シチュエーション
![]() 三月。穏やかな日差しの、午後の昼下がり。 「ねぇ、春名」 白壁の豪奢な洋館のテラスでティータイムを過ごしていた藤代雪は、不意にカップを置き傍らに立って いた細目の男の名を呼んだ。呼ばれた春名恭介はカップに紅茶を注ぎながら「はい」と応える。 「久し振りにオセロをしない?まだ捨てていなければあるはずだわ」 「私が……ですか?」 「いけない?前はよく練習に付き合ってくれたじゃない」 「ですがあれから一度もやっておりません、下手でお嬢様のお相手にはならないかと」 「ただ遊ぶだけ、ゲームよ。久し振りに春名とゆっくり話をしたいなと思って」 言って「お願い」と微笑んだ雪に、春名は少し困ったように笑い返して「畏まりました」と頭を下げた。 「オセロをするのも三年ぶりかしら……高校生の頃はよく相手をしてもらったわよね」 雪の細指がオセロの駒を白側に裏返していく。 「ええ。確かご学友の間で流行っていらしたのでしたね。裕生様や私が練習のお相手を。 私はいつも負けてばかりでしたが」 「お父様はこういうゲームに強いのよ。相手が娘でも手加減をしてくれないし。春名は優しいわ」 「優しい?はは、まさか。私は下手なだけで−−」 「嘘」 盤上を眺めていた春名は顔を上げた。 柔和な笑みを浮かべ自分を見つめる目は、鳶色と緑が混ざったような不思議な色をしている。 この藤代財閥会長の一人娘は生まれつき色素が薄く、長い髪も黒より茶に近い。雪という名はその 肌の白さからとったという。儚ささえ感じるその容姿には似合いの名前だった。だがその美しさと引き 換えに体が弱く、雪の父藤代裕生は殆ど雪を外に出さなかった。勤め先にまで干渉して、この春大学 卒業だというのに結局雪は就職できなかった。恐らく結婚するまで家から出す気はないのだろう。 そんな環境で人間関係の駆け引きや損得を知らないからだろうか、雪は人への接し方が恐ろしく ストレートなのだ。何のてらいもなく真っ直ぐに目を見る。心の奥底まで見透かされそうな緑色の 澄んだ視線が、春名はなんとなく苦手だった。 「手加減をしてくれているでしょう?あなたが賢いことは皆知っているもの」 「お嬢様は私を買いかぶっておいでですよ。三十半ばの私が貴女に勝てるわけが……」 「歳で勝ち負けが決まるならお父様はどうなるの。怒らないから本当の事を言って」 「……仰る通りです」 「やっぱり。でもどうして?」 「仕える主人に召使が勝ってはいけないでしょう」 「……そういえばそうね」 思い出したようにそう言って、雪は笑った。 「ねぇ春名」 「なんでしょう?」 「私には嘘をつかないでね。私、春名の事信頼してるのよ?」 「……承知いたしました。もう嘘は申しません」 −−もう嘘はつき尽くしているのだから。 微笑の裏側で春名は思う。 五年ぶりのオセロは、春名の勝ちだった。 春名が全てを失くしたのは二十二年前。十三の時だった。 父の経営していた会社が藤代裕生に乗っ取られたのだ。 失意のうちに父は首を吊った。母はぼろぼろになるまで働き春名が十六の時死んだ。 「春名」という名も養子先のもので元々の名ではない。「春名」の両親も三十の頃、立て続けに死んだ。 大学を卒業して直ぐにこの家の召使になった。十三年間本当の自分を隠し通して、裕生が目に入れても 痛くないほど可愛がる愛娘の担当を任せられるまで、信頼も厚い。 屋敷のどの部屋に出入りしても、公になれば裕生にとって不利な情報を探しても、疑われも気付かれも しないほど。 春名は思う。 復讐は良くないなどと世間は言うが、家を、家族を、名前さえも奪われた人生を、今まで支えたのは 藤代裕生への怨みだった。復讐こそが、春名を生かしてきた。 −−今では、感謝すらしている。 だから裕生には父と母と自分から奪った分以上のものを贖ってもらう。春名はずっと、そう心に決めてきた。 五月、藤代家は俄かに慌しくなった。 十月に藤代の銀行と立花財閥の銀行が提携する祝賀会が開かれることになった為だ。 準備をしている雪を迎えに、春名は来客用のホールを見下ろせる廊下を歩いていた。まだ会が始まっても いないのに祝いの花で飾られたホールは熱気に満ちている。来客に料理やドリンク類を勧める同僚を眺め ながら、春名は冷たく微笑んだ。まだ一部の人間しか知らないが、業績が悪化している藤代の契約条件は 圧倒的に不利なものだった。今回の会も半ば提携先の立花財閥のご機嫌取りだ。 −−せいぜい最後の栄華を味わっておくがいいさ。 廊下の突き当たりの階段を上り、三界廊下の突き当たり。雪の部屋のドアをノックした。 「どうぞ」 「失礼いたします」 一歩部屋に入った途端、甘い花のような香りが鼻をくすぐった。恐らく香水の類だ。化粧台の前に座り、 メイドに髪を結ってもらっていた雪と鏡越しに目が合った。 「そろそろお時間です」 「わかりました」 ありがとうとメイドに声を掛け、雪は立ち上がった。 細身の白いドレスだった。純白の比較物があってやっと雪の肌にも色があることが分かる。 普段は薄化粧だが、今日は大勢の客が集まるとあって口紅の色も華やかだ。元の顔貌が整っているから、 しっかり化粧をすると敵の娘だというのに美しいとしか言い様がない。 「春名?」 不思議そうな雪の声に、春名は我に返った。 「ああ、いえ。ついつい見惚れてしまいました」 「まぁ、ありがとう」 春名の言葉に雪は嬉しそうに顔を綻ばせた。 −−よもくあの親からこんな娘が生れたものだ。 何故か憂鬱な気分になる自分が不思議だった。 「それでは藤代財閥、立花財閥の提携を記念いたしまして、乾杯!」 裕生と立花財閥の会長、立花義之の音頭でホールの客達が一斉にグラスを掲げた。 雪をホールへ案内した後、春名は給仕の仕事についた。 「どうぞ」 「ああ、すまんね」 換えのグラスを受け取った立花義之は春名に笑みを向けた。応えて春名も微笑する。 裕生は知らない。春名が義之と手を組み、立花と藤代の情報をやり取りしていること。裕生の法に触れるような行為も 義之が把握していること。検察が裕生を探っていること、そして恐らく提携の寸前に裕生の告訴に踏み切ることも。 裕生の逮捕で混乱した藤代を乗っ取る。それが義之の狙いだ。それを利用して、春名もまた復讐できる。 カウンターで空になったシャンパングラスを取り替えながら、ふと視界の隅に映った白い影に気をとられ、春名は視線 だけをそちらに向けた。裕生が雪を誰かと引き合わせている。中々端整な顔つきの男だ。 裕生が、溺愛している娘と男に引き合わせているのを見るのは初めてだった。 −−見覚えがある。確か、立花弘樹。 義之の息子だ。納得がいった。家族的に繋がりができれば上も下もない。娘を道具にして立花を抱きこむつもりなのだ。 −−どこまでも腐った男だ……ん? 誰かに声を掛けられたのか、裕生の視線が立花の息子から逸れた。つられて雪もそちらに向く。 ゆっくりと裕生と雪の間に見知らぬ男が割り込んだ。どうやら知り合いらしい。これといって何の特徴もない、のっぺりと した顔だった。 −−どこかで見た気がする。 恐らく裕生の来客だったと思うが、誰だったかよく覚えていない。雪も顔見知りらしく、男に笑顔を向けた。二、三何かを 言って、男は雪を他の来客たちの元へ連れて行ってしまった。仲を取り持ついい機会を奪われた裕生は僅かに苦い顔を したが、直ぐに機嫌をとろうと立花の息子に笑顔を向ける。 心の中で、嘲笑が浮かぶ。 −−精々必死になるがいいさ。 あと少しだ、裕生。お前は、確実にその地位から堕ちるのだから。 九月。藤代の豪邸を、おびただしい数のカメラクルーが取り囲んだ。 受託収賄、贈収賄などの疑いで裕生が逮捕された為だ。他の役員にも同様の嫌疑がかけられているらしく、藤代の屋敷は もちろん、藤代系列の会社にも捜索が入った。弁護士が保釈の手続をしたらしいが、まだ勾留が続いている。 提携直前の逮捕に、藤代財閥には激震が奔った。関連企業の株価は軒並み下がり、立花は損害賠償請求の用意をして いるらしい。義之の算段どおりだ。 春名は屋敷にいなかった。一週間前に辞表を出し、郊外の1Kの安アパートに引っ越していた。 藤代の不正の証拠の大部分は春名が握っているのだ、証言台に立つことになる。そうなればもうあの屋敷にいることはでき ないし、最早いる必要もない。テレビすらないがらんとした部屋だった。空調はないが夏の気配もそろそろなくなり始めてそんなに 暑くはない。畳の上に寝転がり、ぼんやり木の天井を見上げて春名は思った。 −−案外、あっけなかったな。 十数年かけて集めた証拠だ。裕生の実刑は確実。賠償のために財産も失うだろう。春名の復讐は完成する。 その代わり、主人を売った春名の信用は地に落ちる。世間的には評価を得られるかもしれない、だが世の中の支配者層が 必要とするのは、不正を許さない高潔な勇者ではなく、従順な歯車だ。立花は報酬を支払ってくれるだろうが、復讐に生きる ような男を雇うとも思えない。この先の生活をどうするか−−−−。 −−……もうどうでもいいことか。 裕生への復讐。それが全てだ。証拠を提出し、証言をし、裕生が罰せられれば、もうやることはない。今まで働いた蓄えと 立花からの報酬で裁判が終わるまでは食いつなげるだろう。その先の生活の心配などする必要などない。 思って目を瞑ったときだった。扉を二回、ノックする音が聞こえた。 「……?」 春名は怪訝に思いながら起き上がった。この住所は誰にも教えていない。 −−新聞の勧誘か何かか。 「はい」 ドアを開けた瞬間、緑がかった瞳に目が捕まった。整った色白の顔が安心したように微笑んだ。 「ああ、よかった。住所を間違ったかと思ったわ」 「……お嬢様……?」 間違いなく、雪だった。白いコートを着た雪が、目の前に立っていた。 「上がらせてもらってもいいかしら?」 「え、ええ。どうぞ」 我知らず、口が動いた。この十数年で身体に染み付いた習慣で勝手に動く身体に呆れて、動転していた春名は僅かに 冷静さを取り戻した。 何故ここにいるのか、何故ここが分かったのか聞かなければならない。 そして、何故雪が来たのかも。 「お邪魔します」 警戒のない白い背中を見つめながら、春名は後ろ手で音もなくドアの鍵を閉めた。 まだ開けてもいなかった引越しの荷の中から、急須と湯飲みを探して茶を入れた。 「申し訳ありません、お嬢様がいらっしゃるなど夢にも思いませんでしたのでつまらないものしか出せませんが……」 「そんな。気にしないで。不躾に訪ねた私が悪いんだもの」 ちゃぶ台の向かいに座った春名に、背筋をぴんと伸ばして正座した雪が、恐縮したように言った。 何とも異質な光景だった。傷んだ畳。染みのある襖。寝るのと食事以外、何の用途もないような薄汚れた部屋で雪だけが 白い。唇の色がいつもより薄く、口紅がついていないのだと気が付いた。雪が化粧を忘れるなど珍しかった。赤味のある色が 少ないせいか、色白の顔は一週間前より少しやつれた風に見える。 「どうしてここが?引越し先は誰にも言わなかったはずですが……」 「……怒らないで、聞いてくれる?」 春名は頷いた。 「父の知り合いにね、探偵をやってらっしゃる方がいるの。春名に無断で良くないとは思ったんだけど、引越し先を調べて いただいたの」 「……探偵……」 −−どこまで知った? 調べたのは住所だけか?その手の仕事に従事しているなら今回の計画に関することも知ったかもしれない。立花義之と 面識がある以上のことが世に知れれば影響は大きい。 「春名?」 不思議そうな雪の声に、我に返った。顔を上げると直ぐにあの緑の目と視線があった。何か言いたかったがいい言葉が 思いつかない。まるで視線に口を封じられているようだった。 「ごめんなさい、やっぱり良くないことよね」 「ああ、いえ……別に調べられて困るようなこともありませんし」 だがもしその探偵が計画について知ったとすれば、藤代の人間に教えないはずがない。万が一この何も知らない娘を 気遣っているにしても、雪はこうして訪ねてきている。父親を陥れようという男が相手なら、止めるなり何なりするはずだ。 雪に春名を疑うような素振りは微塵もない。そんなに深い情報までは知っていないということだろう。 「……でも、たった一週間で別人になってしまったわね、春名」 「え?」 「気付いてないの?」 雪はバッグから手鏡を出して、春名の顔を映す。小さな鏡面には無精ひげの酷くやつれた風な顔があった。着ている ものも皺だらけのYシャツにズボンと、屋敷にいたときと比べて随分だらしない。 「これは申し訳有りません……お嬢様をお迎えできるような格好ではありませんでした」 「そんなことはいいんです。一体何があったの?」 「まぁ、転居の手続きやら何やらいろいろ忙しかったので……」 嘘だった。この部屋に越してきてからただぼんやりとするだけの毎日で、ろくに食事を取っていないのが原因だった。 「そういえば荷物も殆ど解いてないものね……ごめんなさい、いきなり訪ねるなんて軽率だったわ」 「いえ、そんな……今日は、何故いらっしゃったんです?」 春名の問いに、雪の表情が曇った。悲しげに目が伏せられる。 「お嬢様?」 「……春名」 「はい」 「私、どうすればいいのかしら」 声が涙ぐんでいる。 「裕生様のことですか」 「……屋敷はとても穏やかに過ごすことなんてできない状態で、お母様が二日前倒れてしまって……暫く 入院する必要があるって」 「佳代様が……」 口から出た声が酷く同情的な調子で、言った自分で春名は驚いていた。心の中には憐れみの欠片すら なかった。 「今、少しだけ荷物を持って病院の近くのホテルに泊まっているの……だけど、不安でどうしようもなくて、 誰かに話を聞いて欲しくて、春名ならもしかしたらと思って……ごめんなさい、迷惑よね春名の事情を 考えもしないで……」 緑の目からぽろぽろと涙が零れる。気がつけばいつの間にか雪の横に来ていた。 「迷惑などではありません、私でお役に立てるなら幾らでもお聞かせ下さい」 俯いていた顔に目線を合わせる。 「……春名」 長い髪が揺れる。鼻先で甘い匂いが踊った。数ヶ月前の祝賀会の時と同じ花の香水の匂いだ。それに 気をとられて雪が自分の胸に飛び込んだことに春名は数秒気付かなかった。 「−−お嬢様」 色素の薄い茶色の髪が頬に触れている。腕にすっぽり納まるほど細い身体は柔らかい。感じる体温が 高い気がするのは、泣いているからだろうか? 「……ごめんなさい」 −−何故お前が謝る。 重いものが春名の胸を満たした。今雪を苦しめている原因は、春名の復讐に他ならない。 「ごめんなさい、みっともないところを見せてしまって……」 三十分ほどで雪は泣き止んだ。目はすっかり赤くなっていたが少しだけ元気になったようだった。 「とんでもない。辛い時には泣くことも必要です」 「……そうかしら」 「ええ。私も子どもの頃はよく泣きました」 「春名が?泣き虫だったの?」 雪が目を丸くして訊いた。 「泣き虫でしたとも。辛いことがあるとずっと泣いていました」 欲しいものが買ってもらえないとか、大事なおもちゃが壊れたとか、小さい頃は本当につまらないことで泣いて 父や母をよく困らせた。子どもだった時にはそれが本当に辛いことだった。 −−そういえば、俺はいつから泣かなくなったのだろう? 「意外だわ」 「?私が、泣き虫だったのがですか?」 「ええ。春名は強い感じがするもの。いつも真面目で優しいし、しっかりしているし」 「強い……ですか」 −−ああ、そうか。 めっきり泣かなくなったのは、父が死んでからだ。母の時はまだ涙も出たが、春名の両親が死んだ時にはもう 泣く気すら起きなかった。 裕生への憎しみが、悲しみを掻き消し春名を強くした。 「ねぇ春名。外へ食事に行かない?話を聞いてくれたお礼にご馳走したいの。そろそろ晩御飯にいい時間だし」 見れば窓の外の家々は夕日で赤く染まっている。いつの間にか随分な時間が経っていたらしい。言われて意識 したからか、久々に空腹感を覚えた。 「そんな、お嬢様に奢らせるなど−−」 「お嬢様だなんて、あなたはもう私の召使じゃないのよ?」 確かにそうだ。もう春名には雪を「お嬢様」と呼ぶ必要などない。 「そういえばそうでした。十年以上ずっとこうお呼びしていましたから、簡単に習慣は抜けないものですね。ですが それはそれとして、やはり奢っていただくのは気が引けます」 「でも……そうだ。なら、こうしましょう」 いい事を思いついたように、雪の顔が綻んだ。 「私が料理をするわ。材料はある?」 「え、ですがしかし……」 「大丈夫、高校と大学の家政科の時間に鍛えられたもの、不味くなんかないわよ」 春名が戸惑っている間に、雪は素早く立ち上がって台所まで行くと冷蔵庫のドアを開けた。 「いや、そういう問題ではなくて」 「あら、何にも入ってないのね……春名、この辺りで食材を売っているお店は知ってる?買い物に行きましょう」 言うが早いか、返答も待たずに雪は春名の手をとって玄関に向かった。カチン、と軽い音をさせて鍵を開けると、 春名を引っ張って走り出した。 十一月。マスコミが屋敷の周りから退いた後も、雪は春名のアパートによくやってくるようになっていた。雪の母、 佳代は一ヶ月前に退院して今は自宅で療養中だという。ふとした瞬間、影が落ちた悲しげな顔をすることもあるが 雪もその頃から段々明るい表情が多くなった。 「大分元気になったのよ。この間も私の作った料理をおいしいって」 鍋でシチューを煮込みながら雪が嬉しそうに言った。 最初は話を聞いてもらう礼だと言っていたのに、今では料理を作るほうが春名の部屋に来る目的になっている ような気がした。今まで裕生に閉じ込められて何もできなかった反動なのかもしれない。料理以外にも引越しの 荷物の片付けや掃除など、春名の制止など気にも留めず、雪は家事を手伝った。 「それは良かった」 雪の横で料理用具を洗う春名は、繕った笑顔とは逆に酷く陰鬱な気分だった。最近、腹立たしいとも憂鬱とも 言い難いざわざわした感情が全身を巡っている気がしている。 別に佳代が元気になったことが気に食わないわけではない。裕生や父を陥れた藤代の財閥幹部達には憎悪を 抱いているが、その家族に対して同じような感情はなかった。 原因は、恐らく雪だ。 雪が嬉しそうに笑うのを見る度、巡るざわめきは大きくなる。春名自身、それが何なのかを理解できない。 −−今更、罪悪感を覚えているというのか? どんなことをしても裕生に復讐すると誓った。例えその家族を不幸にしてもだ。憎しみが道徳心など軽く超越して いた。だが十年以上世話してきた娘が、何も知らず自分を慕ってくるのに微塵も哀れみを感じないといえば嘘になる。 −−違う。 確かに良心の呵責はある。だがそれが原因ならこんなに苛々する必要はない。何か似たような感じを覚えたことが あるのに、うまく思い出せない。 「春名?」 雪が不思議そうに顔を覗き込んで、春名は我に返った。 「どうしたの?難しい顔をして」 「ああ、すみません、少し考え事を」 「そう……?あ、そろそろいいみたい。食べましょう」 よそわれるクリーム色のシチューからいい匂いが漂った。煮込み料理だからか、今日はいつもより夕飯の時間が 遅く時計は七時半を過ぎていた。空っぽの胃が軽く痛む。 −−−−あ。 それは分からなかった答えにぴたりと当てはまる感覚だった。あのざわめきはどこか空腹感に似ている。 −−そうか、俺は。 ちゃぶ台に茶碗とシチューの皿を運ぶ雪の背を見つめながら、自分の身の内を巡っていたものの正体を、春名は 唐突に理解した。 「もう一品ぐらいあっても良かったかしら?」 「いえ……あれぐらいの量でいいと思います」 食事を終えて、横で雪が洗い終えた皿を拭きながら春名は雪を盗み見た。 調子を取り戻してから、化粧や服などの身だしなみも元に戻った。白い肌に赤い口紅がよく映えている。クリーム色の 細身のセーターの襟から、すらりとした白い項がのぞいている。どんな女でもそれなりの年になれば色香が漂うものなの だろうか。そういえば雪も来月で二十三だ。もう子どもではない。 「……お嬢様」 「何?」 「もう、ここには来ないでいただきたいのです」 驚いた、というよりはショックを受けたような雪の顔が春名に向いた。 「後は私がやりますから、もうお帰り下さい」 「どうして?私、なにか春名に悪い事をした……?」 「お嬢様のせいではありません。田舎の実家に帰るつもりなんです。両親はもういませんが、家がそのままになって いるので。今までは年始や纏った休みに手入れしていたのですが、もう五年も無人のままですし、仕事も辞めたので いい機会だろうと。元々ここに長く住むつもりはなかったので」 冷静を装って、春名は食器を流し台の横の棚に片付けた。殆ど嘘だった。 「もう探偵に頼んで住所を探すのもなしですよ」 「会いに行くのも駄目ということ?」 「例え私のような者でも、お嬢様のような方が一人暮らしの男の家に訪ねていくなど好ましいことではありませんから」 「……」 呆然とした様子の雪に、不意に身体がざわめいた。手を握り締めて何とか押さえた。 「この一ヶ月、本当にありがとうございました。いい思い出になりました」 雪に向き直り、笑顔を作った。頭を下げる瞬間、戸惑った顔が目に入った。 「……どうして?」 −−来るな。 近付いてくる足が見えた。握り締める手に更に力を込めた。 両肩に手を置いて、雪が頭を下げたままだった春名の身体を起こす。 「それならもっと早く言うはずよ。何で今なの?」 下を向いたままの顔を、雪が悲しげな顔で覗き込む。 見上げる緑の瞳。赤い口紅。甘い花の香り。 ざわめきが、理性を掻き消してく。 「ねぇ、は る −−−−欲シイ。 気が付けば喰らうように雪の唇に口付けていた。 驚きに動きを止めた雪を壁に押し付け手で細い腕を封じた。抵抗することをを思い出したようだが、雪のひ弱な腕力で 今更撥ね退けられるはずもない。舌を口内にねじ込むと身体をびくりと震わせた。顔を背けようとするのを阻んで更に深く 口付ける。ぐちゃりと、濡れた音が妙に大きく頭の中まで響いた。 「……!」 慣れない−−というよりは初めてだろう−−深い口付けに、呼吸が苦しいのか雪の身体が強張った。薄目を開けてみる。 上気した頬。耐えるように目を硬く瞑っている。息をするために少しだけ口を放した。混じった唾液がつ、と透明な糸を引く。 「……っ、はる、な……」 −−−−ああ。 「女」の声だ。 「!ん……!」 息継ぎもそこそこにまた喰らいつく。歯列をなぞり、舌を絡め吸い上げる。捕らえた四肢から、かろうじて抵抗を示していた 力が萎えていった。やがて身体を支える力もなくなりずるずると床に尻餅をつく。そのまま床の上に組み敷いた。 −−足りない。 セーターを剥ぎながら、首筋や胸元に唇を落とす。肌理の細かい白い肌は、張りがあるのに柔らかく、強く吸い上げると直ぐ 赤い花が散る。ブラジャーを外し、乳房に右手を伸ばした。丁度手に収まるぐらいで、吸い付くように馴染む。 −−足りない。もっと−− 「春名、やめて……いたい……」 今にも消え入りそうな声が春名に訴えた。やっと我に返って、春名は呆然と雪を見下ろした。 剥き出しの硬い木の床に組み敷かれた雪は、春名をじっと見上げていた。目じりから透明な涙が一つ零れた。 急激にざわめきは治まって春名を現実に引き戻した。時計の秒針の音。薄汚れた部屋。雪を犯そうとした自分。春名を見上 げて微動だにせず涙を流す雪。 「……」 自分で自分のした事が信じられなかった。 −−何を、しているんだ俺は。 −−警察に捕まる。 −−被告の家族に害意を持つ男の証言が信用されるか? 一時の肉欲に復讐を忘れるなど、馬鹿馬鹿しすぎていっそ死んでしまいたくなった。剥ぎ取ったセーターを雪の胸に被せた。 それでも尚、端から覗いた白く細い腕が見えた。目を背けたがそれでは足りない気がして立ち上がり後ろを向いた。 「お帰り下さい」 「春名、私は−−」 「帰って下さい。このままだと何をするか分からない」 秒針の音が響く。雪は動かない。 「……お願いです」 ようやく何かが動く音が聞こえた。何分かして、ドアが開き、閉まった。ゆっくりと振り返る。そこに雪はいなかった。 −−終わりだ。 何もかも。全部駄目になった。 だが二日後、春名は変わらずアパートにいた。 警察が来る気配はない。雪が通報していないということだ。 −−強姦されかけたなど、言えないのだろうな。 安心しながら、どこかで春名は憂鬱だった。 何をするでもなく、畳に寝転がる。雨漏りでもしていたのか、ベニヤの天井は染みだらけだ。 −−そういえば、二ヶ月前はこんな感じだったな。 復讐が完成しそうなことへの安心感と、何もすることがなくなった虚無感で腑抜けていた。そこに雪が来た。 −−あの頃から、おかしくなったのだろうか。 身体に触れたのはあの時が初めてだった。女性経験はそこそこあるし、それほど禁欲的な生活を送ってきた わけでもない。最近はご無沙汰だったが、それにしても理性が飛んでしまうなど今まで経験がない。 無機質な時計の音が響く。 「……出かけよう」 呟いて春名は重い腰を上げた。 財布をズボンのポケットに押し込み、ジャケットを着る。 一歩扉の外に出た途端、冷たさを増した風が春名の頬を撫でた。冬は、目前に迫っている。 近くのスーパーに向かって、夕飯の材料を買おうと思った。元々料理が下手ではないが、最近は進んで自炊する ようになっていた。一ヶ月ほど前になるか、昼食に何日か続けて出来合いの惣菜を買ったとき、一品ぐらいは自分で 作ったほうがいいと、雪に言われたせいだった。 住宅街を抜ける。そろそろ家族が帰ってくる時間なのか、塀の向こうから笑い声が聞こえた。その分、歩く路地が 静かに思えた。 無音は、余計な思案を巡らせる。安心。怒り。諦め。どれともつかないものが、春名の中で渦を巻いていた。 −−これで良かったのだ。裁判に影響はでない。 −−だからどうしたというんだ。 −−もうどうでもいい。どうせ−− そこまで考えて春名は立ち止まった。 −−−−どうせ? 俺は、何に期待している。 「春名」 一瞬、幻聴かと春名は思って顔を上げた。と同時に緑の視線とぶつかり、現実なのだと理解した。 だがその事実が一層春名を混乱させた。 −−何でここにいる。 住宅街を抜けた、空き地に囲まれた道だった。もう少し歩けば駅に出る。そちらの方角から歩いてきたということは春名のアパートに 行くつもりだったのだろう。 −−ならどうして。 「何をしにいらっしゃったのですか」 白いコートを着た雪は、困ったように俯いて黙り込んだ。 「……用がないのでしたらお帰り下さい」 できるだけ冷淡に言い放って横を通り抜けようとした春名の手を、雪は静かにとって引きとめた。 −−やめろ。 制止は自分へのものだった。奥底から突き上げてくる衝動を、春名はどうにか抑えていた。 「先日のことをお忘れですか」 「……いいえ」 「ならこういうことは止めていただきたい」 「……ごめんなさい」 きつく言ったつもりだったが、雪は手を放さなかった。 「自分でも分からないの。ただ」 「ただ?」 「……会いたく、なって」 −−何を。 何を言っている。 「春名、私は」 「帰ってください」 もどかしくなって雪に振り向いた。抑えてはいたが、思わず威圧的な声がでた。 「私が貴女に何をしようとしたかぐらい分かるでしょう、もう子どもじゃないんだ。貴女からすれば自分に仕えていた元召使に無邪気に 会いに来ているだけだろうが、私は男なんです。この先何もしないでいられるとは到底思えない。好きでもない男に身体を許すつもり ですか」 春名を見上げた緑の瞳には驚きと怯えが浮かぶ。当然だろう、藤代に使えた十数年、雪に怒鳴ったことなど一度もない。 だがそれでも白く細い指は手を離さなかった。 −−−−逃ゲナイナラ、喰ッテシマエ。 掴まれていないもう一方の手で春名は雪の腕を捕まえた。そのまま雪を引っ張って早足に歩き出した。 「……?春名どこに行くの、アパートはあっち……」 春名は応えなかった。雪の顔に不安の色が浮かぶ。 「ねぇ春名、私何か悪いことをした?」 「……」 「……あの……どこに行くつもりなの?」 「……」 無言で自分をどこかに連れて行く春名に、しかし雪は従順についてきた。当然といえば当然の話だった。あれだけ警告してそれでも 手を離さなかったのだ。雪が逆らわないことを、春名は頭のどこかで冷静に予想していた。 五分ほど歩いて、電車の駅が見えてきた。 「……そんなに、帰ったほうがいいの?」 春名が駅まで送り届けようとしていると思ったらしい。春名は立ち止まって振り返り、漸く口を開いた。 「いいえ」 「……そう」 少しほっとしたように雪は微笑んだ。それが尚更、今やしっかり火種となっている春名の中の劣情を煽った。 今まで人の害意にろくに晒されたことのないこの娘は、自分をまだ絶対的に信頼している。きっと数日前の出来事は一時の気の迷い だったぐらいにしか考えていないに違いない。 再び春名は歩き出した。雪もそれについていった。 駅近くのホテル街。その一つに春名は雪を連れて入った。 部屋はすんなり取れた。フロントから鍵を受け取ってエレベーターで部屋に向かう。流石に疑念の一つでも湧いたのか、雪は口数が 少なくなった。だが、それでも抵抗一つ見せない。部屋に入るときもそれは変わらなかった。 雪を引き入れ鍵を閉めた。バスルームとベッドルームだけの簡素な部屋。 「……ねぇ、春名。何でここに−−」 質問を口付けで塞いだ。油断していた桜色の唇は舌の進入を簡単に許した。やっと己が置かれた状況を理解したのか、非力な腕で 春名の胸板を押して雪がもがく。 −−今更遅い。 逃れられないよう頬に手を沿え、深く口付ける。逃れようと後ずさるのを更に追う。安全な距離まで来たのを確認してから、雪をベッドに 押し倒した。 「……っ!」 こうなれば幾ら雪が抵抗しても、力でねじ伏せられる。春名は執拗に口内を責め続けた。呼吸を阻むような口付けに雪が気をとられて いる間に、コートもその下に着ていた淡い暖色のカーディガンも、青いストライプのシャツも黒いスカートも下着も全て奪う。 まだ僅かに抵抗している腕を捕まえ、ベッドに押し付けてから、春名は静かに雪を見下ろした。 この前は完璧に理性を失っていたせいで服を剥ぎ取ったことと感触ぐらいしか覚えていなかったが、冷静になってみると雪の身体は 見とれる程美しかった。白い肌はそれ以外の色が目立ちやすいのか、胸元にまだ二日前の口付けの痕が残る。全体ほっそりしているのに 丸みは失っていない。二つの小ぶりな乳房は張りがあって、色付いた頂が春名に主張するように上を向いている。細い腰から下半身への 曲線は触れればいかにも心地良さそうだ。 そして、髪と同じく色素の薄い毛が、僅かに覆い隠そうとする場所。 「……やめて、見ないで……」 舐めるような春名の目線に、羞恥からか雪は目を瞑り顔を背けた。だがそれがかえって春名の加虐心を煽った。 「!え……」 ほんの僅かの時間だった。一瞬、腕が解放されて、雪は春名が自分を放したとでも思ったようだったが、それは大きな間違いだった。 先程剥ぎ取ったシャツで素早く捕まえていた腕を結びつけた春名は、雪の腕が効かないのを確認すると下半身に移動した。 「……!嫌、やめて!」 必死に雪は足を閉じようとしたが、既に春名が身体を割り込ませていたので無理だった。膝裏に手をかけてそこがよく見えるように足を 持ち上げて開いた。 −−ああ、綺麗だ。 今まで何度か女の秘所を見たことはあったが、そのどれより綺麗だった。まだ誰にも犯されたことのない淡い色の肉。その狭い入り口は 春名の執拗な口付けのせいか、僅かに濡れているのが見てとれた。 「−−!?」 気付けば自然と舌を伸ばしていた。一端は羞恥にまた目を背けた雪だったが、何かが身体の中で蠢く感覚に、びくりと体を震わせた。 無意識に出た女の声に、背がぞくりと粟立つ。 「や……いや、っやめて……!」 抵抗の声は、しかし明らかに悦んでいる。少なくとも春名はそう思った。その証拠に雪の中は潤いを増して、女の匂いをさせている。 溢れる蜜は舐めると熱く、甘い。見ると、陰核が僅かに顔を覗かせていた。 「あ」 指先で軽く撫でた途端、雪が身体を強張らせた。奔ったものが何かを理解できずに困惑した表情を浮かべている。それが妙に愛おしくて、 今度は舌で撫でた。 「!?あ、ああっ」 大きく体が跳ねた。逃れられないように腰を押さえつけ、肉芽をひたすら愛撫した。春名が舐める度、今まで聞いたことのない嬌声が 上がる。粘着質な濡れた音と、雪の声が、ひたすら自分を煽り続けているのを春名は感じていた。 「や、あっ……はる、な、やめてっ……」 一番敏感な場所への執拗な愛撫に、段々雪の身体が強張っていくのが分かった。蜜の溢れる肉壷も物欲しそうに蠢いている。 −−そろそろか。 すっかり愛撫に赤く熟れた陰核を口に含み、吸い上げる。 「ーー−−!」 背を仰け反らせ硬直した体から、力が抜けた。足を下ろして横たえると、ひくつく秘所からとろりと愛液が垂れた。 指を二本差し入れ、掻き回す。びくりと体を震わせたが雪が痛がる様子はない。三本に増やしてもやはり同じだった。 −−もう十分だろう。 着ているものを脱ぎ捨てた。既に肉棒は熱く、痛いほど張り詰めている。 胸を上下させて放心している雪の入り口に先端を当てる。ぬるりとした感触が、背筋から脳まで一気に駆けた。 ーー避妊しなくていいのか。 ちらりと、そんな考えがよぎって身体が止まる。だが僅かに入り込んだだけの春名のものに吸い付いてきた、雪の熱い内壁が些細な理性を 吹き飛ばした。 「はるな……?」 少し落ち着いて秘所に当たる異物の感触が変わったのに気付いたのか、雪がぼんやりと春名を見上げる。潤んだ瞳に、拒絶の色はない。 −−欲シイ。 今。この女以外のことなど、どうでもいい。 圧し掛かると同時に、春名は雪に欲望を突き立てた。 「!!っあああ!!」 甘い嬌声が、苦痛を訴える悲鳴に変わった。 「く……」 亀頭と竿の部分が少し入っただけで、唯でさえきつい内壁が春名を押し出そうと痛いぐらいに締め付けた。思わず春名の 口からも呻き声が漏れる。 「……っ」 初めて男をーーしかも逞しい春名のものを受け入れる痛みに組み敷いた雪の顔が苦痛に歪んだ。女の本能的な、最後の 抵抗なのだろう、このまま挿れられない程に内壁が狭まる。 だが今や完全に四肢の自由を封じられた雪に、春名から逃れる術はなかった。 「……?ん……っ」 無防備に半開きになっていた唇に浅く深く、口付ける。汗でしっとりと柔らかくなった乳房や太腿に、優しく手を這わせる。 愛撫に快楽を思い出したのか、段々と雪の身体が弛緩して開いていった。潤った内壁が柔らかく、誘うようにうねる。 甘い、花の匂い。 「……んんっ!」 一気に腰を進めた。再び痛い程締め付けられる。同時に、先端に何かが障った。 −−−−ああ。 頭で理解する前に、貫いた。 「!!」 口付けに唇を塞がれて上げられなかった悲鳴の代わりに、内壁が春名を締め上げた。先程は進めないと思ったのに、急に 湧き上がった猛烈な衝動が春名に雪の体をこじ開けさせた。 破瓜の痛みにばたつく身体を上から押さえつけ、遂に根本まで全て、雪の中に納めた。 「はっ、はぁっ……」 気がつけば、春名も汗だくになっていた。まだ痛みが残っているのか熱い肉壷は酷く窮屈だ。だがその他に何も入り込めない ような狭さが、妙に春名を満足させた。 「……あ……」 力ない声と涙が一つ落ちた。痛みからか、純潔を失ったからか。それとも信頼を裏切られたからか。 −−ああ。 一瞬で頭の芯が冷えた。春名自身にも何故だかはわからない、ただ腕の中の娘が萎えているのが苦痛だった。 だが、今更何をすればいいというのか。 嘘をつき、身体を奪い、この先父親を牢獄に送り、雪の平穏な生活を壊す。そんな自分が今更優しく接するのか。 −−いっそ。 もうどう足掻いても戻れない、それなら。 −−いっそ憎まれた方がいい。 「……お前が悪いんだぞ、雪」 「……は、るな……?」 耳元に顔を寄せ冷たく囁く。雪が小さく反応した。 「いくら世間知らずとはいえお前に被害者面する資格はない。わざわざ警告してやったのにそれでもついてきたのだから…… それとも淫らに犯されることを望んでいたか?」 「……」 雪は答えない。だが春名の声を聞いている気配はした。 「図星か?とんだ淫乱だな」 耳元から放れ、雪を見下ろす。 悲しげな、呆然とした顔で雪は春名を見上げていた。長年品性方向な召使だと思っていた男の暴言にショックを受けている のだろう。頬をとめどなく透明な雫が伝う。 親指の腹で何となくそれを拭った。 「……なら望み通りにしてやる」 ゆっくりと顔を近づけ、慈しむように唇を重ねる。自分でも妙に優しい口付けだと思った。 苦痛に耐える雪に、容赦なく腰を打ち付ける。 相変わらずきついがそれでも破瓜の血と愛液で滑りはよくなった。剛直と内壁が擦れる度、背筋から脳天に向かって真っ白な 快感が奔る。 「ん、んっ、うぅ」 春名の動きに合わせてベッドが軋んだ。繋がった場所から粘着質な濡れた音が響き、桜色の唇から苦しげな声が漏れる。 だが最早雪を気遣うような余裕も罪悪感も、裕生への復讐心さえ春名の中にはなかった。 ただこの何も知らない娘の心にできるだけ深い傷をつけたい、ひどく暴力的な衝動に駆られていた。 膝の裏に腕を差し入れて角度を変え更に深く突き立てる。身体を無理矢理こじ開けられる痛みに、雪は声を上げ、 背筋を仰け反らせて涙を流す。 快楽を貪れば貪る程、雪は痛みを覚えるだろう。ならもう二度と味わいたくないような嫌悪感と苦痛を与えたかった。 思い出す度に疼く、深い爪痕が残ればいい。 込み上げてくる射精の衝動に、抽挿の速度が増した。こめかみを伝った汗が一つ、組み敷いた雪の胸に落ちる。 「ふ、ぐっ、あ、あ」 「くっーー」 限界まで張り詰めた怒張を突き立てた。 「……っ」 「……あ……」 爆ぜた熱が、雪の更に奥へ注ぎ込まれていく。 春名が動きを止め事が終わったのを悟ったからか、自分の中に熱いものが広がる感覚からか、雪の身体から力が抜けた。 久々に感じる充足感と共に疲労感が重石のように全身を満たした。一回の行為と射精で驚くほど疲弊した自分に、歳だろうかと 内心苦笑する。倒れこんで眠りに落ちてしまいたかったが、雪の目尻から零れた雫が春名にそれを堪えさせた。 ふと縛ったままだった腕が視界に入った。身をよじったときに擦れてしまったのか縛った箇所が赤くなっていた。何となくそれが 不快で自然と縛っていたシャツを解いていた。自由になったのに気付いていないようで、雪は腕をほとんど縛られていた形のまま 動かさない。 片方を手にとって、擦れた場所に唇を寄せた。肌理の細かい肌の感触が心地よかった。やっと解放されたのに気付いたのか、 もう片方の手が春名の顔に伸びた。 −−? 殴られるかと思ったが、雪の指先はそっと春名の頬に触れただけだった。まるで硝子でも触るように、そっと撫でる。 見つめる緑の瞳に怒りはない。喜びもない。涙を湛え、ただ悲しげに春名を見上げている。 「…………」 耳の裏で心臓が鳴る。 とった腕を布団に下ろして、掌を重ね指を絡める。雪の肌と比べるとどうしても自分の肌は色が黒い。心というのは外見に出る らしいが、肌の色にも出るのだろうかと春名はぼんやり思う。 指の付け根でしっかり握り締めた。細い指を捕まえる無骨な自分の手が、大きな蜘蛛のように見えた。 喰われかけの白い手は、確かに春名の手を握り返した。 「…………」 頬に添えられた手は弱く春名を誘った。無意識にそれに従って、雪の上に身を横たえる。 遠慮がちに細い腕が伸び、春名の頭を胸元に抱き寄せる。 ーー雪、お前は。 淡い期待に思わず口を開きそうになって、思いとどまった。 予感がある。だが、それを聞いたら、きっと戻れなくなる。 春名の中にある喜び以外の全てを、それは掻き消してしまうだろう。 喉元まででかかった言葉を飲み込み首筋に顔を埋める。心地いい、甘い匂いが鼻をくすぐった。重なった胸から鼓動が伝わってくる。 一定のリズムと柔らかで温かい身体が、春名の意識を眠りへ誘っていく。 「−−ごめんなさい」 瞼を閉じる寸前、そんな声を聞いた気がした。 −−どうしてお前が謝る。 浮かんだ疑問は言葉になる前にまどろみに吸い込まれた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |