唯一2(非エロ)
シチュエーション


「セフィラ」
「はい」

呼ばれ、セフィラは振り返る。
アルスレートは窓辺で小鳥達に餌をやるファリナをちらり、と見て、すぐにセフィラに視線を移した。
そうして、徐に紙を取り出して差し出す。

「これを頭に叩き込んでおいてください」

差し出された紙切れを受け取り、セフィラはそれに目を落とす。
何かの見取り図のようなものだ。

「これは?」
「この城の脱出経路図ですよ。赤く線を引いてある通りに行けば、城外に出られます。要所要所に目印がありますから、迷いはしないと思います」
「アルスレート様は?」

愚問だとでもいうように、アルスレートは微笑う。
調べ上げた脱出経路をつぶさに見、見取り図を書いたのはアルスレートなのだ。

「もう覚えました。貴女が覚えたら、喰べるなり燃やして灰にするなりして抹消してください」
「何か、起こるのですか?」
「いいえ?起こるわけではありませんよ。備えあれば憂い無し、といったところです」

セフィラが不安げに問いかければ、苦笑しつつアルスレートは答える。

―最近は少々不穏ですからねぇ…

そう呟くアルスレートに、なるほど、とセフィラは納得する。
それはセフィラも当然感じていたからだ。
ファリナに従って来た当初から、不穏ではあった。
だが、このごろはそれももう、いつ爆発してもおかしくない気がしていたのだ。
王に危機感はあまりないようだが――



王は民に慕われていない。
先王が逝去した後、温和で知られた世継ぎの王子、他の兄弟姉妹たち悉くをあらゆる手でもって殺し、王となった。
それを批難する者、先王の臣、世継ぎの王子と他の兄弟姉妹の支持者たちは処刑されたり、投獄されたり、辺境に送られたりしている。
故に、表立っては誰も言わないが、本来なら王位にあるはずのない王の正当性を疑問視する者は多い。
また、王が暴虐であること、数代前の王が閉ざした後宮を復活させたことも挙げられる。
美しいと評判の女――無論、王の眼鏡に適う美しい女、ではあるが――が次々と後宮に召し上げられた。
それが人妻であろうと、婚礼を控えていようと、恋人がいようとまったく関係なく。
応じなければ武力で脅し、奪うように攫うようにそれはなされ。
王の興味がそがれると、召し上げられた女達は帰されはした。
帰されたと言っても皆、物言わぬ骸で、だが。
そうして変わり果てた妻や恋人や姉や妹、あるいは母や娘を目の当たりにし、何とも思わぬ訳はなく。
静かに確実に、彼らは憎悪を募らせていった。

―――指導者が現れれば、すぐさま反乱が起ころうほどに
あらかた国内の美しい女を狩り尽くすと、次は他国への侵攻が開始された。
無論のこと抵抗はあったが、小国の抵抗など物の数ではなく。
近隣の小国を次々と蹂躙し、属国としていった。
当然の如く、美しい女を狩りながら。

なかには贅沢できるなら後はどうでもいい、という女もいないではなかった。
しかしそれは当然、少数派であったが。
その女達は王に媚を売り、寵姫として贅を尽くしているのだ。
嘆き、悲しみ、苦しむ女達を尻目に。

「そなたは馬鹿よ…」

窓辺の椅子に座ったまま遠くを眺めながら呟くファリナの声に、傍に控えるアルスレートはその横顔を見つめた。

「愚か者め」
「馬鹿で愚かで構いません」
「愚か者めが」
「はい」

愚か者め、そう吐き捨てるように呟き、ファリナは両手で顔を覆った。
あぁ、と嘆く声がアルスレートの耳に届く。

「姫……」

今のアルスレートには、ただ姫の傍にあることしかできない。
アルスレートが動くことができるほどの下地が整っていないために。


嘆きが止み、長い沈黙の後、ファリナは囁くように呟いた。

「………我が騎士、アルスレートよ」

「はい」
「あの、幼い約束は…まだ有効か?」
「はい、勿論です」
「私があの者の妻となり、王妃となった今でも、か」
「はい」

あの遠い日の、ふたつの約束は今もアルスレートの胸にある。
ファリナが国を守るために嫁ぎ、この国の王妃となった今でも。
たとえ、その約束のうちのひとつが果たされることが永久になくとも。
約束はすでに、アルスレートの中では誓約と言ってもいいほどになっている。

「だからそなたは馬鹿なのだ。…国へ戻れば、条件は満たされよう?」
「そうですね」
「ならば!何故戻らぬ!?」
「我が姫のお傍を離れてまで、条件を満たそうとは思いません。何より、姫を一人にしたくありません」

はらはらと頬を伝う涙を拭い、認識の差があることを知りつつアルスレートは微笑む。

始祖王の盟友であり、常に始祖王の傍にあった誇り高き騎士の系譜。
その直系であるアルスレートが嫡男であれば、何の問題もなくファリナを娶ることができた。
しかしそうではないため、ファリナの両親たる国王と王妃から条件を提示された。
その条件の内容は想いを打ち明け、ファリナを望んだアルスレートに対する国王と王妃の、最大限の譲歩だった。
ファリナはアルスレートが父王と母后に提示された条件を知っているが、そのためであることまでは思いもしない。
ただ、そんな条件を提示されてもアルスレートにはどうしても叶えたいことがあるのだ、と思っただけで。
そして、幼い約束のためにアルスレートが傍にいる、ということだけは理解していた。
それで構わなかったから、アルスレートもファリナに告げることはなかった。
告げていれば何か変わっただろうか、ともアルスレートは思うが…おそらく、現状に変わりはなかったろう。
民が害され苦しむことを憂え、嫁ぐことを決めるような方なのだから。
ファリナに付き従うことを決めたアルスレートに、国王と王妃はそれこそ何度も問うた。

――耐えられるのか、と。

それに対するアルスレートの答えは「耐えます。姫の傍を離れ、生きられるとは思いません」というものだった。

「私はいつまでも、姫の傍に。どうか私から、姫を護る栄誉を奪わないでください。……さもなくば、今この場で私の命を絶ってください」
す、と跪き、静かに笑みを浮かべて見つめるアルスレートを、ファリナは抱き締めた。

「愚か者!」

詰る言葉とは裏腹に、ファリナはアルスレートをきつく抱き締める。
アルスレートは抱き締めたいと思う気持ちを必死に御し、されるがまま。

「どこへなりともお供します。私の全ては、御身のものです」

私の全ては御身のもの、たしかにアルスレートはそう言った。
それを覆すつもりは、アルスレートにありはしないが。
長椅子に座らされたのはいい、それはまだ理解できる。
最近はよく膝枕を所望されるようになっていたから。
だがこの状況は理解できるものではない。

――何故に膝の上に姫が座るのだろうか?

「………姫?」

問うアルスレートの声が、困惑に揺れたのは仕方なかろう。
それを聞き流し、座らせたアルスレートの膝に座ったファリナは擦り寄り、その肩口に顔を寄せた。

「大人しくせよ。そなたはただ、椅子になっておればよい」
「王に見つかれば、ただではすみません」

焦がれる姫に擦り寄られ、吐息すらも感じられる距離に眩暈を起こしそうになりながらも、アルスレートは努めて平静な声で窘める。

「王?……あの者がここに来るものか。婚儀の後、訪うたことが一度でもあるか?」

くつくつと、ファリナは哂う。

「気に入りの寵姫の元におろうよ。……あの者は私に世継ぎを望んでなどおらぬ」
「姫…」
「だが、それでよい。あの者の子など産みとうもないわ」

怖気が走るわ、と言いつつファリナはさらに擦り寄る。

「教えてやろう、婚儀の儀式としての行為のおり、あの者は言ったのだ。
―――――其の方が我が元に大人しくしていれば、其の方の国には手を出さないでいてやろう――、とな」

くつくつ、くつくつ、と哂うファリナにアルスレートの心は痛む。
先程ファリナが告げた王の言葉も相俟って、王に対する憎悪は弥増す。
間違ってもこんな風に哂う方ではなかった。
綻ぶ花のように、麗しく笑む方だったのだ。
アルスレートが好んでやまない、麗しい花のような、春の柔らかな日差しのようなそれが次第に失われ。
こんな、およそファリナに似合わぬ笑みに変わってしまった。
それを苦々しく思いながら、アルスレートは問いかける。

「……帰りたい、ですか?」
「そうだな………帰れるものならば」

かえりたい…と小さく小さく呟き、擦り寄ったまま眠りに落ちてしまったファリナをアルスレートは抱き締める。
それはそれは優しくファリナの髪を梳き、その髪に口付け、力の抜けてしまったファリナの手を取ると恭しく、愛おしそうにその手に口付けを落とした。
しっかりと眠っていることを確認すると、アルスレートはファリナを抱き上げる。
アルスレートにとって世界で最も価値のある、得難く尊い重みが両腕にかかり、口元を綻ばせた。
腕に抱いたまま寝台に運び、そっと横たえる。
そして掛け布をかけてやり、微かに眉が顰められたのを癒すように何度も頬を撫でる。
愛に満ちたそれは、眠っているファリナの顰められた眉を解き、穏やかな寝顔に変えるほどのもの。
それに安堵したアルスレートは自らの唇に指で触れ、その指でファリナの柔らかく甘い色を湛える唇を辿った。



「――赦し難い」

表情すらも消し去り呟くアルスレートの声は、聞く者を須く凍て付かせることができるだろう声音だった。


そう長くない眠りから覚めたファリナは傍にある、知った気配に唇を吊り上げた。
馴染んだ気配を持つ、愛しい男の名を音に乗せる。

「アルスレート」
「はい」

応えはすぐに返る。
ファリナが気配を悟ることができるように、アルスレートもファリナの目覚めを知っていた。
そうして、横たわったまま差し出されたファリナの手を自らの手で包み込む。
硝子細工にでも触れるように、ただやんわりと。
包み込む手を、きゅ、と握り締めて、その手を頼りにファリナは起き上がる。
その間アルスレートは微動だにしない。
起き上がると一度顔を俯け、ファリナはアルスレートを、ひた、と見据えた。

「……そなた、私の為にどれほどのことができる?」
「早急にでしょうか?それとも、どれほど時間がかかっても構わないのでしょうか?」

それによってできることが限られてくる。
だからこそ、答える前に聞いておかなければ、とアルスレートは思う。

「そう急く必要はない。だが、悠長に時間をかけてはならん」

これはまた曖昧な…と思うが、アルスレートは考える。
あらゆる事象を想定し、結論を導き出す。
答えるべき言葉は、一つしかない。

「………世界を滅ぼすこと以外なら」
「これはまた、随分大きく出たものよ」
「どれほど時間をかけてもよい、と仰せになるなら、世界すらも我が姫の御前に跪かせてみせましょう」
「世界すら掌中に収めるか」

ファリナは思わず苦笑を零す。
しかし見つめてくるアルスレートの瞳に、それを為すつもりがあると悟る。
そうか、と小さく呟き、ファリナはアルスレートの手を力任せに引いた。
それに逆らうことなく、アルスレートは寝台に膝をつく。
きしり、と寝台が小さく軋んだ。
掴んだ手はそのままに、ファリナはアルスレートの首に腕を回して抱きつく。
不安定になるファリナを支えるために、アルスレートはファリナの腰を抱いた。
座れ、と言うファリナの指示に従ってアルスレートは寝台に腰掛ける。
次いで望まれるだろうと思い、ファリナを膝に乗せた。
やや不満げな顔をしたファリナは身動ぎし、向き合うと跨るようにして座り直した。
ぎょっとしたアルスレートを満足げに見、ファリナはその首に両腕を絡めた。
そして、吐息がかかるほどに顔を近づけ、まことか?、と問い質す。
驚愕と混乱を遣り過ごしたアルスレートは、ふぅ、と息を吐いて答えた。

「はい。我が姫がお望みになるなら。如何な手段を以ってしても、必ず」
「数多の犠牲を払っても、か?」

それこそ愚問だとでも言うように、アルスレートは苦笑する。

「どれほどの血を流し、屍の山を築いたとしても、我が姫が望まれるものの前では塵芥に過ぎません。取るに足らぬことです」
「取るに足らぬ、か」

アルスレートは肯定の意味をもって微笑む。
世界とただ一人の人と、どちらを取るか、と問われれば、迷うことなくただ一人だ、と即答することができる。
アルスレートにとって価値のあるものはファリナただ一人なのだ。

「では…私の望みなら、なんとする?……そなたが忠誠を誓う姫として、ではなく、な」
「同じことです。私は、姫である御身に忠誠を捧げたのではありません。忠誠を捧げた相手が、たまたま姫である御身であっただけ。
もしも御身がただの娘であったとしてもなんら変わりはなかった、と断言できます。
私は、貴女という方に忠誠を捧げた……それだけのことです」
「姫、という肩書きも関係なく、私、という一人の人間に、ということか?」
「はい。ですから…我が姫はただ、そうとお望みになればいいのです」
「ならば――――」

ファリナが望む声はあまりにも小さく、音にはならなかった。
しかしアルスレートはそれを理解すると、嬉しそうに微笑んだ。
これ以上はないとでもいうような、歓喜を、至福を、恍惚を含んだ笑み。
そうして睦言を囁くかのような甘さを帯びた声で告げる。

「主命に従います」

その瞬間、甘く柔らかなものが唇に押し当てられた。
ファリナは驚き固まるアルスレートの唇を舐めて甘噛みし、舌を侵入させようと試みる。

「ん…ふ……ぅ、ん」

何とか侵入させた舌をアルスレートの舌に絡めて甘く啼く。
それは拙く、しかし懸命で、だからこそアルスレートの情欲を煽った。
思うさま絡めて貪りたい。
舌を絡めるだけでは足りない、もっともっとと望む感情を理性で捻じ伏せ、そっと引き離す。
薄く開かれたファリナの唇から赤い舌が覗いた。
その、舌から繋がる銀糸を指先で拭う。

「………嫌か」

悲しげにファリナの眉が寄せられる。

「そうではありません。私が姫を疎むことは決してありません。それだけは何が起こってもありえません。ただ……ここがどこか、お忘れなきよう願います」
「……」

言葉にする代わりに、ファリナはアルスレートを強く抱き締め、アルスレートはファリナを柔らかく包み込んだ。

からん。かららん。

扉が開く音に、店内の者は目を走らせた。
その場所には不釣合いな男がゆっくりと店内に足を踏み入れる。

「お綺麗な騎士さんよぉ…来るとこ、間違ってねぇかぁ?」
「いいえ、間違ってはいません。……ここが、反乱を起こそうとする者達が集まるところなら」

ざわ、と店内が殺気立つ。
武器に手をかける者までいる。
それを歯牙にもかけず、カウンターまで進むと腰を下ろした。
ぴりぴりとした空気を気にすることなく酒を注文する。
酒を出してやりつつ店主は問いかけた。

「あんた、何考えてんだよ?」
「どうやって王を殺そうかなぁ、ってとこですかねぇ…」

まるで天気の話でもするかのように、酒に口をつけつつ軽い調子で告げる。

「あんた、騎士なんじゃねぇのか?」
「王に忠誠を誓った覚えはありませんね。ついでに言えば、この国がどうなろうと私の知ったことではありません」
「あんた、変わってるな?」
「そうですか?でも私はこの国の人間ではありませんし。私の主に害が及ばないなら、後はどうでもいいんですよ」
「あんたの主?」
「えぇ」

にこり、と浮かぶ微笑は幸福そうで、本当にその主を大切に思っていることが窺える。
一体誰なのか、と思う店主に男は告げた。

「この国の、王妃陛下ですよ」

その声は大きくはなかったというのに、しん、と店内が静まり返る。

「じゃ、あんたが!?あんたがあの!?」
「あの、が、どれを指すか知りませんが……まぁ、そうです。私がアルスレート・イスクルです」

いくつもある呼び名のどれを言っているのかはわからないが、それを肯定する。
そこはアルスレートにとってどうでもいいことなので流したのだ。
しかししばらくすると、まさか、マジかよ、などと囁き合う声が聞こえる。

「で、本題はなんだ?」
「おや、わかっていたんじゃないんですか?」

声をかけてきた男に、くすり、と口角を吊り上げる。
決まりきったことを、といわんばかりに。

「こんなとこに来んのはまぁ…そうだろうとは思うけどな」
「では、用件を済ませますか」
「そうしてくれ」
「資金と情報の提供、ですかね。…無論、ただで、とは言いませんけど」
「条件はなんだ?」
「決まっているでしょう?………我が姫に手を出さないでいただきたい」

それ以外に何があるのか、というようにアルスレートは告げる。

「つってもなぁ…?」
「お飾りの王妃に一体どれだけの価値があると?王の寵姫の方が価値があるでしょう」

身籠ったようですしねぇ…そう呟けば面白いくらいに食い付いてくるのがわかる。

「それは本当か?」

確認するような声音に頷くと、そいつはまずいなぁ、という声があちこちで漏れる。
計画を急いだ方がいいな、という声も聞こえる。

「私が手を下してもいいんですけど、面倒ですから」

我が姫がお望みになるなら、吝かではありませんが。
そう呟くアルスレートに

「あんたほんと、主人以外のためには動く気がないんだなぁ」
「ありませんね。彼の方は私の唯一の主。至上の御君。私の神であり、法であり、世界です。
それに、私のただひとつの愛を捧げる方、ですから」

ひゅ、と驚愕に息を呑む気配がする。
それに構うことなく、アルスレートは続ける。

「叶うなら…私がこの手で幸せにしたいと願う、たったひとりの方。
でも、幸せに微笑んでいてくれるなら、それが私の手によってでなくても構わないとも思っているんですよ」

本当にそう思っているのだと容易に知ることができる、甘く柔らかな、美しい微笑。
けれど。
次の一言で、それは霧散する。

「我が姫は微笑まない。……それだけで、私が牙を剥くには十分です」

一切の温度を感じない、冷たいという言葉では表現できないほどの響きを持つ声が紡がれる。

「――それで?貴方方はどうしますか?」






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