島津組7/涙雨恋歌 第5章 遣らずの雨 前編(非エロ)
シチュエーション


彩と名乗った彼女に送られて、瀬里奈は家に戻った。
散々泣いて困らせたはずなのに、何も言わずに瀬里奈が泣きやむまで待っていてくれた。その間に彩はバスルームと部屋の中を見てまわり、血や吐しゃ物の痕跡を消していた。
そして事件のあらましを語り、父と辻井が暴力を振るった理由も、語ってくれた。
智也がやっていたことも教えてもらった。だが、正直瀬里奈は、そんな理由なんかどうでもよかった。
万理が瀬里奈の両親のことをそんなに前からあざ笑っていたことが、ショックだった。
そして、自分が一緒にいた智也に対して、顔が原型を留めないほどに暴力を振るう人間がいた。それが父と辻井であったことが、何よりもひどく悲しくて、怖かった。
辻井が智也にした暴力を思い出す。怖かった。あんなに怖い顔をして、怖いことをするなんて、思ってもいなかった。
父とは話せたのに辻井と話せなかったのは、瀬里奈が辻井に抱いていた幻想とのギャップが大きかったせいだ。
彩は、瀬里奈のビデオを見た辻井が本気で怒っていたと言った。だからこそ、普段なら自分で手を上げないのにあそこまで痛めつけた。それほど、辻井の怒りは大きかったのだと。
それを聞かされても、やはり瀬里奈が抱いてしまった恐怖心は、拭えなかった。
窓から玄関先を見ると、たった数日前にそこに佇んでいた辻井の姿が目に浮かぶ。今までならその姿を思うだけでいい気分になれたのに、もう今は恐怖しか浮かばない。


父を愛しながら、母はやはり父の暴力的な側面は嫌っていた。愛人という立場でなければ、父に足を洗って欲しいと言っていたに違いない。
人を傷つければそれが還ってくる。その暴力の連鎖で父が傷つくことを、母は恐れていた。
だけど彩はそうではないと言った。
傷ついたら、癒してあげればいい。それができるのは女だけだから、と。
彼らが傷つくことを恐れて引き止めることよりも、傷つくことも、傷つけることも全てを受け入れることの方を選ぶ、ときっぱり言った。
やっぱり強い人なんだ、と瀬里奈はため息をついた。わたしには無理。自分が傷つくのも、人が傷つくのも怖い。
だから辻井が智也を傷つけるのを見た時、恐ろしくて震えてしまったのだ。
辻井の手を拒絶してしまった時の、傷ついたような辻井の顔を思い出すのも嫌だった。
あんなに大切にしてくれた辻井を自分が傷つけてしまったと思い知らされるから。

「ごめんなさい辻井さん。傷つけちゃって、ごめんなさい。でも怖かったの。辻井さんのあんな怖い顔、見たくなかったの」

優しい人でいて欲しかっただけなの。
そう思ってしまうわたしは、癒してあげられないわたしは、やっぱり子供なの?
大人になりたいと思ってしたことが、逆に自分が子供だということを否応なしに突きつけてくる。

「ごめんなさい……」

謝ることしか、思いつかなかった。


翌日の学校で、ぽかりと空いた万理の席を見る度に心が痛んだ。
万理の悲痛な叫びや、彩が教えてくれた宏太のやっていたことを思い出すと、どうすればいいのかわからなくなる。
たとえ停学処分が解けて万理が学校に復帰しても、もう万理は自分と話してくれないような気がしていた。宏太を痛めつけ、この街にいられなくしたのは瀬里奈の父たちだ。
先週の今日だった、万理と宏太、智也、自分の4人で食事をしていたのは。たった一週間で、こんなに変わってしまった。
この一週間の記憶を消して、全てを元に戻したい。万理から拒絶された自分も、辻井を拒絶した自分も、全部消してしまいたい。
それができないのなら、全てから逃げ出してしまいたい。


その日は都の最後の出勤日だった。来週からはお店は他の人の手に渡る。そして来週末に都は京都へ行く。山上都となるために。
全ての業務を終え、都が帰ってきたのは明け方に近い時間だった。

「おかえりママ」
「どうしたの、こんな時間まで」

随分と酔った顔をして都は微笑んだ。

「ねえママ。わたしもママと一緒に京都へ行く。連れてって」

都は驚きに目を見張った。

「もちろんよ、瀬里奈」

ゆっくりと都が瀬里奈を抱きしめた。酒の香りに混じって母の匂いがした。

翌日の土曜日は、しとしとと細かい霧のような雨が、一日中降り続いていた。
夜中に行く、と島津からの電話があり、その予告通り夜半前に父がやってきた。昔と変わらず、都は化粧を整え、綺麗な服を着て父を迎える。父は仕事帰りなのだろう、スーツを着てネクタイを締めていた。
都が島津を迎え、島津は何も言わずにリビングへやってくる。いつもそうだ。母がどれだけ父に黙って従っても、父はそれに対して何も返さない。従うのが当たり前であるかのようにふるまう。
そして兄が中学に上がった頃からは、父は母を抱くこともしていないようだ。たまに来ては、ちょっと飲んで帰る。もしくは店に顔を出すだけ。
それじゃあ、ママだって嫌になるよね。他の愛人さんとは違って、ママにはお父さんしかいないのに。


夜中過ぎ、目が覚めてしまった瀬里奈はそっとダイニングへ行った。キッチンで水を飲み、グラスにもう一杯水を注いでダイニングの椅子に座る。
ガチャリと音がしてドアが開いた。

「なんだ、随分夜更かししてんな、瀬里奈」

島津が入ってきて、瀬里奈に水を持ってくるように言って自分はダイニングの椅子に腰を下ろす。仕方なく瀬里奈は自分が飲もうとしていたグラスを父に渡す。

「帰るの?」
「ああ。最後に顔を見に来ただけだからな」
「……最後って。それなら、もっと一緒にいてあげてよ」
「女と一緒に眠ってやれる男ってのは、旦那だけだ。俺はそうじゃねえ」
「なればいいじゃない。だってわたしとお兄ちゃんのお父さんなんだから。それが当たり前でしょ」

瀬里奈の頭を撫で、島津はふっと笑みを零した。

「そうだなァ。出会うのがもうちょっと早ければ、そうなってたかもしれねえな。でも、遅すぎたんだ」

くしゃくしゃと髪を遠慮なくかき混ぜられる。

「意味わかんない。お兄ちゃんが生まれた時、ママは23歳でお父さん21歳でしょ。どこが遅いのよ」
「年齢なんて関係ない。遅かったんだよ。過去を捨てる気になれなかったんだ、少なくとも俺はな」
「お父さん!」
「瀬里奈。ヤクザなんて、こんな、お前らには意味がわからねえことで意地張ったり、突っ張ったりするどうしようもねえ男ばっかりだ。お前は、京都でそんなのに引っかかるんじゃねえぞ」

島津は立ち上がり、瀬里奈の頭を胸に抱き、髪を撫で、髪に軽く口づけをした。

「京都でも元気でやれよ。おとといのことは、もう忘れろ」

早く寝ろ、と言い置いて島津は部屋を出て行った。やがて玄関のドアが開き、外で小さく会話があり、最後に車が雨を弾く音が聞こえてきた。
初めて触れた父の胸は、強く、暖かく、どこか寂しそうだった。

「なんで今更こんなに優しくするのよ。どうせなら、なんでもっと昔からしてくれないのよ。最低。最低。お父さんのバカ」

さっきよりもかなり強く降る雨が、窓を叩いていた。


「行っちゃったわ。遣らずの雨なんて、あてにならないのね」

いつの間にか都がやってきていた。髪は下ろしているが、化粧はそのままだ。母は抱き合う時に化粧を落とすことすら許されていないのだ。
「朝までいてなんて、最後に馬鹿なお願いしちゃったわ。叶えてくれるはず、ないのに」

立ち上がり、瀬里奈は母を抱きしめた。
20年近く愛した男と、一度も一緒に眠ったことがない女。それが瀬里奈の母だった。最後のお願いがそんなことだなんて。切なくて涙が出た。
最後の最後、もうこれでおしまいというところで、ようやく一番望んでいたことを口にする。
たとえその望みが拒否されたとしても、もうすぐ後には新しい生活が待っている。傷ついても、そのうち傷も癒える。癒してくれる男がいる。
母は怖かったのだ。自分の叶わぬ望みを口にすることで、自分と島津の関係が壊れてしまうことが。だからこそ父と一定の距離を保ち続けた。踏み込んで、自分が決定的に傷つくことを恐れて。

「見送りもこれないって言ってたわ。ねえ、あなたは、絶対にヤクザなんかを愛しちゃだめよ。こんな思いは、ママだけで終わりにしてちょうだい」

じゃあどうしてママはお父さんを愛したの?

それからの学校は、瀬里奈にとって万理の存在の大きさを感じさせる一週間になった。
休み時間になる度、昼に食べるものを考える度、下校時間になる度、万理に話しかけようとしては空いた空間に拒絶される。部活動も特にやっていない瀬里奈にとって、授業が終わってからの長い時間をひとりで過ごす度に、万理に会いたくてたまらなくなるのだ。
携帯の機体を新しくしてもらたので、メールをしても返信はまったくなし。思い切って電話をしたら、着信拒否にされていた。

「そこまで拒絶することないじゃん……」

家を訪ねる勇気は、これっぽっちも湧いてこなかった。


「いよう、長浜。茶、飲む?」

パックのお茶を瀬里奈の机に乗せ、椅子に後ろ向きに座る。万理と同じく中学から一緒の後藤という少年だった。

「なんか用?後藤くん」
「なんか用とはご挨拶だねえ。森尾宏太さ、実家帰るみたいだぜ」

学校で聞くとは思わなかった人名を意外な人物が口にして、瀬里奈は思わずむせて咳をした。後藤はお茶のパックにストローを刺して差し出してきた。

「オレの姉ちゃん、森尾と同じ大学でさ。金曜日、絶対欠席できないゼミに来なかったから、心配して電話したんだと」

すると、もう学校は辞めて実家に帰るんだ、となにやらくぐもった声で携帯電話に出た宏太が言ったのだそうだ。

「女関係でしくじったかな、って姉ちゃん、言ってたぜ。万理、森尾と付き合ってたろ。どうせ、援助だって森尾に言われてやったんじゃねーの?あいつが、そんなことするわけねえのにな」
「で、何が言いたいのよ」

後藤の真意が分からず、瀬里奈はぶすっとしたまま質問で切り返した。

「べっつにー。うちのクラスでそういうことしなさそうな女、筆頭の長浜瀬里奈が、ひとりで寂しそうだったから声かけてみただけ」

どういう意味よ。お茶のストローをかりっと噛みながら、瀬里奈は呟いた。

「お前さ、すぐに人にそうやって物聞くよな」
「だって、後藤くんの考えてることなんか、わたしに分かるわけないじゃない」
「分かろうとしろよ、ちょっとくらい。オレに興味ない?」
「ない」

瀬里奈が即答すると、後藤はわざとらしくがっくりと肩を落とす。

「見た目はほんわかしてるし、みんなの中にいればのんびりおっとりなのにな。実はお前って手厳しいよな。引越し先でもそれじゃあ、厳しいぜ?」

瀬里奈が何かを言い返そうとした時、後藤を他の男子が呼んだ。

「後藤、長浜口説いてんじゃねーよ。ヤクザの親父に睨まれっぞ。部室行こうぜ」

瀬里奈が箸を持ったまま、俯く。

「ほら、わたしといると、あんな風に言われるよ。早く行きなよ」
「あいつらも悪気ねえんだから、許してやれよ」
「許すも何も、本当のことだもん」

再度呼ばれて後藤は立ち上がった。俯いたままの瀬里奈に、頭上から言葉を投げかける。

「お前の父ちゃんがヤクザなのはしょうがねえだろ。なんで堂々としないんだよ。親父さんにも、おふくろさんにも失礼だぞ。それにな。お前、ちっとは他人に興味持てよ。
お前の世界って、お前しかいねえのな。ヤクザの娘ですってぴっちり境界線引いて、他を寄せ付けないだろ。そんなんだから、いつまでもあんな風に言われるんだよ」

邪魔して悪かったな、と後藤は言って去っていった。
結局、何が言いたかったのか何がしたかったのかさっぱり分からず、瀬里奈はお茶を飲み干した。
随分しばらくしてから、もしかして慰めてくれたのかも、とようやく思いついた。授業中こっそり振り返って見た後藤は、すやすやと机に突っ伏して居眠り中だった。

夕刻になるに従い、空は段々怪しい様相を呈してきた。
授業が全て終わり、帰宅する頃には雷を伴って激しく雨が地面を叩くようになった。瀬里奈が教室の窓から外を覗いていると、ひょいと隣に後藤がやってくる。

「うはー。オレ、傘ねえんだよ。長浜、持ってる?」
「持ってないよ」
「電話一本で親父さんとこの子分が迎えにくるとか、ねえの?」

妙に馴れ馴れしく話しかけてくる後藤がうっとおしくて、瀬里奈はきっと眉を吊り上げて隣にいる後藤を問い詰めた。

「ないわよ、そんなの。何よ、昼間はヤクザの娘って境界線引くなって言っておきながら、雨が降ったら今度はヤクザの娘ってことを利用しろっていうわけ?」
「おっかねえ顔すんなよ。じゃあさ、一緒に帰ろうぜ」
「後藤くんと一緒に帰ったら、雨が止むとかあるの?」

しつこさにげんなりして瀬里奈は後藤をじろりと睨んだ。
もうわたしは帰るから、と言い捨てて踵を返した瞬間、ピカリと空が光り、轟音が校舎を揺らした。

「きゃああああっ」

思わず瀬里奈は傍にいた後藤に抱きつく。しまった、と思った時にはもう遅かった。

「やっぱ、一緒に帰る?」

ニヤリと笑う後藤を睨みつけ、瀬里奈は精一杯平静を装って頷いた。

「ご、後藤くんがどうしてもって言うんなら、駅までくらい、一緒に行ってあげてもいいわよ」

ぷ、と吹き出した後藤は、慇懃に膝を折って瀬里奈に礼をした。

「どうしてもご一緒させていただきたく。お嬢様」

バカみたい、と笑って瀬里奈は後藤と一緒に教室を出た。
そういえば、辻井にもバカと言ったままだった。あれから随分経ってしまったように思うけど、まだたったの一週間だ。

「随分昔のことみたい」

乾いた笑みを漏らした。なんか言ったか、と後藤が訊いてきたが、なんにも、と答える。ならいいか、と後藤も返す。
詮索してんのか深入りしないのか、どっちなんだか。
先に立って階段を下りる後藤の背中を見ながら、瀬里奈は違う男の背中を思い出していた。


学校から最寄の駅までは、瀬里奈の足で歩いて10分。走っても5分以上はかかる。
どうせなら、このどしゃぶりの雨がわたしの嫌な気持ちも、記憶も、全部洗い流してくれればいいのに。ありきたりなことを思いながら走った。
駅に着いた時には、瀬里奈も後藤もすっかりずぶ濡れなっていた。後藤は瀬里奈から自分のブレザーを受け取り、いきなり水を絞り始める。ブレザーの冷たさと重さに、瀬里奈もブレザーを脱ぐ。

「どこ見てんのよ」
「そりゃあ、胸?長浜ぁ、ちゃんと食ってんのか、成長してねえぞ?」
「大きなお世話よ、ほっといて」

他の通行人がじろじろと瀬里奈の身体を見て行くのを遮るように、後藤は先ほど絞ったブレザーを瀬里奈の肩にかけた。瀬里奈をからかう口調と裏腹の行動に、思わず瀬里奈は頬を染めた。

「万理はでっけえのになあ……」
「バカっ」

顔赤いぜ、と更にからかわれて、もう一度瀬里奈はバカ、と言ってブレザーを絞る。パンとはたいて布地を伸ばすと、後藤のブレザーを返して自分のものを着た。

「しっかし、雷、鳴って女が抱きついてきて、一緒に雨ん中走るなんてベタだよなあ……。途中コンビニあったのに、なんでオレら走ってたんだろな」

そういえば、いつも登校中にドリンクを買うコンビニがある。走るのに夢中で、すっかり存在を忘れていた。

「バカみたい、わたしたち」
「お前がだろ。オレは覚えてたぞ」
「何よ、お嬢様に逆らう気?」
「誰がお嬢様だよ、人のことバカバカ言いやがって。そんな口の悪いお嬢様がいるかっての」
「ひっどい、自分で先にわたしのことお嬢様って言ったんじゃないの」

ふたりで言い合いをしながら改札を通り、ホームへの階段を上る。周りの乗降客は唖然としながら、または微笑ましく、ずぶ濡れのふたりに視線を走らせていた。

ここのところずっと、大人とばかり接していた瀬里奈にとって、こんな等身大の会話はご無沙汰だった。
背伸びをして大人になりたがった結果が、大人に振り回されて自分を見失うことだったとしたら、自分の気持ちを殺すことだったとしたら。
所詮、高校生は知恵や生き方で大人には敵わない。
瀬里奈が辻井に憧れるのも、周りにいる少年たちにはない男としての深みを感じるからだ。それは、後藤を始めとする少年たちが薄っぺらいからではない。
倍長く生きている、しかも極道という特殊な世界を生き抜いてきた男ならではの強烈な個性、「男」の匂いが鮮烈なせいだ。全ての大人が持ち合わせているものではない。
彼らや、彼らの周りに生きる人たちに振り回された自分は、きっと自分ではなかったに違いない。背伸びをするには、気を張っているしかなかった。
そんなの、バカみたい。わたしは今、後藤くんと話してるみたいなただの女の子なのに。
大人になろうとした、罰だったのかもしれない。
自分の横で息を整えている後藤の横顔を盗み見た。後藤は、にかっと顔全体で笑った。そんな笑顔は大人たちは見せてくれなかった。


ホームについて、ベンチに座る。カバンの中をごそごそと探し、瀬里奈はタオルを取り出す。

「タオルも濡れちゃってるや」

少しでも乾いているところを探して、後藤の濡れた顔と首筋を拭く。額を拭いていると、後藤がもういいよ、と言った。

「お前さあ、普通はタオル渡してくれるくらいだろ。どーすんだよ、オレがお前に惚れちまったら」
「……ありえなくない?それ」
「まあ……ねえけど。ねえな。うん、ねえや」
「そんな何度も念押しみたいにして言わなくていいってば」
「そっか?オレ、巨乳派なんだ」
「……バッカじゃないの」

呆れた目で後藤を睨む。どうせ貧乳ですよ、とぷいと横を向く。後藤が何かを言っていたが、ホームに電車が入ってきて、瀬里奈は聞きそびれた。
電車に乗り、後藤は瀬里奈をドアの横に立たせた。少しずつ混み始めてきている車内で、他の乗客が瀬里奈に触れないようにと瀬里奈の脇に立ってガードしてくれる。
男の子って、自然とこういうことするんだなあ、と瀬里奈はおかしくて笑みを零した。

「なんだよ」

突然笑い出した瀬里奈に、後藤が不審の目を向ける。

「べっつにー?」

ふふ、と瀬里奈が笑うと、後藤は窓の外を見つめた。

「何があったか知らねえけど。ちっとは元気出たか」
「――うん」
「引越し先でも、元気でやれよ」
「…………うん……」

窓の外ではまた稲光が空を引き裂いている。くしゃくしゃと瀬里奈の髪を撫でる後藤の顔が、雷光で青く光っていた。
ありがとう。聞こえないほどの小さな声で、瀬里奈は後藤に礼を言った。べっつにーという後藤の声が、やはり小さく聞こえてきて、ふたりでくすくすと笑った。


自宅への最寄駅も、瀬里奈と後藤は同じだった。同じ駅で降り、猛然と降り続ける雨を駅舎の中から見つめる。

「ま、また走る?」

瀬里奈がピカピカ光る空を怯えた目で見ながら言った。

「残念だなあ、長浜。オレ、こっからバス。あそこのバス停までなら、一緒に走ってやるぜ」
「うそぉ。責任持ってよ。こんなびしょ濡れじゃ、タクシーも乗っけてくれないよぉ」
「何の責任だよ、何の。文句なら雨に言えよ。ってかさ、マジで、誰か迎えに来てもらえば?傘もこれじゃ役立たねえぞ」

うう、とうなりながら、瀬里奈は空を恨めしげに見上げる。一向に、やむ気配はない。稲妻は盛大に唸りを上げて空を照らし、地面を揺らしている。

「迎え、ねえ……」

ママは車乗らないし。お兄ちゃんっていっても、傘持ってきてくれるだけだし。
普段は余計な時に瀬里奈の横を通って、お嬢さんこんちわっす、などとやる父の子分が、こういう時に限って見当たらない。使えないんだから、と自分勝手な舌打ちをする。

今までなら、こんな時は必ずといっていいほど迎えに来てくれた男がいた。無条件に瀬里奈を見守り、大切に愛してくれた男。
辻井は瀬里奈を守ろうとして、智也を殴った。智也が瀬里奈を傷つけたことを知って、あそこまで暴力を振るったと、彩は言った。思わず拒絶してしまった時の辻井の顔を思い浮かべる。ひどく傷ついた顔をしていた。あんな顔は、みたことがなかった。
傷ついたのは、自分だけじゃない。あの時は自分のことだけで精一杯で、辻井の傷にまで思いを寄せることはできなかった。
瀬里奈の目の前で、自らの影の部分を晒してしまったことに、辻井が傷つかなかったわけがない。これまでずっと、辻井はその部分を隠してきたのだから。
生まれて初めてのキスをした男の顔を思い出す。あの日の夕焼けと、大きな影を思い出す。
そうだ、夕焼けだ。
瀬里奈の記憶の中の辻井は、必ず夕焼けと共にある。夜のネオンではなく、じんわりと夜に滲んでいく茜色。
闇の世界の住人の辻井が、表の世界に生きる瀬里奈と接するのは、夕暮れ時だけだ。ふたりが交われるのは、限りなく昼に近い夜の時間。ちょうど、今。
本当の顔を隠すことができる「誰そ彼」の薄暗い時間に、辻井は瀬里奈に会いに来てくれていた。ヤクザとしての本当の顔を見せて、瀬里奈を傷つけないように、夜が訪れる前に。


「今日は夕焼けもないね」
「長浜?」
「会いたい……。会いたいよ」

たった数日。この前会ったのはつい一週間前だというのに、ずっとずっと会っていないような寂しさが瀬里奈を襲う。もう、辻井は自分に会ってくれないような気がしてならなかった。
喪失感。いつもあったものが無くなる恐怖。恐怖というよりは絶望といった方がいいか。
智也を失おうと、智也が殴られようと感じなかった絶望を、不意に感じて瀬里奈の目から涙が突然零れだす。それは後から後から溢れてくる。失いたくない。上を向いて、ぎゅっと目を閉じて涙を堪える。

「どうしたんだよ、長浜?大丈夫か?」
「ごめん、大丈夫。ねえ、後藤くん」
「お、なんだ、なんだよ」
「もし、今ここに、宏太さん――森尾宏太がいたら、どうしてる?万理が宏太さんの前で泣いてたら、どうしてる?」
「決まってる」

ぐっと後藤は拳を握り、パシンと掌に当てる。

「一発殴ってやる。男の拳は、女の子守るためにあるんだ」

古くせえけどな、と照れながら後藤は鼻をすすった。

「そう……そうなんだ。そうか、そうなんだね。……かっこいいじゃん、後藤のくせに」
「うるせえ。さりげなく呼び捨てにすんな。ホラ、どうすんだよ。雨、全然全く止まないぞ」

雨なんて、もうどうでもいい。謝りに行こう。まずは父に話をつけて、辻井に謝ろう。わたしを守ってくれた人に、ごめんなさいと謝りに行こう。失いたくないから。

「おい長浜、あの人。今、車から降りてきたあの男の人。お迎えじゃないの?」
「お迎えなんて、そんな人いるわけ……ないでしょ……」

大きな傘をさして歩いてくる、大きな男がいた。


「傘、ないんですか」

瀬里奈の前で立ち止まり、辻井は傘をたたむ。

「な、何しに来たの……」
「お嬢さんが泣いてないかどうか見に来たんです」
「泣いてない。泣いてないよ」
「どうしてそう、嘘をつくんです。嘘はよくないですよ」

そう言って辻井は微笑み、指の腹で瀬里奈の目の下を拭う。

「帰りましょう。そのままじゃ風邪を引きます」
「泣いてないからね?泣いてないよ?ねえ、泣いてないから」

手でごしごしと涙を拭って瀬里奈は強がった。自分が傷つけた人に、慰めてもらうわけにはいかない。
瀬里奈の頭を辻井の大きな手が撫でた。

「いいんですよ、泣いても。そのためにいるんですから」

たまらず瀬里奈は太い首に抱きついて、辻井の存在を確かめる。辻井の腕が、瀬里奈の身体を抱きとめた。

「会いたかった……」

瀬里奈はそれしか言えなかった。何度も、会いたかったと辻井の腕の中で繰り返す。
そして、信じられない言葉を聞く。

「ええ……俺もです」

驚いて辻井の顔を見つめた瀬里奈の頬を辻井の手が覆う。もう一度、辻井が瀬里奈をしっかりと抱きしめた。
雨がやまなければいい。このままずっと降って、ここにふたりでいつまでも一緒にいられればいい。
瀬里奈の望み通り、雨はやむ気配を見せず、雨脚は強まる一方だった。

「あのお。長浜瀬里奈さん。オレはいつまであなたのラブシーンを見てればいいんすかね」

隣にいた後藤が恐る恐る声をかけてきた。

「引き止めてないぞ。いつでも帰れ」

瀬里奈を抱いていた腕を離し、辻井は後藤に傘を差し出した。

「……。車での送迎は女の子だけですか」
「ちょ、ちょっと後藤くん」

ヤクザと知っていながら辻井にそんな口を利く後藤にびっくりして、瀬里奈は後藤の袖を引っ張った。

「いや。俺の助手席はお嬢さん専用だ」
「そんなくさいこと、なんで臆面も無く言えるんですか」
「くさい科白を真顔で言って、気障なことを本気でできないと、ヤクザ失格なんだよ」

本当かよ、と後藤はひそひそ瀬里奈に耳打ちする。そういえば父も呆れるほど気障だと思い出し、多分本当、と答えた。

「まあ、ホンモノのナイトが来たところで、ニセモノは退散すっか。じゃあな長浜。明日、学校で会おうぜ」
「うん、またね。今日はありがとう。風邪、引かないように気をつけてね」

バイバイと瀬里奈が手を振ると、後藤は辻井が差し出した傘を受け取ることもせず、バス停まで全力疾走していった。

「クラスの男の子ですか」
「うん」
「くさい科白を真顔で言うっていう点に関しちゃ、彼もヤクザの素質ありですね」
「言えてる。あんな奴だなんて、思わなかった」

それから、辻井の車まで傘を差しかけてもらって歩いた。ほんの少しの距離だったが、肩を抱いてくれる辻井の手が嬉しくて、もっと遠くならいいのにと願った。


止めてあった車は、辻井が彩を乗せて走り去った時の車だった。

「助手席がわたし専用なんて、ウソばっかり」

辻井が運転席へ回っている間に、助手席に座った瀬里奈はボソリとこぼした。また大人の世界へ足を踏み入れてしまったような、息苦しさを感じた。

「後ろにタオルがありますから、使ってください」

するりと運転席に乗り込んできて、エンジンをかける。

「お嬢さん?」

辻井は後部座席からタオルを取って瀬里奈の身体にかけてくれた。今までと変わらぬ優しさだが、この優しさは瀬里奈だけのものではないと思うと、小さく嫉妬の火が燃える。

「……ウソつき」

こんなこと言いたいんじゃない。いじいじと拗ねたいんじゃない。後藤くんと一緒にいた時はあんなに自分の言いたいことを普通に言えたのに。

「助手席。専用なんて、ウソつき」

自信がないからだ。辻井という大人の男に接する女として、まったく自信が持てない。辻井にとっての瀬里奈の魅力がどこにあるのか、瀬里奈にはさっぱりわからない。

「彩さんも乗っけてた、この車。専用なんかじゃない。恋人がいるのに、そういうこと言うの、ズルい」
「恋人……?」

辻井は驚いて瀬里奈を見、考えるように天井を見上げ、降り続く雨に視線をやり、そして最後にもう一度瀬里奈を見つめた。

「彩さんが……?」

瀬里奈が大きく首を縦に振ると、辻井は笑い出した。ハンドルに突っ伏して笑っている。その笑い声の大きさに瀬里奈の方が驚いて辻井を凝視した。

「違いますよ。あの人とは長い付き合いですし、そりゃあいい女だとは思いますがね。ハハ、そうですか。お嬢さん、雑誌読んだでしょう」
「雑誌?」
「オヤジの結婚の記事、よおく思い出してください」
「…………。あ、ああぁっ!?ウ、ウソっ?」

結婚相手は幼馴染の女性!?とキャプションを打たれていた写真に小さく写っていた女性の顔を、思い出した。


「な、なあんだ。わたし、てっきり……」
「ひどいですねえ。そんな誤解された上に、嘘つき呼ばわりですか?」

ごめんなさいと、瀬里奈は肩を落とすしかなかった。いつもいろんなことを早とちりしては大騒ぎして、兄に怒られていることを今更ながら思い出す。

「で、でも、専用じゃなかったのは事実だよ。彩さん、乗っけてたもん」
「一度だけですよ。そんなこと言ったら、オヤジだって他の女だって乗ってるんですから」
「女の人も乗ってるなんて、そんなのなおさら専用じゃないもん。やっぱりウソつき。辻井さんのウソつき」

珍しく辻井を責められると思うとなんとなく嬉しくて、ほこほこしながら瀬里奈はつんと顎を上に向けて言った。

「わかりました。これからはお嬢さん専用にしましょう。だから、今回は許してください」

しょうがないから、許してあげる。瀬里奈が得意げに言うと、辻井はため息をついて瀬里奈の頬を軽く指で弾いた。


(第5章 遣らずの雨 後半へ続く)






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