シチュエーション
![]() 「全部……知っているだと?」 「川本恭介さん。二十三年前に藤代不動産に吸収合併された川本不動産株式会社の創業者であり社長の川本平蔵さんの息子さん。お母さんは川本恵さん。十五歳の時 お子さんのなかった春名義之さんと春名スエさんの養子になった……そうでしょう?」 肯定も、否定もできなかった。口が動かない。 「……知り合いの探偵の方に、調べていただいたんです。ごめんなさい」 沈黙が落ちる。 聞きたいことは山程ある。何故調べようと思ったのか。何故恭介の身元を裕生に言わなかったのか。そして何故恭介に抱かれるのか。 疑問を纏めきれないうちに、雪が口を開いた。 「私の部屋から、下の父の部屋の音がよく聞こえるのを知っていますか」 よく知っていた。裕生は自ら会社に出向くより、あの部屋から訪ねてきた部下や電話で指示を出す方が多かった。召使の春名が裕生のスケジュール管理をしていたのも その為だ。時折雪の部屋の隣の空室で裕生と部下の会話を盗み聞きしたこともあった。 「小学校の中学年近くになれば、大人が喋る内容でもかなりわかります……私の部屋には父の言葉がよく聞こえてきた。誰かを口汚く罵り侮蔑し不幸を願い、陥れるために 会社の部下と話し合っているのを、私は学校に行っている時間以外、毎日、ずっと聞いていた。父が逮捕された日まで十数年間、ほとんど絶えることなく。だから父がしてきた ことは、あなたより詳しく知っているかもしれない」 −−−−あの男がしていたことを、そんな昔から? 気のせいか、よく見えないはずの雪の顔が青ざめていくように見えた。恭介も背筋に薄ら寒いものを感じた。 十数年そんな言葉を聞き続けた、その事自体もおぞましかったが、更に雪の少女時代を境遇を思い出したせいだ。 確かあの頃は体調を崩したせいで軟禁状態になっていた時期があった、日差しが弱まる秋口近くまで続いていたはずだ。夏の少し前に雪が倒れて欠席した一ヶ月近くと、 学校が夏休みになってから二学期の始めまでの二ヶ月、計約三ヶ月間。 その間当時十歳の子どもが三ヶ月ずっと、親が計略を巡らし誰かを呪っているのを独りで一日中聞き続けたということではないか。 「私は恐くなった。こんなことをし続けて許されるはずがないと……だけど父にやめてとも言えなかったし母に相談することもできなかった。母は人の秘密を噂することを嫌って いました。両親に嫌な子だと思われたくなかった……それなのに結局、私は父が誰かから奪ったものを享受して生きてきた。幾ら心の中で悔いたって見て見ぬ振りをして自分の 生活を守る事を選んだも同然です。私も父と同罪だ、いつか裁かれる日が来るんだと思いました。そんな時、あなたが私の担当になった」 恭介は思い出していた。薄暗い部屋の中で、顔に病んだ色を浮かべて佇んでいた少女。 あれは、罪の意識に怯えていたのか。 「元々友達はほしかったけど、あの頃は特にそうでした。父や母には心配をかけたくなかった、けど不安で、恐ろしくて、悩みを話せなくてもいいから誰かに側にいてほしかった ……だからあなたが友達になってくれた時には、とても嬉しかった……あなたと遊んだり、話をしているときは父の声は聞こえなくなって、私は楽になることができた」 雪は、微笑む。まるで今にも消えてしまいそうな弱々しい微笑み。 恭介は、何も言えない。何を言えばいいのか分からない。 「それから数年は、心穏やかに過ごせました。罪悪感はあったけどいつか償うことができるかもしれないと思っていたから。だけど高校生の頃、あなたが時々、私達に嘘をつく ことに気がついた」 「……どうして、分かった」 恭介は思わず訊ねた。 「あなたは嘘をついたり隠し事がある時は、私の顔を見て上手に喋れなくなるんですよ。気付いてませんでしたか?」 「…………」 呆然とした恭介に、雪は寂しげに微笑む。 「あなたが私を見てきたように、私もこの十三年、あなたを見てきましたから……」 いつの間にか日が沈み、窓から射す月明かりが雪の輪郭だけを淡く映し出している。 「あなたに気付かれないように遠まわしに質問を重ねて、あなたが自分についてすら何かしら隠していると憶測がつきました。調査の結果を聞いた時は、とてもショックだった。 父に会社を奪い取られた人の子どもが素性を隠して働く理由なんて一つぐらいしかない……父が逮捕されて、あなたが屋敷を去って、やっぱりそうだったんだと思いました」 「でもお前はここに来た。何故だ」 雪は俯く。 「……母が倒れた時は、どうしていいか分からなくて、ただ単純に誰かに縋りたい一心でした。父の逮捕は覚悟していましたが母まで倒れるとは思っていませんでしたから」 「それなら他にも行き場所はあったはずだ。何故わざわざ探偵に住所を調べさせてまで、その原因を作り出した俺のところに来た」 「……諦め切れなかったんです。どこかで、あなたを信じたかった−−−−あなたが好きだったから」 心臓が、跳ねる。緑の瞳から、涙が零れる。 「あなたに父を赦してもらいたかった……そしてそれ以上に藤代の娘である私を赦してもらいたかったんだと思います。例えそれがかなわなくても償っているのだと思えば私は 楽になることができた。ここで犯されかけた時は確かに恐かったけど、もし身体で償えるならそれでもいいと思ってまたこの部屋を訪ねたんです……いえ、あなたが言っていた ようにそれを望んでいたのかもしれない。もしかしたらあなたも同じ気持ちではないかと」 堪えきれなくなったのか、華奢な手が顔を覆う。 「馬鹿ですよね、結局あなたは私を憎んでいたのに」 驚きが、現実に恭介を引き戻した。憎んでいる?俺が?雪を? 「あなたは私の浅ましい気持ちを理解していた。本当は私が藤代でも父でもなく、自分一人だけをあなたに赦してもらいたいと思っていることを見抜いていた」 「待て……一体何の事を言っているんだ」 露骨に驚愕の顔を見せた恭介に、しかし呆然として俯いたまま、顔も見ず雪は呟いた。 「あの日、あなたは私に言った。お前に被害者面する資格はない、と」 −−−−あ。 「あなたが自覚していなかった癖を私が知っていたように、私が自分でも気付いていなかった心の卑怯な部分にあなたは気付いていた。父を赦してもらいたい気持ちは本当だった けど、私はどこかで何の責任もない被害者か、藤代の犯した罪と無関係でありたいと強く願っていた。あなたの復讐を誰にも言わなかったんじゃない、誰にも言えなかったんです。 言えば私が父がしたことを知っていると、それなのに何もしてこなかったと認めることになるから……」 自らの内面を苦しげに吐き出す目の前の女は、段々と小さくなっていくように見えた。 −−違う。 今度は恭介が呆然とする番だった。恭介は雪が全て知っていたことにも、彼女の心に降り積もっていた罪悪感にも微塵も気付いていなかった。あの言葉もそんなつもりで言った わけではない。 だが雪にとって、恭介は藤代の断罪者だった。恭介の意図するところではなくても、自分への憎しみともとれる態度で、無意識に封じ込めていた気持ちを言い当てられ、「お前が 悪い」という烙印まで押されたことで恐らく雪の罪の意識はピークに達したはずだ。 痕を残すどころではない。恭介の言葉は、あと少しで千切れるところまで雪の心を抉っていた。 『ごめんなさい』 −−眠りに落ちる寸前に聞いたあの言葉は。 だからか。だからなのか。 身体中の空気を全部出してしまうように、雪は震える息を吐いた。 「……もう私はどうすればいいのかわからなくなってしまった。自分の心根の醜さにも気付いて、あなたに憎まれていることも知って……それでもあなたが好きで、藤代も自分も 赦してもらいたい気持ちは嘘ではなかった。だからあの日の後もここに来たんです。もしかしたらあなたの要求に応え続ければ何かを変えられるかもしれないと思った。性欲の 捌け口になってそれでどうにかなるとは思えなかったけど、拒むことはできなかった」 夜の闇の中、雪は今にも崩れ落ちそうに見えた。 少しでも触れ方を間違えればたちまち壊れて、二度と元に戻らないだろう。 「……でももう終わりにします。あなたにすれば、こんなこと不快で、迷惑でしかなかったですよね……今までごめんなさい。厚かましいお願いですが、父が罪を償ったら、いつか 幾許かでも赦してやってください。お願いします」 深々と頭を下げ、一歩玄関に踏み出した雪の前に恭介は立ち塞がった。 少し怯えた風に雪が見上げる。溜まった涙が今にも零れ落ちそうな瞳は、今にも最後の力を失いそうなほど頼りない。 「何故背負おうとする」 「……何故?」 「俺を怨めばよかっただろう」 恭介が裕生を怨むことで悲しみから抜け出したように。 「……藤代のせいで家も両親も名前も亡くしたあなたを、何故私が怨めるんです?それに、私はあなたを嫌いになどなれない」 「……元々お前が何かしたわけではない。それこそ無関係を決め込めばそれで済んだはずだ。知らないふりをしていればよかっただろう」 「……そうですね、そうすれば楽だったでしょうね」 僅かに強さを取り戻した緑色の視線が、恭介を目を見据える。 「でも、どんなに悪い事をしていても、私の父なんです。止めることすらできなかったのに見捨てるなんて、私にはできない」 恭介が見つめ返しても、その視線は揺らがなかった。 「……確かに、馬鹿だな……」 恭介と雪、どちらが罪人かなど明らかなのに。 怨むことも逃げることもできず、自分のものでない父親の罪を背負い続けてぼろぼろになっている目の前の女が。 「本当に馬鹿だ−−−−」 どうしようもなく哀れで。 どうしようもなく愛おしくて、抱きしめた。 「……?あの……」 「赦す」 細い身体が震えた。 腕の力を緩める。雪はひどくゆっくりと恭介の胸から離れた。 何が起きたのか確かめるように、戸惑った顔が春名を見上げる。 「え…………?」 「お前に罪はない。俺はお前を恨んでいない。それでもお前が自分を罪深いというなら、俺がお前を赦す」 頬に手を伸ばし、そっと冷たい涙の跡を拭った。 「どうして……」 「……恋だの愛だの、綺麗なものじゃない。裕生が憎いことにも変わりはない。だが……」 涙に濡れた緑の瞳。僅かな月明かりを受けて煌くそれは、ただただ綺麗だ。 今なら、この目に顔を背けず、惑わず偽らず伝えられるだろうか。 「お前が欲しい。心も、身体も」 萎えていた目に、力が戻る。拭ったばかりの頬に、また涙が伝う。 だがそれは、確かに温かい。 どちらともなく、恭介と雪は唇を重ねた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |