シチュエーション
![]() 「あき、らぁ」 苦しげな息と共に微かに声が漏れる。 聞こえるかどうかも怪しい声ではあったが、それは暁良に届いた。 「はい、暁香お嬢様。私はここにおります」 額のタオルを取り、氷水で絞ると再び暁香の額に置いた。 「ちゃんと、いてね?…ちゃんと、よ?」 「はい、暁香お嬢様」 きゅ、と弱々しく、不安げに袖口を掴む暁香に微笑み、暁良はその手を解いて包み込んだ。 ほぅ、と小さな息を吐いて暁香は目を閉じた。 暁香から、苦しげではあるものの寝息が聞こえてくる。 どうやらすぐに寝入ってしまったらしい暁香を見つめ、暁良は安堵の息を吐いた。 長く暁香を苦しめたこの熱も、もう下がるだけだ。 「……大丈夫でございますよ、暁香お嬢様。ご安心くださいませ、暁良はいつまでも傍におります。 ……暁香お嬢様がどこに嫁がれましても、御子をお産みになられましても。……いつまでも…」 暁良は暁香の耳元に顔を寄せ、密やかに密やかに囁きかける。 力の抜けた、熱のためにいつもよりもずっと熱い、包み込んだ手の甲に、ひらに、恭しく口付けた。 「…………どんな未来が待ち受けるとしても、この手は離せないんです。離したくないんです。 暁香お嬢様…私は、貴女に会えないで得られる平穏よりも、貴女の傍にある苦痛を選びます。 もう、これより他を、選べないんです。もう、遅いんです……」 そう、もう遅い。 この道がたとえ茨の道だとしても、もう引き返せない。 暁香の夫となれた幸運な男を疎ましく思うだろう、妬ましく思うだろう。…憎み憎悪するだろう。 暁香の子は愛せるだろう。愛する女が産んだ子なのだから。だが、自分の子でないことが哀しいだろう。 それでも、暁香を愛する心を、想いを、捨てられないに違いない。 捨て去ることができる時は、もう、とうに過ぎてしまったのだ。 「暁香お嬢様、私は貴女を愛しています。他の全てを諦めますから、どうかそれだけは許してください」 「ん…」 小さな声を上げて身動ぎすると、暁香は瞳を開いた。 「お目覚めになられましたか、暁香お嬢様」 「ぅん……あきら…ずっと、そばにいてくれた?どこにも、いってない?」 「はい、勿論でございますとも。それより、お加減は如何でございますか?」 寝起きのために拙い言葉遣いの、目を擦ろうとする暁香の手をやんわりと押し止めて布団に戻す。 目をぱちぱちと瞬かせながら暁香は答えた。 「うん…だいぶ、いいよ」 「それはようございました。…何か召し上がれるようならば、ご用意致しますが…如何なさいますか?」 「ん……つめたいのが、ほしい」 「冷たいの、でございますか?…アイスになさいますか?それとも、冷えた果実になさいますか?」 「うんとつめたいの」 「かしこまりました、アイスでございますね。それではご用意致しますので、しばらくお待ちくださいませ」 にこり、と微笑んで枕元に寄せた椅子から立ち上がると、つん、と微かに服が引かれる。 それを為したであろう暁香に視線を落とせば、じぃ、と見つめられた。 「やだ。いるの。いかないで」 行かないでと訴える暁香の、潤んだ瞳と薄紅に染まる頬。 熱のためであるとわかっているのに、なんと艶を帯びて見えるものだろう。 身体に走った、ぞくん、としたものを無視して、暁良は苦笑する。 「暁香お嬢様?」 「や」 「そうは申されましても……それではご用意させて頂くことができません」 「や。いるの」 むぅ、として見上げたまま、暁香は頑なに言う。病の人特有の心細さだろうか。 そんな暁香に、暁良はどうやっても敵わない。 どんなことであっても、きいてしまいそうになる。 「……承知致しました、暁香お嬢様。誰かに持ってこさせましょう」 折れた暁良に、こく、と満足そうに暁香は頷く。 それでも離してもらえない服の端を視界に写して苦笑しつつ、暁良は連絡を取った。 しばらくして暁香所望のアイスを持ってきたのは氷雨だった。 どうやら、メイド達はちょうど忙しかったらしい。 「暁香お嬢様、ご所望のアイスでございます。桃とバニラをご用意させて頂きました」 サイドテーブルに置かれたアイスの甘い香りに、暁香は嬉しそうにやんわりと微笑む。 「あきら」 名を呼び、ぱかり、と雛鳥のように口をあけた暁香に苦笑しながらアイスを掬い、その口に運んでやる。 火照った身体と渇いたのどに、冷えたアイスは潤いになったようだ。 嬉しそうに、ぱかり、と再び暁香は口を開いた。 それを眺めながら、愛おしそうに暁香を見つめる暁良を観察していた氷雨は、静かに瞳を伏せた。 「暁香お嬢様」 「んぅ?」 「お腹がお空きになられましたら、厨房へご連絡くださいますようお願い致します。 連絡が入り次第、すぐに暁香お嬢様のお食事をお作り致します、とのことでございますので」 「ありがと」 にこ、としつつ、暁香は暁良に何度もアイスをねだる。 暁良は仕方ない、という顔をしながら、しかし嬉しそうに暁香の口にアイスを運ぶ。 その光景を視界に入れながら、氷雨は静かに一礼し、部屋を辞した。 「暁良は、どうだい?」 「……」 暁香の部屋の外の壁に背を預けて待っていた瑶葵に、静かに氷雨は首を横に振る。 いつでも、人の心はどうにもならない。 できれば…と思っていたことはたしかだが、初めからわかっていた。 自分も暁良も。捨てられる程度のものならば、端から囚われたりしない。 「そう、か…甲斐は、なかったんだね…お前も暁良も、どうして茨の道を行きたがるのだろうね…」 「………ただ、互いが存在したから、でございましょう…」 「それは…どうしようもない、ね。……なんとかしてやれないもの、かなぁ…」 苦笑を零し、ふむ、と瑶葵は考え込む。 生前、由貴は暁香の婚約者すら決めず、候補を挙げることも許していなかった。 いつまでも因習に囚われず、好きにすればよい、と考えていたためだということを瑶葵は知っている。 その考えに異論はない。 後継には自分がいるのだから可愛い妹は好きなようにしていい、と常々思っている。 そう思う者は瑶葵の他にもいるが、いまだ少数派だ。 「……」 氷雨は沈黙を守り、主の決定を待つ。 瑶葵が事を為せるように全てを整え、主がやる必要のない、汚れ仕事を片付ければよいのだ。 「おじい様の影が薄れてきた今…そろそろ、私も『起きる』べき、なんだろうね。氷雨、力を貸してくれるかい?」 瑶葵の問いかけに、氷雨は恭しく頭を垂れた。 「勿論でございます。瑶葵様の御為に惜しむものはございません。……何なりとご命令をどうぞ、ご主人様(マイロード)」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |