シチュエーション
「ねぇコンラート。クリスが大きくなったらお嫁さんにしてくれる?」 何の前触れもためらいもなく、少女はコンラートの腕を引きながら「おねだり」を口にする。 ココアが飲みたいとか、本を読んでとか、抱っこして、と同じ口調で、とんでもないおねだりだ。 「……旦那さまがいいとおっしゃったらね」 「ほんとう?お父さまはコンラートならいいって言っていたわ!」 …………まじですか。旦那さま、いいんですか。あまり素性の知れないただの家庭教師ですけど、いいんですか。 まったくここの主人は末娘に甘い。 コンラートは嘆息した。 「約束よ、コンラート」 不安げにコンラートを見上げる鳶色の瞳に向かって、彼は出来るだけ穏やかに微笑んだ。 両手を伸ばして、お嬢さまの小さな身体をひょいと抱き上げる。 あ、と声を上げたクリスティンをひざの上に座らせて、額をぶつけて大きなガラス珠のようにきらめく瞳を覗き込む。 「ええ、クリスさま。約束です。お嬢さまが心変わりしない限り、私はあなたのもの」 「心変わりなんて、しないわ。コンラートより大事な人なんていないもの」 「今はね。でもこれから、学校にも行くし、社交界にデビューもするでしょう?」 鳶色の瞳が潤む。 泣きそうに眉根を寄せて、クリスティンはその可愛らしいくちびるを尖らせた。 「どうしてそんないじわるを言うの?」 「いじわるじゃない。お嬢さまがあまりに可愛いから、心配なんですよ」 くしゃりと前髪を撫で上げると、クリスティンはその顔を耳まで真っ赤に染めてうつむいた。 ああ、可愛い。 食べてしまえたらどんなにいいだろう。 「どうかそのままでいてくださいね」 「……コンラート、だいすきよ。ずっとそばにいてね。コンラート」 約束ね、とにっこりと微笑んで、小さなレディはコンラートのくちびるに、そっとばらの様な自身のそれを重ねる。 触れるだけの、キス。 あまいあまいくちづけに、コンラートの胸はまるで少年のように高鳴った。 * おとぎ話のような恋物語は、当人の予想を大きく裏切っていたって順調だった。 あれから数年後に旦那さまがコンラートに出した条件は、クリスティンにつりあうような男になるべく教育を受ける事、たったそれだけ。 おかげで二年も全寮制の学校へと追いやられたが、元々勉強は嫌いでないコンラートの苦悩といえばただ、クリスティンに会えないことのみだった。 小さかったクリスティンは、周囲の期待通り立派なレディに成長した。 亜麻色のさらさらとまっすぐに伸びた美しい髪。 大きなガラス珠のような鳶色の瞳。 陶磁器のように白い肌。 さくら色の頬、ばら色のくちびる。 人形整った顔立ちは間違いなく母親譲りだ。 ただその美貌は、先ほどの夕食時から一度もこちらに向けられる事がない。 二年ぶりに再会を果たしたというのに、ちらちらとコンラートを盗み見ては目を逸らし、行儀悪くがちゃりとナイフを取り落とす。 母親である奥さまは「まぁこの子ったら照れてるのね」などとのん気にうさぎをほおばり、父親である旦那さまはにこにこと機嫌よくワインを揺らした。 「わたし、先に戻ります」 言うが早いか食堂を出て行ってしまったクリスティンを追いかけて、彼女の私室まで押しかけたのだ。 コンラートを招き入れたものの部屋でも彼女の態度は変わらず、チェアからそわそわと立ち上がってはベッドに座り、何か思い立ってまた立ち上がる。 「そうだ、お茶を持ってきます」 「いいえ、先ほどワインをいただきましたから」 「……美味しいお菓子もあるのよ?」 「いいえ、クリスさま」 そっとクリスティンに近づき、細い手首を握る。 ぴくりと、彼女の細い肩が震えた。 ひざまずいて、白い甲にくちびるを落とす。 「あ、コンラート……!」 驚いたクリスティンが、とっさに手を引くが強く握って放さない。 くちびるを放してじっと彼女を見上げ、両の手でそっと白魚のような手を握りこんだ。 「コ、コンラート、放して……」 「なぜ?」 「だめなの」 「なにが?」 「だって、」 鳶色の瞳が揺れる。 つややかな髪が、うつむいた彼女の顔の周りにさらりと落ちて、その表情を隠した。 もしかして、とコンラートは思い至る。 「……お心が、変わりましたか?」 「え?」 約束よ、と可愛らしい声音が耳の中でこだまする。 所詮、子供の気まぐれだったのだ。 振り回されて、この歳で学校へ入れられたりもしたが、これも仕事だと割り切ればいい事だ。それにこの二年間はきっと無駄ではない。 「どなたか他に、お好きな方が?でしたら私は大人しく身を引きますよ」 元々、身分が違いすぎたのです。 すっと手を引いて、コンラートは立ち上がる。 「クリスティンさま。どうかお幸せに」 驚きに両の瞳を見開くクリスティンにうやうやしく礼をし、コンラートはきびすを返した。 その腕に、クリスティンがすがり付く。 「まって、ちがうの!」 「は?」 「見ないでっ」 振り返ろうとしたコンラートは、クリスティンの悲鳴のような声に吃驚する。 はい、と低く呟いて、お嬢さまの次の言葉を待つ。 「あのね、あの」 「はい」 「ほんとうは髪を巻こうと思ったの。でもアイロンの調子が悪くて。 手をやけどしてしまって、お姉さまにもうアイロンは使ってだめだと叱られたわ。 お洋服もね、新しいのを先週買ったのよ。でも今朝、紅茶をこぼしてしまったの」 「…………はぁ、」 「夕べ、とうとうあなたに会えるんだと思ったら寝られなかったの。 それで、今日はとってもくまがひどくて、顔を、見て欲しくなかったの」 ごめんなさい、と小さく呟いて、ますますぎゅっとコンラートの腕を強く抱き込んだ。 「だってコンラート、とっても素敵になってしまったんだもの。 胸がどきどきしてしまって、顔を見てはとてもじゃないけど話せないわ」 うつむいた陶磁器の肌が、確かに真っ赤に染まっている。 腕に押し付けられた胸のふくらみの奥から、たしかにどくどくと高鳴る心臓の音が伝わった。 喉の奥でクスリと笑って、コンラートはクリスティンの背に腕を回す。 驚いたクリスティンが慌てて彼の胸を押し返すが、構わずに強く抱き締めた。 「これなら顔は見えないでしょう?」 「……でも、余計にどきどきするわ」 「私もですよ」 「コンラート?」 「私も、どきどきしています。会いたかった、クリスさま」 ぴくりと細い肩が震えて、クリスティンの両腕がおずおずとコンラートの背に回される。 クリスティンが耳を胸に押し付けるように顔を埋めて、やがて小さく吐息のような笑い声を漏らした。 「ほんとうだわ。どきどきしている。一緒ね」 頭のてっぺんにくちづけを落とし、そっと指どおりの良い亜麻色の髪を撫でる。 「あのね、とっても、とっても会いたかったのよ」 「ええ」 「あなたが帰ってきたら何を話そうか、毎日考えていたの。 お手紙も嬉しいけど、やっぱり顔を見たいでしょう?」 「顔を見ない事には、キスもできませんしね」 「コンラート!」 おや、とコンラートは意地悪く笑う。 「あの時はクリスさまからキスをくださったのに」 「だ、だってあれは」 「キスをしても?目を閉じますからお顔は見えませんよ」 言いながらそっと首の後ろを撫でてやる。 首筋も、背中も、ありったけの慈愛を込めて優しく撫でる。 こんなにも穏やかな感情が自分の中にあることを、クリスティンが教えてくれた。 「………………い……いわ」 たっぷりと迷ったあと、クリスティンが小さく頷く。 顎を軽く掴んで、くちびるを盗んだ。 額をぶつけて、鳶色の瞳を覗き込む。 コンラートの瞳をうっとりと眺めていたクリスティンが、やがてもごもごとお得意の「おねだり」を口にする。 「……コン、ラート…………あの、大人の、キスをちょうだい」 言いながらもどんどん顔を俯かせてしまうクリスティンの顎を、少々乱暴に引き上げて再びくちびるを重ねた。 お望みどおりの、深い、深い口付け。 薄く開いたくちびるから強引に舌を割り入れ、歯列をなぞる。 驚いて引っ込んでしまった舌を攫って、ねっとりと絡ませた。 コンラートの背に回っていた両手が、彼の二の腕をぎゅっと掴む。 ひざががくがくと震えだし、崩れ落ちてしまう前にコンラートはくちびるを開放した。 ほう、と吐息を漏らし、潤んだ瞳でクリスティンはコンラートを見つめる。 「大人のキスですよ、クリス様」 「…………クリスって、呼んで」 「クリス、クリスティン」 「もう一度」 「クリス?」 「コンラート、だいすき。小さい頃と変わらずにだいすきだわ。こういうの、愛っていうのかしら」 鳶色の瞳が、にっこりと笑う。 「愛しているわ、コンラート」 「ええ、私も。愛しています、クリス」 どちらともなく、くちびるを寄せ合って、それからクリスティンが本当に崩れ落ちてしまうまで幾度も幾度も「大人のキス」を交わした。 レディとはいえまだ大人になったばかりのクリスティンとコンラートが「大人の関係」になるのは、もう少しだけ先の話。 SS一覧に戻る メインページに戻る |