シチュエーション
![]() 身を伏せたままの篠村が、まるで懺悔する罪人に見えたのだ。 ユリカの胸を憐れみがかすめ、そっとなだめる様に篠村の乱れた髪を撫でてやる。 「悪いのは篠村じゃないから気にしないで」 そう呼びかけても、篠村はユリカの膝にすがりつき顔を上げない。 彼は震えていた。 いつもあれ程に静かな男を、自らの幼い独占欲がここまで追い詰めたのか。 今更ながらにユリカは己のを馬鹿げた行動を呪った。 「私の悪ふざけだし、黙ってればいい。誰にもバレない」 そう言い聞かせるように呟き、ユリカは自らの頬にかかる黒髪を耳にかけた。 長い髪の流れ落ちる肩や胸は、手形や鬱血の跡がまだらに散り生々しく赤い。 ユリカの声はかすれている。初めての行為の疲労のせいもあるが、怖かったのだ。 バレたらどうなるのか。 今は、それが怖い。 この家の一人娘の自分とその執事。二人の体が交ざった事が知れたらどうなってしまうのか。 篠村もそれを恐れているのかとユリカは思う。 ユリカは彼に自分を抱かせたのだ。 ユリカから一方的に誘い、篠村の理性を引き剥がすまで執拗になじって、彼の欲を手に入れた。 彼は私を怨むだろうか、嫌うだろうか。 それ以前に、微かにでも女として愛してくれたことはあったのだろうか。 顔を上げさせて問いたいが、これ以上彼を傷つけてまで何を求めるのだろう。 ユリカはシーツにくるまれたまま、無力に篠村を見下ろしていた。 翌朝。 ユリカを待っていたのは最悪の結末だった。 「篠村が、辞めた?」 朝食の時間、母の報告を聞いたユリカは呆然とその言葉をくり返した。 母は寂しそうに微笑んで頷く。 ユリカの脳が氷柱を打ち込まれたように痺れた。 「私も驚いたわ。そんな、急にね…でも、十何年も勤めてくれた篠村の初めての我が侭なのよ」 ユリカは黙ったままそれを聴いていた。 どこか実感が無く、言葉は心の表面をするすると滑り落ちるだけだ。 「我が侭、最初で最後になってしまったけれど…。だから引き留められなくて」 ――私のせいだ。 どうしたらいい。 ユリカは真っ白に血の引いた顔で椅子から立ち上がった。 途端に鋭い痛みが秘所を突く。昨夜失った物が、痛む。 ただならぬユリカの様子に母も腰を浮かせるが、「大丈夫だから」とユリカはうわ言のように告げる。 心配そうな母の顔を振りきりユリカは部屋を飛び出た。 必死で篠村の部屋へと駆けるのに、貧血で揺れる世界は回り、夢の中を歩むようにもどかしい。 喉元を覆う襟首の、長袖のブラウスで隠したその身はいたるところに昨夜の痕がある。 全身が重く、痛く、ひどくだるい。 手首に真っ赤に残った篠村の手の平の痕も、噛みつかれたような胸の赤も、手荒なまでに抱かれた証。 篠村がそうなるまで、無理矢理に誘った愚かな自分の証だ。 「篠村っ!」 部屋の扉を突き飛ばすように開けて転がりこめば、まだ、篠村はそこに居てくれた。 安堵に思わずその場で崩れ落ちそうになる。 篠村は驚いたように瞳を開くが、ユリカの黒髪の乱れた様と、激しく上下する肩に彼女の強い焦燥を知った。 そして、彼は穏やかに微笑むと、ユリカに深く礼をした。 再び見る、許しを乞うようなその姿にユリカの全身が震えた。 片付けられた篠村の部屋。空になった棚。篠村は何も残さないつもりなのか、私物は郵送用に全て包み終えられている。 乱暴に開けられた扉は蝶番を軋ませながら緩やかに閉じてゆく。 扉が閉まる音に弾かれ、ユリカは怒鳴った。 「どうしてよ!」 篠村は顔を上げ、激昂するユリカを穏やかに見つめる。 「私が悪いのにっ。そんなに私が嫌なら文句の一つも言えばいいじゃない!」 わめきながら、ユリカは涙を滲ませる。 違う。どうして彼を責めているのだろう。こんな事をするはずじゃないのに。 あまりに醜い自分が情けなく、涙がボロボロと溢れ落ちた。 篠村は静かにユリカに歩み寄ると清潔なハンカチを差し出す。 「申し訳ありません」 もうやめて。 ユリカは悲痛な声で叫んだ。 「謝らないでよ!」 がらんとした部屋の空気を裂いて、それは反響する。 勝手に好きになって、執着して、どうしても篠村の思いが欲しくて酷い事をした自分。 謝られれば、その度に矮小な自分を目前に叩き付けられるようだった。 篠村は決して受け取られないハンカチをそっと戻すと、いいえと首を振った。 「悪いのは私なのですよ、お嬢様」 いつもの、いつも以上の柔らかな篠村の声。 ユリカは涙に濡れたままでキッと篠村を睨み上げた。 「どうして?」 篠村の表情は憎らしいほどに穏やかだ。 自らを睨み付ける強い視線すらも愛しむように、篠村はふっと瞳を細める。 白状をするように、ゆっくりと篠村は言った。 「私は、ずっと…お嬢様を束縛していました」 何を、とユリカは声を上げそうになった。散々束縛してきたのはこちらだ。 ユリカが幼い頃から傍らの篠村に無理を言っては困らせて、昨夜だって―― 篠村は一歩ユリカに踏み出した。 そして、深く跪く。 「お嬢様、お慕いしております。…昔から、変わらずにずっと…」 ユリカは目を張って眼下の篠村を見る。 驚きよりも、信じられない気持ちが強い。 かすれる声で否定した。 「嘘…。昨日私があんなことしたから…篠村は私にそう言わされてるだけでしょ?」 「いいえ。愛しい方だったから、だから私はお嬢様を汚してしまった」 篠村の笑みは悲しそうな自嘲を帯びた。 「汚してしまうことを恐れていたのに、もっと前にお嬢様から離れるべきだったのに私には出来なかった。 …無意識の内に、貴方が私に依存するよう仕向けていました」 叱り、愛し、守り。 常に親以上に側にある大きな存在に、幼いユリカが傾倒しない筈などないのに。 「貴方を独占したかったのですよ。私だけを見ていて欲しかった」 篠村はユリカを仰ぎ見る。 ユリカは泣き出しそうな顔で篠村を見下ろしている。 「なら」ユリカの声は震えている。 「なら、どうして辞めてしまうの?…私を好きなら…側にいてよ」 それなのに、篠村は微笑んだまま首を横に答える。 「私は、私の欲望で貴方に傷を付けてしまいました。これ以上お嬢様の未来に干渉することは、許されません」 「…関係ない」 「私はもう大人ですし、執事です」 「そんなの知ってる。私は…私は篠村がいい」 「いいえ、ユリカ様はもっと良い方と幸せになれますよ。執事と添い遂げるよりもずっと幸せに」 篠村は何を言おうとしているのだろう。 ユリカはそれを聞きたくなくて焦っているのに、喉が震え言葉が出てこない。 「私はユリカ様の物です。ですが、ユリカ様は私の物ではありません。ユリカ様には…私では駄目なのです」 篠村は寂しそうに笑っていた。 大の男のはずなのにあまりにも儚げな笑顔だった。 「将来ユリカ様にふさわしい方が現れます。きっと、すぐに」 ユリカには未来がある。 これから誰かと恋に落ち、成長をしていくのだろう。 まだ小さな世界しか知らないユリカに、自分という人間が蓋をして閉じ込めることはできない。 屋敷の外に出てたくさんのものに触れて、そして一番大切なものを見つけてほしい。 それは、執事という自分に固執した、歪んだ目では決して見つからないだろう。 誰よりもユリカの幸せを祈っているのは篠村なのだ。 ユリカはただ黙って涙を落とした。何も答えられなかった。 昨日篠村と繋がっていた体が、ひどく痛かった。 小さな手荷物だけを提げ屋敷を後にする篠村を、ユリカは見送っていた。 「ねえ」 ポツリと、何かを思い付いたようにユリカがその背中に声をかける。 篠村が振り向いた先には、目元を赤く染めたユリカがうつ向いている。 「連絡はしてちょうだい」 篠村はユリカへと向き直り、頷く。 「はい」 ユリカは顔を上げると、ふいに笑った。 「まだ、判らないわよ。未来は」 篠村は虚をつかれたように息を飲んだ。 「大人になった私がやっぱり篠村を好きになる未来と、篠村がまだ、私を好きでいてくれるかもしれない未来」 篠村の愛する人は、晴れやかに笑った。 だから、篠村は思った。 いつか二人の歩む道が交わるのなら、それは罪に怯えることのない未来なのだと。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |