島津組 番外辺/ゆびきり(非エロ)
シチュエーション


冬の冷たい空気に息が白く揺れる。厚いコートやマフラーのせいで、夏の倍は狭く感じるS街の、とあるビルの前に、岩淵は立っていた。
今日の夕方から雪になるかもしれません、と出がけに見たテレビでアナウンサーが笑顔で言っていたのを、岩淵は忌々しく思い出した。
寒さにかじかみそうな手で、胸ポケットの煙草とライターを取り出したところで、その寒さを吹き飛ばすような声が聞こえてきた。

「岩淵さん!」

岩淵は、口にくわえたところの煙草を慌ててパッケージに戻した。暖かそうな格好の瀬里奈が、岩淵の傍に駆け寄ってきた。

「おや、お嬢さん。どうなさったんですか」
「うん。辻井さんを探してるの。そういえば最近は岩淵さん、うちに来ないね。どうしたの?」
「自分は元々、代行――辻井のアニキの舎弟なんですよ。勉強ってことで、おやっさんの下につけてもらってたんですが、アニキのところへ戻ったんです」

そうなんだ、とわかったようなわからないような顔をして瀬里奈は頷いた。

「代行なら、まだもうちょっと時間、かかりますから……。そうですね。あの角の喫茶店で待っててください」

仏頂面では島津組で一、二を争う岩淵が、僅かに口元に笑みを浮かべて、瀬里奈に言った。

「わかった。遅くっても待ってるから、ちょっとでいいから、来てって辻井さんに言ってね」
「はい。――あ、お嬢さん、今日、大学の発表の日じゃないですか?」
「あッ!ダメ、ダメダメ。最初におめでとうって言ってもらうのは辻井さんって決めてるの!」

瀬里奈は顔の前で大きく腕でバツマークをつくり、じゃあね、と手を振って喫茶店へ向かって走り出した。
どうやら大学には合格したらしいな、と、岩淵は駆けていく瀬里奈を微笑ましく眺めた。


ビルから出てきた辻井を、寒さに身を縮めた岩淵が迎えた。

「ご苦労様ッス」
「寒い中、悪かったな」
「いえ。いかがでしたか」

辻井が煙草を取り出したのを見て、さっとライターをつける。問題ねえ、後で詳しく話す、と煙を吐きながら辻井は言った。

「お嬢さんがアニキに会いたいって、あそこの喫茶店でお待ちです」
「お嬢さんが?」

今日、大学の合格発表みたいですよ、とライターをしまいながら岩淵が頷いた。

「ああそうか。わざわざ俺に言いにくるってことは、合格してたんだろうな」

先ほどの瀬里奈の様子を岩淵から聞き、辻井は喉の奥で笑った。相変わらず、子供っぽい感情表現をする少女をまぶたに浮かべる。
吸いかけの煙草を岩淵に渡して、喫茶店へと向かった。

「遅くなりました、お嬢さん」
「ううん、いいの、あのね」

瀬里奈は大きな瞳をキラキラと輝かせ、テーブルから乗り出さんばかりにして話す。

「合格、おめでとうございます」
「ありがとう!今日の大学がね、第一志望だったの。だからね、一番最初に辻井さんにおめでとうって言ってもらいたかったんだ」

ご機嫌な瀬里奈を見て、逆にずっと機嫌の悪い親分を、辻井は思いだした。
瀬里奈からの合否の連絡をそわそわと待ちつつ、それが全くこないことに段々苛立ってきて、なんで俺に連絡してこねェんだ、あの親不孝モン、と若い衆に当り散らし始めた。
そんな島津をなだめるのに、辻井は苦労したのだった。

「お嬢さん。お嬢さんのお気持ちはとても嬉しいですがね、誰より心配してる人を、お忘れじゃありませんか?」
「ん、誰?あ!お父さん?忘れてたぁ」

親の心、子知らず、という言葉が頭をよぎる。連絡してあげてください、と辻井が言うと、瀬里奈は携帯を取り出した。
ごめんねお父さん、などと猫なで声で、瀬里奈は言い訳をしている。話の内容で、電話の向こうの島津の機嫌が直っているのがよくわかる。
瀬里奈が島津と話している間に、窓の外ではちらちらと雪が舞い始めた。道を行く人たちが立ち止まり、空を見上げている。
辻井も知らずのうちに、雪をじっと眺めていた。

「あ、雪だぁ。寒いもんねえ」

いつの間にか電話を切っていた瀬里奈が、辻井に言った。

「試験、全部終わるのはいつですか」
「最後の発表が二月の中頃だよ」
「――なら、二月最後の日曜日、俺とデートしませんか」

突然の辻井の誘いに、瀬里奈が驚いて辻井を見つめた。合格のお祝いに、またあのレストランへお連れしましょうと、瀬里奈の頬をそっと撫でて、辻井は微笑んだ。

「う……うん!行く!行く!嬉しい!」

年相応なら、彼氏くらいいてもおかしくない少女が、自分の誘いを無条件に受けてくれる。誰よりも――父親よりも――まず一番に自分のことを思い出してくれる。
そして、少女の気持ちを独占していることが、嬉しいと感じている自分がいる。
この危ういほどの微妙な距離を、いつまで保っていけるだろうか。
いつまでも、このままでいたかった。瀬里奈が永遠に女にならず、ずっと子供のままでいてくれればいいと、心のどこかで辻井はいつも願っていた。

「あとの試験も全部合格するように頑張るね」

嬉しそうに頬を染める瀬里奈を見て、辻井は珍しく後悔の念にかられた。
デートをしようなどと誘うべきではなかった。単にお祝いしようと言えばよかったのだ。子供のままでいてほしいと思いながら、自らの言葉で瀬里奈を女にしてしまったようで、落ち着かなかった。
何もかも、都会を非日常に染める白い雪のせいだ、と無理やり決めつけ、後悔を心の奥底に押し込んだ。


そんなことを辻井が思っているとは知らないだろう、瀬里奈が辻井に話しかけてきた。

「もしさあ。もしぃ、全部合格したらさあ」

左耳をいじりながらちらりと辻井を見る。何かをねだる時の子供の頃からの瀬里奈のくせだ。

「なんのおねだりですか」
「おねだりじゃないよ。あのね」

耳、貸して、と瀬里奈は辻井の耳を引っ張り、こそこそと囁いた。それを聞いた辻井は、思わず吹き出した。

「やっぱり、おねだりじゃないですか」
「え、そっか。そうかな」

照れ笑いを浮かべて鼻を触る。これはいたずらがバレて誤魔化す時のくせだ。
こうやって幼い頃からのくせがまだ続いているうちは、大丈夫だ。きっとまだ、瀬里奈は自分の前では幼い子供のままだろう。
自分が忠誠を誓う絶対の存在、島津隆尚。その彼が大切にしている娘を、誰よりも強く思い、守ってやれる特権は、何があっても手放すつもりはない。
瀬里奈が産声をあげた時から見守り続けてきた自分だけの、かけがえのない権利なのだ。
男と女に芽生える愛情関係などよりも、強く、固く、深い情愛が、自分と瀬里奈の間にはきっとある。少なくとも、自分の心には存在する。
その気持ちは、島津への忠誠心と共に、辻井凌一というひとりの極道を支えている源だった。
ただ、少女が女に生まれ変わることで、自分の手の内から巣だっていくのが、寂しい、それだけだ。
子供のままでいて欲しいと願う一方、いつも自分にそう言い聞かせていた。瀬里奈へは、それ以上の気持ちはを持ってはいない、持ってはいけないのだ。

「いいですよ。その代わり、全部合格したらですからね」
「ぜぇったい頑張る!だから、約束ね?」
「ええ。約束しましょう」

じゃあゆびきり!

幼い瀬里奈の声が脳裏に甦った次の瞬間、目の前の瀬里奈が言った。

「じゃあ指きり!」

瀬里奈の左の小指が差し出された。左手で指切りをするのも、幼い頃からの瀬里奈のくせだ。
辻井はその指に自分の小指を絡めた。


瀬里奈とふたり、並んで店を出る。
寒いね、と辻井を見上げた瀬里奈の息が、白く空気に舞った。そうですね、と辻井は答えた。瀬里奈は島津と待ち合わせをしていると言って、手を振って走り去った。
凍てついた風が街をなめるように吹き、凍える寒さに、辻井は身体を縮めた。だが、指切りをした小指だけは、温かいままだった。
この温もりを手にし続けるためにも、ヘタを打つわけにはいかないな、と辻井は寒さとは違う意味で、身を震わせた。






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