Othello-番外・探偵の視点-(非エロ)
シチュエーション


彼女に出会ったのは十九年前、おおよそ二十年になるのだから月日が経つのは早いものである。彼女の父であり、私の
同級生である藤代裕生のパーティーに呼ばれた時が初対面だったと思う。何のパーティーだったかはもうよく覚えていない。
当時は藤代が何故私を呼んだのかは今よく分からなかった。藤代は親の跡を継いで大財閥の長、対する私はしがない
私立探偵である。学生時代それほど交友があったわけでもない。丁度事務所を開いたばかりで、たまたま営業も兼ねて
参加した同窓会で彼に会い話をしたので恐らくそれがきっかけだと思う。
妻の明菜を伴って挨拶に行った時、最初藤代がぽかんとして「何方でしたか」と訊ねたのをよく覚えている。
普通ならば失礼な話であるが私はこういうのがしょっちゅうである。元来地味な顔つき、地味な名前であるため、幼い頃から
私はどうにも印象の薄い人間であるらしい。またそれを改善しようと努力しなかったため、私は極めて認知されにくい人間に
なってしまった。だがその存在感の希薄さが、顔を覚えられては厄介な探偵という仕事にはうってつけだった。

「紹介するよ、私の娘だ」

私と妻に謝った後、藤代はそう言って傍らにいた幼い女の子の頭を撫でた。
愛らしい娘だった。色白、というよりは本当に白い肌で、髪も些か日本人離れした茶色だった。私たちを見上げる大きな瞳も
普通の黒や茶色ではなく緑色に近い。彼の奥方は日本人のはずだったのにと、妻と二人顔を見合わせた。

「やはり驚くか。生まれつき色素が薄いらしくてね、顔貌は日本人なんだが」

私達の反応を見て藤代は苦笑していた。
仕事の伝で色々な筋から情報を得ていたが、当時から藤代に関してあまりいい噂は聞かなかった。が、彼の娘に向ける優しい
眼差しは世の父親と何ら変わりなく、少し安心したのを覚えている。
恥ずかしいのか父親の後ろに隠れて、娘は「こんにちわ」とお辞儀をした。
これが私と妻、そして藤代雪との出会いだった。


それから藤代と親交を持つようになり、ピアノの講師をしていた妻のところへ雪が通うようにもなった。その頃、私達の間には
子どもがなく、私も妻も実の子のように雪を可愛がった。
雪は元気でにこにことよく笑う、いい子だった。いうことをよく聞き要領もよかった。それが幼稚園の年中になった頃にどこか様子が
変わり、ある日私と妻の前で突然泣き出してしまった。
話を聞くと、友達ができないのだという。理由は簡単だった。彼女の外見のせいだった。
幼い子どもというのは時に残酷で、容赦なく妬んだり非難や中傷を浴びせるものである。彼女の場合、その特異な髪や瞳の色が、
同世代の女の子のやっかみの対象になってしまったらしい。確かに彼女の姿は大勢の中でも思わず目を惹きつけてしまう。無理も
ない話だった。

「こんな髪の毛も目もだいきらい」

雪はよくそう言って、私達の家で泣いた。

小学校の四年ぐらいになって精神的に落ち着いたのか、雪は快活な子どもに戻った。だがまだ心の内を話せるような親しい友達は
できないらしかった。

「私が近付くと、皆遠くに行っちゃうの」

そう言って雪は悲しげに笑った。小学生には似つかわしくない、ひどく大人びた表情だった。
自分が見つめるとその人の気持ちが離れていく感じがするのだと彼女は言った。成る程、見つめること自体相手にプレッシャーを
与える行為だ。色素の薄い雪の緑の瞳は瞳孔が目立ち、それが強調される気はする。その考えを噛み砕いて説明して、とりあえず
目をじっと見つめることを避けてみてはとアドバイスした。

「おじ様とおば様は、私の友達でいてね」

彼女は軽い調子で言っていたが、本当は切実だったと思う。できる限り彼女を支えようと私と妻は約束した。


そんな唯でさえ良くなかった状況が、更に悪化したのはその頃だった。
体育の授業中に雪が倒れたのがきっかけだった。
夏が近付き日差しのきつくなってきた、雪にはあまり良くない季節のことだった。色素が薄いと太陽光さえも身体に障るので、野外での
授業に彼女は原則参加いないと聞いていた私達は驚き、雪の身を案じた。
自分の体質を理解して尚、彼女が授業に参加した理由は分からない。だが、その一件は父である藤代に大きな影響を与えた。
野外の授業に絶対参加させなくなったのに加えて、藤代は学校以外に雪を外に出さなくなった。ピアノのレッスン場所も藤代邸に変更
された。殆ど軟禁状態だ。
だがいい子であった彼女は従順に藤代の言いつけを守った。私も折を見て妻に付いていき雪の話し相手になったが、会う度に病的な
疲れの色が増した。哀れになるほど雪は快活さを失っていった。
流石にやりすぎだと思い、彼の奥方と共に忠告したことが効いたのか、数ヶ月経って漸く雪は外出を許可されレッスンの場所も私達の
家に戻った。ただしそれも召使を連れてのことで、雪が自由に行動できる機会は実質無くなってしまった。
当時は藤代が過保護を通り越して異常だと思ったものだが、今になれば彼の心情も少しは理解できる。親にとって子どもを失うのは
何より辛い、雪が再び倒れたらと彼も気が気ではなかったのだろう。だが見張りをつけたような状況で子ども同士が親しくなれるはずも
ない。結果として藤代の心配は、彼女から同年代の人間関係を築く時間も場所も奪い去ってしまった。
傍から見れば誰もが羨む儚げなその容姿が、本来その内面に向くべき目すら奪い、彼女を不幸にしていた。
雪は、ひとりぼっちの子どもだった。


軟禁が解かれて数ヶ月経ち冬も近くなった頃、雪は目に見えて元気を取り戻した。もしかして友達ができたのかいと訊ねると、少し照れて
頷いた。

「ハルナっていうの」

どんな子なんだいと言った私に、雪はおかしそうに笑った。聞けば召使の一人だという。数年前から雪の世話係になっているらしい。

「私も最初間違ったんだけど、女の子じゃないんです。もう大人だし。歳が離れているからお兄さんみたいだけど、とても優しくていい人なの」

ハルナという人間を心から慕っているのだろう、雪は嬉しそうに笑った。久しぶりに見る元気な笑顔だった。
それがきっかけになったのか、学校でクラスメイトとうまく付き合えるようになったらしい。雪は孤独から抜け出したように見えた。
だが彼女にはまだ何か憂いがあった。ふとした瞬間酷く寂しげな顔をすることがあって、私と妻は心配になって何かあったのかと訊ねたが、
大したことではないと彼女はいつも曖昧に話を誤魔化した。無理強いをするのも気が引けたので、それ以上のことは分からなかった。


雪が高校生になったばかりの四月、数年ぶりに藤代の家を訪ねた。生憎途中で急用ができたらしく藤代は席を外し、結局帰るまでろくに話が
できなかった。
休日だったので雪は在宅中だった。丁度ティータイムの時間帯で、雪の部屋で紅茶と茶菓子をお呼ばれになった。藤代の細君は私の妻とは
親しかったが、私とはそれほど付き合いを持ちたくなかったらしくやんわりと同席を断った。どうやら人の秘密を根掘り葉掘りする探偵という職業
が嫌いらしい。幾ら親しい間柄とはいえ、一人で若いレディーの部屋に入るのは妻の時以来で柄にもなく緊張したのをよく覚えている。「こんな
おじ様初めて見たわ」と雪はおかしそうに笑っていた。
日当たりのいい、広く静かな部屋だった。丁度いい天気だったので部屋のテラスでのお茶会となった。
ふと、階下から藤代が誰かと話している声が聞こえた。どうやら部下と仕事のことでもめているようだ。
この下は彼の書斎らしい。建物の構造的にこの部屋に音が漏れてしまうという。「電話の声まで聞こえてしまうの」と彼女は苦笑していた。
「失礼します」

ドアをノックして召使の男がティーセットとクッキーを載せた皿を運んで入ってきた。黒い短髪ですらりとした長身。中々の好青年だ。カップに
紅茶を注ぎ、「何かございましたらご遠慮なくお申し付けを」と丁寧に挨拶して男は出て行った。

「もしかすると、彼が例のハルナさんかな?」
「ええ」

成る程、友達というには確かに年が離れているように見える。若く見積もって二十代後半、十近く年齢が違うはずだ。

「ハンサムなんだね」
「おじ様もそう思います?」
「うん。細目できりっとした感じの知的な顔だ」
「真面目な人なんです。頭もいいの。だけどオセロとかチェスとかのゲームにはからきし弱いみたい。この前お父様に完敗していたから」

楽しげな雪の様子に、私はおやと思った。ハルナの事を話す雪は、十数年前、まだ何も彼女を悩ませることがなかった頃の無邪気で屈託のない
笑顔を見せた。
少し考えてから、ああ、と私はふと嬉しいような寂しいような気持ちになった。
雪も、もう年頃の娘だ。ハルナは好感の持てる人物だし外見もいい。一緒にいる間に、抱いていた感情が変化してもおかしくはない。
きっと、雪は彼に恋をしているのだ。


だが、私は同時に何か嫌なことが起きる予感めいた胸騒ぎを覚えていた。当時は娘を思う親のような気分のせいだと思って、長らくそんなものを
感じたことすら忘れていた。今思えば、あれは私の探偵としての勘だったのかもしれない。
春名はあまりいい人間ではないということの。
そして、その不安は当たることになる。

六年前の夏。私達の間に娘ができた。妻も私も半ば諦めかけていたところにできた子どもだったので、それはもう嬉しかった。
夏の太陽のように明るい子どもに、と陽子と名付けた。珍しく藤代が細君と一緒に我が家に来て祝福してくれた。

「子どもはいいよ。跡継ぎだなんだで男の子が欲しい時期もあったが、女の子は可愛い。身体が弱いが、うちの娘もいい子に育ってくれた。幸せに
なってくれればいいんだがね」

手段を選ばない経営者として世間では白い目で見られていた藤代だが、娘に対しての愛情はいたって普通の父親だったと私は思う。何故その
優しさを他の人間に向けられなかったのか、それは今も残念でならない。
雪はピアノのレッスンの後よく陽子の面倒を見てくれた。

「おじ様とおば様の子だもの、きっと陽子ちゃんはいい子になるわ」

愛おしそうに陽子をあやす雪が、何故か時折寂しげに見えた。


五年前の春。妻と私は自宅へ雪を招待し、ささやかなパーティーを開いた。表向きは彼女の高校卒業を祝ってのものだったが、本当の目的は
彼女を元気付けることだった。
いつ頃からだろう、数年前から見せていた憂いの表情が増え、笑顔が目に見えて曇った。十年近く前の軟禁状態の時のように−−いや、それ
よりもっとひどく彼女から生気が失せていった。
だがどうやらそれは私達にだけ見せるものだったらしい。心配になった私は藤代に連絡を取り雪の事を訊ねてみたが、家で雪にそんな様子は
微塵もないという。
もしや原因は私達なのではないかと思い切って訊ねてみた。雪は驚いて即座に違うと否定した。

「ごめんなさい、ご心配をおかけしてたんですね。大丈夫です、私の問題ですから……」
「……雪ちゃん、もしよければ話してくれない?貴方に元気がないと私達も元気が出ないわ。もしかしたら力になれるかもしれないし……」
「……ごめんなさい、おば様。どうしても言えないことなんです」

妻の言葉に、雪は沈痛な面持ちになって俯いた。私も妻も、それ以上のことは聞けないのだと悟った。
恐らく、家族にも悩んでいることを隠していたのだろう。だから藤代が知らなかった。
そこまで隠さねばならず、彼女を悩ませることとは、一体何なのだろう。

「私達にできることはないのかい?」

我が子同然の彼女が、苦しんでいるのを見るのは辛かった。悩みの相談にのることはできなくてもせめて少しでも力になりたかった。

「…………なら、一つだけ」

長い沈黙の後、雪がゆっくり口を開いた。


「一つだけ、お願いしたいことがあります」






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