島津組3/十六夜慕情
シチュエーション


四季折々の花が咲く整備された美しい庭。
雑草一本生えていない芝生の間を縫って歩き、ようやくたどり着ける西洋風の白亜の屋敷。
ここは明治から続く旧財閥系の企業グループ総帥の屋敷。
そして凌一(リョウイチ)はそのお抱え庭師の息子だ。敷地内の北のはずれにある使用人たちの住む長屋の一室に、家族で住まわせてもらっている。
高校2年生だが、学校にはほとんど通っていない。家族と住む部屋に帰ってくることも少ない。
ただ数週間に一度、この家の末っ子である和花子(ワカコ)が全寮制の女子高から帰ってくる時を除いて。

和花子は屋敷に帰ってくると必ず、裏庭の奥にある小さな東屋に凌一を呼び出す。
東屋にはもちろん使用人は不要に立ち入ることは禁止されている。
子供の頃から庭師であった父親の仕事について手伝いをしていた凌一は、その東屋の庭に咲く花が好きで、たまに目を盗んでは花を見ていたのだ。
咲いている花は野の花で、初めて和花子に出会った時は蓮華草や白つめ草などの可憐な花が咲き乱れていた。
その周りを父が手入れをしている豪華な色とりどりの薔薇の垣根が囲んでいる。
幼いある日、父の仕事の手伝いが嫌になり、腹立ちまぎれに蹴飛ばした庭の彫刻が欠けてしまったのを見て青くなっていた時だった。
がさりと音がして、はっと凌一がそちらを振り向くと、そこには白いワンピースを着てふわりと髪を風になびかせている天使がいた。

「どうしたの?」

凌一に笑いかけるその声まで、鈴のような美しさだった。
結局、和花子が屋敷の主人に謝ってくれて事なきを得た。
その後にこっそり凌一を覗き見て、ぺろりと舌を出して笑った和花子に、どうしようもないほど惹かれていった。
この人のためならなんでもしようという本能が芽生えた瞬間でもあった。
それ以来、和花子はよく凌一をこの東屋へ誘い、ふたりでお茶を飲んだり本を読んだりとして過ごす。
凌一は父に内緒で和花子のために花を手折ってやり、欲しいものがあるといえば取ってきてやる。
和花子が優しい時間を凌一に与え、凌一は献身的な愛を和花子に注ぐ。たった数年の、穏やかな日々だった。
使用人の息子とあまりにも仲が良いことを屋敷の主人が懸念し、和花子は全寮制の高校へ入れられた。
残された凌一は、学校に通うこともほとんどしないまま父の仕事を手伝っていた。そのうちに荒んでいき、暴力にあけくれるようになる。
東屋は凌一が荒んでいく姿に合わせて寂れていき、庭だけが美しく輝いていた。

「また喧嘩したの?凌ちゃん。ホラ、ここ怪我してるわ。大丈夫?」

屋敷へ帰る前に必ず手紙を書いてよこす和花子が、裏口から屋敷に戻った凌一を見つけて駆け寄った。
既に太陽は沈み、月が出ていた。
凌一はふてくされたまま何も言わない。

「最近、ここに帰ってきてないって聞いたわ。どこにいるの?」
「お嬢さんには関係ない」

和花子へのささやかな反抗は、彼女を「お嬢さん」と呼ぶことだ。
そう言うといつも彼女は、あなたまでそんな風にわたしを呼ばないで、と綺麗な眉を上げて怒る。小さな赤い唇を尖らせ、桜色の頬を膨らませて。

「わたしには名前があるわ」
「でもあなたは屋敷のお嬢様で、俺はその使用人の息子だ」

頑なに抵抗してみても、どうせすぐに凌一の負けでこの舌戦は終わる。

「どうしてそんな哀しいことを言うの」

さっきまで上がっていた眉が今度は下がり、尖らせていた唇はわなわなと震え、大きな瞳の縁には透き通った涙が溢れ、頬に零れんばかりだ。

「確かにそれは事実だけど、でも、わたし……」

白く細い手が凌一の胸に添えられる。温かいぬくもりのある手だった。Tシャツ一枚の凌一の胸にそのぬくもりが伝わってくる。
きっと自分の胸の高鳴りも和花子に伝わっているに違いない。
もうこれだけで、凌一は負けを認める。最初から勝てる気も勝つ気もないのだ。
凌一にとって、和花子を悲しませることは一番の罪悪だ。逆に、和花子を微笑ませるためなら、何でもできる。

「すみません」

謝ると、和花子が涙をぬぐって凌一を見上げて微笑み、そっと胸に寄りかかってくる。
これが和花子でなければ、身体を抱きしめて唇を奪い、そのまま押し倒すところだ。
ぐっと拳を握って衝動を堪える。荒々しく和花子の身体を押しやった。

「あんまり俺に近づくと、また旦那様に怒られますよ」
「いいの。でもあなたが怒られちゃうわね」
「俺はもうほとんどここには帰ってないですし。どうでもいいですよ、俺のことなんか」
「良くないわ。わたし、あなたが心配で」

東屋の庭の上に座ろうとするので、凌一はTシャツの上に羽織っていた薄いシャツを脱いで、芝生に引いてやった。

「ありがとう」

にっこりと笑いかけられる。もう一度拳を握り、心を落ち着かせようと空を見上げた。
すると和花子も凌一に習って夜空を見上げる。

「今日は、十六夜なんですってよ」
「いざよい?」

芝生に座り、和花子は話し始めた。
満月の次の日のほんの少し欠けた月。一晩中出ているから「不知火月(いざよいつき)」とも書く。

「ずっと月明かりで明るいから、夜を知らないって意味なんだって」

月明かりが和花子の顔を照らし、白い肌が透き通り、からすの濡れ羽色の髪が夜に解けていく。
昔和花子に読んでもらった御伽噺の、月からきたお姫様のようだと凌一は思った。

じっと黙っていた和花子が、距離を置いて座っている凌一を見つめた。

「凌ちゃん。わたしが今日なんで帰ってきたか、わかる?」

嫌な予感がして、答えることをためらった凌一は、長いこと押し黙ったあげく、吐き捨てた。

「知るもんか。俺には関係ない」

それを聞いて和花子が小さく哂った。

「そう……そうね……。凌ちゃんには関係ないのよね」

スカートを握り締めた手に力がこもっている。

「明日、お見合いするの。お見合いっていったって、もう決まってて、単なる顔合わせ。高校卒業して、短大を出たらその人のところへお嫁にいくの」
「へ……え」
「もう決まってるの。決められてるのよ。もうすぐ世紀末だっていうのに、信じられないわよね」

風が吹き、垣根が揺れた。和花子の長い髪が風にそよぎ、その風に逆らうように和花子は頭を振る。いやよ、いやなの、と。
じり、と和花子がにじり寄ってくる。月がうす雲に隠れ、あたりが少しだけ暗くなる。

「お、お嬢さん……」
「和花子よ」

にじり寄ってきた、ずっと大切に見守り、見つめてきた和花子がすぐ目の前にいた。吐息さえも感じられる。

「お父様はね、もう、すぐにでも籍をいれさせるなんていうのよ。
自分たちの汚いお金と権力への欲望のために結婚させるくせに、わたしには身も心も綺麗なままでいろっていうの」

和花子の小さな手が凌一の胸を叩く。握っても小さく力のないその拳が、凌一の理性を叩いて壊していく。

「わたし、そこまでお父様の思い通りにはなりたくない。凌ちゃん、お願い、わたしを抱いて」
「お嬢さん……」
「和花子よ」

普段は優しく柔らかなくせに、これと決めたら絶対に自分を曲げない人だった。
ずっと握ってきた拳も、もう限界だった。

「俺なんかで、いいんですか」
「あなたがいい。ううん――あなたじゃなきゃいや。凌ちゃん、あなたじゃなきゃ、いやなの」

うす雲に隠れていた月がもう一度顔を出し、銀色の明かりの下で、凌一は初めて和花子の身体を抱きしめた。
抱きしめたその身体は、細くて軽くて折れそうだった。だが、ただただ、温かかった。

和花子の頬を手で包み、唇を指でなぞる。ふっくらと柔らかな唇を軽く吸い、一度唇を離す。

「凌ちゃん……」

潤んだ瞳で和花子が凌一を見る。
力任せに身体を引き寄せ、背中を撫でながら口を割り舌を差し入れた。
ためらいながら凌一の舌に和花子は自らの舌を絡めてくる。

「ん……ふ……ぅん」

和花子が凌一のTシャツの背中を握り締めた。舌を吸ったまま、和花子が着ているブラウスのボタンに手をかける。びくりと和花子の身体が震えた。
ためらいがちに手をとめると、和花子が手を重ねた。唇を離し和花子を見ると、微笑んで頷いた。
いいのよ、大丈夫。わたしに任せて。
同い年のくせに和花子が姉さんぶって言う時の顔だ。だがどこか不安気に瞳が翳っている。

「大丈夫。俺に任せてください」

今日は凌一が同じ科白を言った。雷が鳴り響いて怯える和花子をなだめる時のように、優しい顔で。
ゆっくりとボタンを外し、服を脱がせて下着を剥ぎ取る。月明かりに小さな乳房が揺れた。
お互いの服を全て脱ぎ捨て、ふたりはもう一度唇を重ねた。凌一はそのまま和花子の首筋に唇を這わせた。和花子の指が凌一の肩をすべる。
乳首を口に含み、硬くなったそれを甘噛みする。

「はぁ……ッん」

もう片方の乳房を揉みしだき、空いた手で和花子の腰を撫でる。その手が和花子の茂みにたどりつく。その瞬間、和花子の身体がびくりと跳ね上がった。
もう一度唇を重ねた。そうやって和花子の怯えを少しでも和らげてやりたかった。

「俺に身体を預けて。大丈夫。俺が、あなたを傷つけたことはないでしょう」
「うん……」

言われるままに力を抜いて凌一の身体に和花子はもたれかかってきた。首に手をかけ、ぎゅっと凌一の頭を抱きしめている。
和花子の背中から腰へと手を移動させ、そっと地面に広げた自分のシャツの上に和花子を横たえた。
粘着質な水音をたてて、凌一は和花子のまさしく花をまさぐり、熱くたぎった泉の中へと指を進める。
柔らかくほぐれるように。痛みが少なくなるように。

「ん……ああ、あぁ」

喘ぎ声が凌一の耳朶を打ち、既に大きく硬くそそり立つ男根に更に血が集中していく。その根元に手を添えて、凌一は蕩けきった和花子の入り口へ先端をあてがった。

「息を吐いて、力を抜いて」

少しづつ少しづつ、時間をかけて凌一は和花子の中へ男根を差し入れていった。凌一の背中に痛みが走る。和花子が爪を立てているのだ。
のけぞり、脚を開き、自分の下で破瓜の痛みに耐えて顔を歪めている和花子のまぶたに口づけた。
男根を締めつける和花子の中を掻き分けて、ゆっくりと奥へ、奥へと凌一は快感を求めて進む。
ようやく最奥に突き当たった瞬間、和花子が背中をのけぞらせた。

「あぁぁ……ぁ……はぁッ」
「――和花子」

たぎる思いを吐き出すように言うと、荒い息をしながら和花子は瞼を開いた。

「初めて、名前で呼んでくれたね」
「何度だって、呼んでやる。何度だって、何度だって……」
「嬉しい……凌ちゃん」

欲望のまま激しく突き上げないようにと注意しながら、和花子の中を行き来する。その度に和花子は苦悶と官能の間で揺れ動く表情を見せた。
和花子、和花子、と何度も名前を呼びながら、凌一は己の先端に集中し、熱くぬめりながら抱きしめてくる和花子の襞の間を動く。

「あぁ、好きよ、大好きよ、凌ちゃん……ッ」

凌一の名前を叫び、和花子はもう一度のけぞった。凌一の身体に回していた腕に力がこもり、白い喉を月にさらけだした。
その喉にキスをして、凌一は和花子の中から弾けんばかりになっている男根を抜き、芝生の上に白濁の証を撒き散らした。

汗だくになった身体同士で、お互いの汗をこすり合わせるようにして抱き合った。
何度も口を吸い、舌をどれだけ絡ませても物足りないと和花子は凌一から離れようとしなかった。
あるいは気づいていたのかもしれない。手を離せば飛んで消えてしまうほど儚い夢であることに。

「風邪、引きますよ」

脱ぎ捨てた自分のTシャツで和花子の身体をぬぐう。名残惜しそうに和花子は身体を離し、服を着た。凌一も下着とズボンをつけ、立ち上がった。

「ねェ」

和花子が何かを言おうとする前に、口を塞いだ。

「俺が必要な時は、いつでも俺を呼んでください。どこにいても、あなたの元へ飛んでいきます」

不安な夜があれば、今夜のことを思い出せばいい。いつだってあなたのそばにいるから。
凌一の喉仏に和花子が触れた。

「俺は、いつも、いつまでもあなたのものです」
「凌ちゃん、わたし」
「お幸せに。あなたが幸せであれば、俺も幸せです」

そしてきびすを返し、少年時代の思い出が詰まった東屋の庭を立ち去った。
途中長屋の自宅へ寄り、シャツを見つけてそれを羽織る。既に寝ていた両親には声をかけずに、扉を閉めた。


そのまま屋敷を出て、ある男を捜して街を歩いた。
その男は、小さなビルの地下にあるプールバーにいた。狭いフロアに置かれたビリヤードの台に向かって球をついている。

「まだあの話、いきてますか」
「ああ?俺の舎弟になれって話か?」
「はい」

男は凌一を上から下まで眺め、最後に凌一の顔をじろりと一瞥した。

「おい、マイヤーズもってこい。ロックグラスにストレートでな」

カウンターの中のバーテンダーへ声をかけた。

「そのうちうちのオヤジから盃もらえるように頼んでやるよ」

男がラムを半分呷る。

「俺は、あなたの兄弟分になるつもりはありません。子にしてください」
「そうは言ってもなあ……。ふたり親を持つわけにいかないぜ」
「なら、飲み分けではなくて七三でも六分四分の兄弟で」
「わかったわかった。オヤジに言ってみるさ。じゃあ、先に俺から盃渡しとくぜ。そのうち俺が組を立ち上げた時には、お前がナンバー2だ」

もう一口男はラムを飲み、グラスを台に置くとキューで凌一のほうへ押しやった。
手元に滑り込んできたダークブラウンの液体を凌一は飲み干した。

「よろしくな、辻井(ツジイ)」
「はい。よろしくお願いします」

男が勢いよくキューを玉に当てた。玉はラシャの上を転がり、全ての玉がポケットに吸い込まれていった。
こうして、島津(シマヅ)と凌一は兄弟分となった。

東征会幹部の木崎組組長である木崎親分から盃をもらい、極道として生きていた辻井の耳に、短大を卒業した和花子が結婚したという噂が届いた。
白いウェディングドレスが青空に映えて、花婿も花嫁も幸せそうに笑っていたと、聞いた。
その姿を想像して、よかったと思う反面、狂おしいほどに花婿に嫉妬している自分もいた。
あの唇を。あの胸を。あの腰を。あの熱い中を、彼女の全てを独占する男に。
共に達し、彼女の中にそのまま吐き出しまどろむことができる男に。
もう一度もしも会うことがあっても、それでもまだ和花子は俺を求めてくれるだろうか。
そんな不毛な疑問を首を振って頭から消し、辻井は他の女を抱く。愛情はかけらも抱けないが、孤独と空虚を少しでも癒すために。


下積みの期間を終え、組の中でも島津と共に実力を認められてきた頃、もう何年も連絡を取っていない父親が辻井を訊ねて来た。

「お嬢さんから手紙だ」
「冗談はよしてくれよ」
「冗談なんかじゃない。お嬢さん、離縁されて戻ってきてるんだよ、屋敷に」

手紙の内容は分かっている。いつものところで待ってるわ。その1行だけだ。
辻井は屋敷へ向かった。
懐かしい東屋は、成長した今となっては小さく感じた。その小さい庭に、彼女はいた。げっそりとやせ細り、虚ろな目をして。
ヤクザとなった今の辻井には馴染みともいえる姿だった。
麻薬に犯され、支配された人間の姿をして、和花子は座っていた。
抱き上げると人間とは思えないほどの軽さで、言い知れぬ怒りと絶望が腹の底から湧き上がってくるのがわかる。

「りょうちゃん……?」

ねェ、つれてにげて。あの夜に戻ったように和花子はそう呟いた。にげて。にげて。いっしょににげて。つれていって。
そう呟いて、震えながら和花子は空を見る。もう目の焦点があっていない。辻井を見つめてくれた瞳はぽっかりと虚空を映すだけになっていた。
あの時和花子の言葉を遮らなければよかったと、今更ながら後悔の念にかられる。

「そばを離れてすみませんでした。もう決して離れません。もう二度と、離しません」
「うれしい……りょうちゃん」

たった一度だけ抱いた夜と同じことを和花子は辻井の腕の中で言った。
もしもまた会うことがあったなら、もう一度彼女のぬくもりを感じられるかもしれない。
果てしない孤独を癒していたそんなわずかな希望が、遠くないいつかには消えてしまうことを、辻井は悟った。


島津とごく身近な兄弟分に祝福されてふたりは結婚したが、その1ヵ月後、和花子は狂い泣いて病院で死んだ。
十六夜の月が空に輝く夏の夜だった。
かぐや姫は月に帰る時、不老不死の薬を愛した帝に送ったが、帝はそれを一番天に近い山頂で燃やしてしまったという。
そして帝は悲しみに打ちひしがれて詠う。

あふことも涙にうかぶわが身にはしなぬくすりも何にかはせむ(「竹取物語」より)

死なぬ薬どころか、確実に身体を蝕む薬で辻井の大切なお姫様は天国へ逝ってしまった。
そう。もう会えないのなら、何があったとしたって、役には立たないのだ。
胸が張り裂けるとはこんな気持ちなのか。
辻井は生まれて初めて、声を出して泣いた。

薬物に走り死亡した和花子だったが、対外的には病が原因で離縁され、亡くなったことになっている。
今日は命日だというのに、家族の誰かが来た気配もない。いつものことか、と辻井は肩をすくめた。
初めて結ばれた時も、和花子が亡くなる時も空で見ていた十六夜の月が出ている夜中に、毎年辻井は墓参りにくる。
花を供え、水をかけて線香を焚く。手を合わせて立ち上がると、後ろから声がした。

「もう11年か」

島津が花を持って立っていた。同じように線香を焚き手を合わせて、辻井の隣に並んだ。

「オヤジ。来て下さったんですか」
「当たり前だ。お前の嫁さんの祥月命日だ。忘れるかってよ」


寂しくて、寂しくて、堪らなかったの。わずかに正気に戻るといつも和花子はうわ言のように言った。
誰もわたしを見てくれない。あなたみたいに優しく抱いてくれない。寂しかったの。
ごめんなさい。弱いわたしを許して。ごめんなさい。
孤独を味わっていたのは自分ではなかったのだと、辻井は知った。愛されて幸せにしていると思っていた分、悔しくて哀しかった。
その後島津は和花子の嫁ぎ先の家の乗っ取りを開始した。ありとあらゆる手を使い、島津はそれを成し遂げた。
取引先、取り巻き、バックボーン、会社、家族、友人、愛人、自宅、資産。
辻井と共に怒ってくれた島津は、全てをじわじわと奪っていった。
結果、和花子の夫であった男は、借金で首が回らなくなり車で海へ飛び込んだ。
味わえばいい。大切にしていたものを奪われていく絶望を。
知るがいい。希望は常にかなうわけではないことを。
男が海に飛び込んだ翌日、辻井は男の会社の代表権を引き継いだ。


「ひとつだけ、今でも後悔していることがあるんですよ」

墓地を歩きながら辻井は言った。何も言わずに島津は辻井の一歩前を歩いていく。

「和花子の前を立ち去る前に、俺は何故か、自分の思いを告げていなかったんです」

すきだ。
たった3文字の言葉なのに、その言葉を口にすることをためらってしまった。そのことが未だに悔やまれる。
結局、和花子は辻井の愛情の言葉を聞かずに死んでいった。正気を失ってから何度告げようと、もう彼女には聞こえていなかっただろう。

「なんで、ためらってしまったのか、今でもわからないんですよ」

じゃり、と音を立てて島津は立ち止まった。

「満月の夜よりも少し遅い時間に、ためらいがちに出てくるから十六夜っていうんだろ。いざようってのはよ、ためらうって意味もあるんだ」

ふと空を見上げ、ぽつりと言った。

「ちょっとの間しか知らないが、お月さんみたいな子だったな。満月じゃなくて十六夜の月だなんて、控え目でいいじゃねェか」

帰ろうぜ、夜の墓場はヤクザでも怖え、と島津はおどけて歩き始めた。

「そのためらいがなければ、満ち足りてたかもな。――まあ、次があるんなら、そん時はためらうなよ」

この男のためには何があってもためらわないようにしようと、歩き出した島津の後ろを辻井はついていった。






SS一覧に戻る
メインページに戻る

各作品の著作権は執筆者に属します。
エロパロ&文章創作板まとめモバイル
花よりエロパロ