ありすのうた(非エロ)
シチュエーション


「はい、頭からもう一度」
「う〜…」

アリスはエドガーの指示にブスッとむくれ、ピアノの楽譜立てに開かれた教本の五線譜を睨みつけた。
どうしても左手での和音の移動が上手くいかない。
美しく磨かれたグランドピアノの前の椅子にアリスはクマのぬいぐるみと並んでお人形の様にちょこんと座っていた。
脇に立った家庭教師のエドガーがそれを静かに指導している。その鉄面皮の眼鏡から注ぐ視線は、見守るというより監視という言葉が合っているほどに冷徹だ。
屋敷の角に作られたこの部屋は庭園に面した壁が大きな硝子窓でできており、カーテンは開け放され秋の迫る穏やかな陽気が明るく降り注いでいた。
鬼教官の無言の催促に負け、アリスは仕方なく目線を鍵盤に落とす。

(ええと、“ド”は黒二つ並びの端っこで、“ミ”はその隣の隣で…)

最初の音に手を構える段階も一苦労だ。鍵盤の白と黒を目で数えながらたどたどしい手つきで指を鍵盤にピトピト当ててゆく。
アリスの纏う白いブラウスと紺のジャンパースカートは地味な色合いで落ち着いているがとても上品な仕立てで、一見して彼女が上流階級のお嬢様だと窺い知れた。

金髪のショートカットには青いサテンで編んだカチューシャを着けており、隣のショコラ(クマのぬいぐるみだ)の首にもお揃いの青のリボンを飾っているあたり、ちびっこながらも女の子らしいオシャレに気を使っているらしい。
しかし、いくら見た目を飾り立てていても令嬢としてのたしなみに関しては酷い有り様だ。
この屋敷のお嬢様として甘やかされ、やりたい放題でお稽古をサボりまくったツケが回っておりピアノもバイオリンもまるで下手っぴなのだ。
アリスはむつかしい顔で両手の指の位置を確認するとよし、と気合いを入れ右手で主旋律、左手で和音の伴奏を弾き出す。

―ド・ミ・ソ、ジャーン
―レ・ファ・ラ、ジャーン
―ミ・ソ・シ、ドドビジャローン

「はい、そこまで」

不響和音に神経質そうに眼鏡を押さえ、エドガーが8度目のやり直しを命じた。
とうとうアリスはプイッと横を向いてしまう。「こんなの弾けないもん!もうやだっ」と頬を膨らませ口をブーと尖らせた。

「貴方が今まで散々お稽古をさぼっていたから上手く弾けないのです」
「違うもん。アリスの手はまだ小さいから鍵盤に届かないんだもん」
「練習さえしていればまともな人間は指が開くようになります」

エドガーは白い手袋はめた右手でそっぽを向いたままのアリスの頭をむんずと掴み、力ずくで前を向かせた。ゴキッ

「うぎゅっ!」

アリスの悲鳴を無視し、そのまま手をすっと鍵盤へと降ろす。エドガーは鍵盤を軽やかに叩いてみせた。ポロロンと澄んだ旋律が響く。

「ズルイ〜!先生は大人で手が大きいから簡単に弾けるのー!」

まとも以下な人間のアリスは痛む頭を押さえ憤慨する。指の長いエドガーにそんなことを言われても納得など出来ない。

「アリスだって片手だけなら上手に弾けるもん」

アリスはショコラを左手でワシッと抱きかかえると、右手でメロディを弾いてゆく。
利き手のみで演奏すればつっかかって止まることもなくごく簡単だ。

「片手だけの演奏を先に覚えてしまうと両手で弾く感覚が掴みにくくなります。やめなさい」
「やだもん」

アリスの左手はクマのぬいぐるみを抱いて離さない。テコでも動かないという意思表示だ。以前の一件からショコラが奪われれることを警戒し、アリスはショコラを抱く手に力を込めた。
冷たい視線でギロリとアリスを見下ろすエドガーが静かに背後に回り、気付かずに演奏するアリスの頭をげんこつで挟みかけた瞬間、アリスはきっぱりと言った。

「それにこの練習曲好きじゃないの。なんか音が隣同士に上がったり下がったりするだけでつまんない」

そのつまらない曲すら弾けない分際でなかなか分かった風なことを言うではないか。
確かに単調で起伏もない芸の無い曲であるが、初歩の指使いを習うために書かれた物だから仕方がない。
だが、アリスがただ面倒くさがって嫌がるのではなく、こういった文句を言うのは珍しかった。
エドガーはほう、と挑戦的に片眉を釣り上げ両手を下ろす。

「ではどの様な曲がお好みですか?」

隣に戻ったエドガーの問いにアリスは待ってましたと言わんばかりに笑顔を向けた。

「あのねっ“ショコラは茶色”って曲!アリスが作ったんだよ!聞く?」

まさかの自作である。
曲名からして既に脱力する様な幼稚さが滲み出ているのだが、エドガーは首を縦に降った。
えっへん。アリスは背中をピンと伸ばしピアノに向き直る。ショコラを抱いたまま右手一本のみを迷わずに配置する。

ポロン

流れる様に指が鍵盤の上を動いた。
跳ねる様につま弾き、緩やかに連符を撫で、キラキラと明るいメロディが広がる。
アリスは楽しそうに鼻歌を合わせた。るーるるーんと愛らしい幼い声がピアノに乗って部屋に満ちる。

アリスは調子が乗ってきた様で、歌詞を歌い出す。

―ショコラは〜♪ 真ん丸〜おめめにぃ〜♪
 茶色い〜 フワフワした毛の〜
 く〜ま〜さぁ〜ん
 ららら〜る〜ん♪

タイトルに偽り無い極めて写実的な歌詞である。
いや、歌詞はどうでもいい。
エドガーは無表情を微かに崩していた。
驚いた様に瞳が開かれアリスの横顔を見つめている。

それは、透明感溢れるハイトーンボイスだった。
繊細な硝子細工の様に澄んでいて、オルゴールの音の様にきらめきを持つ。
子供特有の無理な張り上げや妙な作り声でも無い。素直な発声で、どこまでも伸びやかだ。
歌声は表情豊かに胸へ吸い込まれた。

るーんの部分で一旦歌は途切れ、ピアノは出だしのメロディに戻った。
どうやらこの歌には二番もあるらしく、アリスはすぅと息を吸い新たな歌詞を歌い出した。

―先生は〜♪ アリスの〜顔にぃ〜♪
 白い〜 ベタベタしたのを〜
 か〜け〜たぁあ〜

「はい、止めなさい」

スパーン!とエドガーが強く両手を叩く音で曲は途切れた。

「えー」

せっかく心地よく歌っていたのにとアリスは非難の声を上げる。
エドガーは腰の後ろで手を組み、アリスに背を向けた。

外の風景を眺めたまま、エドガーは静かな声で訊いた。

「今の先生は、という歌詞は?」

アリスは問われるままに「二番の歌詞」と簡潔に答えた。

「二番は、今後一切歌うことを禁じます。屋敷の内外を関わらず二度と口にしてはなりません」
「えーっ!?」

なんてことだ。言語弾圧か。
一番と同じく二番の歌詞も写実的なノンフィクション作品である。
無論、小さいアリスに言葉狩りだなんだと難しい言葉が分かるはずもないが、不当な権力の行使を感じざるをえなかった。
アリスはキイッと逆上してわめく。

「先生がアリスに変な白いおしっこかけたの本当なのにぃ!先生が悪いのー!」

プンプンと腕に持ったショコラを振り回し、必死に教師サイドの非を訴える。

「そんなことより」エドガーは唐突に振り向いた。そんなこと、の一言で流す気である。
「アリス様には何一つ取り柄が無いと思っていましたが、声楽の才能がおありとは驚きました」

褒める気があるとは思えない言葉でだが、エドガーはアリスの歌を評価した。厳しい彼にアリスが高い評価を得るなど初めてだ。
だが当のアリスはそれどころじゃない。
自分の発言は無視されるわ取り柄が無いだわ、悔しくて悔しくてたまらない。

怒りで耳たぶまで赤く茹だつアリスを横に、エドガーは上の空でせわしなく考えを巡らせていた。
顎に指を当て、ふむ、と独り言の様に言う。

「もう一度一番を歌ってみて下さい。ああ、ピアノの下手な演奏は結構です。アカペラで。できれば歌詞も無くしドレミの音階で歌って下さい。稚拙で気が削がれます」

ジワリとアリスの両目に涙が溢れた。
前から大嫌いな先生だが、やっぱり大っっ嫌いである。
歌はお勉強とはかけ離れたアリスの自由な楽しみなのに、何で教師にあれこれいじわるされなければいけないのか。
ブチンッとアリスの感情が決壊する。

「うっ…えっぇ…ぁああああ〜っ!やだもん!バカ!!歌わないもん!」

怒涛の様な泣き声が鼓膜を引き裂いた。
エドガーはやかましさに顔を背けながら、この大音量の秘密が明らかになったなと心中で呟く。
歌で鍛えられていたのか。いや、“泣き”で歌声が鍛えられたのか定かではないが。
しかし、いくらアリスに対し無神経無表情のエドガーでも、涙をいっぱいに流してえんえん泣くアリスの姿に今回ばかりは責任を感じた。
今回アリスに落ち度は無かった。
奇跡的に発見したアリスの唯一無二の才能に、少々自分が暴走してしまったようだ。

普段はアリスの鼻を摘んだり、ほっぺをむぎゅ〜と両側から押し潰したりと力技で泣き止ませてきたのだが、今使うにはふさわしくない気がする。
エドガーは床に片膝をつき、椅子の上で泣くアリスと視線を合わせてみた。

「アリス様」

できる限りそっと声をかける。

「うぅぁあぁあっ、あぁああっうぇえぇああぁあ」

アリスはぎゅうとショコラを抱き締め、今も新しい涙をポロポロと落とし全身全霊で泣きじゃくっている。
どうしたものかと、エドガーは泣くアリスに顔を寄せた。息が触れ合う程に近く。

「アリス様」

もう一度、そっと。
ようやく気付いたのか、アリスはしゃくり上げつつもうるむ目を開けエドガーを見た。
グスッグスッとまだ体が震えている。目元も鼻の頭も真っ赤だ。
可哀想、なんて似合わない感想がエドガーの胸をよぎった。
エドガーは問う。

「いつも、アリス様は泣かれた時旦那様にどう慰めていただいているのですか?」

うぐうぐ、アリスはしゃっくりにつっかかりながらも答えた。

「パ、パはぁっ、だっこ…し、てくれるっ…だも、んっ…」
「なるほど」

アリスの小さな背中と膝の下をエドガーの腕が支える。

ふわり

アリスは浮遊感に包まれた。

エドガーはひょいとアリスを抱き上げ、そのままアリスの座っていた椅子に腰掛けた。
そして、膝の上にアリスをポフンと座らせる。
アリスは驚いて涙も引っ込んだのか、濡れた瞳をぱちくりと瞬かせた。

「…ご機嫌は直られましたか?」

エドガーの声が頭のすぐ上から降ってくる。アリスの背中はぴったりとエドガーの胴体に付けられているので、なんだか体にエドガーの声が反響する様な不思議な感覚だ。

…ぐすん……すん…

すすり泣きの声は小さくなっていく。
エドガーの腿の上には、桃の様なアリスのお尻の柔らかな感触がある。
アリスはアリスでゴツゴツぐらぐらと収まりの悪い足のクッションが気に入らないのか、お尻のちゃんと安定するポイントを探しモゾモゾお尻をズラしている。

モゾモゾ…モゾ…

ようやくぴったりとフィットする場所を見つけ、アリスは動きを止めた。
大部落ち着いた様で、頭を大きく反らせエドガーを仰ぎ見た。

「これだっこじゃないもん…ただの椅子だもん」

まだ拗ねているのか、ブゥと膨れている。

「ちゃんと手でもだっこしなきゃダメだもん」

エドガーは大人しく従い、アリスを後ろから抱き締めた。
アリスの抱いているショコラごとすっぽりと包む。

ベルトだー。
アリスはエドガーの腕ベルトにニッコリご満悦で、腕を掴んだり引っ張ったりイタズラする。

「今日だけですよ」
「やだぁ!」
「もう未来永劫しません。ベタベタされて不愉快です」
「…うー!バカ!先生なんかどっか行っちゃえ!」

人前でアリスに二番の歌詞を歌われたら、エドガーの人生は本当にどっか行っちゃいそうである。


エドガーに後ろから手を重ねられ、アリスはご機嫌で両手弾きの練習を再開した。






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