シチュエーション
![]() 「…お嬢様、暁香お嬢様。お起きになってくださいませ」 何度も呼びかけられ、暁香はゆっくりと意識を浮上させた。 ぼんやりとした視界に、黒が見える。 「あ、きら?」 名を、拙く呼ぶ。 口元を覆い小さく欠伸をして、暁香は何度か瞬いた。 ようやく像を結んだ瞳に暁良の姿が映りこみ、ふわり、と暁香は微笑む。 それにどくり、と胸を騒がせながらも暁良は眉根を寄せ、窘める。 「またこのようなところでお休みになられて……お風邪を召されてしまいますよ?」 「大丈夫よ、風邪を引く前に暁良が起こしてくれるもの。………起こして」 す、と差し伸べられた暁香の手に、わずかに躊躇してしまう。 「暁良」 「失礼致します」 催促するようなそれに押されるように、断りを入れて手を取る。 軽く引き、わずかに開いた暁香の背と長椅子の間に腕を滑り込ませ、そっとその背を支えて起こす。 きゅ、と暁香が肩にしがみつくのがわかる。 それだけで至福を感じ、暁良は薄く笑む。 「ありがとう」 頬に一瞬の柔らかなぬくもりを感じ、ちゅ、という可愛らしい音。 頬に口付けられたのだと理解した途端、胸が早鐘を打つ。 それを綺麗に隠し、僅かに距離を取る。 「……つまわないわ」 むぅ、と可愛らしく口を尖らせ、拗ねたように見上げる暁香の瞳とかち合う。 「お戯れが過ぎましょう、暁香お嬢様」 「つまらないわ、すっかりポーカーフェイスになってるのだもの」 昔は照れたりして可愛かったのに、と呟く暁香に苦笑しつつ暁良は答える。 「慣れでございましょう」 そんなわけはない。ただ、動揺を押し隠すのが上手くなっただけだ。 今とて、まだ鼓動は早い。 「お部屋に戻りましょう。温かいお紅茶をお淹れ致します」 「暁良」 「はい、如何なさいました?」 「靴、履かせて?」 僅かに長いスカートの裾を乱し、靴下に包まれた足が現れる。 「暁香お嬢様……」 「履かせて」 困ったように見つめれば、有無を言わさぬ言葉に跪く。 「…承知致しました」 僅かの躊躇の後、壊れやすい芸術品に触れるように、そぅっと暁香の足を両手で包み込むようにしてほんの少し持ち上げた。 それを片手で支え、もう片方の手で揃えられた靴を持って履かせる。 靴を履かせた方の足を下ろすと、待ちかねたようにもう片方の足が現れる。 その足にも、先程と同じように細心の注意を払って靴を履かせて下ろす。 「これで、宜しゅうございますか?」 「いいわ」 す、と立ち上がり、暁良は暁香が立ち上がるのを待つ。 しかし暁香は長椅子に座ったまま、一向に立ち上がる気配がない。 「暁香お嬢様?」 「だっこ」 幼子がねだるような声音は甘い響きを帯び。 すぅ、と差し出される細く白い両腕。 潤んだように見上げる両の瞳。 恐ろしく破壊力のあるそれらに、ぐらぐらと揺れる理性を厳しく律し、平静を装いながらそっと抱き上げる。 落ちないように首に腕を回してくる暁香に、暁良は苦笑を零す。 大切な主を落とすような愚を犯すほど、暁良は脆弱ではない。 見た目ではわからないが、一切の無駄なく鍛え上げられた暁良の身体は同年代のそれとは比較にならない。 いかにスポーツで鍛えようと、暁良のようにはならない。実戦に即した鍛え方だからだ。 無論、氷雨に敵うものではないが。 振動を与えないようにゆっくりと咲き乱れる薔薇の間を進む。 温室の扉を開けて外に出ると、温室との温度差にか、暁香は暁良の首に回した腕に力を込めてしっかりとしがみついた。 一方、しがみつかれる暁良は堪ったものではない。 暁香がしがみついてきたことにより柔らかなふくらみが押し付けられ、ただでさえ危うい理性が決壊しそうだ。 それを何とか押さえ込んで邸内に入る。 玄関先でこのままがいい、とごねた暁香に苦笑しつつメイドが靴を脱がすという一面もあったが、無事に暁香の自室に辿り着く。 室内に入り、長椅子に歩み寄ると、僅かの衝撃もないように暁香を長椅子に降ろす。 惜しむようにきゅ、と一度抱き締め、暁香は腕を解いた。 「これで、ようございますか?」 「ええ、いいわ」 「それでは紅茶をお淹れ致しましょう」 一礼し、室内に設けられている簡易キッチンへと向かう。 そうして暁香から死角となるそこで大きな溜息をつき、深呼吸をして心を落ち着ける。 それから手早く紅茶の用意をし、トレイに乗せて暁香のもとへ戻る。 それを慣れた仕種でカップに注ぎ、暁香の前に音を立てないように置く。 暁香がカップを持ち、口元に近づけるのをじっと見つめる。 こくん、と暁香ののどが上下する。 「おいし。…氷雨の紅茶も美味しいけれど、暁良の紅茶が一番好きよ。何もかも、私好みだもの」 「恐縮にございます」 「一番、大好きなの」 「ありがとう、ございます」 万感の想いを込めて告げられた暁香の言葉に、暁良は思わず言葉に詰まってしまう。 暁香が言ったのは紅茶のことだと言い聞かせ、いいように解釈してしまいそうになった自分を、暁良は恥じる。 しかし、その暁良の解釈は間違ってはいなかった。 暁香は紅茶を褒めながら、暁良が一番好きだ、と言っていたのだから。 「本当。以前とは比べ物にならないわ」 くすくす、と小さな声で暁香は笑う。 「そのような…昔のことを引き合いに出さないでくださいませ。恥かしゅうございます」 困ったように笑い、僅かに顔を俯ける。 しかし長椅子に座る暁香にはそのせいで暁良の顔が良く見え、またくすくすと笑ってしまう。 「暁香お嬢様…」 困ったような、窘めるような呼びかけに何とか笑いをおさめる。 「でも、今は一番好きよ。氷雨のより、ずっと」 にこり、と美しい笑みが浮かぶ。 輝くばかりの笑みでそんなことを言うなど…と暁良は思う。 しかしそれを表に出すことはしない。 「それはようございました。私も研鑽を重ねましたかいがございます。これからもより暁香お嬢様のお好みに合うよう、精進していく所存にございます」 「そんなこと言わなくても、何もかも私の好みなのにね?」 くすくす、と笑う暁香を見つめつつ、暁良は更に言葉を重ねる。 「それは暁香お嬢様のためにお淹れしておりますから。暁香お嬢様に喜んで頂けますなら、これ以上の喜びは私にはございません」 「……ありがとう」 ほんのりと染まった頬を両手で押さえ、ふんわりと暁香は微笑んだ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |