島津組9/涙雨恋歌 第6章 慈雨
シチュエーション


十二月に入り、島津組も師走さながら日々のシノギに組員たちは今まで以上に追われて過ごしていた。
その上、本部仕事をいくつも島津が引き受けてきて、その対応にも当たることになった辻井の激務ぶりは、他の組の幹部が「大丈夫か」と本気で心配したほどであった。
幹部の心配の通り、辻井は休みなしでここ数ヶ月を過ごしている。だが病気になるわけでも衰弱するわけでもなく、それまでと変わらず、淡々と毎日を過ごしていた。
シマ内にいる時は必ず島津は辻井を新居へ誘う。彩の作る夕食をとりながら、ふたりで打ち合わせをするためだ。
だが、どこにいてもひっきりなしに島津と辻井の携帯電話は鳴り続ける。ふたりの実力のうちが見える一面でもあった。


島津の新居はマンションの高層階、メゾネットになっている一室にある。二階部分は島津の書斎、彩の書斎、ふたりの寝室、最近は辻井が主に寝泊りしているゲストルームがあり、尚が上に来ることはめったに無い。
島津と辻井は食事が終わると、二階の書斎にあるソファで酒を飲みながら、会話をすることが習慣になっていた。
彩は島津のシノギ、組ごとには一切口は出さないが、請われれば自分なりの意見や感想を言う。客観的な感想を聞ける、貴重な人材としてふたりは彩を重宝していた。
その日もふたりはあれこれと組内の話をしては、普段他の人間には言わない愚痴を、彩に向かってこぼしていた。

「オヤジめ、どこまで俺がやれるかってのを、試してやがるんだ。俺は渉外委員でも、ましてや渉外委員長でもねえっつーの。ただの理事だ、ただの。渉外委員の仕事やらせんなってんだ」
「他の幹部たちに見せつけてるってのもあるんでしょう。来年には、引退者が続出するらしいじゃないですか」
「まあな。人事の季節はいろいろ面倒なこったぜ」

ぶつぶつ文句をいいながらも、嫌がるそぶりはみせない。ここでの働きが、将来の出世に関わってくるというのは身にしみているからだ。
出世レースに絡んだ足の引っ張り合いは、当たり前だが極道社会にもある。むしろ、出世レースに負けると巻き返しが利かないことが多い分、ヤクザの出世レースの方がカタギのそれよりも厳しいかもしれない。
島津の功績は文句のつけようがない。組織の上部へ収める会費はきっちりと納める。組の仕事は失敗したことがない。縄張り内で揉め事を起こすこともない。むしろ島津組の戦闘能力を恐れて他団体や外国人たちも借りてきた猫状態だ。
なんといっても、東征会の存続の危機と言われた抗争を勝利で収めたことは、組織内に島津の存在を光らせることになった。
金だけか、という揶揄もそれ以来ぴったりとなくなった。戦闘能力や交渉能力も高いことを証明して見せたからだ。
そのため、もともと島津の実力を買ってくれていた木崎以外の誠道連合の最高幹部でも、島津を認めている者は大勢いる。認めている者がいるということは、逆に脚を引っ張ろうとする者も多いということだ。
ここで脱落するわけには、いかないのだ。走り始めたら、止まるわけにはいかない。止まった瞬間に誰かに追い越され、その差はよほどのことがないと詰まらない。

「俺は止まったら死んじまうマグロかっての」

飲んでいた酒を呷り、島津が自嘲した。

「うちは本家の鉄砲玉じゃねえっつーの。そのうちなんの関係もないとこのマチガイ(抗争)まで、やらされるんじゃねえだろうな」

ボソリと呟いた島津の言葉を聞き、例えそんなことがあったとしても、それはそれでいいじゃないか、と辻井は思っていた。
そうしたら、その組ごと飲んじまえばいいだけのことだ。縄張りを力で奪うことは関東ではタブーとされている。だがいくらでも理由も格好もつけられるだろう。

「――お前、俺の頭ン中まで読むなよ?」

なんのことはない、やはり島津も同じ事を考えているのだ。

「なんのことでしょう」
「これだよ」

顔を見合わせて肩をすくめて笑う。どうせなら、てっぺんまで行けばいい。背中の龍のようにオヤジが天まで昇りつめるためなら、なんでもやれる。
島津がテレビのリモコンを取り上げ、電源を入れた。話はこれで終了、ということだ。

点けたテレビには、クリスマスツリーが映っていた。
十二月二十六日は瀬里奈の誕生日だ。毎年ならクリスマスと誕生日とをまとめたプレゼントを贈るために、瀬里奈に欲しいもののお伺いを立てていた頃だ。
今年はそれもしないだろう。もうプレゼントを贈る権利は自分にはない。やることがひとつ減ることが、こんなにも寂しいことだとは、思ってもいなかった。
そんなことを思っていると、書斎の扉がノックされた。

「なんだ、尚。まだ寝てねえのかよ」

彩が開けた扉から入ってきた尚は、やけに神妙な顔つきで、父の前に立った。

「親父。瀬里奈、このままでいいのかよ」
「ああ?何言ってんだ?」
「あいつ、向こうでもまたイジメにあってるって。母さん、心配してる。友達もできないし、毎日家で泣いてるって」
「それがどうかしたのか」
「こっち、戻してやれねえのかよ。せめてこっちなら、イジメはないし、万理ちゃんは転校しちまったけど、他の友達もいる。オレもいるし……」

尚がそこまで一気に話した時、島津がグラスをテーブルに音を立てて置いた。

「こっちに戻してな、お前や俺や辻井があいつ守ってやんのは簡単なんだよ。でもな、それじゃあ、あいつはいつまでも逃げてばっかりだ。駄目だ。いくらお前の頼みでも、駄目だ」

大人の空間にガキが入ってくるんじゃねえよ、彩、連れ出せ、と島津が彩に手を振って言う。

「本当にそれでも父親なのかよ!娘がイジメられてんだ!しかもテメエのせいで。テメエがヤクザじゃなきゃ、そんなことにもなってねえんだ。なんとかしてやろうとか、思わねえのかよっ!」

扉の前で尚が振り向いて島津に叫ぶ。

「尚くん。それ以上はやめておきなさい。言い過ぎですぜ」

辻井が釘を刺した。

「戻ってきたいなら戻ってきたいってよ、自分で俺に言ってくりゃあまだ考えてもやるけどな」

尚の背中に向かって独り言のようにして言い、空になったグラスを辻井の前に押しやった。辻井はそのグラスに氷と酒を足し、島津に渡した。
扉のところで彩が尚に何か話しかけ、納得いかないようなそぶりを見せる尚がようやく階下へ去っていったのを見て、島津は彩に言う。

「彩、俺の携帯、持って来い」
「――はい」

彩が差し出したプライベート用の携帯電話を島津は受け取った。メモリーを探り、機体を耳にあてる。

「おう、瀬里奈。元気にやってか。今年は何がいいんだ」

先ほどまでの苦い顔とは裏腹に、普段どおりの声で島津が受話器に向かって話している。辻井はそ知らぬふりをしてテレビを見つめた。


「ああ、俺は元気だ、問題ねえ。そうか、お前が元気ってんなら、大丈夫だな。
いや何、尚がよ、お前がこっちに戻ってきたほうがいいんじゃねえかなんて言うからよ。駄目だからな、お前、自分でそっちに行くって決めたんだろ。戻るなんて許さねえぞ」

島津は何食わぬ顔をして言い放った。辻井は、心配そうに島津の顔を覗く彩と目を合わせ、何も言うなと首を小さく横に振った。何か考えがあるはずなのだ。俺のオヤジは、考えなしに娘に電話をしたりはしない。

「お前はな、友達や男や俺や辻井から逃げてそっちへ行ったんだ。逃げんのも一度なら認めてやる。だがな、二度はダメだ。――でも、じゃねえ、甘ったれんのもいい加減にしろッ!」

大音量の怒鳴り声だった。事務所で若い衆を怒鳴る声に比べればまだ可愛いものだが、それでも今まで怒鳴られた経験などないであろう娘にとっては、恐らく震え上がるほどの声だ。

「逃げてばっかりじゃ、なんも始まらねえぞ。立ち向かえ。お前は俺の娘だ、やりゃあできる。こっちにゃお前の部屋はねえからな」

ブツっと電話を切ると、今度は自分の秘書兼ボディガードの澤村に電話をかける。京都へ行くためのスケジュールを調整しろと指示を出して、また切った。

「チッ、妙に疲れたな。寝るぞ」

言い捨てて、島津はベッドルームへ消えた。
辻井は、瀬里奈をいじめているクラスメイトのことを調べるよう、夏目へ電話をかける。わかりました、と夏目は言い、他に調べさせていた件を報告した。

「そうか、今、そこにいるのか。わかった、伝えておく」

酒類を飾り棚にしまってから、辻井もゲストルームのベッドに横になった。

翌日、澤村が瀬里奈の誕生日である十二月二十六日の午後から半日を、なんとか確保したと報告した。

「親分、半日ですが、京都への日程確保いたしました。浅草での義理の後、そのまま東京駅へ向かいます」

この過密スケジュールの中、よくやったと辻井は褒めたが、半日と聞いた島津は澤村をじろりと睨んでため息をついた。

「なんだよ、半日じゃあ、観光もできねえじゃねえか」
「も、申し訳ありません」
「しゃあねえな。お前じゃそれがせいぜいか?」
「まあまあ、オヤジ、いいじゃありませんか。この年末に、よく調整できましたよ」

辻井が仲裁に入らなかったら、島津はずっとブツブツ文句を言い続けていたに違いない。
親分は別に観光がしたいわけではない。これが島津なりの愛情表現だと、辻井は澤村を慰めた。


その晩、いつものように島津と辻井は彩の夕食をとりながら、話をしていた。そこへ、アルバイトを終えた尚が戻ってきた。
冷蔵庫からコーラのペットボトルを取り出した尚に、島津が話しかけた。

「尚、今まで瀬里奈がいたのに今はひとりで寂しいだろ。クリスマスプレゼントに、いやお年玉か、まあなんでもいいや。妹か弟、欲しくねえか?」

ぶっとコーラを吹き出して、尚は島津と彩を交互に見る。

「は?」
「お前が欲しいってんなら、いっちょ真面目に励んでみるぜ?」
「オレの返事は関係なくいつも励んでんだろうが」
「おいおい、覗きはよくねえなあ、尚」
「誰が覗くかよッ!彩さんがおめでただってんなら普通に祝福するよ。けど、そんなこと言ってる暇があんなら、瀬里奈連れ戻してこいよ」
コーラを飲み干して、尚は呟いた。

「しつこいやつだなお前も。俺はあいつは苦手なんだよ」

辻井は島津に見えないように笑った。島津の周りにいる女の中で、唯一島津が苦手としているのが娘の瀬里奈だ。瀬里奈は島津の前だと子供らしい感情を素直に表現する。それをどう扱っていいか戸惑っているのだ。

「かまってこなかった罰だな、罰。つーか。どっかに隠し子がいたとかそういうんじゃねえだろうな?」

島津に掴みかからんばかりに尚は迫る。

「心配しなくても、俺はどうも種なしらしいから、隠し子も妹も弟もねえよ」
「種なし……?だって、オレと瀬里奈がいるじゃねえか」
「おお、そういやそうだな。お前らはあれだ、都の執念なんじゃねえか?」

父の言葉がどこまで真実なのか図りかねている顔をしながら、尚が言った。

「紛らわしいこと言うんじゃねえよ、クソ親父」
「親に向かってクソとはなんだ、尚ッ!」
「クソじゃなきゃアホだ」

島津の怒鳴り声を無視して、尚はダイニングを出て行った。
尚の姿が消えると島津は大きなため息をつき、お茶を持ってきた彩を見上げた。

「お前はいらないのか?」

横にいる彩の腰を抱いて、島津が言った。おなかに顔をつけ、軽く口づけている。彩はトレイごとテーブルに置き、微笑んだ。

「子供?」
「ああ」

島津を見下ろしながら彩は島津の髪を撫でた。前髪をかきあげて、額の傷に指を這わせる。

「――ふたりもいれば、十分じゃない?」

おなかに口づけていた顔をあげた島津が、彩を見上げてにやりと口の端を上げた。

「お前、俺の頭ン中、読むなよ?そんな奴ァ、辻井だけで十分だ」

何を考えて尚にあんな話をしたのか、何をしに京都へ行くのか、おぼろげながら理解できてきた辻井は彩と顔を見合わせて微笑んだ。

クリスマスイブ。
東京最大の繁華街、S街も様々なカップルやグループで賑わっていた。イルミネーションは光り輝き、道は人で溢れかえっている。
残念ながら雨が降っているが、恋人同士には雨もまた恋を演出する小道具になるだけだろう。ホワイトクリスマスじゃなくて残念だ、という程度だ。
どこもかしこも浮かれた空気のS街の中にある島津組の事務所も、街の雰囲気と同じように浮ついていた。集まっている若い衆たちは、今日のデートの予定を話しながら時間を潰している。そんな中に会食から島津が帰ってきた。

「なんだお前ら、当番でもないくせにこんなところでダベってんなよ。女のひとりでも抱いてこいっての」

ほれ、と分厚い財布ごとその場にいた若頭補佐の桜井に渡し、ソファーへどっかりと腰を下ろす。
人が街に溢れるほどいるということは、トラブルもいつも以上にあるということだ。島津組の電話が鳴る。あっちの店で暴れているやつがいる。こっちの道で喧嘩が起こっている。
夜も更けてくるにつれて、そういうヘルプの電話がかかってくる。その度に若い衆が飛び出していく。
若い衆とすれ違いで、大きな百合の花束を抱えた伊達が事務所に入ってくるなり、島津は鼻を押さえた。

「花の匂いがくせえぞ、伊達。こんなところで油売ってねえで、とっととスイートホームへ帰りやがれ」

しっしっと手を振って伊達をいなす。伊達は薄く笑いながら、事務所の金庫と帳簿をチェックするためにデスクに座った。事務局役の組員が伊達に報告を始める。


しばらくしてパソコンの前にいた伊達が、眼鏡を外して胸ポケットにしまった。

「親分が帰れっていうから、おいとまするか」
「百合ちゃんによろしくな」
「兄弟だけだぞ、あの子を百合なんて呼ぶの。おかげで自分で自分のことを百合って言い出して、困ってんだよ」
「俺の影響力を思い知ったか、ザマーミロ。大体な、リリィに毎年、百合の花束持って帰るお前のセンスも十分クセェから安心しろ」

リリィは去年ハタチになった伊達の幼妻だ。伊達は今年四十五歳だから、二十五歳の年の差だ。リリィが日本へやってきた頃から可愛がっていた島津が、ふたりの結婚の話を聞いて本気で悔しがっていたのを、辻井は鮮明に覚えている。
メキシコに旅した時に出会った歌姫の娘だということだが、詳しいことは辻井は知らない。母が生まれ故郷のスペインへ戻った時についていき、酒場で踊り子をしていたらしい。ダンサーのしなやかで強い体と、褐色の肌が印象的な少女だ。
島津は、置いていたピンクの花束を伊達に渡す。

「なんだ、これ?」
「ネリネっていうんだと。別名、ダイヤモンドリリー。イベリアの姫君にどうぞ」

ぷっと吹き出し、腹を抱えて伊達は笑い出した。

「お前も大概クセェよ」
「叔父貴、車、準備させました」

辻井が言うと、ふたつの花束を持って伊達は帰っていった。
イベリアってなんスか、という小さなざわめきを聞き、島津は頭を振った。

「だーから、お前ェらは女にモテねえんだ、アホ。新聞くらい読め」

新聞のクイズかなんかっすか、カシラ。ぼそ、と訊かれたが、辻井は肩を竦めて無言を通すことにした。


「今何時だ」

読んでいる新聞を下ろせば時計は目の前。自分の左腕には腕時計。だが、島津は新聞を下ろしたり腕を上げたりはしない。

「九時半っス!」

若い衆が怒鳴るようにして答える。

「俺は帰る。後は頼んだぞ」
「はい!」

車の用意、できました!という声を聞いて立ち上がった島津が辻井にボソリと言った。

「今日はお前、自分とこ帰れ」

女殺しとしても有名な島津が女と過ごさないのが、自分の誕生日やクリスマスといったイベントの日だった。特別な日を過ごした女はつけあがり、過ごさなかった女は拗ねる。そんな面倒はゴメンだ。と言って憚らなかった。
島津が渡世に入って初めて女と迎えるクリスマスイブの夜だ。さすがに邪魔をする気にはなれなかった。島津を見送りしばらくしてから、まだ食事をしていない連中と食事に行った。
そのまま帰ろうかと思ったが、ふともう一度事務所に立ち寄った。
電話がちょうどかかってきていた時だった。今夜は随分忙しい夜だ、と辻井はソファに座り、煙草を咥える。

「ハイ、島津組ィ!」

電話番の組員の大声が、事務所に響き渡った。


終業式の日、瀬里奈は重い足を引きずって学校へ向かった。
父に怒鳴られてからも、やはり瀬里奈はずっと逃げ続けていた。学校は行きたくもなかったが、それは都が許してくれなかった。瀬里奈自身も、勝手のわからない街でフラフラする気になれず、結局学校へは毎日通っていた。
学校は楽しい場所だと思っていた。しかしそれは、万理がいたからだ。ここには万理はいない。話ができる相手もいない。
東京に帰りたくて、たまらなかった。冬休みのたった一日でもいい。
父と彩が作っている家庭に、一度でいいから行きたかった。父や兄に思い切り甘えて、話をして、「ああ楽しかった」と言いたかった。あんなに怖いと思っていた父のことが懐かしいとは、おかしくて仕方なかった。


とぼとぼと学校へ向かう。おはよう、という明るい声が通学路には溢れているが、その声が瀬里奈に向けられることはない。
玄関の下駄箱を開ければ、ゴミが溢れてくる。それを拾って、最近は常備しているビニール袋に全て入れる。上履きの中にはベタに画鋲が置いてある。それも取り除き、やっと教室へ入る。
瀬里奈が扉を開けると、全員が瀬里奈を一瞬見る。その後、白々しく瀬里奈から全員が視線を外す。
瀬里奈の席には女王のようにクラスを仕切る少女、長井由佳(ナガイユカ)が座り、瀬里奈を待っていた。ここ最近のいつもの朝のパターンだった。

「……そこ、わたしの席です」
「あー?聞こえへんなあ」
「どいてください。わたしの席です」
「東京の言葉はわからへんわ。この子、何て言うてんの?」

そして失笑が起こるのも、いつものことだ。結局瀬里奈はその少女の席へ行き、教室に入ってきた教師に瀬里奈が怒られるのだ。
今日も同じ事をしようとした瀬里奈に、由佳の言葉が突き刺さった。

「関東の暴れ龍言うても、たいしたことないなあ。娘、極道の娘のクセに最後まで抵抗せえへんやんか。情けないわ。父親も同じやろ、どうせ」

ここまで瀬里奈の父の素性は、バレていなかった。この由佳の科白によって、瀬里奈がヤクザの娘だと知れてしまった。
クラス中がざわめき始める。
由佳も瀬里奈と同じように、京都のヤクザの娘だ。由佳自身は不良グループとの付き合いなどは全くないが、彼女の出自とキツい性格で、学校中で恐れられていた。


「……お、お父さんは関係ないでしょ」

逃げるな。お前ならできる。俺の娘だ。
父の言葉を思い出した。自分を奮い立たせる。

「わたしが気に入らなくてわたしをいじめるのはともかく、お父さんは関係ないでしょ!」

由佳は驚いた表情を作り、榎田一政(エノキダカズマサ)という少年を振り返った。彼は由佳の父の組に所属する組員の息子で、由佳のお目付け役も兼ねている少年だった。

「お嬢、もうやめときや」

榎田は必死になって由佳を止めた。いつも榎田は最後の最後で由佳を止めてくれる。もっとも、由佳はいつもそれを意に介さずにいる。今も由佳は負けじと言い返した。

「しかも二十年も連れ添って、今更放り出された愛人の子ォなんやって?若い女に乗り換えられて、かわいそうやなあ」
「ママのことはもっと関係ないでしょ!謝ってよ!それ以上わたしの両親のこと馬鹿にするんなら、わたしにだって考えがあるからねッ」

持っていたカバンを、力一杯机に叩きつけて由佳に怒鳴り返した。
あちゃあ、と榎田が顔を覆い、由佳のブレザーのすそを引っ張って止めようとする。だが由佳はその手をうるさそうに払い、言った。

「考えって、何やの」
「あなたに言う必要、ない。わたしだって、両親のことまで言われるんなら、我慢できない」
「何やの。言うたほうが身のためやで」

ずい、と由佳が立ち上がり瀬里奈に寄る。瀬里奈も一歩前に出て由佳を睨みつけた。

「わたしがやること見てから、知ればいい」

バチバチと火花でも散りそうにふたりは睨み合う。そこに榎田が間に入ってきた。

「お嬢、お嬢。あかんって。自分も、もうやめたってくれや。親父さんとおふくろさんのこと言うたんは、言いすぎやった。悪い。謝る。この通りや」
「何やの、カズ。あんたが謝ることないやんか!アホらし。こんな子ォにつきおうてられんわっ」

由佳はそう吐き捨てて、自分の席へ座った。瀬里奈は由佳が立ち上がった後の、本来の自分の席に座った。
一日、誰も瀬里奈に話しかけてはこなかった。
だが、嘲笑や悪意、イジメの行為の類も、瀬里奈に向かってこなかった。本来の意味の孤独に陥ったような気がした。

年が明けてから、ようやく籍を入れ簡単な式をあげることになっている都は、実家で準備に大忙しだ。クリスマスやお正月は、新しい父親、山上と一緒に過ごすことになっていた。
思えば、初めての「父親と過ごすクリスマス、正月」だった。「父親」が指す男が、島津ではないことに違和感を覚える。
冬休みのうちに一度は父に会いに行きたいと食事中にさりげなく言ってみたが、祖父母は許してくれなかった。
長浜家での島津の認識は、娘を長年愛人として虐げ、あげく若い女に入れあげて娘を捨てた極悪ヤクザ、となっている。そんな極悪人のところに瀬里奈を一瞬でも戻すわけにはいかない、と祖父母は決意しているらしい。
結局、一日たりとも、東京へ帰ることは許されなかった。


仮住まいでもある、長浜家での自分の部屋で、瀬里奈は父の姿を思い浮かべた。

「彩さんと、お兄ちゃんと、うまくやってるのかなあ、お父さん」

三人が夕食のテーブルを囲んで談笑している姿を想像して、その場に自分がいないことが切なくて空想を断ち切る。

「瀬里奈、出かけるから支度しなさい」

都が瀬里奈を呼んだ。山上との食事は、料亭のような場所だと聞いていた。それなりにちゃんとした格好をしていかないといけないと思い出し、慌てて瀬里奈はTシャツとデニムスカートを脱ぎ、ブラウスをクローゼットから取り出した。
ついでにブラウスから透けない色の下着に替えようと思い、下着の棚を開けるとライトブルーのブラジャーに目が留まる。
いつか脱がしてもらえるかも、と願い買った下着を、脱がして欲しかった人が脱がせてくれた。あの夜の、男の指の感触が蘇る。
目を閉じて、思い出しながらブラジャーの留め金を外す。触ってくれたように、揉んでくれたように、胸をそっと弄った。

「瀬里奈、何してるの!」

少し苛立った母の声に、ハッと我に返った。我に返ると、自分の胸が、女の掌にすっぽりと納まってしまう小ささであることを思い知る。

「小さいのは、しょうがないじゃん……。でも男の人って、大きいほうがきっと、いいんだよね」

牛乳飲んだら大きくなるのかなあ。
大きくため息をつきながら、瀬里奈は着替えた。

「忘れ物、ないよね」

部屋を見回して、目をきゅっと閉じ、そして開いた。


今日はクリスマスイブ。街はカップルだらけだ。あっちでもこっちでも男女の組み合わせばかりが目につく。瀬里奈と同じくらいの年頃のカップルだっている。
食事を終えた瀬里奈たちは街をそぞろ歩いたが、そんな中に親子でいることが恥ずかしく、都たちから少し離れたところを歩いた。

「やっぱり長浜やん!」

聞きたくない声ナンバーツーの声がして、こわごわ声のするほうを振り返った。

「あんた何してんの、こんなところで」

聞きたくない声ナンバーワンの声も、やっぱり聞こえてきた。更に後ろから野太い男の声がした。

「由佳、友達か?」

もう勘弁してよ、と心の中で毒づきながら、瀬里奈はその声の主を仰ぎ見る。そこには恰幅のいい男が立っていた。

「友達なんかちゃうわ。この子が、島津の子ォや」

もしもこの男が由佳の父親なのだとしたら、由佳はお母さん似だ、間違いなく。瀬里奈は親子を見比べながらそう思った。

「ほう……。嬢ちゃんが。お父さんに似て、ええ顔してるなあ」

言いながら、長井が由佳を自分の後ろから引っ張りだした。

「ほれ、由佳!」
「な、なんやの、お父ちゃん」
「さっき、お父ちゃんと約束したやろ?ちゃんと、謝らんかい」

長井に頭を押さえつけられ、由佳は嫌々といった調子で、いじめてごめんねとボソリと言った。

「でっ、でも!あんたのことなんか、ほんま、嫌いやし。まあ、友達少なそうやから、遊んだってもええわ」

と胸を張った。その胸がはちきれんばかりに大きいことに目がいき、思わず瀬里奈は由佳の胸を凝視した。その視線に気づいた由佳が、ふふん、と瀬里奈を鼻で笑い、瀬里奈の胸をじろじろと眺めた。

「あんたの父親、雑誌で見たわ。お父ちゃんの男前さはあんたの勝ちかもしれんけど、胸の大きさは断然うちの勝ちやな」
「由佳、なんか聞き捨てならんこと、言うてへんか?」

長井が由佳を睨みつけた。傍にいる長井のガード役の男たちが笑いをかみ殺している。

「あ、長浜。携帯。教えといて」

お嬢は自分から絶対訊かへんけど、後で絶対なんで訊いとかへんかったんやってオレを怒るはずや、と言う榎田と、携帯電話の番号とアドレスを交換する。

「榎田くんも、苦労するね」
「ああ、ええねん。こんなん、苦労ちゃうし、オレ、お嬢守るんが役目やしな」
「でも。榎田くんは、長井さんと年も同じだし。すごく近い関係で、いいよね。いつも一緒だしさ」

由佳と榎田の関係を、自分と辻井に当てはめて見ていた自分に気づく。そして、自分と辻井のあまりの遠さに気づいて、胸が締めつけられる。

「カズ!ええ加減にし!そんな貧乳女のどこがええねん!」

道の向こうから由佳の大声が聞こえてきた。道行く人たちが一斉に一瞬動きを止めた。

「そんなこと言うたら、オレがお嬢のでけえおっぱいにつられてるみたいに聞こえて、恥ずかしいやん、お嬢!」
「あ、アホかッ!そない恥ずかしいこと大きな声で言うな!見たこともないくせにッ」
「見せてくれんの?」
「いっぺん死ねッ!」

あははと榎田は瀬里奈にへたくそなウインクをして、笑った。


「あ、あの!長井さん!」
「なんやねんな、いじいじしてうっとい子やな、あんたは」

瀬里奈が声をかけると、ずかずかと瀬里奈のほうへ由佳が寄ってきた。

「あの。せっかく、仲良くなれたから――お茶でもしない?」
「はぁ?あんた、何言うて……。ふうん。まあ、ええで。お父ちゃん、この子とちょっとお茶してから帰るわ」
「おお。気ィつけよし。カズ。女の子ふたり、ちゃんと守るねんぞ」

長井は大きく微笑み、頷いた。その微笑に力づけられて、瀬里奈は母たちを振り返った。

「ママ。お友達の長井さんと、ちょっと遊んでくる」
「ちょ、ちょっと瀬里奈。そんな突然、何を言っているの」
「構しません。由佳がお友達とお茶してくるなんて、そうそうないんですわ。お宅さえよろしければ、仲良うしたってください」

京都で商売をしている山上と、京都に長く住む祖父母は、長井のことを知っているだけにいい顔をしなかった。だが、友達と遊ぶ、と言われれば文句も言えない。

「あまり遅くならないのよ」

結局、都のその言葉で、瀬里奈は都たちと別れることに成功した。


「お父ちゃん。ほなうちら、行ってくるし、先に帰っといて」

由佳が長井にそう言った。長井は何かを言おうと口を開いたが、娘の顔を見て、ま、ええやろと頷き、ガードを連れて先に戻っていった。

「で?あんた、何しようとしてんの。なんかしようと思って、わざわざうちに声かけたんやろ」
「帰るの」
「はぁ?」
「東京に帰るの。最終の新幹線、まだあるから」

由佳と榎田が顔を見合わせる。

「計画済みか?」

榎田が訊いた。瀬里奈はこくりと頷いた。

「あ、長井さんたちをダシに使うつもりはなかったんだけど……」
「随分、行き当たりばったりの計画やな。なあ。あんた、うちから逃げんのか?」
「え?」
「うちがあんたいじめてたから、それで逃げんのか?」
「違うよ」

そして瀬里奈は、万理のことを話した。東京に残してきてしまった友達に、もう一度会いたい、仲直りがしたい、と。父や兄にも会いたいのだ、と。
話を聞き、ふむ、と由佳は考え込んだ。

「カズ、うちらはそこの喫茶店でお茶して、あっちのカラオケ屋で歌うたって、オールで遊ぶことにするってお父ちゃんに言うといて」
「長井さん」
「瀬里奈。うちがあんたを助けるのは、あんたが逃げてきた東京へ戻って、やり残したことに立ち向かうっちゅうからや」

由佳が瀬里奈に背を向けて歩き出した。

「なんでうちがあんたいじめたか、教えたろか」
「今更そんなこと言わんでもええやんか、お嬢……」

榎田が止めたが、由佳はぴたりと立ち止まり、瀬里奈を指差した。

「うちとおんなじ、極道の娘のくせに、あんたはそっから逃げてきた。それがうちは許せんのや。極道の娘やからって、なんも恥じることあらへん。せやのに、なんであんたは逃げてきたんや。
うちのお父ちゃんまで否定されてるみたいで、うちは嫌や。せやから、うちはあんたが嫌いや」

言いながら由佳は思い余ったのか涙を零し始めた。榎田は由佳の傍へ行き、頭を抱えて由佳の涙を見せないようにかばっている。

「ごめんなさい。わたし、お父さんのことは大好きだよ。お父さんの娘が嫌で、京都にきたんじゃないよ」
「ほんなら、なんで。なんであんたはこっちに来たんや」
「親友、傷つけちゃったから。傷つけて、嫌われちゃったから、東京にいるのが辛かったの。馬鹿だよね。向こうにいないと、仲直りもできないのにね」
「あんたはなんでもすぐに逃げ出す臆病モンか」

しゃくりあげている由佳が、ようやく榎田の胸から顔をあげた。

「お父さんとママがどうして結婚しないのか、ふたりがどうして違う相手を選んだのか、理解できなくって、それを理解することからも、逃げてた。ほんと、逃げてばっかの臆病者だよ」
「けど、お嬢に怒鳴り返したんは、かっこよかったで。もう時間や。京都駅まで、早よ、行こか」

急がないと、最終に乗れなくなる時間だった。


京都駅で東京までの切符を買う。自動販売機のボタンを押す手が震えた。改札へ走ると、由佳と榎田が待っていた。

「ほら、早う。あとは適当にこっちで口裏合わしたるわ」
「ありがとう、長井さん」
「由佳でええで。東京で逃げてきたもんに、もういっぺん対決しといで」
「うん」
「ほんで、こっちに戻ってきたら、またいじめたる」
「えっ、それはヤダなぁ。でも、ありがとう。榎田くんもありがとう。えっと……ありがとね、由佳」
「わかったから、早う、行きよし」

手を振って、瀬里奈は京都駅を駆け出した。ぎりぎり、発車寸前で席につくことができた。


車内販売でお茶のペットボトルを買うと、もう財布には小銭しか残らなかった。東京駅に着くまで、不安でしょうがなかった。切符を握りしめて窓の外を眺める。
なけなしのお金で買ったお茶を飲む心の余裕はなかった。
暗い窓の外をじっと見つめ、早く東京に着かないかと祈る。
地元駅に着いたとして、その後どこへ行けばいいのか、父の家を知らないことに、今更ながら気づいた。
携帯電話を取り出して、兄に電話をする。出ない。圏外です、と言われてしまう。仕方なく、父の番号にかける。こちらはいつまでたっても出てくれなかった。

「役立たず!」

デッキの壁を蹴りつけた。

「どうしたらいいのよ……。どうしたら」

メモリーを必死で探る。一晩をどこかで過ごすお金も勇気もなかった。電話をすれば、恐らく駆けつけてくれるであろう男の番号は、教えてもらっていなかった。諦めて、東京駅で交番に駆け込もうかと思った時、ひとつの番号が目にとまった。
どうしようもなくなった時にだけかけなさい、と母に教えてもらった番号だった。

「しょうがない、嫌だけど、しょうがない。全部電話に出ないお父さんがいけないのよ、バカバカ。バカヤクザ」

生涯で一番の勇気を振り絞って、その番号に電話をする。

『ハイ、島津組ィ!』

耳をつんざくような大声が、飛び込んできた。

「あの、わたし、長浜瀬里奈と申します」
『ハァ……?ながはま……?……。あっ!カッ、カシラッ、いいところに!お嬢さんからです!』

新幹線に乗っているの、と瀬里奈は電話口で泣き声を出した。東京駅のホームで待っているように言い、辻井は事務所を出た。奇跡的に渋滞にも巻き込まれず、東京駅につく。ホームに佇んでいた瀬里奈を連れて、辻井は車に戻った。

「お嬢さん。オヤジにこのこと――」
「電話、出ないんだもん、お父さんもお兄ちゃんも」

だから困って事務所に電話をしてきたのか、と合点がいった。
今日は島津は彩を連れて都内のホテルに泊まっている。尚は友達とオールナイトのパーティに出かけたと聞いている。
一応、オヤジには連絡をしておこう、と辻井は島津のプライベート用の番号を呼び出す。


長く呼び出し音が鳴ってから、ようやく島津の声が聞こえてきた。水の音がして声がくぐもっているのは、風呂に入っているのだろう。

『俺の恋路を邪魔すんのか、辻井』
「いえ、お邪魔するつもりは毛頭ありませんが、お嬢さんが……」
『瀬里奈がどうしたんだよ。あいつなら明後日京都行ってさらってくるから、それまでほっとけよ』

やはり島津も娘を東京へ戻すつもりだったのだと、辻井は密かにほっとする。

「ええ、それは十分承知です。ただ、お嬢さん、ご自分で戻っていらっしゃいました」
『なんだと?』

ざば、と水から身体を起こした音がした。

「今、東京駅で一緒にいます。オヤジがお泊りのホテルへお連れしようか、迷っているのですが」
『お、おいおい、それだけはやめてくれ。それこそ、俺の一世一代の夜を邪魔すんなって瀬里奈に言っとけ』

父親であるか男であるか、しばし悩んだ末に島津は男であることに決めたらしい。自分が電話に出なかったことは棚に上げて、最初にお前に頼ったんだから、お前がなんとかしてやれよ、と拗ねて辻井に丸投げした。

『おう、彩。お前の下の口が寂しそうだな、ん?埋めてやるから、勃ててくれよ。――しょうがねえ、明日の朝食は一緒に食うから、朝八時にレストランへ連れてきてくれ』

最後の方は快感に酔っているのか、途切れ途切れだった。お邪魔しましたと呟き、通話オフボタンを押した。

「お父さん、なんて?」
「今日は、父親じゃなくて男なんだそうですよ」

意味がわかんない、と瀬里奈はシートに深く背をもたれかけた。

「無責任だよもう。お兄ちゃんもいないのに、わたし、どこいけばいいのよ」

こちらも安心したのか、誰にも言わずに戻ってきたことを棚に上げて、文句を言い始めた。こんなところは似なくていいのに、と心の中で独りごちる。

「今日はもうどこも一杯でしょうから、何もありませんが、うちへいらしてください」
「これって、怪我の功名?」
「――そのほうが、意味がわかりませんよ」

明日は八時にホテルへ行くので、七時半前にはS街を出ますよ、と言うと、うへえ学校と同じだ、と瀬里奈は呻いた。早起きが苦手なのは、相変わらずのようだ。


車の中で聞かされた京都での顛末は、若干気になることもあった。東京への逃亡を手助けしてくれた、由佳という少女のことだ。
調査させたところ、由佳の父親は京都の老舗テキヤ一家の若頭を務める男だった。子供同士のことだから、父親には影響しないであろうが、それでもメールで島津に報告を入れておいた。
ためらいがちに辻井の部屋へ足を踏み入れる瀬里奈の手を引き、リビングのソファに座らせた。
電気をつけ、カーテンを引く。数日帰っていなかったため、空気が澱んでいる。エアコンをつける前に、少しだけ窓を開けた。

「疲れているでしょう。湯を溜めてきますから、それまでちょっと待っていてください」

バスルームへ行き、バスタブに栓をしてコックをひねった。ついでにいつものように靴下を脱いで籠の中へ放り投げる。
リビングに戻ると、瀬里奈は途中で買ってきた服の値札を外していた。

「下着だけは持ってきたんだ」
「用意のいいことで」

抜けはあるが、ある程度計画して東京にやってきていたと知り、驚いた。辻井の知る長浜瀬里奈は、いつも兄の影に隠れている、おとなしく引っ込み思案の少女だった。行動力があるとはお世辞にも言いがたく、ましてや母を欺いてまで行動する少女ではなかった。

「お嬢さん」
「なあに?」

瀬里奈の前に立った辻井を、瀬里奈は上目遣いで見上げた。

「いえ、なんでもありません。風呂を見てきましょう」

お湯はちょうどよい熱さと量だった。棚からバスタオルを取り出し、後ろをついてきた瀬里奈に渡した。じっと自分を見る瀬里奈の視線から逃げるように、辻井はバスルームのドアを閉じた。

リビングに戻り、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。ソファへ座りこみ、上着を脱ぎ捨て、ネクタイをゆるめた。
開けたままだった窓を閉め、エアコンをつけて部屋を暖める。ついでにベッドルームのエアコンもつけ、クローゼットから予備の毛布を持ってリビングへ戻った。
缶ビールの栓を開け、ぐいと一口呷る。冷たい苦味が喉を刺激して下りていく。
珍しく仕事の電話もかかってこない。ビールを飲み干し、一日一本だけと決めている禁を破り、もう一本冷蔵庫から取り出す。
二本目のビールを飲み干し、届いた手紙のチェックをしていると瀬里奈が風呂から上がってきた。湯上りの頬を桜色に上気させて、渡したバスローブに身を包んでいる。

「冷蔵庫からなんでもやってください」
「うん、ありがと」

瀬里奈は小さなジュースのパックを手にして戻ってきた。まだ乾ききっていない髪の毛に手をやり、胸に抱いた。

「お帰りなさい、お嬢さん」

瀬里奈は言葉もなく、辻井の胸にしがみついてきた。
やがて、会いたかった、会いたかったと何度も瀬里奈は繰り返した。初めて抱いた雨の日も、同じように繰り返していたことを、辻井は思い出した。


辻井はゆっくりと瀬里奈の口を塞いだ。深く、深く。そして身体を抱きしめた。強く、他の誰を抱くよりも強く。
女を愛する熱い激情ではなく、大切な宝物を愛でる時のような満ち足りた暖かい感情が、辻井の胸にこみ上げてくる。
まっとうな男と出会い、恋をして、結婚して、普通の幸せを選んで欲しい。それが島津の、そして辻井の願いでもある。
だけど、と辻井は瀬里奈を抱きしめながら思う。今抱くことで、京都で寂しい思いをしてきた瀬里奈を癒せるのなら、いくらでも何度でも抱いてやろう。
女として瀬里奈を見なければいい。女として瀬里奈を愛さなければいい。心の境界線をきちんと保っていればいいのだ。

一歩。
あと一歩を踏み込まなければいい。
それだけの理性は、保てるはずだ。
それくらいの場数は踏んできている――はずだ。

そう決心したのを見計らったかのように、瀬里奈が辻井に寄り添い、見上げてきた。どきりとするほどの女の色香が匂いたち、瞳は濡れて男を求めていた。
自分がこの人を守っていられるのも、もうあと僅かの時間かもしれないと、辻井は寂しく思った。
抱きしめ、口づけて、手を引いてベッドルームへ向かった。瀬里奈は荷物を手に、辻井をちらと見ては照れながら、ついてきた。


瀬里奈をベッドに残し、辻井はシャワーで汗を流す。バスタオルを腰に巻いて部屋に戻る。瀬里奈のローブを肩からずらし、下へ落とした。
暗い部屋のベッドの上に瀬里奈の白い裸体が浮かび上がった。辻井の身体が重なる。口づけを交わし、唇を首筋へと這わせていく。

「お嬢さん。手が邪魔です」

ぎゅっと自分の胸のあたりを抱きしめるようにしている瀬里奈に言う。瀬里奈はぶるぶると頭を左右に振って、かたくなに手を離そうとしない。

「む、胸はいいよ。パス」
「何かあったんですか?傷でもできました?」
「いいから、胸はいい。見ないで」
「そうですか……。なら、やめておきましょうか」

肩から鎖骨、二の腕、と口づけを落としていき、抱きしめている瀬里奈の腕の脇に舌を這わせた。ついでに裏返して背中へと進む。

「や、やぁぁ……ん。や、やだぁっ」
「胸は嫌なんでしょう。なら、背中を見せてください」

身悶えしてぱっと瀬里奈が腕を自分の胸から離したのを見逃さず、再び表にして瀬里奈の腕の間に身体を入れる。小さなふくらみに触れ、その頂を軽く吸う。見ないで、と繰り返して瀬里奈は辻井の身体を叩いた。

「――ちいちゃいから、嫌なの」

ためらいにためらった後、瀬里奈は小さく言った。

「男の人って、胸、大きいほうがいいんでしょ。でも、わたしの胸はちっちゃくって……」
「この間は、そんなこと言っていなかったじゃありませんか」
「この前は……ッ。……夢中で、それどころじゃなかったの」

顔を真っ赤にして横を向く。確かにお世辞にも大きいとは言えないサイズの胸だ。

「お嬢さん。胸の大きさで女の良し悪しが決まるわけじゃありません。それに、小さくてもいいじゃありませんか。俺の小さなお嬢さんにぴったりの、可愛らしい胸だ」

言いながら胸をやわりと揉み、乳房を丁寧に舌で愛撫した。

「わかったから、あんまり小さいって連呼しないで」
「……はい」

おかしくて、笑いを堪えるために抱きしめた。

「ねえお嬢さん。この間は夢中で気がつかなかったっていうんなら、今もまた、夢中になればいいんです」

乳房を口に含んで、指は脇から乳房へと向かうラインを撫でていく。

「何も考えないで。嫌な記憶なんて忘れるくらい、愛してさしあげますから」

瀬里奈の声のトーンが、高く、甘くなっていった。
辻井は指を瀬里奈の秘所へ差し入れた。すでにとろけきっているそこは、指を入れて動かす度に、くちゅ、という音をたてた。

「お嬢さん。すみません、うちにはゴム、置いてないんですよ。だから、指で我慢してください」
「そうなの?」
「ええ。ここに女性を連れてくることはないので」

そもそも辻井と付き合うような女性は、自ら避妊をしているので普段はゴムもしていないのだとは、敢えて言わないでおいた。

「わたしのバック」

ヘッドボードに置いてあったバックを掴み、渡した。瀬里奈は口を開き、中から正方形のビニールの袋を出し、ひとつひきちぎる。

「なんで持ち歩いてるんですか」
「怒らない?」
「理由によっては、怒ります」

普段から避妊具を持ち歩かないと間に合わないほど、淫乱な生活をしているとでも言ったら、どうしてくれようかと、胸がざわつく。

「これ、智也さんに持たされたもので……。えっと、あの……。今日、こっちにきて、辻井さんにもし会えたら――って思って」


今、智也――小野寺は横田の下で働いている。あれ以来会うことはないが、監督している青山によれば女にはもう懲りた、と言っているらしい。
小野寺を殴った日の、瀬里奈の怯えた瞳を思い出す。あの日、暗いホテルの部屋で瀬里奈は肌を見せてベッドにいた。小野寺の下でも、こんな声を出して、快楽に酔った艶めかしい顔をしていたのだろうか。
自分の下で身体は敏感に反応する。小野寺にここまで開発されたということなのか。小野寺が初めての相手で、その他自分以外に瀬里奈を抱いた男はいないはずだ。それなら一体、どれだけの数、小野寺に抱かれたのだ。
湧きあがる見苦しい嫉妬を抑えこみ、瀬里奈に訊いた。

「欲しいですか」
「えっ?」
「指じゃなくて、こっちが。俺の、これが、欲しいですか」

瀬里奈の手を自分の股間へ導き、男根を握らせる。

「欲しいなら、欲しいって言ってくださいよ。俺のが欲しいって、言ってください」
「うぅ……。……。欲しい。辻井さんのが、欲しい……」

瀬里奈がそれを握り、そっと扱いた。

「これで、いいんですか」

扱かれながら、辻井は瀬里奈の髪を撫でて訊いた。すると瀬里奈はうっとりと微笑み、扱く手を両手に増やした。

「これがいい……」

たまらず、抱き寄せて荒々しく唇を塞ぎ、舌で中をまさぐった。瀬里奈の手の中の肉棒が、弾けんばかりに屹立していった。再び指を瀬里奈の中へ入れ、存分にかき回す。

「お嬢さん、綺麗ですよ。三根ももうこんなにふくらんでます」
「さ、ね?」
「ああ、クリトリスってんですかね、普通は。お嬢さんの、ここのことですよ」

言いながら今度は尖った先を指で軽くこねる。ぱんと張りふくらんだ芯をこね、ぬるりとした蜜を滴らせている陰唇に指を入れた。
ぐぽりと水音を立てている瀬里奈の泉を指で混ぜた。きゅうと辻井の指を締めつける瀬里奈の中は熱く、とろとろと蜜を途切れることなくあふれさせる。
指の数を増やし、口づけをしながら激しく指を動かす。親指でこりこりとした芯をつぶし、責めた。やがて瀬里奈は大きく喘いで、くたりと身体を弛緩させた。
手で支えた硬い猛りの先で、荒い息を吐く瀬里奈の唇をなぞる。先から漏れている透明な液で、瀬里奈の唇がぬらぬらと光った。ぴくりと男根は意志を持っているかのように動き、更に硬さと大きさを増す。
口づけをしながら、ゴムをくるくると根元までかぶせる。先端を入り口の襞にあてがうと、瀬里奈が目を閉じた。

辻井はゆっくりと瀬里奈の中へ自身を入れていく。時折小さく腰を回し、肉壁を刺激する。むっちりとした瀬里奈の中の圧力とうごめく襞を味わいながら、時間をかけて進んでいった。
目を閉じて感じている瀬里奈の胸を揉み、唇を這わせ、口づけをする。瀬里奈の腕は辻井の首に絡まり、足先は辻井の背中を滑るように行き来している。

「きもち、い?」
「ええ。とても。今にも、いっちまいそうですよ。お嬢さんは、気持ちいいですか」
「ん……ッ。そんなこと訊くなんて、い……じ、わる……」

自分の肩に乗っている瀬里奈の足首を掴み、ぐいと横に広げた。そのまま足をベッドにつくほど押し広げる。辻井の先端が瀬里奈の最奥を突いた。少しだけ戻し、また身体ごと押し込むように奥を貫く。
後ろの穴まで見えるほどに腰が上がっている瀬里奈の中を、激しく突き上げた。一番奥まで辻井の男根は突き刺さり、その度に辻井の射精感も増していく。
舌で脚をなぞりあげ、足の指を口に含んでしゃぶる。身体の縁を指先で柔らかく触れていく。乳房を持ち上げるように揉み、頂を指で転がす。突き上げる度、瀬里奈が嬌声を上げる。


喘ぎながら自分の名を呼ぶ少女の腰を抱き、あぐらをかいた上に乗せた。
抱いた腰を持ち上げ、落とす。瀬里奈の身体の真ん中を、貫く。何度も、同じようにして突き上げる。瀬里奈が落ちてくる瞬間を狙って、自分の腰をくいと持ち上げる。

「ああ、あ、ぁ。い、いやぁ。あん、あ、いい、そこ、あああ。んんんっ!あ、もう、だめぇ……ッ。も……もう、ああああ……ッ」

何を言っているのか本人もわかっていないであろう叫び声をあげて、瀬里奈は快楽に溺れている。何度も軽い絶頂に達しているのか、締めつける力も段々緩くなってきた。
胸の頂を口に含みながら、辻井は瀬里奈の腰を固定して、自分の腰を回した。そろそろか、と瀬里奈の状態と自身の限界を見て取って、辻井は瀬里奈を横たえた。

「最後はこうがいい。これなら、お嬢さんの可愛い顔が見える」

瀬里奈の中が、もう一度ぎゅっと辻井を締めつけ、震えた。一層深く、奥まで叩きつけ、強く引き抜く。肌がぶつかり合う音が響き、瀬里奈の瞳から涙の粒が落ちた。
瀬里奈が絶頂に達した瞬間は、それまでより格段に強く締めつける肉襞が教えてくれた。それと同時に瀬里奈が叫び、背筋を仰け反らせ、足をぴんを伸ばす。
その締めつけに耐え切れず、最後のストロークを続けた。先端が数度瀬里奈の奥にぶつかり、足の先から痺れが全身を駆け巡る。欲望の全てが腰に集中し、最後は肉棒を伝って発射された。
ぶるりと身体を震わせ、ゴムの中へ吐き出す。最後まで吐き出すために腰を振った。汗が瀬里奈の身体に落ちた。

「お嬢さん」
「ん……」

瀬里奈の声は、叫びすぎて嗄れていた。

「――。気持ちよかったですよ」

よかった、と瀬里奈が苦しそうに微笑んだ。汗にまみれたまま瀬里奈を抱きしめる。どくり、どくりと瀬里奈の中で、辻井の欲望はゴムに吐き出されていく。
いつまでもこの温もりに包まれていたいと思う気持ちと、このままではゴムをつけた意味がなくなりそうだという気持ちで、葛藤を繰り返す。
小さな宝物だった少女を抱きしめ、何度も口づけた。思わず口にしそうになった言葉を、飲み込んで。


瀬里奈が暑いと呻いた。その言葉をきっかけに辻井は瀬里奈の中から萎みかけた自身を出し、瀬里奈から離れる。ゴムを片付け、バスルームからタオルを持ってくる。温水で濡らしたタオルで、瀬里奈の秘所とどろどろの下半身を丁寧に拭った。
拭った後にちゅっと口づけを落とした。バスタオルで全身の汗を拭く。ほんのりと赤みを帯びた身体を清めてから、自分の身体を軽く拭く。ベッドの下に落ちているバスローブと下着を瀬里奈に渡し、辻井は窓を少し開けた。
冬の雨のせいで、空気は凍てついている。思わずぶるりと身震いして、辻井もバスローブをまとう。
寒くないように布団と毛布をかけてやり、その隣に滑り込んだ。
辻井が横になると同時に、瀬里奈が腕を伸ばして辻井を求めてくる。腕が辻井の背中に絡まり、辻井は瀬里奈の顔を胸に抱く。額にキスをして、おやすみなさいと囁いた。
細い指が辻井の胸を這う。その手をとって、指先に口をつける。

「もう、これで最後ですよ」
「やだ」
「約束、したでしょう」
「嫌。嫌、嫌」

言いながら寝てしまった瀬里奈の唇に軽く唇をつけて、辻井は窓を閉めるために起き上がった。抱いた温もりはいつまでも腕の中に残り、辻井の胸を満たしていた。

いつもと同じように朝六時前に目が覚めた。カーテンの隙間から、ようやく明けようとしている朝の柔らかな太陽の光が、うっすらと差し込んできている。
ふと腕の中を見れば、抱きしめた瀬里奈が寄り添うようにして眠っている。痺れた腕の感覚は、いつ以来だろう。
腕の中の少女はまだ目を覚ましそうにない。コーヒーを淹れにキッチンへ行こうか、それともこのまままどろんでいようか考えた。

「んんぅん」

猫のように身じろぎをする瀬里奈を見て、辻井は口元をほころばせた。逃げていこうとする瀬里奈をもう一度しっかりと腕に抱き、瞼に口づける。

「おはようございます、お嬢さん」
「んん。今何時」
「六時ですよ」
「もっと寝る……」

瀬里奈は辻井に背を向けて、くるりと背中を丸めようとする。

「六時に起こせって言ったのは、お嬢さんですよ。七時半には出ますからね」
「なんで?学校、お休みだよ」
「オヤジと朝食とることになってるの、忘れましたか」
「あー……。忘れたい」

不機嫌そうに目を覚ました瀬里奈とキスを交わす。

「ねえ……。嫌だから。でも、辻井さんが駄目っていうんなら、我慢するから」

最後にキスして。
それが最後のお願いなら、聞きましょう。そう言って、辻井は瀬里奈に口づけた。


キスだけで終わることもなく、辻井はまた瀬里奈を抱いた。
瀬里奈の身体には、まだ昨夜の情事の余韻が残っていた。僅かに触れるだけでぴくりと反応し、とろりと蜜が滴った。口づけと愛撫を繰り返しながら、辻井は自分を高めていく。ある程度ならコントロールできる欲情を無理に高めると、徐々に男根が勃ちあがってくる。
それを瀬里奈はそっと手に取り、優しく撫でてくれた。やがて顔をうずめて、口に含んだ。

「そんなこと、しなくていいですよ」

顔を離した瀬里奈の頬は高揚して真っ赤になっている。
背後から瀬里奈を抱きしめ、胸を揉み、陰唇をねぶる。ふくらんできた芯を責め、瀬里奈の喘ぎ声を聞いているうちに、辻井はゴムをつける。

「お嬢さん、前に手をついて」

四つんばいの格好をさせ、尻を持ち上げて後ろから貫いた。胸を揉み続けながら、背中に口づけを落とす。肌がぶつかりあう音が響き、やがて瀬里奈も自ら腰を動かし出す。

「あっ、ん、はぁぁっ……。あん、あっ、あっ、ん……ッ!」

辻井が腰を突きたてるリズムに合わせて、瀬里奈が声をあげる。ぎゅうと締めつけられる中の感触を味わい、ちらりと時計を見た。
瀬里奈の身体を十分に堪能してから、自分の記憶に刻み込んでから、終わろうと思った。身体のすみずみまで口づけ、撫で、触れる。
今までにない激しさで突き上げ、瀬里奈が悲鳴のような絶頂の声を上げたのを聞いて、辻井も瀬里奈の中で果てた。


シャワーを浴びて瀬里奈が着替えているうちに、先にバスルームを出た辻井はキッチンでコーヒーメーカーをセットした。いい香りが部屋中に漂い始める。
コーヒーを飲んで新聞を読んでいると、ようやく瀬里奈がやってきて、辻井に細長い包みを差し出した。

「辻井さん。あの。ハンカチ借りたの、覚えてる?えっと、実はアイロンで焦がしちゃったから、新しいので悪いんだけど。返します。長い間、ありがとう」

記憶を手繰り寄せ、ようやく思い出した。綺麗にラッピングされた包みを開けると、ハンカチとネクタイが入っている。

「ネクタイをお貸しした記憶はありませんよ?」
「ほ、ほら、長いこと借りちゃったから、りっ、利子?いつも辻井さんがしてるような高いいいヤツじゃないんだけど……」

確かに手に取るとその質感からして全く違う。だがデザインだけは、オーソドックスなものを選んだらしい。使えないものでもないだろう。辻井はつけていたネクタイを外し、箱の中のネクタイに締めなおした。
ぱっと瀬里奈の顔が明るくなる。バックの中から大きな鏡を取り出して、辻井の前に立ててくれた。

「お嬢さんも、今時の若い子だったんですねえ……」

笑いながら、その鏡でネクタイの結び目を確認する。それにしても、裏金もかくや、という高利貸しになったようだ。辻井は罪滅ぼしも兼ねて、瀬里奈にキスをした。

「これ、最後のキス?」
「そうですね」
「……じゃあ、もっと一杯して」

結局出かけたのは、七時半ぎりぎりだった。

ふたりが島津のいる都内ホテルへ着いたのは、指定時間の八時を少し過ぎる頃だった。

「遅刻だな、瀬里奈」

瀬里奈を彩がテーブルへ連れていき、オーダーをしている間、島津は辻井を睨みつけた。

「今朝の目覚ましは、京都からの電話だ。都かと思いきや、あいつの母親からだぞ。京都弁でネチネチ俺をいびり倒しやがった。怒鳴るわけにもいかねえし、あんな思いは久しぶりだぜ」

掛け合い上手で知られる島津をそこまでいびり倒せるとは、なかなかできるもんじゃないなと思わず感心する。

「瀬里奈が帰ってこない、一緒に行った友達の家にかけても、まだ帰ってないと言っている、どこへやった、お前が連れてったんじゃないかってな。まるで人を誘拐犯みたいに言いやがる。連絡の一本くらい入れてから、こっちへ来たんじゃねえのかよ、あいつ」
「携帯のバッテリーなくなったっておっしゃってましたから、どうなんでしょう」
「あのクソバカ娘」

傍にあるソファを蹴りつけた。

「じゃあゆっくりできなかったんですか」
「夕べはゆっくりしたさ。今朝も朝からゆっくりたっぷりしようと思ってたのによ、朝っぱらからネチネチ親子夫婦でやられたおかげで勃つもんも勃ちやしねえ」

ゆっくりできるの意味違いなんだがな、と辻井は苦笑した。

「それは、ご愁傷様です」
「そもそも対外的な交渉は、まずはお前がやることになってるだろうがよ。なんで俺なんだ」
「組事でしたら自分がやりますが、ご家庭のことまでは……」
「ああ、クソ。まあいいや、お前もまだ食ってねえんだろ。一緒に食え」
「ありがとうございます。そうだ、オヤジ。あの子が今いるところ、分かりましたんで、後で夏目から報告させます」

あの子?と島津は眉をひそめ、ああ、と頷いた。

「いや、報告はいい。とにかく、そこのこと調べて、いつでもいけるように、しておけ。彩にも言っとく」


レストランの中へ戻る前に、入り口の近くで待機している澤村に目配せを送る。澤村もぺこりとお辞儀をして返した。

「なんもねえか」
「へい。ただ、明日京都へいらっしゃる予定だったのを、今日にするってんで、岩淵が今頃スケジュール調整に走り回ってるとこです」
「まあ、今日は外せない義理はなかったはずだし、本家の当番も都合よく明後日に回してもらえてるから、なんとかなるだろ。なんなら、俺ができることなら俺がやるから、遠慮なく言ってこい」
「へい、ありがとうございます」

言いおいて、辻井も中へ入った。すでに食事を始めている三人に謝ってから、箸をとる。和朝食だったが、彩の作る食事のほうが美味いなと、心の中で呟いた。


食事を終えて、島津が澤村を呼んだ。やってきた澤村が、スケジュール調整が完了したと告げた。

「辻井、彩を車乗っけてってやってくれ。おい、瀬里奈。出かけっぞ」
「どこいくの?」

コーヒーカップに口をつけたまま瀬里奈が訊いた。

「俺とクリスマスデート」
「はぁ?」

顔をこおばらせた瀬里奈を横目に、島津は立ち上がった。

「お前な、俺とデートしたいって順番待ってる女、並べたら月までいけるんだぞ?そんな中でお前をファーストチョイスしてやってんだ、感謝しろよ感謝」
「お父さん、発想がおやじっぽーい」
「そりゃ、お前の親父だからな」

わざとニヤニヤ笑いながら、瀬里奈の肩を島津が抱こうとした。

「やだもう、触んないで、スケベ!」
「スケベで結構。俺もお前も親父とお袋がスケベだから生まれてきたんだぜ。あ、お前の場合は俺と都か」
「想像しちゃうからそんなこと言わないでよ」
「今度見せてやろうか。相手は彩だがな」
「いりません!バカ!変態ッ」

瀬里奈は島津とまるでじゃれあうようにして出口へ向かった。澤村がぴたりと島津の横につく。辻井も島津を追った。島津の後ろに立ち、周りを伺いながら歩く。

「――随分賑やかになりそうだこと」

辻井の横を歩いている彩が肩を竦めて笑った。
子供はふたりもいれば十分。そう言った彩の予想通りになりそうだ。
辻井の大切な宝物が、自分の近くに帰ってくる。一瞬目を閉じて、瀬里奈がいる生活を思い描いた。

どこへデートに行くのかと思っていると、車で東京駅へ連れて行かれた。強制送還かと瀬里奈は身構えたが、父は他にふたりの部下を連れて一緒に新幹線に乗り込んだ。

「たまにゃあ俺にも京都観光くらいさせてくれや」
「暇人」
「おお、暇、暇。昨日、どっかの誰かが突然東京来たからよ、全部のスケジュールが狂ったんだよ。ったく、迷惑なヤツもいるもんだぜ、なあ、澤村」

なあ、と呼びかけられた、通路をはさんで隣に座っていた青年が苦笑した。そんな父の厭味もなんとなく心地よい。スケジュールを狂わせて、瀬里奈につきあってくれているのだとわかるからだ。

「ほーんと。誰かしら、それ。きっと、わたしみたいに超可愛い子だよ。ね、澤村さん?」
「えっ?あ、え、ええ」

突然瀬里奈から声をかけられて、澤村はしどろもどろになった。

「そ、そうっスね。えっと、お嬢さんみたいに……。へえ。そうだと、思います」
「カッ。くだらねェこと言ってんじゃねえよ、アホか、お前ら」

島津が鼻を鳴らしてシートを倒した。

「あのう、お父さん」

ふと、父に言われたことを思い出した。

「逃げるなって言われたのに、ほんとに逃げ帰っちゃって、ごめんなさい」

目を閉じていた島津が、片目を開けて瀬里奈を見た。

「頑張ってみたんだけど、でも、でもね」
「瀬里奈」

ぽんと島津が瀬里奈の頭を撫でた。

「まさかひとりで新幹線乗ってくるとは思わなかった。ここまでやりゃあ上等だ。よくやった。さすが、俺の娘だ」

そしてまた目を閉じる。澤村、岩淵というふたりの青年が、にっこりと微笑んだ。照れ隠しに瀬里奈も笑い、頭をかいた。


京都の長浜家へタクシーで乗りつける。
瀬里奈が門のベルを鳴らすと、祖母がまずまっさきに飛び出してきた。続いて、都と山上も出てくる。

「これは……島津さん。ご無沙汰しております。おかえり、瀬里奈ちゃん」

門の外まで出てきて、冷静に微笑み山上は挨拶をした。その横から祖母がきつい声を浴びせかける。

「孫を返してください」

都が門を開けて出てきた。山上の横に立ち、島津を見ている。

「都。今日はお前に会いに来たんだ」
「――瀬里奈、こっちへいらっしゃい」

島津の言葉を無視して都は瀬里奈に声をかけた。

「なあ、都。俺の最後の我が儘、聞いてくれないか」

都が島津を見つめた。

「吐いた唾飲むみてえで、いい気分じゃねえんだがよ。お前が京都に行ってから、ずっと考えてたことがあってな」
「気分悪いなら、帰らはったらよろしい。さあ瀬里奈ちゃん、こっちにおいで」

瀬里奈の腕を掴もうとした山上の手をぱっと払って、島津は瀬里奈を自分の胸に引き寄せた。

「瀬里奈を俺にくれ」
「なんですって?」
「瀬里奈を俺にくれ、都」

父は、もう一度そう言った。突然そんなことを言われた瀬里奈自身が一番驚いた。

「今更そんな勝手なこと!瀬里奈ちゃん。あんたは東京行きたいんか?お母さんと一緒に、こっちにおるやろ?」

祖母の科白に、瀬里奈は言葉を詰まらせた。
帰りたい。兄がいる東京に。父が、辻井がいる東京に。住み慣れたあの街に。
だがそれは母をひとり置いていくことになる。最初は東京に残ると言った。それを翻した時の、母の嬉しそうな顔が忘れられない。
自分の気持ちを裏切ることも、母を裏切ることも、瀬里奈には選べなかった。


言葉もなく、ぎゅっと父のスーツの上着を握った。父は瀬里奈の身体を撫でてくれた。

「いっぺんは本人の気持ち聞いて手放したのを、今度は取り戻そうってんだ。本人の気持ちなんか関係ねェ。瀬里奈はもらってく」

ひょい、と島津は瀬里奈の身体を肩に抱き上げた。

「都。もうこれでお前に会うこともないだろう。ガキふたりは、俺がちゃんと面倒みるから心配すんな。山上さん。そんなわけで、あんたにやれるのは花嫁だけだ。けどよ、三国一の花嫁だぜ。大事にしてやってくれ」

じゃあな、と手を振り、ぽかんと口を開けている長浜家一同と山上を置いて、島津は歩き出した。

長浜家を出た島津は、今度はまっすぐに瀬里奈が知らないどこかへと向かっていく。ふたりの青年の緊張感が、それまで以上に増していた。
たどり着いた家は、大きな門構えの立派な和風のお屋敷だった。門には「篠井一家」と書かれている。
門の中から男が出てきて島津を確認し、家の中へ案内された。
そして通された居間で、瀬里奈は慣れない正座に顔をしかめる。青年ふたりも同じように苦しそうだが、意に反して父はピシリと背筋を伸ばし、慣れた風だ。
ガラとふすまが開いて、由佳が飛び込んできた。

「瀬里奈、帰ってきたんやって?っと……。失礼しました。わたくし、長井の娘の由佳と申します」

三つ指をついてお辞儀をした由佳に驚いた。とてもそんなことをしそうには見えなかったからだ。

「先にご挨拶するところ、失礼しました。瀬里奈の父親の、島津です。瀬里奈が世話になったそうで。ありがとう」

にっこりと由佳に島津が微笑むと、由佳の目がとろんと惚けた。この目はどこかで見たことがある。兄に話しかけられる女子生徒のうっとりした目だ。その姿を呆れるやら驚くやらで瀬里奈が見ていると、やがて長井が入ってきた。後ろから榎田もくる。

「やあ、島津さん。わざわざご足労くださって恐縮です。――そうやな、代紋は抜きにしましょか。由佳の父親の長井です。よろしく」
「島津隆尚といいます。娘から、親分さんと由佳さん、それに榎田くんにお世話になったと聞きました。せめてお礼だけでもと、お忙しいとは思いましたが押しかけました」
「今朝、じきじきにお電話いただいた時は驚きましたわ。お嬢さんも、無事東京に着けたみたいで、何よりです。うちの娘の田舎芝居でも、なんとかなるもんですわな」

ハハハと豪快に長井は笑った。


「で、どうなさるんで?」

組員と思しき男が置いたお茶を飲みながら、長井が目を鋭くさせた。

「連れて帰ります」
「東京で生活させると?」
「はい。極道とは関係ない人生を送れるせっかくの機会でしたんで、京都へやりましたが、やめました」
「理由を、聞いてもよろしいかな」

島津は正座を崩さずに話をしている。瀬里奈はとうに横座りをしている。後で訊けば、少年院と刑務所で正座には慣れているのだとしれっと父は答えた。

「わたしは五人兄弟でしたが、親の都合でわたしとすぐ上の兄だけ他の兄弟と離れて父親の元で育ちました。親の都合で兄弟が離れ離れになるのは、辛いもんです。その辛さを知っているはずなのに、何故離してしまったのかと、悩んでいたのは事実なんです」

そこに、都合よく瀬里奈自身が東京へ逃げ帰ってきた。ならば、と父は考えたのだと話した。

「わたしらはいつ、何があるかわからない人生送ってます。子供の母親も、確実に子供よりも先に亡くなります。そうなった時、頼れるのはたったふたりの兄弟だけだ。そのふたりを、離しておきたくないんです」
「ほう」
「親の都合で離れ離れになる辛さを、危うく自分の子供に経験させるところでした。娘を新幹線に乗っけてくれた、由佳さんには感謝してますよ」

島津が由佳に向かい微笑みかけると、由佳はうっとりと島津を見、いえそんな、と可愛らしく照れた。

「うちはひとりしかおりませんから、羨ましい限りや。お嬢ちゃん、お兄さんと仲良うな。離れても、うちの由佳とも友達でいてやってくれるか?」

突然話を振られた瀬里奈は、はい、と声を裏返して答えた。由佳が鼻で笑ったのが見えて、心底悔しかった。

「は、はい。わたし、由佳――さんとお話できて、嬉しかったです。だから、これからも友達でい、いてくれるよ……ね?」

不安になり瀬里奈が伺うと、由佳はわざとらしく大きく息を吐く。

「しゃあないなあ。うちが東京行った時、案内できるようにちゃんといろいろ調べておくねんよ?」
「通訳するとやな、東京行ったら遊んでな、ってことやしな」
「カズ!余計なこと言わんでよろしい。ほんまにあんたは」
「アホか、由佳。お前が素直に言うたらすむんや」


玄関口まで送ってきた親子に別れを告げ、瀬里奈たちはまた東京へ戻った。新幹線に乗っている途中、由佳から父にベタ惚れのメールが届いて、瀬里奈は大笑いした。

「お父さん、順番、月までともうひとり分だよ」
「ああ?そうかそうか。俺が死ぬ頃にゃあ、冥王星までいけるな、多分」
「惑星じゃなくなっちゃったけどね」
「なら、M78星雲だな」
「どこ、それ」

訊いた時には、もう父は目を閉じていた。

島津は瀬里奈を東京に連れ戻したが、結局新学期の開始は京都で迎えた。手続きが済むまで、瀬里奈は彩と一緒に京都のホテルから学校に通った。
役所や学校の手続きは全て彩がこなしていた。長浜家からの苦情も全て彩が受け持ち、全ての矢面に立って、それでも動じずに仕事をこなす彩に、しばらくは頭が上がらないと島津は笑っていた。それを本人に言うことも、実際に下手に出ることも一切しないのだろうが。
言葉にしなくても通じ合っているような、ふたりの関係が瀬里奈はうらやましかった。母とは全くタイプの違う女性の彩を知っていくにつれ、彩を母親というよりは頼りになる姉のように慕っていった。
島津が彩を求めていたのなら、都ではとてもその代わりにはならなかったであろうと、瀬里奈は純粋に納得した。
今ではもう、何故父が母ではない女性と結婚しようとしたのか、疑問には思わなかった。


S街はまた雨の夜を迎えていた。土曜日の夜に降る雨は、繁華街への客足を鈍らせる。それでもS街は地下街が発達しているためか、それとも雨などものともしない客が多いのか、街はいつも通りに賑わっている。
瀬里奈は街をうろついていた。
明後日、転入試験を受けに行くようにと指示された学校が、今まで通っていた学校と違うことが、ショックで、飛び出してきたのだ。
もう万理と会えないにしても、それでも同じ学校へ行けるのだと単純に思っていた。行き慣れて、友達もいるところへ戻れると思っていた。
甘えるなと父に怒られ、お父さんが父親じゃなければよかったのに、そうすればいじめられることもなかったのよ、と吐き捨ててしまった。怒鳴り返されると思ったが、父は言葉を失い、代わりに彩に怒られた。
まるで自分のことのように怒る彩に驚き、その驚きを隠そうとして家を飛び出した。
ハッと言葉を失った父の寂しそうな目が、いつまでも脳裏にちらついて、瀬里奈をむかむかさせた。
買い物して、甘いもの食べて、気を紛らわそう。
瀬里奈はそう決意して、ブランドショップのショーウィンドウや、デパートのショップを冷やかして歩いた。
歩きつかれて、前によく通ったカフェに行く。ケーキが並ぶガラスケースを覗きこみ、オーダーを決めてから席につく。

「ガトーショコラと、ロイヤルミルクティー」

万理は?と続けそうになって、万理は隣にいないのだと気づく。そういえば、この店もいつも万理と来ていた。買い物も、いつも万理と一緒だった。
この街は、万理との思い出が多すぎる。帰ってきたのは嬉しいが、ふとした時に、万理のことを思い出してしまう。

「元気かな……」

携帯には万理のメールアドレスも電話番号も入っている。だが、メールアドレスは不達。電話は着信拒否が続いていたが、そのうち違う人間が出るようになっていた。
兄から聞いたところでは、停学がとけたあとも佐倉ひとみと一緒にいるようになり、やがて転校してしまっていた。そして転校先を、誰も知らなかった。


まさかまだ宏太が、万理にお金をせびっているとは思いたくなかった。後藤も、宏太は実家へ帰ったと言っていた。
ならば何故、ひとみと一緒にいる必要があるのだ。ひとみ個人が悪いわけではないかもしれないが、やはり瀬里奈にはひとみのやっていることは抵抗があった。綺麗事言うな、と万理に罵られたが、それでもやはり嫌だった。
他のクラスメイトたちは、戻ってきた万理に冷たかったのだろう、と兄は言った。

「ごめんね万理。逃げちゃって、ごめんね」

ミルクティーをかき混ぜながら、ぽつんと呟いた。
届いたケーキを携帯で写真を撮ろうとして、ふと、その写真を送る相手もいないことに気づく。
そういえば、携帯電話はここのところ仕事をしていない。彩や尚が連絡してくる時くらいしか、着信音が鳴ることはない。由佳からのメールは届くが、彼女は自分が言いたいことを書き連ねて送ってくるだけで、瀬里奈の反応を求めているわけではない。
窓ガラスの外をぼんやりと眺める。ケーキにフォークを刺したものの、一口食べると胸が一杯になってしまった。
街を行く人々は、楽しそうに笑ったり、はしゃいだりとしながら歩いている。ひとりでいることは、京都の経験で慣れたが、この街でひとりなのはまだ慣れない。
広い歩道の、一番車道側を歩くふたりの少女が目に入った。こちら側はひとみ。向こう側は、万理だった。

「万理ッ」

伝票を掴み、レジに千円札を投げるようにして置いて、店を出る。
道をどれだけ探しても、もう万理の姿は見えなかった。
髪の毛から雨粒が滴って初めて、カフェに傘を忘れてきたことに気づいた。

カフェに戻り、傘立てを探すと、すでに傘は誰かに持っていかれた後だった。店員が、他の忘れ物のビニール傘をくれようとしたが、断って瀬里奈は店を出た。
雨は小降りになってきたが、それでもまだやみそうにない。傘も差さずに街を歩く瀬里奈を、通りすぎる人が怪訝な目で振り返っていく。
気づくと、前に住んでいた家の近くの公園に来ていた。
父と母がそれぞれ結婚すると聞かされ、家を飛び出した時に辻井に抱きしめられた、あの公園だ。
あの頃から、何かが変わった。
愛、結婚、恋人、夫婦、愛人。
そんなことが瀬里奈の頭の中を占め、父のことも、母のことも疑った。結局、母のことは疑ったままだ。

「逃げてばっかり、わたし」

父と母の結婚話から逃げようとした。
停学になった万理と向き合うことから逃げた。
京都では自分をいじめた少女と対決することから逃げた。
東京でのことを忘れようとする母から、忘れさせようとする祖父母から、ぎこちない愛情を向けてくれた山上から、逃げた。
今、万理はどうしているのだろう。学校にいづらくなって転校していったという。新しい学校で、新しい友達と元気にやっているのだろうか。
新しい生活を始めた母は今頃何をしているのだろう。夕飯の支度をおばあちゃんと一緒にしている時間かな。今日は土曜日だから、山上さんも来ているかもしれない。
自分が逃げ続けることで、沢山の人を振り回した。
ごめんね、ごめんね、と何度も謝りながら、瀬里奈は公園のベンチに座り込んでいた。
こんな時、由佳ならいつも傍に榎田がいる。榎田は、何はともあれ由佳の味方で、由佳の傍らにいる。
瀬里奈にとっての榎田は、辻井だ。だが、辻井と榎田では似ているようで全く違う。辻井は常に傍にいてくれるわけではない。たいてい、助けに来てくれるものの、それはあくまで辻井がシマにいて、仕事がない時に限る。
それに、ケンカはしつつも由佳と榎田は仲が良く、お互い思い合っている。決定的に違うのは、ここだ。
辻井は瀬里奈の思いを知りながらも、それを受け入れることは決してない。それが、何よりも寂しい。


小降りになった雨が、またしっとりと降り始めた。服はもちろん、下着までぐっしょりと雨に濡れて張りついている。

「さむ……」

ぶるりと震えて身体を抱く。立ち上がると、靴がガボッと音を立てた。
ああ、バーゲンで安くなっててやっと買えた、お気に入りのバレエシューズだったのに。
バーゲンはもちろん万理とふたりで行った。デパートに駅ビルに路面のショップにとふたりで足を棒にして歩き回ったのだ。
立ち上がった瀬里奈は、またベンチに座り込んだ。ぐすりと涙をこらえ、鼻をすする。
ベンチの上に膝を抱えて座った。膝の間に顔をうずめ、泣いている顔を誰かに見られないようにする。
こんな雨の日の公園に来る人もいないだろうと思っていたのに、誰かが来る足音がする。足音はどんどん瀬里奈のいるベンチへ近づいてくる。
犯罪に巻き込まれでもしたらどうしようかと、びくりと身体が震えて固まってしまった。時間はもう夕暮れ。雨のせいで空は真っ暗。街灯も雨にさえぎられ、あたりは薄暗い上に、人通りが少ない。
お父さん、ごめんなさい。
父に腹を立てて家を飛び出して、危ないことが身に降りかかると、父を思い出す。自分の身勝手さに涙が出てくる。
やっぱりお父さんがいいです。ごめんなさい。


足音が瀬里奈の前で止まった。身体を叩いていた雨粒が、落ちてこなくなる。
恐る恐る瀬里奈は膝の間から顔を上げる。

「帰りましょう、みんな心配してますよ」
「何、しにきたの」
「お嬢さんが泣いてないか、見にきたんです」
「泣いてない……よ」
「いつもお嬢さんは嘘ばかりだ。俺には、そんなに強がらなくてもいいんですよ」

この間と一緒だ。雨に濡れた瀬里奈を、傘を持って迎えに来てくれた。あの、夢のような一夜の始まりと一緒だ。

「うん。いつも、ありがと……」

瀬里奈の記憶は、そこで途切れた。

頭がガンガン痛かった。だが、額はひんやりと冷たかった。とにかく寒くて、がちがち歯の根が鳴った。力をいれようにも、入れられない。
帰らなくては。ずっとここにいたら死んでしまう。
それでもいいかも。万理のいない学校行っても、つまんないし。おまけに、違う学校になんて、通うの怖いよ。
ああ、でも、お父さんに謝ってからにしようかな。お父さんが父親じゃなければよかったのに、なんて言って、ごめんね。


お嬢さん、と呼びかける声で目が覚めた。うっすらと目を開けると、辻井が心配そうに覗き込んでいた。

「ここ、どこ?」

いがらっぽい声で瀬里奈は訊いた。

「ご自宅の、お嬢さんのお部屋ですよ」

辻井が迎えに来てくれたのを、ようやく、ぼやけた記憶の中に蘇らせた。

「寒い。わたし、死ぬの?」
「何をバカなことを言ってるんですか。雨に濡れて冷えたんでしょう。熱も特にひどくないようですし、大丈夫ですよ」
「でも、寒くて、震えちゃう。わたし、みんなに迷惑かけて、だから罰なんだ」
「お嬢さん。お嬢さんが死ぬのなら、一緒に死んであげますよ。でもね、まだ自分はこの世に未練があるので、また今度にしてもらえませんかね」

布団の中の瀬里奈の手をぎゅっと辻井は握り、火照った頬を撫でてくれた。

「気持ちいい」

辻井の手の冷たさと、撫でてくれる感触の温かさに満足して、瀬里奈はもう一度目を閉じた。


次に目を開いても、辻井はじっと瀬里奈の傍に座っていた。どれほどの時間だったかも、わからない。いつもそこにいてくれる。その存在に、子供の頃からどれほど頼り、安心してきたのだろう。熱に浮かされたような目で辻井を見ると、辻井は笑みを浮かべた。

「氷嚢を替えてきましょう。他に何か欲しいものはありますか」
「んん……。喉渇いたから、オレンジジュース」
「わかりました。他は?」
「あと……。お父さん、いる?」
「いらっしゃいますよ。お呼びしてきます」

頭の上の氷を辻井はそっと取り除き、そこに軽く口づけてから部屋を出て行った。


しばらくすると島津がやってきた。勉強机の小さな椅子に、島津は座りにくそうに座った。座ったまま、島津は何も言わずに瀬里奈を見下ろしている。

「ジュースは?」
「後で辻井が持ってくる」

また沈黙が訪れる。くるりと島津に背中を向けて、瀬里奈は言った。

「ねえ、お父さん。新しい学校、楽しいかな?」

恐る恐る身体を父の方に向けて、父の顔を見る。ああ、と頷き、父は微笑んだ。椅子から立ち上がり、ベッドに腰を下ろす。

「きっと、いいことあるぜ。俺がわざわざ調べて、選んだ学校だ、間違いねえって」
「ホントォ?」
「お前なあ、ちったァ俺の言うことも信用しろよ、俺をなんだと思ってんだよ」
「んー。ヤクザの親分?」
「お前、ほんと頭悪ィな。誰に似たんだよ」

島津は大きくため息をついて、頭を振った。大きな手で、瀬里奈の髪を撫でる。

「俺ァ、お前の父親だろ?」
「――さっきは、ごめんなさい」
「反省したか」
「した。思いっきりした」
「ッたく、調子いいな」

へへ、と笑うと、父も安心したように笑った。今まで見たことのない、穏やかな笑顔だった。子供の頃に街で見かけて憧れた家族連れの、我が子を見る父親の顔と同じものだった。

「お父さん、大好き」
「わかったわかった。お前はいつでも順番待ちの一番目だぜ」
「待たされるのォ?」
「当たり前ェだ。俺の隣の席は、いつだって彩のモンなんだよ。だから、お前は一番目。な、あんまり心配させんなよ」

音を立てて父は瀬里奈の額にキスをした。照れ笑いをしながら瀬里奈は額に手を当てた。

辻井を呼んでくると言った父が出て行ってしばらくしてから、辻井がトレイを持ってやってきた。

「起き上がれますか?」

ベッドサイドの小さなテーブルにトレイを載せた辻井の手に支えられて、瀬里奈はベッドで起き上がった。トレイの上にはオレンジジュースのグラスがあった。
辻井はグラスを瀬里奈に渡す。ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干した。ジュースをもう一度デカンタから注いでもらう。
それも一気に飲み、グラスを辻井に返した。ちょっとしたことで触れる辻井の肌の感触に、どきどきと胸が鳴る。
雨がまた強くなってきていて、窓に叩きつける音がした。ベランダへ落ちる雨の音が、黙りこくった部屋の中へ小さく響く。

「辻井さんと会う時は、いつも雨が降ってるね」
「そういえば、そうですね」

ベッドに腰掛けている辻井の膝に、顔を乗せた。辻井は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに髪をゆっくりと、ゆっくりと撫で始めた。髪から首へ、肩へ、背中へ。

「だからかな、わたし、京都でいつも雨が降ればいいのにって思ってた。そうすれば、辻井さんに会えるような気がして」
「――あの時は会いに行くなんて言いましたが、すみません、本当は会いにいくつもりは、なかったんです」
「うん……。でも、いいの。――ねえ、もう一度、最後のお願い、きいて」
「――なんでしょう」

辻井の答えを聞いて、瀬里奈は両手を伸ばした。両手を辻井の首に絡みつけ、胸に顔を寄せる。


どくんどくんと脈打つ鼓動が聞こえてくる。ゆっくりと、しっかりと、瀬里奈を包み込むように聞こえてくる。
そっと瀬里奈の背中に回された辻井の手の温もりに、安心した。
見つめあい、瀬里奈は目を閉じる。瀬里奈の頬に辻井の手が添えられ、やがて唇が重ね合わされる。

軽く、唇をついばむように。
長く、唇を吸い。
深く、舌を絡ませて。

そして唇を離し、辻井は瀬里奈の身体をベッドに横にした。
小さく額にキスをされ、もう一度瀬里奈は安心する。
辻井も、島津も、いつも瀬里奈に口づけと抱擁をくれる。頬を、髪を撫でてくれる。それは、母や山上は決してくれない温かさだった。
雨はまだ降り続けている。乾燥の季節に降る季節外れの雨だ。だがその音が今は心地よい。

「雨の音、心臓の音みたい」
「氷嚢、乗せておきますよ」
「辻井さんの心臓の音みたい」
「おやすみなさい、お嬢さん」

氷嚢が額に乗せられ、辻井が優しく瀬里奈の髪を撫で、立ち上がった。
電気が消され、暗闇の中で雨の音だけ聞いていた。辻井は電気を消すと、またベッドに腰かけて傍で手を握っていてくれた。


やがて、瀬里奈の唇に、微かに何かが触れた感じがして、ぼんやりと目を覚ました。現実と夢とを彷徨っている瀬里奈の耳に、雨が降る音と、辻井の声が聞こえてきた。

「愛してます。お嬢さんがいらないと言うまでは、あなたの傍であなたに仕えましょう。二度と抱くことはないとしても、ずっとあなたを愛し、見守っています。――こんな愛の形があっても、いいでしょう……?」

おやすみなさい、と辻井が言った、気がした。

「あのね、わたし雨の日が好きになりそう。だって――」

言葉にしたのか夢の中で話したのか、瀬里奈には区別がつかなかった。


明け方、瀬里奈はすっきりと目を覚ました。
机の上には、ジュースのデカンタとグラスが載っていた。その横に置いてある携帯電話が、充電器の上でチカチカとメール着信を知らせている。
見てみると、メモリーに登録していないアドレスからだ。
本文には、九桁の数字があった。プライベート用の番号とアドレスです、と一言添えてある。
番号を見て瀬里奈は笑みをこぼす。心の中がふんわりと温かくなってくる。
最後の四桁は「1226」。瀬里奈の誕生日だった。

翌日、瀬里奈は新しい学校へ転入試験を受けに行った。相変わらず雨が降っていて、駅から遠いその学校へ着くまでに随分濡れてしまい、身体が冷えた。
普通に授業が行われている中、特別教室で試験を受け、お昼の鐘が鳴った頃に教室を後にする。
こんな簡単な試験でいいのかと勘ぐるほどの試験で、これからの学校生活に一抹の不安を抱いた。
父は、いいことあるぜと言っていた。わざわざ俺が選んだんだから、間違いねえって、と。
ほんとかなあ……。
今までの学校に比べ、ランクが下がっていることは明白だ。生徒のなりを見ても、前の学校にはいなかったような崩れた生徒が多い。
ひとりでこんな学校通って、またいじめられたりしないかな。
不安に胸が痛くなってくる。
万理が一緒なら、心強いのに。万理、どこに転校したんだろう。
そんなことを思いながら廊下を歩いていると、携帯電話が震えた。カバンから取り出して、メールを見る。

『今更こんなこと言って、許してもらえると思わないけど、でも、ごめんなさい。瀬里奈が悪いわけじゃないのに、あんなこと言って、ごめんなさい。
元気ですか。会いたいです。むしのいい話だよね。でも、会いたいです。ごめんね瀬里奈。またお友達になってくれると嬉しい。ねえ、瀬里奈。寂しいよ』
「万理」

呟くと、窓から外を見ていた少女が振り向いた。

「瀬里奈……?」
「……万理」

いいことあるぜ、と自信たっぷりに言い放った父の顔が浮かんだ。
俺がわざわざ調べたんだからって、学校のことを調べたんじゃないんだね。万理のことを調べてくれていたんだ。
ほんとだね、お父さん。お父さんが選んだだけあるよ。
ふたりの少女は抱き合い、やがて泣き出し、そして最後には笑顔を見せた。


ねえ辻井さん。雨の日には、いいことがあるみたい。


瀬里奈は携帯でメールを打つ。そのメールを覗き見した万理が、何それ、と笑った。

「絵文字ばっかで文字見えないじゃん」
「いいの。わたしの気持ちなの」
「そんなにハートばっかの気持ちって、すごくない?誰宛よ?」
「大好きな人宛」
「ええーっ?だあれそれ!」


あのね、辻井さん。やっぱりわたし、雨の日が好きだよ。
抱いてくれたあの日も、告白聞けた昨日も、万理と会えた今日も、全部雨の日だから。
愛してるって、夢じゃないよね。現実だよね。そんなこと、言ってもらえると思ってなかったから、本当に嬉しい。
おかえりって言ってくれたのも、嬉しかった。抱きしめてくれたのも、全部、全部、嬉しかった。
知ってる?カラカラに乾いてたわたしの心に降った、恵みの雨みたいだったんだよ。

瀬里奈は愛しい男の姿を思い浮かべた。

それからね。わたし、やっぱり、辻井さんが大好きだよ。でもこれは今すぐ叶う恋じゃないんだよね。
今はね、辻井さんが言ってたみたいな関係でいいよ。傍にいてくれて、見守っててくれれば、それでいい。
でも、待っててね。そのうちわたし、すっごく綺麗で素敵な女になって、辻井さんを振り向かせちゃうから。
大丈夫、辻井さんが、どんなにおじさんになっても、わたしは辻井さんが大好きだから。
だから、それまで待っててね。


「誰ぇ?教えてよ瀬里奈!」

万理といつものようにはしゃぐ。戻ってきた。わたしのいつもの楽しい生活が、戻ってきた。

「ナイショ。えい、送信!」

言いながらわざとらしく窓に携帯電話を向け、ボタンをぴっと押す。
ちょうどその時、雲の間から太陽が顔を出し、楽しげに笑う少女たちを照らした。






SS一覧に戻る
メインページに戻る

各作品の著作権は執筆者に属します。
エロパロ&文章創作板まとめモバイル
花よりエロパロ