍を慕っている。

「それは、」
「そして私も同意見だ。ああいう者はね、どんな形であれ、叩く対象が一つ目に見えてあったほうが、
他の部分に不満の種を抱えないですむ。そういう単細胞な生物だ。叩かれるのは致し方ない」

ガラス越しでも良く通る声で、ミルキィユが何か、剣術を指南している。
畏まって拝聴している若い兵士の顔は、憧れの将軍に直に指導されて、嬉しそうだった。

「保身を第一に考えるああいう者ほど、大軍を動かすときに必要なものは無いのだよ」

……それは武人であるお前にもよく判るだろう?
触らなば落ちん、の風情で、皇帝は視線を部下へと戻す。
まったく言動と容貌が一致しない。

「保身第一な者は、もちろん一撃離脱のような、芸の細かい用兵は期待できないが、
その分異常に慎重だ。病的なほど、と言ってもいい。
大軍を動かす際に必要なのは、戦略の奇抜さではない。凡庸であれば凡庸なほど向いている。
そして彼等は、その大役にぴったりと言うわけだ。手駒を減らす必要は無い」
「……切れ味の良い刃は、敵ばかりか味方も、傷つけることになり兼ねませんな」

――わたしは、陛下の刀になります。

遠く昔、耳にした言葉が蘇ってくる。

「そう言うことだ」

言って、皇帝は再び視線を中庭へ向けると、

「あれは強い。よく切れる」

ぽつ、と放った言葉はどこか憂いを帯びていた。
控えたディクスも、つられて外を眺めやった。
中庭ではミルキィユが、皇帝とその護衛に注視されているとも露知らず、
夕日を浴びながら、練習用の木剣を片手に、汗を流している。


同じ話題を別の場、別の時にしている。

「わたしは陛下に二度、命を救われているのだ」

どうせこの先、貴様もいつかは耳にするだろう。と、ミルキィユはそう言う。
結局、何故か次の日も、ミルキィユに付き合うことにしたダインである。
訓練を行っているから、顔を出すといい。
前日別れる際に、彼女がそう言った。
誘われたのを良い事に、持ち前の好奇心で、物見遊山がてら城の中まで付いていった。
普段は入ろうとも思わないものの、もし仮に試したところで、門前払い食らわされる城門も、
ミルキィユの通達があったらしく、敬礼と共に通過できるので、それだけは妙に小気味良い。
そのまま、行われていた午後の訓練とやらに、巻き込まれた。
最初はミルキィユが、稽古を付けてやっているところを、隅の方で暇そうに、ダインは眺めていたのだが、
午後の日差しに、うつらうつらし始めたのを見た彼女が、唐突に彼を紹介したのだった。

「ちなみにそこにいる男は、ダインと言う」

傭兵ダインの名は、皇軍間でもかなり有名であったらしい。
守銭奴の又名か、戦場の主の又名か、どちらで有名なのかは、ダインには判別できなかったが。
ああ、と物知り顔で頷くものが多い。

「貴様も訓練に参加だ」

鬼将軍、有無を言わさず強制参加だった。
渋々と重い腰を上げる。
眠い。面倒くさい。やる気がない。
けれど素振りの一振りもすれば、それは平和惚けた顔で半目になっている男ではなく、
獲物を追い詰めようとする、傭兵の持つそれである。
遠巻きに囲んでいる兵士が、あまりの豹変振りに、思わず後ずさった。
流石にミルキィユは動じない。じっと彼を見ている。
良い機会だから、ダインの実力を評価してやろうと言う魂胆も、見え隠れする。
ただし邪気がない。
楽しそうなのだ。

――まぁどうせ暇だったし。付き合ってやっても、いいか。

ぼりぼりと頭を掻いた後に、ダインはその、女将軍の容赦ない視線にはっきりと向かい合う。
両手に木剣を握っている。
戯れに似た喧嘩を、買う気になったのだ。
じっと見つめていたミルキィユが、にっと笑う。
彼の気の流れが変化したことを、的確に読んでいる。

――叶わねェなァ。

笑顔が眩しい。
逆行のせいだと、思うことにした。
やると決めたら、何事にも本気になるのがダインの癖だ。
大人気ないとも言う。
いつの間にか自身も随分楽しんで、気が付くと、既にとっぷりと暗かった。

「遅くまで悪かったな」

夜風に少女の髪がなびく。
既に兵士達は帰った後である。

「よい気晴らしになった」
「いや。こっちも楽しかったぜ。最近ナマってたしなァ」
「そうか」

笑う。

「アンタ……女のくせに、なんで将軍なんぞになろうと思ったんだ?」

その笑顔に、ふと思いついた疑問をダインは投げかけた。

「ふむ」

大きな瞳を瞬かせて、不意にミルキィユが声を潜める。
煌きに引きずり込まれそうな錯覚がある。

「聞きたいか」
「……聞きたいね」
「では、涼みがてら話してやろう」

そう言って彼女は先に歩き出す。
日の落ちた中庭を巡る回廊は、点々と篝火が焚かれており、歩く分には申し分ない。
少し後に続いて、ダインも彼女と同じくゆっくりと歩き出す。
火照った体には、寒風も心地よい。

「わたしが皇帝陛下と異父兄弟ということは、どこかで聞いたろう?」
「ああ」

ダインは頷く。皇都に帰還して一週間もこの都に滞在すれば、嫌でも彼女の噂は耳に入る。

「小さい頃はここにいなかったそうじゃねェか」
「そうだ。ここより馬でも二日ほどかかる場所の、小さな村で暮らしていた。

この都に引き取られたのは、そうだな。7つ……8つだったか」

「小せぇなァ」

返してダインは気が付く。
目の前を歩く少女は、今でも十分「少女」なのだと。
その語り口調と、落ち着いた物腰で、戦場では随分と大人びた雰囲気を醸し出しているが、
思えば未だ17歳の少女なのである。

「異母兄弟ならまだしも、異父兄弟だ。庶子でしかない。皇帝の血はまったく継いでいないのだからな。
だから、城内に部屋を貰うわけにも行かない。皇都の町外れに居を構えて、そこで暮らした。
今もそこにいるから、貴様も何か困ったことでもあったら、訪ねてくると良い」
「……何もなかったら、だめかね」
「え?」

なんでもない。
漏れ出た言葉に慌てて手を振り、ダインはミルキィユの話を促す。
おかしな奴だとミルキィユは笑う。

「わたしが12の時にな。前皇帝が逝去し、兄である陛下が皇位に就かれた。
或る日。引継ぎの混乱に乗じて、兄を快く思わない一派が、クーデターを起こしたのだ。
クーデターの首謀者は、取り巻きであったはずの兄の重臣一派。担ぎ上げた対抗馬は、わたしだった」

思わずダインはミルキィユを見つめる。彼女の背中はとても静かだ。
前を向いた表情がどうなっているのか、ダインには判らない。

「兄は、生まれてより心の臓に穴があるそうだ。強い体の持ち主ではない。病がちで良く伏せる。
激務には耐えられない皇帝は皇帝にあらず、などと余りにも馬鹿馬鹿しい看板を掲げて、
彼等はわたしを持ち上げたらしい。……らしい、と言うのは、愚かにもわたしは、事が終結するまで、
城内で、何が起きているのかも知らなかったと言うことだ。普段どおり、ままごとでもしていたか」

一陣の風が吹く。
吹き流された透質な髪が、夜空に乱れた。

「彼等はな。皇帝の玉座に詰め寄り、退位を迫ったのではない。
刺客を物陰に潜ませ、ひと思いに命を奪おうとしたのだ。結果としては暗殺には失敗。計画の漏洩。
あるものは国外に逃亡し、あるものは自刃し、またあるものは投獄された。
……ただし兄は、左腕を失った」

ダインは思う。
もとより心臓の弱いものが、大量出血を伴う重傷を負った場合どうなるか。

――簡単なことじゃねェか。

衝撃に耐え切れず、まず心臓が音を上げる。出血死以前に、ショック死しかねない。

「兄は死ななかった。生死の境を二ヶ月以上さまよった末に、それでも、」

ダインの声なき声を聞き取ったように、ミルキィユが低く囁く。

「……それでも。何も知らなかったとしても。
わたしと言う存在がいる限り、また、同じことが繰り返される可能性は、捨てきれないだろう?
事が収まった後に、周りはわたしを始末しろと兄に言ったようだ。災いの種は未然に排除しろと。
わたしはそこに至って、ようやく事の次第を知ったわけだったが、仕方がないと思った。
もともと、皇都に引き取られたのも、その時分まだ皇太子であった、兄の一言があったからなのだ。
その兄の命の安否に、わたしが邪魔であるなら、謹んで命を差し出そうと思った。
それが、命の恩人に報いるわたしなりのけじめだと、そう思っていた」

わたしは兄に二度、命を救われているのだ。
ミルキィユの小さな声は、風に溶けて消える。

「……お嬢、」
「兄はな。それらの忠言を全て退けたのだ。権力で捻じ伏せて、周囲を黙らせた。
普段、余り御自分の意見を主張するお人柄ではないから、周囲も黙るしかなかったようだ。
わたしはそれを聞いて、居ても立ってもいられなくなり、無理を言って兄に目通った。
どうか、わたしを殺して欲しい。邪魔にはなりたくない。言ったわたしに、兄は言った。
……”生きなさい”と。盾になるから、全てから守る盾になるから、生きなさいと」
「お嬢」

細い肩が小刻みに揺れている。
ダインは腕を伸ばしかけ、自重する。

「だから、わたしは誓ったのだ。生まれ故、わたしは決して兄の……陛下の盾にはなれない。
盾になれないのなら、わたしは刀になろうと。皇帝に牙をむくものを叩き斬る、刀になろうと」

ミルキィユは振り返る。
振り返った少女の頬は乾いていた。

「以上が昔々のお話だ。聞き応えがあったろう?」

笑う。

「お嬢、……アンタ」
「なんだ。深刻な顔をするな。三十路男が、陰気面ではこちらの気も塞ぐ」

そう言いながら、ミルキィユはぶるりと大きく身を震わせ、

「涼むつもりが冷えてしまったな。これでは風邪をひく」

眉を寄せるダインに向かって、咳払いをして向かい合った。

「今日はご苦労だった。体を休めてくれ」

僅か首を傾げて微笑む。
微笑を見て、ダインは初めて痛々しいと思った。
虚勢だ。

そう思った。
片肘を張り、大股で闊歩しないと、たちまち膝から崩れてしまうから。
快活に笑っていないと、すぐに涙が零れてしまうから。
柔らかな栗色の瞳の中に、裸足で泣いている小さな小さな子供が見える。

――コレは、危険だ。

眺めるダインの頭の中で、いつぞやの嫌な予感が鳴り響き、

「な、」

気が付くと、思わずその腕を引いていた。
華奢な体がダインの胸板に当たる。
一瞬だけ抱きしめた。
風に煽られて銀糸が舞い、それが元通り背中に流れる頃には、少女は腕の中より消えている。
弾かれたように数歩後ろに、ミルキィユが飛び退っていた。
痩せた野良猫の目をしている。
口唇を戦慄かせ、幾度か湿らせて言葉を選んだ後に、

「あまりわたしに関わるな」

掠れた声音で囁いた。

――コレは、危険だ。

見つめるダインの脳裏に、今一度言葉が走った。
風の中に、鬼がいる。






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