シチュエーション
![]() 「どちらへお出かけになるつもりです、沙貴様」 あと少しで屋敷から抜け出せると思った、その時だった。 不意にかけられたその声は、今一番聞きたくない人物のもの。 「何でいるのよ、棗」 振り返った先にいるのは、数年前からボディーガードとして自分のそばにいる男。 ボディーガードと言うよりは、監視役と言った方が適切かもしれない。 「それは私がお聞きしたいですね。お一人で出歩かれては困ります」 「何でよ。いちいち護衛をつける必要なんてあるの? たまには一人で外へ出たいと思うことが、そんなにいけないこと?」 いらいらしてくってかかるわたしを、この男は冷静な瞳で見つめる。 「何かが起こってからでは遅いのですよ。貴女には、自分の身を守る力はない。 それがわからないほど、もう子供ではないでしょう」 「・・・ッ」 反論したいと思うのに、言い返す言葉が見つからない。 悔しくて、せめてもの抵抗に、キッと男を睨みつける。 もちろん、そんな取るに足らない行動は、男に何の効果も及ぼさない。 「お部屋へお戻りください。今夜は旦那様方がお戻りになられます。お忘れになられたわけではないでしょう」 忘れるわけがない。 会いたくないから、屋敷を出ようと思っていたのだから。 この男も、それを知って言っているのだから、腹が立つ。 「いやよ、会いたくない」 娘の事など、大して気にも留めていない親に、どうして喜んで会おうと思えるだろう。 仕事や、自分の趣味ばかり優先するくせに、たまに会ったときには、いい親ぶってあれこれ話しかける。 苦痛だった。 昔から。 4つ年上の兄にはあれこれかまうくせに。 跡継ぎでもない女の自分は、思い出した時しか相手をしてもらえない。 ならいっそ、全く関わりのない方が楽なのに。 「会いたくない。お願い」 寂しさばかりが募った。 それが形になったように、堪えきれない涙が頬を伝う。 この男の前で弱いところなど見せたくないと思うのに、後から後から涙がこぼれ落ちる。 小さくしゃくりあげながら下を向いていると、男は小さく嘆息して、屋敷の奥へ入っていった。 何か話していると思うと、すぐにまたこちらに戻ってくる。 自分が下を向いているせいで、その表情は見えない。 冷たく切り捨てられるのを覚悟して、体が震えた。 男が口をひらく。 「風邪をひいた貴女は今から病院に向かいます。 運悪く伝染性の強いものだったため、旦那様方にうつさないよう今日はホテルに宿泊。 そういう事で宜しいですか」 「・・・え・・・・?」 驚いて顔をあげると、いつもの冷たい表情とは違い、男はどこか途方に暮れたような瞳でこちらを見ていた。 じっと見つめると、その口元に小さく苦笑が浮かぶ 「今回だけは、貴女の我が儘を聞いて差し上げます。ですから・・・」 不意に男はこちらに手を伸ばし、頬に触れた。 心臓がどきりと大きく揺れる。 「そんな風に、泣かないで下さい。」 長い指が、涙を拭ってゆく。 「・・え・・あ・・・」 早鐘を打つ鼓動。 普段とは異なる男の言動に、心が波立つ。 どう反応してよいのか分からず、ただただ男を見つめるしかなかった。 その視線に、男は一瞬はっとしたような顔を見せたが、すぐにまたいつもの読めない表情に戻る。 「車を出しますので、準備をしておいてください」 何も無かったかのように言って、さっさと外へ向かってしまった。 その後ろ姿を半ば呆然と見つめながら、無意識にさっき男が触れていった頬に手をやる。 初めて与えられた、優しい、感触。 胸の鼓動は、もうしばらく収まりそうにない。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |