シチュエーション
「わたくしには少し難しいのではないかと思うの」 呟いた少女の傍らに控えているのは漆黒の燕尾服に身を包んだ壮年の紳士。彼は少女の言葉を聞き、はたと首を傾げる。 「……難しい」 自分の聞き間違いだろうかという顔をしている紳士を見上げ、少女は拗ねた顔で唇をとがらせた。 「わかりました。伯爵夫人としてわたくしは……伯爵家に縁ある人々の名前を、この名簿すべてを、顔と名前と親戚・縁戚関係まで、すべて!覚えればよろしいのね」 「はい。ご理解が早いようで嬉しゅうございますよ」 名簿の束を見て、少女は嘆息する。自慢ではないが人の名前と顔を覚えるのは苦手だ。人並み外れて不得手と言っていい。 しかし、傍らの紳士は頑張るという姿勢を見せただけで嬉しそうに笑うのだから頑張らないわけにはいかない。 少女は名簿を持ち直し、一人一人の名前をゆっくりと記憶に刻みつけていく。 「一通り目を通されましたら一度休息いたしましょう。あなたのお好きな菓子をお持ちいたしますから」 とびきり甘く囁かれれば胸がどきりと高鳴る。 見上げた紳士は極上の笑顔を浮かべて少女を見ている。 父と同じか、下手をすれば父より年が上だというのに、少女の目に紳士の笑顔は魅力的に映る。 「一緒に?」 「お望みならば、私が手ずから食べさせて差し上げてもかまいませんよ」 「……っ!」 「あなたはいつまでも甘えん坊ですからね。かまわないのですよ、甘えても。私はいつでも受け止めて差し上げますから」 紳士の瞳にからかいの色が浮かんでいるのを見て取り、少女はふいっと顔を背けた。 「結構よ!わたくし、一人で食べられますもの」 それは残念ですと笑いをこらえた様子で話す紳士を意識的に無視し、少女は再び手元の名簿に集中した。 名前を一つ、一つと記憶する。そうする度に傍らの紳士と離れねばならない日が近づいてくるようで少女の胸は僅かに軋む。 「やはり、わたくしには難しいと思うわ」 ここ数日何度も吐き出した台詞をまた口にする。 覚えようが覚えまいが結果は変わらないことは理解している。それでも、覚えるまでは伯爵夫人になれないと言ってもらえるかもしれないと少しばかり期待する。 「あなたは出来る人ですから。諦めないで下さい」 困ったような溜め息を受けつつ、少女は今日も覚えられない名簿を記憶するための努力にいそしむのである。 SS一覧に戻る メインページに戻る |