島津組6/涙雨恋歌 第4章 野分
シチュエーション


辻井が都内に戻ってきたのは、水曜日の夕方だった。共に連れて行っていた若い衆を引き連れ、事務所へ戻り島津に挨拶をした。

「ただいま戻りました」
「お前、それ以上俺に近寄るな」
「は?」
「風邪っぴきに用はねェ。後で見舞いをやるから、家帰って寝てろ。事務所中に風邪菌撒き散らすな、とっとと帰れ。お前ら、塩撒け、塩」
親分にそこまで言われては、自覚症状がないとはいえ事務所にいるわけにもいかない。
葬式帰りだから塩撒くんっすよねえ……という若い衆の声を聞きながら、しょうがなく、辻井は自宅マンションへ戻った。
旅の荷物を片付けようとクローゼットを開けた途端、悪寒が背中を走り、そのまま辻井は倒れこんだ。
瀬里奈と最後に会った夕方に、半身を雨に濡らしたことを思い出す。新幹線も旅先のホテルもエアコンが効きすぎて、そういえば寒気がしていたことも、かろうじて思い出した。


目を覚ますと、ベッドに寝ていた。ナイトテーブルには水差しとグラス、タオルが乗せてあった。グラスに水を注ぎ、浴びるように飲んだ。
いつの間にかスーツも全てハンガーにかかっていて、見たことのないパジャマに着替えされられていた。そばにいつも羽織るガウンがある。それを羽織ってダイニングへ向かった。

「あら、お目覚め?」

キッチンから、女の声がした。雨の日に車に乗せた、女の声だった。

「彩さん……?何をして……」
「食べられるなら、お粥作るわよ」

辻井の疑問を遮るようにして彩が言った。
いただきます、と答えて、ダイニングの椅子に座った。

「着替えもあなたが?」
「ええ。勝手にベッドへ運んじゃってごめんなさいね」
「いえ、お手数おかけしました」
「隆尚さんから、看病に行ってこいって言われて来てみたら、玄関のドア開けて倒れちゃうから驚いたわよ。後で、隆尚さんも来るって」

彩が作った粥をゆっくり口に運ぶ。しょうががたっぷり入った熱い粥を食べて、辻井の身体に汗が滲んだ。

「汗かいたら、着替えたほうがいいわ。着替え、買ってきてあるから」
「もう、着替えさせてくれないんですか」

ため息をついて微笑みながら彩は首を振る。長い髪が軽く揺れる。

「手に入らないものばっかり欲しがるのは、あなたの悪いクセね」

汗で額に張り付いた前髪を彩が梳いた。

「まだ熱いじゃない。それ食べたら、もう一度寝なさい」

彩の手を掴んで、そっと指に口づける。

「帰らないでくれますか」
「――いいわよ」

彩は頷いて、辻井の髪を逆の手で梳いた。
部屋は線香の香りがした。彩が、仏壇に線香を立ててくれていたのだろう。
その香りを避けるように、辻井は寝室に戻った。彩が寝室に入ってきた気配を感じながら、眠りに落ちた。
彩がそっと手を握ってくれているような、そんな気がしていた。


夢の中で、瀬里奈が泣いていた。
瀬里奈はいつも泣いてばかりいる。笑っているほうがずっといい顔をしているのに、辻井の前ではいつも泣いている。
まだ子供の頃、近所の子供の輪に入れずにひとりで遊んでは、淋しそうに泣いていた。
母親が子供を迎えに来る中、ひとりぼっちで公園に残されて、不安に涙を流していた。
ヤクザの子供だといじめられ、友達が作れずにやっぱりひとりで涙をこらえていた。
つい最近も、父が母以外の女性と結婚すると知り、そのショックで泣き叫んでいた。
泣かないでください。
夢の中で辻井は瀬里奈にそう言っている。
泣かないでください。女が泣くのを見るのは、辛いんです。女の泣く顔を見るのは、もう嫌なんです。

辻井は夜中うなされて何度も目を覚ました。その度、彩が辻井の背をさすり、汗を拭き、着替えさせてくれた。
何度目かに目覚めた時には既に朝になっており、すずめが窓の外で鳴いていた。

「普段極道だなんだって威勢がいいけど、病気しちゃうと子供より弱いわね」

辻井の背中の汗を拭きながら彩がからかった。

「慣れてませんからね」

憮然として辻井は答えた。だが、彩の看病のおかげか元来の身体の強さのおかげか、一晩寝た今は随分と楽になっていた。

「よう辻井、マメドロ(寝取り)は絶縁って覚えてるか。お前の場合はついでにあそこ引っこ抜いて、生きたまま刻んでやるから覚悟して手ェ出せよ?」

ドアのところに島津がニヤニヤ笑いながら立っている。
艶のあるグレーシャンブレーの細身スーツに、パキっと際立った白いスタンドカラーシャツ、胸ポケットにはボルドーのネクタイをポケットチーフ代わりにいれてある。
島津がそんな格好をすると、本当にイタリアあたりの色男風になる。並んで歩くのが嫌になるほどだ。

「随分今日はラフですね」
「ああ。珍しく会議だ会食だってのがないんでな。あのな、お前が鈍感だってのは知ってるが、あんまり若ェのに心配させんなよ」

一緒に行った若い衆から何度か体調を確認されたが、その度に辻井は大丈夫だと答えていた。どうやら若い衆同士で辻井の体調について会話していたのが島津の耳に入ったのだろう。

「それにな、一晩彩を占領したんだ、そろそろ回復してるだろ。飯食ったら事務所行くぞ」
「おやおや、人使いの荒い親分さんだこと」
「そっちは慣れてますよ」

彩が弾けるように笑った。


まだ少し立ちくらみがするが、なんとかスーツを着て、ダイニングへ行く。そこにはジャケットを脱ぎ、まるで自分の家のようにくつろいでコーヒーを飲んでいる島津がいた。リビングの床には島津のガード役の組員が正座をして待っている。

「もう大丈夫?」

キッチンから彩が訊く。立ちくらみがすると言うと、食ってねえからだ、と島津に一蹴される。野蛮よね、と茶化した彩が昨晩の粥と、鶏肉と豆腐をすりつぶして団子にしたスープを出してくれた。

「なんかそっちのほうが旨そうだな」

新聞を読んでいた島津が、辻井の皿を覗き込んで呟いた。

「いやしいこと言わないでよ、あげますから」

やれやれと彩がコンロに火を点けた。スープ皿を取り出してスープをよそい、島津の前へ差し出す。話をしながらふたりはスープをすする。
「真由子のあの件、昨日動きがあったらしい。夏目が報告したいって来てるぜ」
「3日で随分調査も進んだんでしょうね」

さてと行くか、と島津が立ち上がると、即座にリビングの組員が玄関のドアを開けて待つ。
島津の背中の龍が、うっすらと白いシャツ越しに人を威嚇している。主題の昇竜が描かれているだけで、背景はほとんどない。腕や胸、脚に絵柄がかからないように、彫り師に頼んだからだ。
普段のスーツなら島津も必ずベストを着ける。スーツ姿のマナーとして基本的に人前で上着を脱ぐことはないが、万が一上着を脱いだ場合でも、背中の刺青が透けて見えないためにだ。
カタギ衆と会う予定が入っていない今日は、例え上着を脱いで、背中の文様が見えても構わないのだろう。むしろ島津の龍に憧れる者は多いので、透けて見えることがプラスに作用してもマイナスになることはない。
辻井自身は墨を入れていないが、稼業に入ったばかりの時はやはり刺青には憧れた。島津が「意味ねえからやめとけ」と止めなければ、辻井も墨を背負っていたはずだ。


彩が島津と辻井の上着を着せて、玄関まで見送りに来た。

「片付けたら、カギ閉めて帰ります。都合のいい時に連絡くれれば、カギを届けに行くわ」
「わかりました。一晩、ありがとうございました」
「いってらっしゃい」

彩が言うと、島津が彩の腰を抱いて軽く口づける。島津がじゃあな、と言い置いてふたりは地下の駐車場へ向かった。

島津の車の中で夏目が話を始める。

「ひな子を殴ったのは、森尾宏太。M大学の3年生です。大学のサークルやアルバイト先なんかで、カモになりそうな女を見つけては、マンションに誘ってコマシてます。恐らくそのマンションにカメラを仕込んで、撮影しているんでしょう」

先に手渡されているレポートには、宏太の自宅、家族構成、その詳細、今までカモにしてきた女のリスト、本命の彼女などがぎっしりと書き込まれている。

「マンションやアルバイトは、カモを変えるごとに変えてます。引越し先も容易に掴めないように小細工してますし、番号も固定せずマメに変えて足がつかないようにしてますね」
「随分本格的だな、おい」

島津が鼻で笑う。
隠し撮りしているビデオは女を捨てるごとに青山の店に売り込みに来ていて、盗撮モノの中ではそこそこ人気がある。まだひな子のものは売り込みにきていなかった。

「風呂屋で働きゃあ、他とは違って結構な金になるからなあ」
「本当は手放したくなかったんじゃないですかねえ」

夏目が笑いながら言った。

「本当にヒモになりたきゃあ、殴るだけじゃダメなんだよ。殴った後に、今までしたこともないくらい優しくしとかなきゃよ。殴りっぱなしじゃ、ただの暴力男だぜ」

まだまだだなあ、と島津は笑う。


「それから、今の女がその女子高生ですね。ひな子を殴った次の日に金を初めてせびったようで、援助交際して補導されてます」
「こりゃあ、お嬢さんの友達の万理って子ですね」

万理の写真を手にとって、島津に見せる。

「――瀬里奈のヤツ、やたら男関係について訊いてたな」
「いや、少なくとも自分たちが調べ始めてから、森尾はお嬢さんとは接触してないですよ」

助手席から後部座席を振り向いて夏目が話した。

「で、動きってのは?」
「昨日の夜、ひな子に電話があったんですよ。もう一度金を寄越せって脅しの電話です。なんで、それを録音させてまして、今頃高瀬さんと一緒に、ひな子が森尾に会ってるはずです」

夏目は元々は腕利きの刑事だった。優秀すぎたのか、キャリア組の男に徹底して嫌われ、嵌められて懲戒免職になった。そこを辻井が拾って調査専門に育ててやった。

「森尾に仲間はいないのか」

島津が訊いた。

「マンションの借主が、アルバイト先で仲のいい小野寺って男なんです。こいつも森尾も他に自宅アパートは持ってますんで、マンションは本当に撮影のためだけに借りてるみたいです。
小野寺は、売り込みにきてるビデオにも映ってませんし、バイト先以外でふたりが一緒にいるところは見かけないですね。いずれにせよ、ひな子については無関係かと」

夏目がそこまで答えたところで、車は事務所へ到着した。


事務所へ入ると、伊達がソファに座っていた。その横にはジャケットにデニムというカジュアルな格好の男が緊張した面持ちで立っていた。
島津の顔を見て伊達も立ち上がる。

「お?どうしたんだ、伊達」
「ああ、こいつを連れてきたんだ」

横にいる男の肩を叩く。インターネット関係の人材だという。

「俺には理解できねえけどな、コンピューターとかインターネットとかは専門だ。ま、使ってやってくれ」

伊達が関係しているソフトハウスの社員なのだが、バクチ好きが高じて借金で首が回らなくなっていた。そこにつけこんだということだろう。

「横田といいます、よろしくお願いします」

横田がおどおどと頭を下げたところに、夏目が話に割り込んできた。

「話を切って申し訳ありません、伊達の叔父貴。さっそくなんですが、彼、連れていってもいいでしょうか」
「おう、いいぜ。高瀬だろ。さっき事務所にも電話あったからな。連れてってくれ」

高瀬が宏太と話をつけ、メディアだけではなく、デジタルデータも没収したいのだが、そのやり方がわからないと夏目に電話してきたのだ。
島津が伊達を従えて組長室へ消えた後、横田を連れて夏目が事務所を出て行った。

夏目が出て行って昼も過ぎた頃、青山がまさに憤怒の表情で事務所へ駆け込んできた。

「叔父貴、ご苦労様っス。カシラ、お帰りなさい」

ぺこりと挨拶をした後、高瀬はいないかと当番の若い衆に怒鳴った。

「なんだよ、高瀬ならひな子と一緒だぜ」

普段あまり怒鳴らない青山の怒りの表情に、若い衆が声を失っていたところを辻井が救った。

「森尾の野郎、別口で捌いてやがったんすよ。クソッ、ナメやがって!」

一瞬の沈黙の後、辻井が森尾を連れてくるようにと指示を出した。

「あとな、ここ、ソファずらしてビニールシート敷いとけ」

準備をしているところに島津が組長室から出てくる。

「やれやれ。安いスーツにしといて正解だったなみたいだな。伊達、こっち来とけ」

安いといっても、普段の特注スーツに比べれば安い、というだけで決して安いわけではない。ジャージの上下を着てビニールシートを用意している部屋住みの若い衆は、いつか俺もと島津の後姿を眺める。

「お手本見せたらどうだ。得意だったじゃないか」
「おいおい。いつの話してんだよ」

そんな会話をしながら、島津と伊達は組長室に引っ込んだ。


震え上がった宏太が高瀬と共に事務所にやってくるのに、そんなに時間はかからなかった。
横田は他の高瀬の舎弟と残り、データの確認、削除を行っているらしい。高瀬はダンボール一杯のビデオテープやDVDディスクも抱えてきた。
テレビの音声を大音量で流し、ビニールシートの上に宏太を転がす。間の抜けた笑い声がテレビから響く。その合間に人間の呻き声が混じって聞こえてくる。

「テメエ、言うに事欠いて、俺じゃねえだとッ!ふざけんな、じゃあこのDVDを売ってたのは誰なんだよ、ああ?こりゃあお前のカモの女のビデオじゃねえかッ」

ビニールシートには既に鮮血が飛び散っている。シートに倒れた宏太の腫れあがった顔を、青山がごつい靴で踏みつけ、ぐりぐりと押しつけた。

「おれじゃ……ないです」

それでも宏太は自分ではないと言い続ける。ふざけんじゃねえ!青山の蹴りが宏太の腹に突き刺さった。
まあまあ、と高瀬が青山をなだめ、宏太の髪を掴んで身体を起こした。

「おめえよ、女、風呂に沈めて稼がして、捨てた女のビデオうちに売り込んで稼いで、いい身分じゃねえか。あん?そんだけで飽き足らず、うちに売り込んだビデオを通信販売でも儲けてるってよ、どういうことだよ、おお?」

ぐいと顔を近づける。

「ヤクザナメんのもええ加減にせえよ、コラッ!」

唾を飛ばして怒鳴り散らし、頭突きを何度も食らわす。宏太の額が割れて血が流れてきた。それでも宏太は、知らない、自分ではない、と言い続けた。

「おめえじゃなかったら誰がやるんだよ、誰が!ああ?いつまでも知らないじゃすまねえぞ!」

高瀬が髪を持って頭を振り回し、腹を思い切り蹴り上げた。ぐぅと妙な声を出して、宏太が嘔吐した。

「智也だ。あいつしか考えられねェ……」

青山と高瀬が夏目を見る。

「バイト先の男だな。しまった、あいつか」

ちょうど智也の動きがなかったために気づかなかったのだ。だが、気づかなかったという言い訳は効かない。夏目は自分の舎弟に、智也を捜すように命じる。

「青山さん、高瀬さん、申し訳ない。この失態はきっちり償います」

殴られているうちに尻ポケットから飛び出した携帯電話を、宏太の目の前に突きつける。

「電話しろ」

しかし、何度電話しても、お決まりの電源が入っていないというメッセージが流れるだけで、智也がその電話に出ることはなかった。

時間が経つにつれ、宏太の顔のひしゃげ具合が増していく。リンチを加えるほうにも疲れと焦りの色が見え始めていた。
辻井がゆっくりとソファから立ち上がる。殴ろうとしている青山たちの手を止め、水を持って来いと言う。慌てて水を注いできた若い衆からグラスを受け取ると、宏太の前へしゃがんで言った。

「水飲んで、落ち着いて考えたらどうだ。小野寺、いつもどこにいたよ?覚えくらいあるだろう、ん?」

グラスを口元にあて、宏太が水を飲んでいる間頭を支えてやる。優しい声色で、宏太の耳元で囁くようにして辻井は言った。

「お前以外で仲のいいヤツ、いないのか?女はどうだ?なんでもいいさ。覚えてること、言えよ」

そうすれば俺たちもこんなことしないんだぜ、と言わんばかりの口調だ。宏太の目に少しだけ生気が戻り、必死で頭をフル回転させているのがわかる。
そしてようやく宏太が呻くようにして声を出した。

「あの子だ……あの……万理の友達の、なんっつったけな……。どっかの親分の娘……」

ピン、と気温が数度冷えたような緊張感に襲われる。

「せり……、せりな。そう、ながはませりな。あの子と一緒にいるんかもしれねェ……」

よく思い出してくれたな、と辻井は宏太に声をかけ、立ち上がった。険しい顔で組長室へ行く。

「オヤジ。お嬢さん、どこにいらっしゃるか分かりませんか」
「――関係してんのか」

島津のこめかみがぴくりと動いた。

「わかりません。小野寺と一緒にいるかもしれないと、森尾が言っています。苦し紛れの嘘とも思えないんで、念のため確認を」

島津がプライベート用の携帯電話を取り出し、耳に当てる。

「ダメだな。電源入ってないっていってやがる」
「至急、お嬢さんも探させます」

組長室を出て、辻井は夏目に瀬里奈を探すように指示を出す。


その時、事務所の電話が鳴った。電話番の若い衆が電話に出る。

「はい、島津組ッ!カシラですか――アヤ?あやさん?」

電話を持って辻井を見る。貸せ、と辻井が手を差し出すとそこに受話器が置かれた。

「困りますね、事務所に電話なんかされちゃ」
『高瀬さんって言ったかしら。彼が持って帰ってきたビデオカメラの中のデータ。見た?』
「――おい高瀬、ビデオカメラあったか。それ、見せろ」

電話を持ったまま辻井が高瀬にビデオカメラをテレビにセットさせる。再生ボタンを押すと、さっきまでの大音量でいきなり男と女の声が聞こえてきた。


『乳首も硬くなってるじゃないか。ああ……こっちの、瀬里奈の芯も尖ってきてる』
『あんっ、はぅっ……ああ……あああああぁ』


慌てて高瀬が音量を下げた。辻井が呆気にとられて画面を見ている。他の組員で瀬里奈を知っているものは、この結果の恐ろしさに組長室と辻井の顔とテレビ画面とに視線を泳がせる。
組長室の扉が開いた。

「ほぅ。まだガキだが、いい女がいい声で鳴いてるじゃねえか、おお?」

つかつかとやってきて、ビデオカメラを蹴り上げる。勢いよくテレビのディスプレイにぶつかり、バラバラになったディスプレイの破片が高瀬の頬に当たった。
事務所中が静まり返った。

「どこのどいつだ。ナメた真似しやがって」

無言で顎をしゃくり、高瀬に宏太の顔を持ち上げさせる。顎下を蹴り上げて、倒れたところを腹を上から踏みつける。ガフッと呻いて宏太は白目を剥いて失神した。

「彩さん、どういうことですか」

言いながら電話を操作してハンズフリーモードにする。

『映ってたのが、小野寺智也。24歳。M大学理工学部卒業。現在フリーター兼動画配信及び通信販売サイトウェブマスター』
「彩ッ!」

島津の怒号が飛ぶ。窓がびりびりと揺れた。失神している宏太をそれでも島津は蹴り続けている。
最近組員になった若い衆たちは島津の暴力を初めて見る。自分たちもヤンチャに暴れていた連中だが、それでも島津の爆発的な暴力には敵わない。まるで暴風雨を伴う台風だ。一気にやってきて、理不尽なまでに痛めつけていく。

「そろそろ止めとけ。死ぬぞ」

伊達がやってきて、島津を止めた。

「彩さん、今どこですか」
『ホテルアーバン。512号室』

この街で少々高い金額を設定しているシティホテルの名前を彩は告げた。青山、高瀬を先頭に、彼らの手下が弾かれたように外へ駆け出す。
「このふたりの関係と絵図は後で教えてくださいよ」

受話器を放り投げ、辻井は事務所を飛び出した。

目的のホテルの近くに、彩は立っていた。彩が掴んでいる情報を教えてもらい、夏目の情報と統合する。
彩は瀬里奈とコーヒーショップで会った後、ふたりをつけて行った。レストランの化粧室で智也にしなだれかかると、智也は翌日の夕方に会いたいと口説いてきた。
その後マンションを確認すると、次の日の夕方、智也と待ち合わせをしていた時間に部屋に忍び込む。
調べてみると姿見はマジックミラーになっており、裏側にビデオカメラが設置されていた。その他にもベッドの足元にあるクローゼットの中、ベッドの頭の上にあるスピーカーの中にもカメラが仕込んであった。
横、後ろ、上からの画像を録画できるように設置されており、マジックミラーの裏のビデオを調べると瀬里奈の姿が見える。消去しようと思ったところに誰かがくる気配がして、窓から逃げた。
待ち合わせの場所へ行くと、まだ智也が待っていたので、もう少し情報を得るつもりでホテルへ行くと、寝物語に智也が通信販売の話を始めた。


宏太がコマシてきた女のビデオを保存、編集、コピーしたのは智也である。DVDを青山に売り込んでいるのは宏太で、その代金は智也と宏太で折半だった。
宏太は女を抱けるという特権があるのに対し、智也は金だけだった。最初はそれでいいと思っていた。リスクがあるのは宏太だけ。智也自身はほぼノーリスクだ。
だが金も、女に小遣いをせびることができる宏太に比べれば智也の実入りは微々たるものだ。特にひな子という金づるを掴んだ宏太は、見る見るうちに羽振りがよくなっていく。
さすがに不満を持った智也は、宏太に隠れて動画配信サイトとネットでの通信販売を始めた。もともとビデオのマスターを持っているのは智也だったため、容易にそれができたのだという。
それを彩は青山にリークした。彩の情報を元に調べた青山が裏を掴み、激怒したというわけだ。
智也と宏太は、表向きはただのバイト仲間を装い、智也が瀬里奈を連れ込んだマンションにはふたり同時にいないように気をつけていたのだという。
それはいざとなったら宏太を切り捨てて、自分は安全圏へ逃げるための智也の策だった。
智也自身はマンションへ女を連れ込むことも瀬里奈以前は一切していないと、彩に語った。
通信販売関係からいずれは智也の所業もバレたかもしれないが、基本的には瀬里奈を連れ込んだことが智也の運命の分かれ目になったのだ。


彩は辻井が電話を切った後もう一度事務所に電話をかけ、横田にサイトを一旦閉鎖するように言っていた。
通信販売の顧客データはメーラーとデータベースに残っていた。恐らく今頃青山がそのサイトと顧客データをフル活用しているに違いない。
クローゼットとスピーカーの中のカメラの映像についても、ちゃんと調べて持ってくるようにと伝えてあるらしい。

「もっと早くに教えてくださればよかったんですよ」

辻井は多少恨みのこもった声で彩を責めた。

「まさか、そっちでも追ってるだなんて思わなかったのよ。ごめんなさい」
「大体、ホテルへ行ったって。オヤジが知ったらどうするんですか」
「情報も欲しかったし、隆尚さんが小野寺くん殴る口実にもなるじゃない」

やれやれと苦笑まじりのため息を辻井はついた

「あなたは、瀬里奈ちゃんの前で暴力振るわないように気をつけたほうがいいわよ」
「大切なお嬢さんを傷つけられたんだ、そいつは我慢できるか、わかりませんね。携帯もつながらないんで、心配でしてね」

今度は彩が苦笑した。

「それは、彼女が自分で携帯ぶつけて壊したのよ。小野寺に会えなくて、苛立ってたみたいね。ガツン、って一発よ」

兄弟では瀬里奈のほうが父親に似ている。顔立ちはともかく、性格は瀬里奈は父に似て燃え上がったら止まらない。昔そう言ったらひどく怒られたことがある。

「あのね、小野寺は、彼女がヤクザの親分の子供だと知って、やってるのよ」

ホテルの入り口へ足を向けていた辻井が彩を振り返った。

「それがどういうことか、きっちり教えてやる必要があるようですね」

ぎり、と奥歯を噛みしめて辻井はホテルの裏口から中へ入った。

エレベータに乗り、512号室へ行く。ドアチャイムを鳴らす。
殺風景な部屋に入ると、ベッドの手前に椅子とテーブルのセットがある。そのセットの横で、若い男が寝転がされていた。
ベッドに瀬里奈が呆然と座っている。上半身は下着だけの格好になっており、辻井は部屋を横切って瀬里奈のそばへ行く。上着を脱ぎ、瀬里奈の肩にかけてやる。

「どういうこと……?ねえ、辻井さん、どういうこと?」

青山が智也を殴ろうとしているのを見て、辻井が止めた。
智也の身体を押さえている青山から智也の身柄をもらい、智也の襟元をぐいと持ち上げて、壁に身体を押し付ける。

「女ヤるのは森尾の役目じゃなかったのか」

ぜえぜえと息を切らしながら、それでも智也はギラリと辻井を睨みつけた。

「彼女は、特別さ。おれの獲物だ」
「彼女がヤクザの娘だって知っててやったんだってな?」
「万理って子が宏太に、ヤクザの娘のクセにやたら純情で潔癖なのがいるって面白半分に言ってたんだよ。あの子、笑ってたぜ。自分の親のこと棚に上げてよく言うってな」

後ろで瀬里奈が嘘、と呟いたのが聞こえた。
万理がそんなこと言うなんて、嘘よ、と。


「それで近づいたのか」
「そうさ。処女で、世間知らずのヤクザの娘を、淫乱に調教するビデオなんて売れそ……グェッ」

最後まで言う前に辻井の拳が智也の身体にめり込んだ。表情を変えず、淡々と辻井は智也を殴り、蹴っていた。
そのうち智也の身体を物のようにして掴み、バスルームに放り投げる。
シャワーから冷水を出し、智也の口の中にシャワーヘッドを突っ込んだ。バタバタと暴れながら智也は抵抗する。やがて口の中からシャワーヘッドを出して言った。

「調教だと……?ふざけやがって。ヤクザの娘が世間知らずで何が悪いんだ。ヤクザに絡んだらどうなるか知らねェてめえのほうが、よっぽど世間知らずだぜ」

言いながらまた殴り始める。青山が後ろから辻井を羽交い絞めにして止めた。やめて、という瀬里奈の声が水音に紛れて聞こえてきた。

「カシラッ!お嬢さんが見てます。やめてください、お嬢さんが――泣いてます!」

やがて辻井が落ち着いたと見て青山は手を離し、申し訳ありませんでしたと頭を下げた。シャワーの水が、智也だけでなく辻井と青山も濡らしていく。

「いや……ありがとよ」

辻井はバスルームを出る間際、床に倒れていた智也の脇腹を蹴りつけた。呻き声さえもう出ない、という状態で智也は蹴られた脇腹をかばおうしていた。


恐怖に怯えて泣いている瀬里奈と目が合う。大きな瞳には涙と、明らかに恐怖の色が浮かんでいた。
ヤクザの娘とはいえ、暴力に免疫があるわけではない。島津と離れて暮らしていた上に、島津が子供には徹底して暴力的な面を見せないようにしていたために、尚も瀬里奈も父や辻井の本来の顔を知らない。
ただでさえいきなりヤクザが部屋に飛び込んできて、相手の男を殴りつければ誰だって恐怖を感じる。親友だと信じていた万理が自分を蔑んでいたと知らされたショックもある。
その上暴力を振るっているのが、今まで無邪気に信じていた辻井だ。目の前で起こっている惨劇に、恐怖以上の何かを感じたのだろう。バスルームから出てきた辻井の姿を見て、ビクリと怯えて震えた。
今まで大切にしてきた何かが壊れた気がした。身体から滴る水滴がカーペットにしみを作っていくように、じわじわと一度治まった暴力衝動がまた湧き上がってくる。
あまりの怒りに、思わず我を忘れて殴りつけてしまった自分を罵る。瀬里奈を外に出すか、もしくは小野寺を事務所へ連れて行ってからにするべきだったのだ。いつもならそれくらいのことは判断がつくというのに、何故今回に限って。
辻井の拳が再び握られたのを青山が目ざとく見つけて、カシラ、と辻井に呼びかけた時、ドアチャイムが鳴った。青山がドアを開けると、島津が入ってきた。
その後ろから彩も入ってきて、ドアを閉めた。

「お父さん……」

瀬里奈はますます困惑した表情を見せ、そして初めて見るであろう父の怒りの表情に、更に怯えていった。
彩はちらりとそんな瀬里奈を見て、バスルームを覗いた。

「あら。いい男が台無しね」

彩が声をかけると、高瀬がシャワーを止めてバスルームから智也を出した。その姿を見て瀬里奈が息を呑んだ。

島津は悠然と部屋を歩き、智也の前でしゃがみこんだ。

「小野寺っつったな。お前、ヤクザの娘だけじゃなくってヤクザの女にも手ェ出したみてえじゃねえか」

そっちが誘ったんじゃないか、と絶え絶えの息の下から、智也がそう言った。
うつ伏せに倒れていたのを、青山と高瀬が後ろから両腕を掴んで顔を島津に向けさせた。

「女、見る目は認めてやるぜ。ついでにその度胸もな」

智也の前髪を掴み、上に引っ張り上げる。

「頭の方はかなりあったけえみたいだがなッ」

グシャっという音がした。島津が左腕につけていた腕時計を拳に巻き、腕時計で智也の鼻を殴ったのだ。

「やめてお父さん」
「お前は関係ねえ、瀬里奈。黙ってろ」

止めようとした瀬里奈を遮って、島津は言葉を続けた。

「お前こいつにどこ触られた」
「おでこ」

ガツン。頭突きを一発。

「後は」
「ほっぺた」

ごつい指輪を嵌めたままの拳で、頬を殴り飛ばす。

「後は」
「唇」

立ち上がって、靴先で口を蹴る。

「突っ込まれたのか」

彩が頷いた。
呻いて倒れた智也の股間を思い切り踵で踏みつける。悶絶の悲鳴のような息を吐き、智也は床でうごめいた。辻井の横にいた青山と高瀬が、苦い顔で自分の股間を守っていた。


「さてと――うちの娘には随分色っぺえことしてくれたみたいで、父親としてはなんて言えばいいだろうな、おい」
「もうやめてお父さん!もう、もうそんなになってるじゃない、ねえ。もうやめてッ」

瀬里奈が叫んだ。

「お願い、わたし、好きなの。智也さんのこと、好きなの」

ボロボロと大粒の涙を流して瀬里奈は智也に言った。

「好きって言ってくれて、嬉しかったの。女として扱ってくれたのだって、嬉しかったの。だからやめて。もうやめて好きなの、好きなの……」

振り上げた拳を下ろし、智也の顔に唾を吐く。

「好きだとよ。気にいらねえが、娘がああ言うんじゃしょうがねえ。父親としては勘弁してやらァ」

事務所連れてけ、と青山に告げる。高瀬の舎弟が、洗濯物をまとめるワゴンを持ってきていた。ワゴンの中から布を取り出し、智也をくるむ。

「智也さん……」

手を伸ばして触れようとしたその手を、智也は力なく払いのけて、最後の悪あがきとばかりに瀬里奈に向かって言った。

「好みじゃないんだよ。お前みたいなションベン臭え女はよ……」

島津の足が一閃して、智也の顎を蹴り上げた。

「お前、やっぱり女見る目、ねえな」

辻井が早く連れて行けというように首を振る。青山と高瀬が、智也の口にガムテープを貼った。
舎弟が持ってきたワゴンに智也を押し込む。作業着を着た舎弟がワゴンを押していき、青山と高瀬も部屋を出て行った。
その間に彩は島津にベッドの上のタオルを一枚渡した。そのタオルで島津は殴った手と靴を拭く。
拭き終わると、島津はぽいとタオルを捨てて、瀬里奈を見た。

「瀬里奈。あんなんでも、お前が惚れたってんならそれでいい。俺は邪魔しねえ――だが、あいつは俺たちの仕事の邪魔をした。だから、あの男は諦めろ。明日にはこの街にいねえ男だ」
「助けてあげて、お父さん」
「殺しゃしねえよ」

大きく息をついて、島津はそれだけ言って出て行った。
彩はもう一枚のタオルで濡れたままの辻井の頭を軽く拭いてから、ぽんと肩を叩いて部屋を出て行った。

こんな告白を自分は望んでいたのだろうか。辻井は涙を流す瀬里奈を見ながらそう思う。
いつかは瀬里奈が惚れた男を知ることがあると思っていた。それがどんな男なのか、不安でもあったが楽しみでもあった。
だが、自分が暴力を振るいボロボロにした男を見て、その男が好きなんだと叫ぶように告白されるとは思ってもいなかった。
改めて、自分がヤクザであることを思い知る。
普段どんなに優しい顔を見せていたとしても、いざとなれば平気で拳を握り人を殴れる。ヤクザになる前からそういう人生を送っていたし、ヤクザになってからは暴力は当たり前のことだった。
どうしようもなく、虚しかった。
声もなく涙を流す瀬里奈を辻井はただ見つめていた。


どれくらいそうしていただろうか、やっと辻井は瀬里奈に声をかけた。

「もう大丈夫ですか、お嬢さん」
「さ、触らないで……」

肩に触れようとした辻井の手を、瀬里奈は身をよじって避けた。

「いや。いや。いやッ」

辻井を見ようともせず、自分で自分の身体を抱きしめて、ひたすらに首を振って辻井を拒絶する。

「お嬢さん……」
「いや、いやいや。触らないで。智也さんを殴った手で触らないで」

自分が羽織っている上着が辻井の物だと気づいて、それをはぎとって辻井に投げつけた。

「もういや。来ないで。わ、わたしに近寄らないでッ」

すうっと辻井の臓腑が冷えた。頭の中によぎっていた様々な感情や思いや、言い訳じみた説明が、全てきれいさっっぱり消えていく。
彩が肩に残していったタオルを床に捨てた。

「わかりました。お嬢さんには触れませんから、だから、服を着てください。お願いします」

放り投げられた上着から携帯電話を取り出し、廊下に出て島津に電話をした。

『どうした?』
「オヤジ、申し訳ないですが、彩さん、戻ってきてもらえませんか」
『なんだよ、お前が連れて帰ればいいじゃねェか。そう思ってお前を置いてきたんだぜ』
「――拒絶されちまいましたよ、お嬢さんに」

一瞬の沈黙が、ふたりの男の間に流れた。

『わかった。彩連れて戻るぜ』

電話を終えて部屋の中に入りベッドを見やると、まだ服を着ずにいる瀬里奈が見えた。もう近くへ寄る勇気が湧いてこなかった。
入り口近くの壁に寄りかかって彩を待った。早く来てくれとそれだけ考えることにした。


彩は15分もしないうちにやってきた。ドアが開き、彩が辻井に手を差し出した。

「車のキー、貸して。隆尚さんの車が表で待っているから、あなたはそれで帰って」

ぼんやりとパンツのポケットからキーを取り出し、振って見せた。彩は小さくため息をついて、キーを取った。
逆に彩が辻井のマンションのカギを小さなバックから取り出す。そっと辻井の手を取り、その中に握らせた。
彩の手のぬくもりが優しく、その分辛さが増した。

「よろしくお願いします」

それだけ伝え、辻井は立ち上がって部屋を出る。
ドアを閉め、しばらくそのドアに寄りかかって動けなかった。
最後に見た瀬里奈の怯えた泣き顔と、自分を拒絶する白い肩が、目の前をちらついて離れなかった。


(第5章に続く)






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