シチュエーション
父が亡くなってから、全て変わってしまった。 それはあまりにも唐突で、気が付いたらわたしは、多くの家具やらの財産と同様に、誰かの下へと払い下げられていた。 わたしに父以外の身寄りはなく、生まれてきた時に母を殺してしまったわたしを、父は憎んでいた。 主家筋にあたる母をを好いた父は、色々なことをして成り上がり、そしてその金を母を手に入れるためだけにばらまいた。 父がようやく手に入れた体の弱い母を、わたしは十ヶ月も孕ませたあげく、あっさりと殺してしまった。 そんなわたしに父から遺されたものは、身の回りの品々と両親の結婚写真1枚きりだった。 すっかり物がなくなってしまった部屋は、がらんとして広く、もうわたしの住んでいた場所のようではなかった。 必要最低限の荷物を詰めた小さな鞄を持って、慣れ親しんできた部屋を出た。 車に乗せられ着いたところには、小さな庭の付いた古びた平屋建てが一つ。 去っていく黒塗りの車は、もう2度と目にすることがないのかもしれない。 玄関の前には、木綿の白い開襟シャツを着た男が一人、立っていた。 「これからは私が、夕子様のお世話をさせて頂きます。村上とお呼び下さい」 初めて見る男だ。 年の頃は20半ばぐらいだろうか、質素だが小綺麗な服を身につけ、真面目そうな端正な顔をして、物腰はあくまでも丁寧だ。 けれどその目には、一瞬憎悪とも嫌悪とも付かない色が表れたような気がした。 私はこの男と暮らすのだろうか。得体も知れない、敵意を抱いているかもしれないこの男と。 けれど、どうしようもないことだ。わたしには他に行くところがない。 「わかりました村上さん。よろしくお願いします」 「村上で結構です。どうぞこちらへ」 下げた頭を持ち上げ、促されて家の中へと入る。 古びているが、柱などの造りはしっかりしているようだ。張り替えたばかりらしい畳の匂いが、鼻につく。 決して広くはない。居間が一つと、和室が二つ。今まで暮らしてきた家の広さに比べると、十分の一にも満たない。 あてがわれた和室の一つには、小さな本棚と文机だけが置いてある。 「みすぼらしい環境で戸惑われるかも知れませんが、どうかご容赦ください」 「いいえ、大丈夫です。ありがとう」 何か用事があるのか、男はわたしを残して部屋を出た。 文机の上に、鞄から写真立てを取りだして置いた。 固い顔をした、父と母が並んでいる。 窓からは、緑の葉をそよがせている楓が見える。 花も咲かせぬ木だ。 それだけだった。 それからの生活は、静かなものだった。 彼は無駄なことを喋らなかったし、わたしも殊更話しかけはしなかった。 彼はわたしが学校へ行くあとに仕事に出かけ、私が帰ったあとに帰ってきて、黙って食事を作ってくれる。 その繰り返しが、淡々と続く。 学校に関するあれこれ細々としたことや、ほんの少しの力仕事など、わたしはただ必要なことを頼み、彼がそれに応じる。 頼む前に、すでに用意していることも多い。 あやまって湯呑みを割ってしまった時も、彼は黙って欠片の一つ一つを拾い、何事もなかったかのように新しいものを差し出した。 もともと独り暮らしだったらしい家に、わたしが一人増えても、ほとんど何も変わらないようだった。 わたしの頼みを、黙って当然のように聞く人と暮らすことに、わたしはすぐに慣れた。 私をただの同居人としてではなく、まるで仕えるべき主として、控えめながらもその線を決して崩さない彼が少し不思議なだけだった。 生活が質素になったことと周りの人が減っただけで、わたしの生活も今までと何も変わらないと思っていた。 身の回りのものは、たびたび家に来る五十がらみのつねさんという女性と一緒に買いに行く。 彼女は、彼の遠縁の親戚にあたり、お手伝いさんのようなことを生業としていて、頼まれてこの家にもたびたびやってくるのだと話した。 彼女はとてもお喋りで、彼が父親の代からわたしの父に従っていたこと、わたしの住んでいた家は売りに出されたこと、父に仕えていた者達は皆それなりのところに職を斡旋してもらったことなども、聞かないうちから話してくれた。 けれどつねさんは、一番知りたかったわたしがこの人に引き取られることになった経緯については、何も話さなかった。 わたしも何も聞かなかった。 ふとした隙に、彼がわたしを見ていることがある。 侮蔑のような、嫌悪のような、そんな目でわたしを見ていることがある。 そしてわたしはどうしてこの家で自分が暮らしているのか、あまつさえ彼が私に従うのか、たまに考えることがある。 わたしには継ぐべき資産ももうない。容貌が特に美しいわけでもない。 父は一代で成り上がり、高貴な血筋であるわけでもない。 ましてわたしが頼んだわけでもない。 彼がわたしに従うべき理由など、何もない。 けれど彼は、何も強いることなく、静かにわたしに仕えている。 いつでも静かに側にいて、絶え間なくわたしに気を配り、彼が作った境界線越しに憎悪で染まったような視線で時たま見つめる。 そして、それを決して越えようとはしない。 だから彼はわたしが『村上さん』と呼ぶたびに、『村上で結構です』と断りを入れた。 けれど、わたしは彼を呼び捨てにする気はない。 そのうちわたしは、彼の名前を呼ばなくなった。 相手しかいない空間で、わざわざ名前を呼ぶ必要はない。 彼を『村上』と呼ばないことが、あの視線で見つめながらわたしに従い続ける彼へのたったひとつの反抗だった。 あれは雨のひどい日だったろうか。 夕刻から黒い雲が雷をかき鳴らしながら、空を覆っていた。 薄い屋根に跳ね返る雨の音はやかましく、近くに落ちる雷の音とともに小さな家が揺れる。 わたしは雨も雷も苦手だった。 幼い頃に、夜陰と大雨に乗じての強盗騒ぎがあったのだ。 侵入者に脅え、竦み上がる家の気配を今でもよく覚えている。 この小さな部屋ではどこにも逃げようが無く、わたしはただ窓から背を向け、部屋の真ん中でうずくまっていた。 絶え間なく続く雨音と、雷の閃光に喉からこらえきれない悲鳴が漏れる。 見かねたのだろうか、普段は決して部屋には入ってこない彼が、障子を開けた。 かがみ込んだ彼の目線が、わたしを捉えた。 「ひっ…!」 「大丈夫ですか、夕子様」 雨の音と、細かな振動と、なれない人の気配がたまらなくおそろしかった。 喉がとても重い。 「お願いだけら、わたしの傍にいないで頂戴。家から出ていって。一人にして…」 「かしこまりました。ごゆっくりお休み下さい」 静かに彼が障子を閉める。わたしはまた、部屋でひとりうずくまる。 縮めた手足がしびれ、喉がからからに渇ききったころ、雨はすでに収まっていた。 どのくらい経ったのだろうか。 部屋から出ても、家の中に人の気配はなかった。 玄関の戸を開ければ、軒先に彼が立っていた。 吹き込む雨風で彼の肩は濡れて重い。髪の先までしっとり濡れて、ぽたぽたと水滴が垂れていた。 彼は何も言わない。わたしも何も言えない。 ふと見た時計の針を見れば、一刻半はいたことになる。 取ってきた手拭いを彼の肩に掛ける。ほんの少しだけ彼に触れた。 再び彼の視線がわたしを捉える。 ぞっとするほど冷たかった。 わたしの言葉は、どんなに傲慢に彼の耳には聞こえただろう。 そんな恐怖によるうわごとさえ、忠実に守る必要がわたしには分からない。 わたしは彼が怖かった。 だからその手を握った。両手で縋るように包んだ。 必要もないのに人に触れたのは、はじめてだった。 冷え切った手のひらは、一瞬でわたしの両手の熱を奪う。彼へと吸い込まれた熱は、あっという間に消えていく。 わたしたちの手は冷たい。 その手を急に引かれた。 引き倒され、畳に打ち付けてしまった頭が鈍く痛み、けれどそれにひたる間もなく、意志持つ力に体を押さえつけられた。 ずっとうずくまっていたわたしの体は、力が入らない。 見上げた彼の表情は、はじめて憎しみを剥き出しにしていた。 憎悪に染まった視線はわたしを射抜く。 わたしはどこまでも弱者だった。 何もない厄介者の娘が陵辱されるなんて、当たり前の話だった。 どうしてずっと以前からこういうことにならなかったのか、むしろ不思議なくらいだ。 わたしはどこかほっとしたような、泣きたいような気持ちで彼の顔を見上げた。 陰になって彼の表情が見えない。 頬に当たる熱っぽい吐息が、湿り気を持って肌を伝わり、その感触にわたしはおののいた。 声と雫が落ちてくる。 「やめろとおっしゃれば、すぐにやめます」 それは嘘だ。 わたしは辱められているのだ。 この期に及んでそんな言葉が、何の役に立つのだろう。 金も力も何もないわたしが、哀願の言葉を発したところで、止めさせることなどできるわけがない。 「もう、やめて頂戴…。離れて…」 それでも怖くて、恐ろしくて、どうしても弱々しい言葉が漏れた。 体がふっと軽くなる。 上からのいた彼は、だらしなくはみ出た裾をなおしながら、何事もなかったように台所に向かう。 わたしは投げ出された手足のまま、ぼんやり天井の木目を眺めた。 膝下まで覆っていたスカートは、よじれて太股のあたりでくしゃくしゃになっている。 のろのろとした手つきで、ブラウスのボタンを締め直す。 少し湿った衣服は、やけに体にまとわりついた。 なぜ彼は、自分の言うことを聞いたのだろう。 いつもの問いが頭に浮かぶ。 じんわりと滲んでいく天井の木目を見ながら、まとまらない考えが流れていく。 「お茶が入りました」 いつもと変わらない声がかかる。奥の間でさっさと着替えたらしく、彼の衣服はすでに乾いている。 居間の明かりは、何も知らないように柔らかく暖かそうに見えた。 「わかりました。今行きます」 温かいものを飲みながら、ゆっくり考えようと灯りのついた居間へ向かう。 その途中で、靴下が片方脱げいてたことに気がついた。 彼と出かけたことがある。 和裁の授業で、男物の浴衣を作ることになった時だ。 同級生は、父親や兄弟に作ってやるのだとはしゃいでいた。 身近に彼以外の男の人がいるはずもなく、わたしは彼の浴衣を作ることにした。 電車に乗って、彼とともに生地を買いに行った。 店は広い。 どれがよいかと聞けば、どれでもよいと答えられた。 並べられたたくさんの反物から適当に見繕い、彼と布地をあわせる。 藍色はきっと貴方に似合うでしょう。 そう言って、控えめだが上品に仕上げられた藍の布地を彼にあてた。 気まずかったのか、それとも触れられたのが不快だったのか。 後ろを向いた彼の耳だけが鮮やかに朱に染まり、わたしはそれを不思議なような、可笑しいような気持ちで眺めていた。 一ヶ月後にできた藍色の浴衣は、我ながらうまくできていた。 そして浴衣は一度も袖を通されることなく、箪笥のどこかにしまい込まれた。 できあがった浴衣を渡した時の彼の苦い目を、わたしは藍色とともによく思い出す。 わたしがこの家に来て1年になろうとしている。 父と母の結婚写真は日に晒されて、少し色褪せた。楓は相変わらず、花もつけずに青々としている。 どうして父は狂気のように奔走して、母を手に入れようとしたのだろう。父の主であった母は何を思っていたのだろう。 わたしのせいで母を亡くした父は何を思っただろう。 わたしには、分かるようで分からない。 写真で微笑む両親の面影は遠い。 わたしは裏の林へと向かった。 そこは、彼の父親が首を吊ったところだった。 父の右腕だったその男は死に、父はその男の妻と息子の生活を援助した。 ちょうどそのころから、父の羽振りは良くなっていった。 その男の息子は、父の会社に勤めるようになった。 まもなく男の妻は肺炎をこじらせて亡くなった。 そして父も死んだ。 彼はもう別のところへと勤め、わたしと彼だけが今ここに残っている。 全ては、おつねさんやまわりの噂とわたしの推測だ。 遺留分、特別代理人、そんなささやきは聞こえるが、何も本当のことを語ってくれない。 そんな簡単な言葉で括れてしまったら、どんなにか私の気持ちは晴れやかだろう。 相変わらず彼は時たま、嫌悪と憎悪の籠もったような視線でわたしを見つめ、 けれど初めて会った時とそれは微妙に色を変えていた。 その視線を感じるわたしの気持ちも、すでにあの頃と同じものではない。 「どうしたのですか、夕子様。もうすぐ日が落ちます」 さくりと草を踏みしめる音がし、振り返れば、彼が立っていた。 まだ少し冷たい風が彼の髪を揺らし、私のスカートをふわりと持ち上げ、彼の父親が吊り下がっていただろう枝がそよぐ。 「村上さん」 「村上で結構です」 久しぶりに彼の名を呼ぶ。 こうして普通に呼べば、私と彼はごく当たり前の青年と少女でしかない。 「どうしてあなたは…」 問おうとしていた言葉が止まる。 振り返ったわたしを彼の腕が捉える。 首を絞めるように、きつくきつく抱き締められ、身じろぎさえできない。 あの雨の日と同じ匂いがした。 それでも、離してと言えば、彼はわたしを離すだろう。 それは彼が決めて、わたしに押しつけたルールだ。 彼が従う限り、わたしは主だ。 どこまで、何を、許して良いのか、全てわたしが決めなければならない。 何も分からぬまま責任を強制され、わたしはそれに縛られる。 「貴方に従います」という彼の言葉以外何者も、わたしは持っていはしないのに。 背を撫でる彼の手は熱く、ブラウス越しにも徐々にわたしへと浸み渡っていく。 だからわたしは彼に許した。 圧倒的な無力感の中で、ただわたしの意志によってのみ従う彼に流され、その背中に縋る。 ぼんやりと主であるしかないわたしに、彼に問うべき言葉はなかった。 夕日を背にして影になる彼に浮かぶ表情は、暗く見えない。 肌を這う感触に震えながら、彼の名を呼ぶ。 「村上さん…」 「村上で結構です」 「わたしはあなたを呼び捨てにはしません」 「…かしこまりました」 そして彼はわたしの言葉に従う。 血を垂れ流したかのように、空は赤い。 夜になったら、わたしは彼の名前を聞こうと思う。 きつく抱きしめる腕の中で、わたしは目を閉じた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |