シチュエーション
![]() 初めて春名が雪の世話を任されたのは、藤代に仕え始めたばかりの年の夏だった。それまで掃除ぐらいしか仕事のない下っ端だったの にいきなり何故と戸惑ったが、理由は何のことはない。つまり下っ端で若いから、屋敷の中で一番雪に近い歳だから選ばれただけだった。 世話といってもその時の仕事内容は身の回りの世話をするのではなく、雪の話し相手になることだった。丁度その頃雪は体調を崩していて、 学校から帰ってくるとそれから後はずっと屋敷にいるような生活だったから、裕生なりに気を遣ったのだろう。本当は女に任せるつもりだった ようだが、生憎裕生の眼鏡に適うような品性方向でくそ真面目だがそれなりにユーモアのある若いメイドが屋敷にいなかった。当時年相応の 女性と付き合いがあった為、春名に雪に手を出すようなロリータ・コンプレックスやペドフィリアの気はないと判断して裕生は渋々仕事を任せる ことを了承したらしい。 初めて雪の部屋を訪ねた時の事を、春名はよく覚えている。 扉を開くと、まだ外が明るいのに半分カーテンが閉まっていて、部屋は随分薄暗かった。その只中に、そこだけ明かりが照らしているように 真っ白い少女が立っていた。間近で見るのはその時が初めてだったが年の割りに大人びていて、可愛いというより綺麗な娘だった。しかし目は 生気が無く、病んでいるのが見ただけで分かった。 「……ああ、男の人だったの」 少し驚いたような声だった。 「知り合いにアキナという人がいるから女の人だと思ってたの、ごめんなさい。苗字かしら?」 「はい。春の名前で、春名と」 「綺麗な名前ね……よろしく、春名」 雪は微笑んだ。今にも消え入りそうな、儚い笑顔だった。 最初はとにかく苦労した、というよりは悩んだ。屋敷の中で一番年が近くても、十以上年の離れた小学生の女の子が相手なのだ。 仕方なく「何かしたいことはございますか」と訊ねた春名に、雪はぼんやり「友だちがほしい」と呟いた。 雪はぽつりぽつりと話し始めた。学校のクラスメイトとあまり仲良くなれないこと。知り合いの大人がいうには、雪の目は普通の色と違うので 慣れない人はじっと見つめられると何となく居心地が悪くなってしまうのだということ。 「でも話をするときはその人の顔をじっと見るでしょう?だから、私には友だちができないの……でもどうしても皆と仲良くなりたくて、この前体育の授業に出たの。皆、外で一緒なのに、私だけ校舎の中でひとりぼっちで見学してるのなんて嫌だったから……そうしたら倒れてしまってお父様がもう勝手に外に出てはいけないって……」 言い終わって、一気に澄んだ緑の目から透明な涙が溢れ出した。慌てて胸ポケットのハンカチを手渡し、どうにか宥めて雪は泣き止んだ。 「それは辛かったですね……お可哀想に」 裕生を恨んでいるとはいえ、流石に春名も目の前の少女が哀れになった。だが欲しいといっても友達など無理矢理作れるものでもない。雪の 場合、彼女の性格とは無関係にその身体的な性質とその相手が問題で、体質については改善のしようがない。相手に対して協力を仰ぐことは できるが、子どもの友達作りに大人が出て行くのは違う気がした。 「……お嬢様、では友達の作り方を勉強いたしましょう」 「友だちの……作り方?そんなものがあるの?」 目線を合わせてそう言った春名に、雪は不思議そうに首を傾げた。 「ええ。人と付き合うのに、こうすれば円滑にいくという方法は少なからずあるのです」 それは春名が今までとってきた方法でもあった。『春名』の両親に気に入られるのに役立ったし、何よりこの屋敷に潜り込み、いい印象を持た せるのに一番役立った。 「真摯に目を見つめるのは確かに大切ですが、じっと見るだけでは相手は気圧されてしまいます。時に会話に相槌を打ったり、話題に合わせて笑ったりするのが大切です。そうすれば自然と仲良く慣れます。それでも不安なら、友達になってほしいとお伝えになれば大丈夫なはずです」 「……そっか、笑顔が足りなかったのかも」 「こういうのは回数を重ねて上手になることが大切です。私がお付き合いしますから、練習いたしましょう」 それから二、三日後。練習を終えた時だった。ぽつりと雪が呟くように言った。 「……ねぇ春名」 「何でございましょう」 「私の、友だちになってくれる?」 少し驚いたが、心配そうに顔を見上げてくる少女に春名は微笑み返した。 「私などでよければ」 少女は花が綻ぶように笑った。 数年後、裕生のスケジュール管理の係を経て、春名は雪の世話を全面的に任されることになった。 一月。アパートの自室で春名は肌寒さに目を覚ました。 時計は六時を指している。カーテンの僅かな隙間から、近所の家の屋根の上が一様に白くなっているのが見えた。 ぼろい上に暖房が備え付けられていないので部屋は冷え込みがきつい。手を伸ばして最近買った電気ストーブのスイッチをつける。直ぐには 温かくならないので、ぬくもりを求めて布団に潜り、背を向けて寝ていた白い身体を抱き寄せた。 「ん……」 睫毛の長い瞼が、重たげに開いた。寝ぼけた緑の瞳が、ぼんやりと後ろから抱きすくめる春名を見上げた。白い胸元に幾つも、昨晩つけた痕が 赤く花のように散っていた。 細い腰の曲線や胸の膨らみに手を伸ばす。絹のように柔らかな肌が隙間なく自分の肌にすり合わさる感覚。まだ起きたばかりだというのに、 情欲が燻り始めた。 身体を上向かせながら唇を重ねる。最近は自然と口を開けて春名の舌を受け入れる。これから行為が始まることを予感したのか、圧し掛かった 春名の背に華奢な手が回る。 愛撫もそこそこに避妊具をつけ、怒張を突き入れた。 「−−ああっ!」 背を仰け反らせる雪の腰を抱え、獣のように責め立てる。激しい打ち付けから逃げることもできず、雪は抽挿に合わせて甘い悲鳴を上げた。 あの日から後も雪は春名を訪ねてきた。以前のような気安い会話を交わすことはもうなくなり、春名に陵辱されることを分かっているのにそれでも 部屋に来るのを止めることはなかった。訊ねてくる度春名も抱いた。あの日から後はいつも避妊具をつけるようになったが、それが逆に何度犯しても 大丈夫だという安心感になってしまい一晩に何度も抱くことが多くなった。元々体力の無い雪は行為が終わると疲れ果てて、最近はこの部屋で夜を 明かすことが増えた。 マスコミもとりあえず落ち着いている。公判を待っている裕生は家にいるはずだ。例えそれに準備しているのだとしても、目に入れても痛くない娘が 朝帰りなどして何も言わないのか。この関係を探られていないか。気にはなったが、訊くことができずにいた。 「はっ、あ、あっ、んっ……!」 嬌声を上げ、抵抗もせず受け入れる女と、犯す男。傍から見れば、恋人同士のセックスに見えるのかもしれない。 だが現状は、春名が一方的に快楽を搾取するだけだった。少なくとも、春名はそう思った。 確かに激しい突き上げに上がる声に甘さが混じるようになった。狭かった内側も春名の形に馴染んだ感がある。拓かれた雪の身体は、きっともう 痛みをあまり感じていないはずだ。 なのに雪は抱かれる度、いつも辛そうに涙を流す。 二ヶ月前抱いた淡い期待は、幻だったのだと春名は思う。雪にとってこの交わりは本来望んでいないことなのだ。身体が快楽を覚えても、心の方が そう感じている。だから、幾ら抱いても春名は満たされない。だが突き放すこともできない。 −−辛いのなら何故、俺に抱かれる。 そんな疑問を訊ねることすら、春名はできずにいた。 意味もなく体を重ねる日々。裕生の裁判が二月に開かれることが決まったのは、その頃のことだった。 二月。冷え込んだ朝、春名は裁判所にいた。 昨晩、雪は来なかった。もし来ても今日に備えて家に帰すつもりだったから、別段構わないといえば構わなかった。 −−ついに、この日が来た。 二十数年、裕生を失墜させる為だけに生きてきた。刑が確定するのはまだ先になるだろうが、春名は今日の日を待ち焦がれていた。 屋敷の人間や一部の藤代財閥の人間を抱きこみ、裕生のスケジュールや銀行の口座を綿密に調べ上げた。いつ誰と会い、どんな取引をしたかも どこに金を隠しているかも正確に把握できる。春名のほかにも協力者が何人も証言に立つ。中には立花が買収した裕生の腹心の部下もいる。 −−一体どんな顔をするかな。 裕生が驚愕する様を想像して、春名はにやりと笑った。 久し振りに憎悪で心が塗りつぶされていく。目が暗むようなその感覚が、何故か春名を安心させた。 まるで本来あるべき場所に帰ってきたように。 早々に受付のノートに記入を済ませて傍聴席に座った。春名の席は、傍聴席から向かって右側の被告席が見やすい、前方の列だった。続々と他の席も 埋まっていく。どうやら多くはマスコミ関係者らしく、皆一様に手元にメモを用意していた。 程なくして裕生が入廷した。数ヶ月前と変わらずきっちりとしたスーツに身を包み、憮然とした表情だった。 「起立」 開廷を告げる裁判長の声が響いた。 裁判は人定質問、起訴状の朗読、冒頭陳述と滞りなく進み、いよいよ検察側の証人尋問となった。春名以外の証人が申請したのか、被告席と証人席の間には 衝立が置かれた。春名は二番目に、贈収賄が行われたとされる日の裕生のスケジュールを証言することになっている。 最初の証人は買収された裕生の部下だった。証人の名前が読み上げられると裕生の顔色が僅かに変わったのが見えた。受託収賄について検察側の主尋問、 次いで弁護側の反対尋問が続く。質問は殆ど想定していた内容ばかりだった。少し衝立の向こうを気にしながらも証人は矛盾なく言葉を並べていく。春名はその間、 じっと裕生の様子を眺めていた。 被告席の裕生は春名に気付いていないらしかった。俯いたまま眉間に皺を寄せ証言を聞いている。 −−どんな気分だ?裕生。 −−腹心の部下に裏切られて、腹が煮えくり返っているか?だがまだまだ足りない。こんなものでは俺は納得できない。この先も、お前が信頼していた人間達が お前を貶める為準備している。証拠も出てくる。お前は全て失くすのだ。 まるで、かつての俺のように。 「春名恭介さん」 検察官の声に、春名は我に返った。いつの間にか最初の証人は傍聴席に戻っていた。春名の番だ。証人席に向かおうと、立ち上がり証人席へ向かう。 −−−−え? ちらりと。視界の隅に映った何かに、目が吸い寄せられた。 最後列。傍聴席の黒と灰色の群衆の中で、それだけが白い。 雪だ。 −−馬鹿な。 否、冷静に考えればありえないことではない。これは雪の父親の裁判なのだ。だが、絶対に来るはずがないと春名は思い込んでいた。父親の汚い面を受け入れられる 程、雪は強くない。 −−いや違う。 汚い面などないと信じているのだ。無罪を信じて、ここに来たのだ。 目線を動かせない。見つめる春名に雪が気付いた。 −−−−。 混乱が、頭を空にした。雪には、春名が検察側の証人尋問に立つことが−−裕生にとって不利な発言をしようとしていることが分かるはずだ。 視線がぶつかる。一瞬が何倍にも引き伸ばされる。 雪は−−−−驚いていない。 怒ってもいない。 悲しんでもいない。 ただ真っ直ぐに、じっと春名を見つめた。 「春名恭介さん?」 裁判官の声で、春名は現実に戻ってきた。 「あ……はい」 証人席に向かい宣誓をしながら、しかし心はぐらぐらと揺れていた。 何を喋ったかもよく分からないまま、気がつけば春名の証言は終わっていた。 「何故だ」 夕方。空は夜の闇に染まり始めていた。 いつものように春名の部屋を訪れ、服を脱ごうとした雪は春名の問いに動きを止めた。 まだ灯りをつけていない部屋は薄暗い。窓辺に立ち春名に背を向ける雪の顔はよく見えない。 「……俺のした事の意味ぐらい分かるだろう」 「……ええ」 「なら何故ここに来る」 「…………」 雪は答えない。 「何の為に俺に抱かれる?快楽に溺れるじゃないはずだ、お前はそもそも犯されることを望んでいない」 ぴくりと肩を震わせ、雪は僅かに春名を振り返った。驚きと、悲しげな色が浮かんでいる。 「……そうなんだな?」 驚きが消える。悲痛な表情で、無言のまま雪は力なく頷いた。 「なら何故」 「……あなたに……」 搾り出すような声だった。 「……俺に、何だ」 「……あなたに許してもらう為に」 −−−−? 意味が分からない。 「俺が何を許すというんだ」 「藤代を」 藤代? 「あなたに藤代を許してもらう為です」 「?お前、一体何のことを」 「カワモトキョウスケさん」 ぽろりと、透明な涙が零れた。 「−−−−……な、ん……−−−−」 カワモト。名前。その名前は。その名前を、何で。 その名前は。 「あなたの……元の名前、ですよね?」 「何で」 やっと言葉になった思考を吐き出した。 「何で、その名前を知ってる……お前は、何を知っているんだ!」 「全てです」 静かに、だがしっかりと雪は川本恭介の目を見て言った。 「父が−−藤代があなたにしたこと、あなたが藤代にしようとしたこと……そしてあなたのこと。全て知っています」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |