これは恋ではない〜春〜(非エロ)
シチュエーション


「入って」

扉の向こう側から発された少女の声に、つい今し方その扉をノックした青年、高遠棗は目を伏せ、小さく息を吐いてから目の前の扉を開いた。

「失礼します。桜子様、旦那様が・・・」

用件を伝えようとした青年の声は途切れる。照明が消された暗い部屋の中、光と呼べる物は扉が開け放たれたテラスから差し込む月明かりだけである。
風で揺らめくカーテンの向こう、桜子と呼ばれた少女はテラスの手摺りに寄り掛かり此方を見つめていた。
何故かキャミソールにショーツというあられもない下着姿で、その為惜しげもなく晒されているすんなりと伸びた手足は月明かりに照らされ、太陽の下で見た時以上に白く輝いて見えた。
また少女の長い黒髪は夜風をはらんで舞い上がり、月光を纏ったその姿を一層艶めかせていた。
棗はその、儚さを含んだ美しさに魅せられたのだ。しかし、直ぐに己を律し何事もなかったかのように振る舞う。

「桜子様、旦那様がお呼びです。」
「そう」

短く返した言葉には、明らかに不機嫌な色が滲んでいた。
桜子は顔を逸らし、庭の景色に目を向けた。
これ以上男の話など聞きたくないし、此処を動く気もないとでも言うように。
先程から男は表情一つ変えない(少なくとも桜子にはそう見えた)。桜子は其れが酷く苛立たしかった。

「桜子様」

桜子は答えない。男の方を見ることもしない。
困ればいい。困惑して、そのポーカーフェイスが崩れればいい。
しかし、そうはならないであろうことも桜子は判っていた。
何時だって、男は表情を変えはしなかった。
何時だって、感情を揺さぶられるのは桜子の方だった。

「桜子様」

再びの呼びかけと同時に、肩にそっとガウンを掛けられる。

「もう春とはいえ、そのような格好で夜風に当たれば風邪を引きます。部屋にお戻り下さい。」
「・・・別に、寒くなんか無い。」
「それに婚約者のいる方が他の男の前で下着姿で居るのは宜しくないと存じますが。」

そんなことは判っている。
桜子は来春、高校卒業と同時に親の決めた婚約者に嫁ぐことが決まっている。
判っている上でこの姿で居る意味をどうして男は理解しようとしないのか。
年頃の少女が男の前で下着姿になることが恥ずかしくない筈など無いのに。

「・・・・・・・・・よ」
「桜子様?」

囁くように告げられた言葉が聞き取れず、棗は少し首を傾げた。

「棗の、前だからこそよ」

今度はよく通る凛とした声で、桜子ははっきりと男に告げた。
その瞳は強い意志を湛え男を見据えている。
目を逸らすことが出来ない。
互いに見つめ合ったまま、どれ程の時が過ぎたのだろうか。
一瞬とも、永遠とも感じた時間の後に、目を伏せたのは桜子の方だった。

「冗談よ」

少女はそのまま何も無かったかのように男の横を通り過ぎてクローゼットへと向かい、
中からワンピースを取り出してそれに着替えた。

「それでお父様は何処にいらっしゃるの」
「書斎です。」

桜子が着替え終わるのを見計らって、棗はその肩に先程のガウンを掛けた。
桜子は其れを平然と受け止め、棗が開けた扉から出て書斎へと向かった。






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