島津組4/涙雨恋歌 第1章 秋霖(非エロ)
シチュエーション


「涙雨恋歌」(なみだあめれんか)


この間借りたハンカチ。瀬里奈は男物のハンカチにアイロンをかけながら貸してくれた男のことを思う。
そのことを思うとどうしても、あの日自分の心に芽生えた気持ちに考えが辿りついてしまう。そしてその気持ちをどうしようかと考えて、堂々巡りの思考をもてあますのだ。

「瀬里奈、コゲくさいぞ」

風呂から上がってきた兄の尚が、リビングでアイロンをかけている瀬里奈に話しかける。

「えっ!?あ、きゃあああああ」

思いにふけり過ぎて、そのハンカチにはしっかりとアイロンの形の焦げ痕がついてしまっていた。瀬里奈の叫びに尚は驚き、妹が身体を震わせている場所までやってきた。

「何やってんだよ、スイッチ切れ」

べそをかいて床にぺたりと座っている瀬里奈をよそに、尚はアイロンのスイッチを切り、コンセントを引っこ抜いて片付けてしまう。

「この間辻井さんに借りたヤツか?」

瀬里奈はこくりと頷く。

「どうしようお兄ちゃん」

世界の終わりを宣言されたかのようにおいおい泣き始める妹の頭を撫で、尚はため息をつく。

「新しいの適当に買って、素直に謝るんだな」
「許してくれるかな」
「あのなあ、ハンカチ一枚くらい大したことないだろ」

ヤクザがハンカチ一枚で大騒ぎするかってんだ。そもそも返す必要もないと思うぜ、オレは。
惚れたんじゃないだろうなあ……。尚は心の中でうめく。確かに辻井さんは男らしいし優しいけど。

「ホラ、風呂入ってこい。オレはもう部屋にいくから。アイロン台は片付けとけよ。それから、もうすぐ引越しなの忘れんなよ」

瀬里奈が頷き、アイロン台をたたんでいるのを見てから尚は自分の部屋へ戻る。
まあ、オレのクラスの女も年上の男がかっこいいって言ってるしな。そういう年頃なのかなあ。
母と仲違いしたあの日から、瀬里奈の様子がおかしいのは気づいていた。
ぼんやりと頬杖をついては、大きなため息をつく。何かあったのかと問うてもなんでもないと首を振る。わたしなんかじゃつりあわないや、と呟いたのを聞いて、やっと合点がいった。
父親不在で育ったが、強烈な存在の父親のことはこの街にいれば嫌でも耳に入る。
瀬里奈は自分たちを省みない父親を恨みつつも、その父親に憧れ、認められたくて必死だった。

「ファザコンみたいなもんなのか?」

机に向かい、尚はそう呟いた。

「だからってなあ」

嫌だぞ、オレ、あんなでっかい人が弟になるの。頼むよ瀬里奈。

翌日、学校が終わってから瀬里奈は友達の万理と一緒にデパートへでかけた。
万理は最近大学生の彼氏ができ、明日の土曜日が彼の誕生日だからプレゼントを買うのだ、と鼻歌交じりだ。それに便乗して瀬里奈も替わりのハンカチを買おうと思ったのだ。

「で、ハンカチ焦がしたの?」
「う、うん」

電車の中で瀬里奈は万理に買い物の理由を説明した。万理はあははと明るく笑って、瀬里奈の肩をボンと叩く。

「バッカねー。まあそういうドジなところが瀬里奈っぽくていいけどさ」

セレクトは任せなさい!と胸を張る万理を見て、瀬里奈も笑った。
常に明るい万理は中学からの友人だ。
万理が地元S街の学校ではなく電車で通うことになるH街にある今の私立高校へ行くと言ったから、瀬里奈も猛勉強をして同じ高校に入ったのだ。
ヤクザの娘だということを、「ふうーん」の一言であっさりと受け入れ、「でも瀬里奈は瀬里奈でしょ。あたし、瀬里奈のこと好きだから友達になりたいの」と言ってくれたかけがえのない親友。
その万理の目下の関心ごとは、大学生の彼氏。どれだけかっこよくて優しいかを瀬里奈に毎日語る。一緒に食事に行ったり、遊びに行ったりしているからか、最近は瀬里奈と一緒に遊ぶことが少なくなってきていた。

「でさ。ついでに、下着売り場も行きたいんだよね」
「いいよ」
「彼がさー、セクシーなやつより可愛い下着のほうが似合うって言うからさ」
「そういうもんなの?」
「ま、あたしは彼が気に入ってくれればなんでもいいんだけどさ」

だって結局脱ぐんだし、と万理は笑った。


結局万理の彼氏へのプレゼントを選ぶだけで散々時間を使い、瀬里奈の買い物は20分もかからないうちに会計まで済んでしまった。その次に向かった下着売り場で、万理は花の刺繍がふんだんに施されたラズベリー色のブラジャーと、セットになってるショーツを選んだ。

「瀬里奈、こんなの似合いそうだね」

そう言って万理が出してきたのは、すっきりとしたデザインで胸の谷間のところに蝶がとまっている、薄いブルーのさらりとした手触りのブラジャーだった。一緒についているショーツもブラジャーと同じさらりとした素材でできていて、やはり真ん中に蝶がとまっていた。
ここですよ、ここを触ってくださいよ、と蝶が男を誘っているかのようなデザインに、瀬里奈はドキドキしながらもそれを握りしめた。
この下着を脱がしてもらえる日がくるのかなあ。
そんなことをぼんやり思いながら、レジに向かった。

デパートを出るともうすっかり日は暮れていて、しかも雨が降っていた。

「あちゃー、降るっていってたもんね。天気予報。雨続きでやんなっちゃうね」
「だね。万理、傘は?」

あるよ、と万理はカバンから折りたたみ傘を取り出す。瀬里奈も同じように傘をさし、おなか空いたね、という瀬里奈の言葉を合図にふたりは近くのレストランへ向かった。
晴れていようが雨が降ろうが、女の子の話題は大して変わらない。特に今夢中になっている彼がいる万理の場合は、寝ても覚めても彼のことばかりだ。
傘の中で笑いながら、ふたりの少女は目当てのレストランへ向かって街を歩いていく。
ちょっと高いんだけど、結構おいしいんだよ、と万理は説明する。内装はこんなで、メニューはこんなで……と続けて最後に、ウェイターがかっこいいのよぉ、あたしの彼なんだけど、としめた。
なんだ、結局のろけですか?と瀬里奈が言うと、万理はえへへと照れ、照れ隠しのように目的地を指差した。

「あそこの角を曲がったところ」
「ねえ、あの女の人綺麗じゃない?」

万理が指差したちょうどその場所の軒先に、ひとりの女性が立っていた。


はっきりとした顔立ちの顔を凛と前に向けて立っている。すらりとした長身の女性で、道を通る男が軒並み彼女に視線を向けるような美人だ。

「うん。オトナのオンナって感じ」

万理がみとれてそう言うと、店の前に一台の車が止まった。光沢のあるチタンカラーのスポーツタイプの車だ。
道行く人が息を飲んで見とれていると、運転席から男が現れた。
ダークグレーのブリティッシュスタイルスリーピースを厭味なく着こなしている。瀬里奈の前を歩いているビジネスマンのスーツとは格と値段が明らかに違っていることは、男性のスーツに詳しくない瀬里奈でも分かる。
ネクタイからポケットチーフ、白いシャツ、黒い靴に至るまでが完璧な英国紳士だ。

「あ……」

男は後部座席から傘を取り出し、傘を広げてひょいとガードレールをまたいで店の前へ向かう。そのまままっすぐ歩き、軒先に立っている女性に何かを話しかけ、傘をさしかける。
女はにっこりと微笑み、その傘の中に入る。男も微笑みを返し、軽く女に口づけ、女の肩をそっと抱く。
ガードレールが切れたところから助手席まで傘に入れて歩く。
背後の車をちょっと首を回して確認し、開けたドアから彼女が助手席に滑り込むとそっと閉めた。
ぐるりと車を回って運転席側へゆき、傘をたたんで後部座席の扉を開けて傘を中へ入れて、男は運転席に乗り込んだ。
その一連の動作がまるで洋画を見ているかのように決まっていて、万理はうわあかっこいい、と感嘆の声をあげた。

「大人の恋人同士で、なんか理想的だわぁ」

パパがよく見てる昔のハリウッド映画みたい。万理が話し続けているが、瀬里奈にはそれが遠くに聞こえた。

「どしたの、瀬里奈」

傘を持つ手が震えている瀬里奈を万理が覗く。いつの間にかこみ上げてきていた涙が一粒、頬を伝った。

「もしかして……?」

こくりと瀬里奈は頷く。運転席に乗った男は、どう見ても辻井だった。

万理に引っ張られて、瀬里奈は目的の店の窓側の席で声を押し殺して泣き続けていた。
ウェイターが水とメニューを持ってやってくる。さらさらとした茶色い髪の毛の、きれいに日焼けした男だった。

「よう、万理。この子?親友の女の子って」
「宏太さん!」

あっけらかんと明るい声で水とメニューを二人のテーブルに置いた。そのウェイターを見て万理が目を輝かせた。

「あら?どうしたの、彼女、泣いてるの?」

瀬里奈を見てウェイターが万理に訊ねた。瀬里奈は肩を震わせたままだ。

「んー。憧れてた男性が、すんごい美人とキスして、一緒に車に乗ってくのを見ちゃったんだよね」

万理がひそひそとウェイターに事情を話す。

「じゃあ、俺、もうすぐバイト上がりだし。もう一人俺のダチも一緒に上がりだから、そしたら4人で飯でも食いにいこうぜ。だからここではお茶だけにしとけ、な、万理」

ぽん、と万理の頭を撫で、軽くウィンクをして宏太は奥へ戻っていった。


瀬里奈は家に帰りたいと言ったが、それを万理が説得した。楽しいことして忘れようよ、と。
忘れられるとは思わなかったが、このまま家に帰ってもただ泣いているだけだろうし、と瀬里奈もようやく同意した。なかば投げやりな気持ちになっていたことも否めない。
ふたりは紅茶をオーダーし、万理の恋人のシフトが終わるのを待った。瀬里奈も泣き止み、万理のノロケ話を笑いながら聞いていた。

「お待たせ」

ウェイター姿から私服に着替えた宏太がふたりの席へやってきた。
ウェイターの白いシャツに黒いパンツという格好の時は随分と大人びて見えたが、私服になるとぐっと歳が近く見えた。

「行こうぜ。会計しといたから」
「えっ、そんなの困ります」

ためらっている瀬里奈の背中をポンと気軽に叩いて、これくらい気にしないで、と宏太は笑った。
3人で店の外に出る。雨はまだ降っていたが、もうしばらくすれば止みそうな程度にまで、雨脚は弱まっていた。


夕暮れ時からすでに夜に変わっており、街はネオンで彩られ昼間よりも明るく、美しくなっている。街を歩く女性の服や化粧も、昼間よりも派手に濃くなっていて、ネオンで照らされた偽の美しさを見せる街とお似合いだった。
制服の瀬里奈は身の置き場がないように感じて、どうにも居心地が悪い。
瀬里奈の父や辻井はこの偽の街を、暴力で仕切っている。それを夜の街はいつも瀬里奈につきつけてくる。
だからあまり瀬里奈は夜の街を歩くのを好まない。どこでどう父とつながってくるか、瀬里奈には想像ができないからだ。
おかげでこの街に住んでいながら、どこにどんな店があるのかということを瀬里奈はほとんど知らない。むしろこの街でアルバイトをし、夜の街を自在に泳いでいる宏太たちのほうが詳しいのだろう。
店を出たところで待っていた男を、宏太は瀬里奈と万理に紹介した。智也、と名乗った男は、宏太の大学の先輩だと言った。
もう大学は卒業していて、今は自分の店を持つためにここで勉強中なのだと。すでに社会人だからなのか、宏太よりも落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
傘をさして待っていた智也が、さりげなく瀬里奈を自分の傘の中に入れてくれる。気づけば万理は宏太の傘の中に入っていて、自分の傘は出してもいなかった。
宏太と智也の間で行き先はすでに決定されているらしく、ふたりは迷わずにどこかへ向かって歩いていく。
カラオケボックスや居酒屋の客引きを鮮やかに避けながら、瀬里奈と万理をかばい女の子ふたりの歩調に合わせて。

歩くごとに父の事務所に近づいていく。
瀬里奈は誰にも会いませんようにと祈りながら歩いていた。
そう思っていたのに、道の向こう側に一番会いたくない人物を見かけた。父と、そしてそのそばにいる辻井だ。どうやらこの近所の店に入っていたらしい。
父は車に乗り込むところで、辻井はそれを見送っていた。通りは人相の悪い男が一列に並んでおり、他の通行人はみんなそこを避けて通る。
車が発進し、一礼していた辻井が顔をあげた。その瞬間、ネオンの明かりが辻井の顔をオレンジに染めた。
似合わない。辻井さんにネオンの明かりは似合わない。
じゃあ何が似合うのかと問われれば、瀬里奈には答えられないのだが、それでもネオンや電飾は似合わないと独り言ちた。
それは瀬里奈が辻井に対して抱いている幻想なのかもしれない。辻井が瀬里奈にヤクザの顔を見せることはほとんどなかったために、抱いてしまった理想像なのかもしれない。
だが今の瀬里奈はその幻想にすがるしかなかった。
ネオンや夜の街が似合う男の人と、制服の子供はとてもじゃないけどつりあわない。
そんな男の人に似合うのは、夕方見た、あんな綺麗な大人の女性だけ。

「そんなのイヤ」
「瀬里奈ちゃん?」

思わず声に出していた瀬里奈を、隣にいた智也が覗き込んだ。
道の向こう側では辻井が配下の男たちになにやら指示を出し、そしてネオンの中を歩いていく姿が見えた。
たった道路一本隔てただけの距離にいるのに、その距離が瀬里奈にはひどく遠く感じた。生きる世界が違っているようだった。


どれほど思っても、どれほど望んでも、手の届かない望みなら望むだけ無駄なのかな。
あんなに綺麗な女の人がそばにいるんなら、わたしみたいな子供を好きになってくれるわけない。
敵うわけない。綺麗で、スタイルもよくて、辻井さんと同じくらい大人で、多分同じ世界にいる女の人。
どうしたらいいの。どんなに願っても手の届かないものがあるなんて、思ってもみなかったよ。

「もうすぐだよ、お店」

道の向こう側を茫然と眺めている瀬里奈に、智也はにっこりと笑いかけた。その笑顔はまだ大人の男になりきれていない青年の顔で、智也が瀬里奈の世界に近い人間だと思わせた。

「行こう」

そっと肩を抱かれ、瀬里奈はその手のぬくもりに何故かほっとしていた。

辿りついた店は、繁華街から少し離れたところにある一戸建てを改造したイタリアンレストランだった。

「瀬里奈ちゃん、失恋したんだって?」

最後のデザートとコーヒーを食べている時に、宏太が突然訊いた。

「失恋っていうか。単に憧れてただけだし……」

瀬里奈がぶつぶつと呟いている間に、万理が智也に説明をする。

「さっき初めて見たけど、渋くてかっこいいおじさまだったなあ。で、これまたかっこいい美人とキスしてたんだよね」
「へえ。まあそんな渋いおじさんだったら女の人もほっとかないんじゃねーの?」
「だよねぇ」
「つーか、そんなトシで女のひとりやふたりいないと逆に危なくねぇ?」
「そういやそうだよね」

万理と宏太が頷きあっている。他人事だと思って、と瀬里奈は思うが、こうやって話していると気が楽になっていった。手の届かない人なんだって、今日よくわかったから。

「だいたい瀬里奈はお兄ちゃんッ子だからなぁ」
「なんの関係があるのよ」
「あるよ。あんなにかっこいいお兄ちゃんがいれば無理もないけど、先輩ばっかり見てたから、他の男に目がいかなかったんじゃないの?
それで初めて好きになったのがあんなオジサンなんて、瀬里奈よっぽどだよ」

よっぽど、なんなのよ……と瀬里奈は言葉に詰まった。万理が言うことも一理あると、常々思っていたからだ。

「まあまあ。瀬里奈ちゃんの年頃だと、それくらい大人の男に憧れる気持ちも分かるけど、もっと身近にもいい男はいっぱいいるよ?」

智也の言葉に、瀬里奈は顔を上げて智也を見つめた。それって、自分がいるよって言っているんだろうか。
前髪の下から熱い瞳が瀬里奈を見つめ返していた。その瞳に射抜かれて、ドキリと胸が高鳴る。

「さ、帰ろうぜ。いくら明日休みでも、ふたりとももう帰らないとまずいだろ」

智也の言葉で、4人は立ち上がり、家路につくことにした。店の外に出ると、もう雨は止んでいた。


店の前で、宏太と智也が何かを話している。万理と瀬里奈のほうをチラチラ見ながら打ち合わせをしているかのようで、瀬里奈は何か落ち着かない気持ちになった。

「じゃ、オレたちはここで」

宏太は万理の手を引き、じゃあ、と手を振って夜の闇に消えていった。
智也さんってかっこいいじゃん、頑張りなよ、と万理が去り際に耳打ちしていった。

「送るよ」

残された瀬里奈に智也が笑いかけた。

「家、どこ?」
「えっ?」
「この近所なんじゃないの?家まで送るよ。もう遅いし」
「駅でいいです。お兄ちゃんに交番まで迎えにきてってメールしたから」
「そう。じゃあ駅の交番の前までな」

おれ、そんなに危ない男に見えるかなあ、と智也はおどけて笑う。

地下にある交番へ向かうために地下街への階段を下りる。階段の踊り場で智也がぐいと瀬里奈を引き寄せた。
見た目よりも逞しい智也の腕が瀬里奈の腰をしっかりと抱いている。密着した状態に驚いて、瀬里奈は智也を見上げた。
見上げた智也の顔つきの真剣さに戸惑う。洋服越しに感じる智也の身体に、智也の鼓動にためらう。
自分の早い鼓動も伝わってしまう、と思うと急に恥ずかしくて顔が赤くなった。
そっと智也の手が瀬里奈の頬に触れる。

「また会ってくれるかな。今度はふたりきりで」
「え……」
「おれ、自分の直感信じてるんだ」

心臓の音が大きい。外にも聞こえてるんじゃないか。ドキドキ胸を打つ音しか聞こえない。

「一目惚れってあるんだな。初めてだよ」

鼓動の向こうから、智也の声がする。
聞きたいと願った低く掠れた声じゃない。もう少し高くて、もっと柔らかで若くて明るい声だ。
腰を抱く腕に力がこめられ、一層強く智也の身体を感じた。
頬に添えられていた手が、顎に移り、智也の顔が近づいてくるのも感じた。

「好きだよ――瀬里奈」

まつげ、とっても長くてたくさんあるんだ。だからあんなに深い目をしているんだ。
瀬里奈がそう思った瞬間、智也の唇が瀬里奈の唇に触れた。
いつの間にか、両腕で抱きしめられていた。
瀬里奈はゆっくり目を閉じる。


地上では、また雨が降り始めていた。
むせ返るような雨の匂いが地下街に漂う。
その匂いから逃れようと、瀬里奈は智也の胸に顔を押しつけた。

「雨、よく降るね」

智也が瀬里奈を抱きしめながらそう言った。

「秋の長雨、なのかな」

智也の声も瀬里奈には届かない。自分の心臓の音で、鼓膜が破れそうだった。
仄かに智也の胸から香水の香りが漂ってきて瀬里奈の鼻腔をくすぐった。その香りを胸に入れようと息をする。

「もうお兄さん迎えに向かってるの?」

その言葉の意味に気づき、心臓がもう1オクターブ高く鳴る。

「今日は帰らないで。君をもっと深く抱きたいんだ」
「だって、初めて会ったばっかりなのに」
「言っただろ、一目惚れだって。好きになったら、初めても何も関係ない。そうだろ」

信じてよ、遊びじゃない、本気なんだから。そう訴える智也の声に瀬里奈の理性が揺らいでいく。
揺らいで揺らいでようやく智也の顔を見上げると、智也は微笑みを浮かべて瀬里奈を見ていた。

「ごめん。今日は送り狼しないでちゃんとお兄さんの元に送るよ」
「あ、ご、ごめんなさい。あの、わたし……」
「おれ、焦ってたみたいだ。ごめんな。瀬里奈ちゃん可愛いから、うかうかしてたら誰かに持っていかれそうな気がしてさ」
「そんなこと、ないよ。わたし、万理みたいにもてないもん」

じゃあ他の連中が見る目ないんだよ、とおおらかに笑い、行こうかと瀬里奈を促した。

兄との待ち合わせ場所の交番へたどり着く。その間ずっと智也は瀬里奈の手を握っていた。その手を握り返すと、智也が恥ずかしそうに笑った。
それから尚がくるまで、ふたりは何も話さなかった。尚の姿を遠くに見て、瀬里奈が兄に向かって手を振った時、智也が口を開いた。

「瀬里奈ちゃん、来週の土曜日空いてるかな。おれ、バイト休みだから、どこかへドライブにでもいかない?」
「えっ」

突然の誘いに瀬里奈が口ごもっている間に尚がやってきて、智也は考えておいて、また連絡するから、と言い置いて去っていった。

「誰?」
「万理の彼氏のお友達」
「ふうん」

自分が歩こうとしなかった夜の街を自在に歩いている智也についていけば、もしかしたら自分ももっと大人になれるのだろうか。
立ち去った智也の後姿を瀬里奈は見つめた。その後姿は、優しそうでしなやかで軽やかで頼もしくみえてならなかった。
優しいところは同じなのに。
いつも張りつめた空気を持つ辻井と比べて、瀬里奈はため息をついた。
しとしとと細く静かに降る雨の中を兄とふたりで歩く。
兄と歩くのは安心する。いつも自分を守り、自分をかばってくれると分かっているからだ。
それと同じ安心感を与えてくれる男が辻井だった。智也と歩いても、そう感じるようになるのだろうか。
瀬里奈の心は定まらず、智也と辻井の間を行ったりきたりだ。考えても考えてもどうしたらいいのかは答えが見えない。
まるでずっと降り続く秋の雨が地面を濡らしていくように、その悩みは瀬里奈の心を重くしていく。


玄関を開けると、母が迎えてくれた。都も今帰ってきたところのようで、まだ着物を着て髪を結ったままだった。

「おかえりなさい。遅いわね」
「ただいま」

尚だけが都に返事をした。瀬里奈はまだ母から顔を背けてしまう。

「気をつけなさいね」
「大丈夫だよ。遅くなる時はオレが迎えに行ってるし」
「あなたも気をつけるのよ、尚」

京都への移住にあたり、店を譲る段取りなどもあるらしく、都は最近いつもに増してくたびれた顔をしている。
尚と瀬里奈がふたりとも東京に残ると知り、さすがに落胆の色を隠せなかった都だが、その決断を覆そうとすることはなかった。
寂しいわ、とだけ呟いた母は今まで見たこともない哀しそうな顔をしていた。
そんな思いをしてまで、どうしてママは京都へ行くの?ママはお父さんのこと、どう思ってるの。本当に好きな人は誰なの?

「ママ」
「なあに?」
「お父さんと、どうやって知り合ったの?」

リビングのドアを開けようとしていた都の動きが止まった。

「共通の――知り合いがいたのよ」
「一目惚れだった?」
「初めて会った時、目と目があって、時間が止まったかと思ったわ」

都の目が遠くを見て、まるで母が20歳くらいの娘に戻ったかのように見えた。

「じゃあ……。京都の人は?」

瀬里奈が訊くと母はふっと微笑み、言った。

「彼に見つめられて、止まっていた時間が動いたわ」

さあ、もう寝なさいと都は言い置いてリビングへ入っていく。

「ママ。一目惚れって信じる?」

リビングへ追っていき、訊いた。

「――運命の人って、いるものよ」

母にとっての運命の人は誰だったのか。そんな質問を拒む背中が、瀬里奈の目の前にあった。

電子音が暗い部屋に鳴り響く。ヘッドボードに置いた携帯電話に、島津は寝そべったまま手を伸ばす。

「誰だ、こんな時間に」

思わずボヤくと、横で寝ていた女も目覚めてくすりと笑った。

「まだ1時すぎじゃないの」
「うるせェな、俺が寝てる時間は遅い時間ってことなんだよ――なんの用だ、瀬里奈」

均整の取れた筋肉で覆われた上半身を起こした。だるそうに前髪をかきあげる。

『お父さん、一目惚れって信じる?』

電話口の我が子は真剣な口調だ。その真剣さに思わず島津は答えをためらう。そもそも尚ならともかく、瀬里奈が島津に電話をしてくること自体が初めてだった。

「一目惚れしない女をその後本気で抱く気にはなれねェな」
『抱くって……。じゃあ本気じゃなかったら抱けるの?』

電話の向こうで絶句した娘に、身体だけ抱くんなら簡単だぜ、と答える。

「心まで抱いてやるには会った瞬間から惚れてねェと無理だな」
『一目惚れしたら、その日のうちにそういうこと、できる?』
「相手によるな。本気で惚れてりゃセックスは最終目的じゃあないからなあ。ま、惚れてようがそうじゃなかろうが、そうそう強引なことはしねェかな」
『じゃあ、強引にしなかったってことは、本気で好きってことなの?』
「男によるだろ。自分に自信のねェ男かもしれないし、そういう効果を狙ってんのかもしれねェしなあ」
『もっとわかりやすく教えてよッ!』

なんで俺が怒鳴られなきゃなんねェんだよ。呆れて首を振ってから、横に寝ていた女にビールを持ってこいと指示する。


彼女が持ってきたビールを呷り、沈黙が続く電話の向こうの娘に話しかけた。

「瀬里奈よ。お前、誰かに惚れたか?」

零れて胸を伝うビールを、女が舐め取っている。その肩をビールを持つ手で抱き、黒い髪に口づける。
まだ残っているビールの缶を女に渡した。瀬里奈が抗議をしている声が聞こえたが、気にせず続ける。

「本気で惚れたんなら、相手にちゃんとぶつかれよ。身体だけじゃなくて心もぶつけねェと、心を抱かれずに終わっちまうぞ」
『本気で好きかどうかなんて、どうやったらわかるの……?』
「おいおい、瀬里奈。お前、辻井に会いたかったり、触れたかったり、触れて欲しいとか思ったことないか?」

横でビールを飲んでいた女がむせた。驚きに目を見張り、島津を見ている。その顔は昼間辻井が車に乗せた女のものだ。

『な、なんでそこで辻井さんの名前が出てくるの!』
「思ってんだろ、それが惚れたってことだ。わかったな。それから、誰にどこでいつ抱かれようがが文句言わねえが、避妊だけはしとけよ。俺ァまだ孫はいらねえぞ」

横の女が肩を震わせて笑っている。

『やっぱり、お父さんに訊いたのが間違いだったよ』

盛大なため息とともに、電話は切れた。


かけてくる時も突然なら切る時もいきなりかよ、と吐き捨てる。携帯電話をベッドに投げ捨て、女が飲んでいたビールを取り上げて飲み干した。

「チッ。ガキがいっちょまえなこと言うから目が覚めたじゃねェか」

背中を向けて寝ている女の身体を後ろから抱きしめて、首筋に大きな音をたてて口づけた。

「俺の娘のクセに晩熟(オクテ)で困るぜ」
「都さんのお嬢さんだから慎ましいのよ」

背中から唇を離し、女の身体を自分の方へ向けた。自分を見上げている瞳を島津は見つめ、やがて口の端で笑って言った。

「へらず口は閉じるに限る……か」

島津が女の身体にのしかかり、ゆっくりと深く口づける。ふたりの身体が重なり、甘い吐息と香りが暗い部屋を包んでいった。


(2章へ続く)






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