鬼を憐れむ唄・第三夜(非エロ)
シチュエーション


――俺ァ尻の青い餓鬼か。

思わず自身で突っ込んだ。
酒場で卓に突っ伏し、ダインは頭を抱えている。
抱えながらも、飲みかけの酒の入ったグラスを放すことはしない。
そこは酒好きの意地である。
孤独に管を巻いている。
もう片手には、朱の差したガラス細工の髪飾り。無骨な指で、けれど壊さないように握り締めていた。
皇都に戻って一息付くか付かないかの間に、すぐさまミルキィユの名で募兵の看板が掲げられていた。
もとより参加に否はない。
応募する気満々のダインだった。守銭奴傭兵と呼ばれる所以である。
金と命を、天秤にかけて金を選ぶ。
こればかりは面倒に感じる、登記だの面接だのを一応済ませて、晴れて明日出陣、と言うところまで漕ぎ着けた。
皇都の喧騒とも、しばらくの別れとなる。
運が悪ければ永遠の別れともなるだろう。
もしも、の状況をダインは考えない。
戦場で体が竦んでしまうのは困るだとか、
考えるという行為そのものが弱気の徴だとか、
出陣前からゲンが悪いだとか、
大層な理由はない。考えることが面倒くさいだけだ。
差し迫ったら行動する。
頭より先に、体が本能的に動くタイプであった。
獣に似ている。
であるから、明朝出陣の伝達を聞いても、特に高揚も感慨もない。

「明日か」

それだけ応えた。
しばらくは装備の最終点検に気を紛らわしていたが、不意に思い立ち、宿を出る。
妓館に行く気になった。
深い理由はない。
気が向いたから、それだけだ。
皇都エスタッドには、国の認可する妓館が数多く存在していた。
軍国家であったから軍人が多いのだ。
必然的に、男女の比率に大幅な差が出来る。男が圧倒的に多い国なのである。
国政として、妓娼を積極的に斡旋せざるを得ない。
問題を放っておけば諍いが起き、諍いは上への不満に発展する。
それでなくても路地裏を安心して歩けないようでは、皇都の民政に従事する役人の沽券にも関わる。
躍起になって推奨していた。
足繁く訪れるといった事はないまでも、独身であり男であるから、ダインもたまに利用する。
仲間の内には、契約金全てを女に散財しては、また戦場に出かける強者もいるらしいから、
ダイン自身はかなり淡白なほうかもしれない。
もっとも、そんな絶倫の傭兵仲間と、比べる事それ自体が間違っているような気もする。
興味がないわけではない。
ただ、それ以外全ての事柄においても、同じように興味がある、それだけなのだ。
移り気な性格というのかもしれない。
妓館の立ち並ぶ遊郭街は、彼が寝泊りしていた安宿から、少し離れた場所にあった。
夕暮れ時の路地を、ぶらぶらと歩いて行った。
夕飯の支度をしているのだろう、辺りの民家より、炒め物だの煮物だの匂いが宙に漂って、
鼻をひくつかせ、思わずダインは腹を鳴らした。
鳴らしたついでに目に留まったのは、小さな露天市だった。

淡い橙、ランプの光に照らされて、路地と路地の交差する小さな広場にいくつかの露店が軒を並べていた。
彼らもそろそろ帰り支度。
興味をそそられて、ダインは近づく。

「いらっしゃい」

気配に気付いて店の親父が顔を上げた。
何の気なしに覗き込むと、ガラス細工の髪飾り。ちりちりと光を反射して、豪く綺麗だった。
銀細工や金細工と比べると、強度こそ劣るものの、商品価値はかなり高い。
ガラスそのものが貴重品である。
王城や豪邸ならばまだしも、そもそも民家にガラス窓はない。
吹き通しの石枠に、紗を張って光を取り入れていた。
気軽に手に入る品物ではないのだ。

「イイ人にひとつ、兄さんどうだね」

親父の言葉に乗せられて、ダインはしげしげと細工を眺める。
前回の攻城戦の契約金は、そのほとんどがまだ懐にあった。使う暇がないままに次の戦いに行くからとも言う。
一つ二つ買ったところで、そうそう財布の痛むものでもない。
どうせ妓館に行くのなら、いっそ絶倫仲間の真似をして、女の歓心を買うのも悪くはないか、と思いついた。
大柄な体を窮屈に屈ませて眺め回す。
細工の柄は様々で、黒い薔薇。白梔子。紅木蓮。
じっと眺めているうち、自身でも気付かないままに、選ぶ対象が変わっていた。
妓娼はどこかに消えている。代わりに脳裏に浮かんでいたのは、折れそうに細い首。
あの髪に、よく合う色を探していた。
ふと見やると、寒天質のガラスに閉じ込められた、一筋入る赤が目に鮮やか。赤と言うよりは、朱。

――似合うだろうな。

手に取っていた。

「気に入ったかい」
「この、」

花は。
小指の先程の小さな花弁が、幾重にも寄せ合った模様。
必死に集まる形が、何故か少しだけ淋しそうで、ダインの中でそれが少女の姿と重なった。

「エンゼルランプさ」
「ふぅん」

ダインはその花の名を知らない。
けれど確かに、赤の小さな鐘形は、ひとつひとつはランプにも見えた。

「……ランプねぇ」
「そうさ。花ってのはね、一輪ずつに意味があってね。女ってのは意外にそういうのも気にするのさ。
イイ人にあげるなら尚更だ。”大嫌い”なんて意味を込めた花を贈っても、嫌われるだけだよ」
「ややっこしいモンなんだな」

首を捻る。
風の中に見たあの鬼は、花の意味を知っているだろうか。
彼にとって花と言えば、ひとくくりに綺麗なもの、程度の意味しかない。

「ちなみにこれァ、どう言う意味なんだ」

興味本位で尋ねていた。

「ああ……その花の意味は、」

そして今に至る。

――どうする。

盛大に溜息をついていた。
力強いその肩も、心なしか落ちている。
右手を酔眼の前に持ち上げる。薄暗い酒場の明かりに透かしてしげしげと眺めてみる。
透質なそれは光も透過し、果敢ない影をダインの頬に落とした。

「陰気臭ェぞオイ」

頭上から声が降る。
ゆっくりと視線を上げると、ダインを見下ろしている巨漢の姿が視界に入った。

「ヤオ」

「陰気臭ェってより、どっちかっつーと乙女臭ェな。
思わせぶりな溜息つきながら、手酌酒かっ食らうなんざ、どっかの奥方か、深窓の姫君に恋でもしたかよ」

上機嫌で向かいに腰を下ろす。

「まァ……当たってるような外れているような……」

曖昧な笑みで応じながら、ダイン。聞いてヤオが目をむいた。

「待てよオイ。守銭奴が恋なんざ、臍が茶沸かすどころか、明日は雪が降るぜ?」
「うるせェよ」

今は一人で管を巻きたい気分なのだ。
しかし、誰かに愚痴を垂れながら、呑んだくれて潰れてしまいたい気もする。

「あのよ」
「なんだよ」

脇の椅子を引き寄せ、その上に横柄に足を投げ出しながら、

「こう……棘の付いた高い鉄柵の向こうに、豪く綺麗な花があったとするだろう」

ダインは不貞腐れた声を出した。
巨体に似合わず、意外に細やかな性格のヤオは、普段と違うダインに付き合う気になったのか、
本格的に腰を据え、手持ちの瓶から彼のグラスに盛大に酒を注いだ。
勢いよく、酒が卓上に溢れる。

「花がどうした」
「だからよ。花がよ。目には見えて、手を伸ばせば届きそうな位置にありそうで、
その実怖い番犬か何かが見張ってやがって、入れない庭に、花が咲いているとするよ」
「……お前、花泥棒でもするつもりか」
「違ェよ……」

ある種の、花泥棒であるような気がしなくもなかったが、

「例えだよ例え」

不機嫌に訂正した。

「……入れない庭に花か」
「そうだ」
「絶対に、入れない庭に花か」
「そうだ」
「それはどうしても手に入れたい花か」
「……そうだ」
「そうだなァ」

俺なら。
酔ったダインの、けれど真剣味を含んだ眼差しを感じたのか、ヤオは腕を組んでうう、と唸る。
向かいでダインは酒を呷った。
しばらく、天井を染みを眺めて悩んでいた巨漢は、やがてぽつりと、

「俺ァ多分、見ているだろうなァ」

そう言った。

「……見てるのか」

聞いてダインは鼻を鳴らす。

「見ているな」
「……手に入らねェんだぞ」
「でも見ているな」
「……指咥えて、見ているだけしかできねェんだぞ」
「でも見ているな」
「どんなに喚いても、駄々捏ねても、地団太踏んでも、絶対絶対取れなさそうな花なんだぞ」
「それでもきっと、喚いて、駄々捏ねて、地団太踏みながら、俺ァ見ているだろうな」
「そうか……」
「……どうしたんだいきなり」

押し黙りかけるダインを本気で心配したか、向かいの席からヤオが身を乗り出す。
そんな腐れ縁仲間に、薄く笑って返しながら、ダインはもう一度ちらりとガラス細工を見た。
透明な氷の真ん中に、囚われる朱色の花が見える。

真夜中を回っていた。
歓楽街も流石に灯を落とし、街は全体静まり返っている。
店仕舞いだと酒場の店主に追い出され、今更妓館に行く気も失せて、当てもなく酔い覚ましぶらついて、
気付くと屋敷の前にいた。
やがてもうすぐ朝が訪れる。
ダインは立っている。
中心部からはかなり外れた、街外れの屋敷の前に立っている。
寝静まった街と同じで、屋敷も静寂に包まれていた。
仮に彼が呼び鈴を鳴らしたところで、侍従すら起きて来ないと思えるほどに。

――ならす、つもりもねェがね。

低く呟く。
予想以上に――或いは以下に――屋敷は豪く小ぢんまりとしていて、この家の主人の気質そのもののようだ。
使用人の数も少なそうだった。
あるいは、あの様子だと一人で暮らしているのかもしれない。
そうも思う。
明日出立の準備を整えて、きっとこの女主人は早々に眠りに就いたのだろう。
隣国の敵将と、対等に戦えるように。
部下である各将校に、何も言われないように。
そして刀となって、縦横無尽に働くために。
俯き、握り締めていた指をそっと開くと、ガラス細工がちりちり光る。
その花の意味はね。
聞いて思わずぎょっとした。
無意識に、似合う色を選んだだけだった。
あまりにも、的確に己の有耶無耶な気持ちを言い当てたから、薄気味悪くも思った。
それから、
少女に対する感情を、仕方無しに認めようと諦めた。

――惚れた、っていうのかね。

胸のうちで繰り返す。認めようと諦めながらも、往生際が悪い。自身よく判らない。
17の彼女と30の自分。
将軍の彼女と一傭兵の自分。
皇女の彼女とただの男の自分。
手に入らないにも程があると、苦笑する。自嘲だったかもしれない。
遮光された寝室の窓を見る。
小石でも投げつけて窓枠に当てれば、少女はきっと目を覚ます。
呼び出す口実はこうだ。「ちょっと困ったことが出来たから」。
非常識なと、呆れて怒り出すだろうか。
それとも彼女なら笑って聞いてくれるか。
ダインは一人肩を竦めた。
少女の顔を見た瞬間、自分は何も言えなくなりそうで怖い。
幾多の戦場を潜り抜けた自分が、
時には敵を、嫌と言うほど屠ってきた自分が、あまりにも臆病だ。
それは、確信である。

――起こす、つもりもねェがね。

もう一度呟く。
砕かれないように慎重に場所を選んで、玄関先の植え込みに、髪飾りを置いた。
置いた端から光が零れて、夜気に溶けて立ち昇る。
その花の意味はね。
思い切りがついたように、一度大きく深呼吸すると、
踵を返し、残り僅かな睡眠を貪るために、安宿の寝床に向けて大股で立ち去った。
取り残されたエンゼルランプが、星を映して静かに揺れる。

「あなたを守りたい」

エンゼルランプの花の意味だと親父は言った。


わたしの生まれたむらは、小さなむらでした。
皇帝へいかのいる都より、馬で走っても二日はかかると、母さまは教えてくれました。
ちずを開いてみても、名前がのっていないほど、ほんとうに小さな小さなむらだったのです。
そのむらに、わたしは母さまと二人で暮らしていました。

父さまはいません。
じこでいのちを落としたのだと、母さまはいいます。
そうお話するときの母さまは、とても悲しそうなので、わたしはそれ以上聞けません。
けれど、聞くひつようもあまりないほど、わたしはしあわせに暮らしていました。
とても優しい母さまと、とても優しいむらの人たち。
けっして裕福ではなかったけれど、飢えたことはありません。
母さまといっしょに畑をたがやし、種をまき、糸をつむいで、はたを織り、
ささやかではあったけれど、たいそうしあわせだったのだと思います。
ある晩。
今まで聞いたこともないような、母さまのとてもとてもこわい声におどろいて、目が覚めました。
起きて、ますますおどろきました。
鬼のようなかおをした母さまが、家の戸口に立って、わたしをよんでいるのです。
母さまのうしろ、開けはなされたとびらから見える、赤くて黒い光景です。
なにが起きたのか、わたしにはわかりません。
けれど、なにかとんでもなく悪いことが起きた、それだけはわかっていたように思います。
こおりつくわたしに、母さまは一歩一歩ふみしめるように近づき、
それから、のこぎりで切られた木が、ひめいをあげて倒れるように、
ばったりと倒れてしまいました。

――母さま。

とび起き、近づいたわたしのうでを、母さまはそれは強い力でにぎり掴んで、

――にげなさい。

そう言うのです。

――にげなさい。

そして母さまは動かなくなりました。
優しかった母さまの白い首に、一本の矢がささっていることに気づいたのは、
ずいぶんと、母さまをながめていたあとだったと思います。
ふしぎと涙はでませんでした。
涙のながす理由まで、わたしはたどりつくことができませんでした。
しばらくしゃがみこんでいて、そのあと、立ち上がると、
母さまの、ざらざらして、けれどあったかだった手のひらは、するりとはなれてゆきました。
母さまは、二度と動きませんでした。
あたまの中は真っ白でした。
なにが起きたのか、やっぱりわたしにはわかりません。
真っ白なまま、母さまの立っていた戸口に近づいてみると、
あいかわらず外は赤くて黒くて。
そうです。むらは、燃えていました。
ごうごうと、とてもおそろしい音が、真っ黒な空いちめんからとどろいて、
赤いような白いような火のこが、はらはらとまるで雪のようにふってくるのです。
それはなぜか、おそろしいはずなのに、とてもきれいな光景でした。
どこもかしこも、燃えていました。
両どなりのおじさんとおばさんの家も、
ようきなパン屋さんの家も、
気むずかしい学者さんの家も、
大きな犬をかっていた肉屋さんの家も、
みんなみんな、燃えているのです。
外にでても、だれもいません。
もしかすると、みんな、母さまのように、動かなくなってしまったのかもしれません。
四方を炎にかこまれて、わたしはどこにも行けませんでした。

――死ぬんだ。

そう思いました。
母さまの死んだときといっしょで、こわくはありませんでした。
かなしいと思う心が、なくなってしまったのかもしれません。
ただ、とてもあつくって、苦しくって、気がつくとわたしは、袋小路に立っていました。
後ろは炎でいっぱいでした。

前も炎でいっぱいでした。
わたしはもうどこにも行けません。
目の前に水の入った甕がありました。
わたしは思わず、その甕に頭をつっこんで、
その甕に頭をつっこんで、
その甕に、


愕然と目を見開く。目の前に横たわるものは闇。
呼吸をすることも忘れて凝視した。
しばらくは、かっと目をむき、闇を凝視し続ける。肢体が硬直して言うことを聞かない。
遅れて玉の汗が噴出す。伝う。頬を、こめかみを、目尻を。
目元を伝う水滴が涙にも思えて、乱暴に瞬きしようとする。動かない。
汗が酷く沁みた。
恐る恐る吐く息が震えている。
こわい。
体が震えだす。
神経がささくれているのが判る。
挑むように、目を逸らすこともできずに、目の前の虚無を睨み続けた。

――夢。

ようやく起き上がれるようになった頃には、かなりの時間が経過していた。
起き上がる。纏わりついた髪を無造作に流す。
全身が冷え切っていた。
両腕で自身を抱きしめるように立ち上がった。
白々と空が明け始めていた。もうじき、朝が来る。

――夢。

未だに強張る体を無理矢理に動かして、枕元の水差しに手を伸ばした。
グラスに注いで一息に飲み干す。渇いた喉が引き攣れる。

「夢」

声に出して呟いてみた。
室内に声が空しく反響し、それでようやくミルキィユは長々と溜息とつく。
溜息をつくと、不意に笑いが込み上げ、彼女は一人くつくつと肩を揺らす。
いやな夢を見ていた。
昔の記憶だったかもしれない。よく覚えていない。
不穏な悪夢は、朝の訪れと共に部屋の片隅へ、追いやられていったようだった。
だから彼女は、朝が来るまではなるべく四隅を見ない。
夢が残っていたら困るからだ。
不自然に目を逸らして室内を歩く。硬い石床に靴底が当たる確かな反動。

――これは、夢ではない。

ゆるく首を振った。

「馬鹿馬鹿しい」

未だ寝惚けている己の意識を鼻で笑って、窓辺による。光を浴びたかった。
遮光布を引く。
だが外は、ミルキィユが期待したよりもまだ薄暗い。朝日が昇るのはもう少し後になりそうだった。
それでも窓から身を乗り出して、外の空気を胸いっぱいに吸い込む。
ようやく闇の残滓が体から抜けてゆく気がする。
そのまま目を閉じて幾度か深呼吸し、
開いた瞳に、ちり、と輝きが反射する。頭をめぐらせる。
玄関脇に、その反射するものが置かれていることに、ミルキィユは気付いた。
好奇心が湧く。勢い窓から飛び降りる。どうせ、咎める者もいないのだ。

植え込みに近づき、しげしげと眺め下ろした。
ガラス細工が薄明かりに光っている。

「ふむ」

落し物ではないように見える。
意図的に、ここに置かれたものである。
頬に手を当て、しばしその送り主を思った。
最初は兄かとも思ったが、彼ならば、こんな無粋な送り方はしないだろう。
時と場所を、最大限に利用するだろうと思う。
根性は悪いが、センスだけは良いのだ。
けれど、そもそも互いに贈り物をする間柄ではない。
部下の誰か。
そうも思ったが、上官である自分に、
例え無記名だろうと、そのまま、剥き出しのままで置いてゆくだろうかとも思う。
手にとって眺める。
可愛らしい細工物だった。
透明なガラスの中に、幾房かの朱の花が吹き込まれていた。
ミルキィユは首を傾げる。
見覚えのある花のような気もする。確か、城内にこんな形の花があった気もする。
名は知らない。
誰もいないのを良い事に、髪に挿してみた。口唇がほころぶ。飾り物を貰ったことなど一度もない。
ちり、と微かな擦過音が、明け方の空気に透って鳴った。
その音に満足して、彼女は部屋へと引き返す。
紗を閉めると、冷えた褥に横になる。掛け布を被って体を丸めた。
掛け布の遮蔽された空間の中、もう一度、贈り物を手に取って、眺める。

――誰だろう。

こんなにも、無骨で無粋で無神経な送り方をする送り主は。
ふと、脳裏をよぎる瞳がある。
息苦しいほど真っ直ぐに、無遠慮に見つめてきた瞳がある。
引き寄せられた胸板。

――まさか。

苦笑した。思い込みも甚だしい。
寝惚けているせいにした。
胸元に大事に抱え、胎児のように丸まって眠る。
あたたかい。
何故か酷く、安心した。






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