とある執事とお嬢様(非エロ)
シチュエーション


慌しく進められたお嬢様の結婚の準備。
それもこれが最後だ。

「――では、こちらになります。受け取りにサインをお願い致します」

先程確かめたウェディングドレスを箱に詰めたものを示して店員が笑顔を向ける。

「藤田、サインしておいて」

爪を見ながら興味なさそうに指示するお嬢様。
サインをして、箱を持つとそれを見計らったお嬢様が立ち上がる。

「小早川様、この度は本当におめでとうございます。ありがとうございました!」

店員の声に送られて店を出る。

「……藤田。何か話したそうね?」
「お嬢様が直接店の方に出向かれなくても、よろしかったのではありませんか?」

しかも店までは歩きで、という条件付で、だ。
二日後に結婚を控えたお嬢様のスケジュールは多忙なんていうものじゃない。
それというのも今回の結婚は急な話だった。
ご両親が亡くなられ、次期小早川財閥の後継者として育てられたお嬢様。
現在は祖父であられる大旦那様が社長を務めている。
いや、「いる」というのはもう正しくはない。
社長を務めていた大旦那様は今は病の床に伏している。
大旦那様がいなくとも会社は回る。
だが、病のために気弱になってしまわれたのか、大旦那様はお嬢様にあるお願いをされた。
それが『結婚』である。

『自分の目の黒いうちに孫とは言わん。アリスの花嫁姿が見たい』

大旦那様はそう、仰ったと聞く。
そうして部屋にこもられた三日後にお嬢様は数ある見合い話のうちから一つを決めて、あと二日でお嫁に行ってしまわれるのだ。
いや、お嬢様が女性としての幸せを掴まれるのならばそれは執事としては喜ばしいことなのだが。

「だって、私が店に行ったら藤田がついてくるじゃない…」
「何か、仰いましたか?」

周囲に気を配りつつもこれまでの日々を思い返していたためにお嬢様の言葉を聞き逃すとは。

「紅葉がきれいねって言ったの」
「ええ、そうですね」

確かに。
お嬢様が店のすぐそばに車を寄せずに少し散歩をしたいと仰られた道はそれは見事に色付いていた。
そういえば、この道は『恋人通り』という少々下世話な名前がついており、手を繋いで歩くといつまでも幸せになれるという…
私の思考はそこで中断された。
大事なウェディングドレスの箱を持っていない方の手が暖かい。

……いや、やはり冷たい。

「お嬢様?」
「寒いのよ!片方だけでいいから温めなさい」

確かに、お嬢様の手は冷たく、震えている。

「手袋をお持ちだったと思いましたが」
「さっきの店に忘れてきたみたい」
「ではすぐに取りに戻って…」

踵を返しかけた私をお嬢様が引く。

「それまで私の手を冷たいままにしておくつもり?」

確かに、お嬢様を一人にするわけにはいかない。
手袋はあとで誰かを使いにやるとして。
荷物を持ったままコートのポケットから自分の手袋を出す。
男物ではあるがないよりはましだろう。
お嬢様の手は本当に冷たい。

「よろしければこれを」

手袋を見せるとお嬢様は非常に困惑したような表情をされた。

「藤田の?」
「お嫌かもしれませんが、これでは冷たすぎます」

じっと、手袋にお嬢様の視線が注がれる。

「ご結婚を控えられた、大事なお体なのですから」

付け加えると奪うように片方だけ手袋をつける。
そして私たちの間の手は繋がれたまま。

「藤田だって風邪引いたら困るんだから、半分だけ借りるわ」
「しかし…」

なお言い募ろうとする私を片手で制してお嬢様が言う。

「人肌がいいの。温めなさい、藤田。これは命令です」

命令。
私にとって絶対に遵守しなければならないものである。

「では、失礼します」

そう言ってお嬢様の手をぎゅっと包み込む。
冷たい風から守るように。
今日のことは忙しい日々の中での息抜きだったのかもしれない。
車が見えるまで、というより『恋人通り』を最後まで歩いて手を離すとお嬢様は笑った。

「私、ここを歩くのが夢だったの」

嬉しそうに微笑む。
それなら、今度旦那様になられる方と歩けばいいではないですか。
言葉にするにはお嬢様が幸せそうに笑うので、何も言えずに飲み込んだ。

これは政略結婚である。
お嬢様は会社や財閥にとって一番益のあるお相手を選び、見合いをして結婚を決められた。
相手に望む条件は一つ。
お嬢様はまだ未成年(ちなみに19歳だ)のため、旦那様となられる方と同居し、本格的な結婚生活を送るのは当分待って欲しいこと。
話し合いの結果、通われている学校を卒業するまでは学業に専念することで合意した…らしい。
らしい、というのはその場に自分は同席させてもらえなかったからだ。
結婚の話が決まってからはその関連はメイド頭が受け持っている。
同じ女性であるし、色々と思うこともあったのかもしれない。
それまではどんなことだろうと「藤田はいないの?」と私を呼んでから采配していたので少し寂しい気もする。
いや、寂しい、などと思うこと自体が不敬なのだ。
相手は――お嬢様なのだから。
車に乗り、屋敷につくまでの間お嬢様は手をもう一方の手で包み込むようにしていらした。
寒い、といってらしたことだしお風邪を召されたのかもしれない。
戻り次第、厨房に暖かいものを用意させて部屋の暖房の調節と、念のために医師を手配しよう。
運転手がドアを開け、お嬢様が車を降りられるのを手伝う。
お嬢様が屋敷の扉までの道で待っていた私に目を止めると両手を差し出す。

「ドレス、ここからは私が持っていくわ」
「あ、ああ。はい」

荷物を自分で持つ、と言われたことに驚いて反応が遅れる。
ウェディングドレスというものはやはり女性にとって特別なのだろうか。
ドレスを選ぶときには私も同行させて頂いた。
更衣室から出てくるたびに幾通りもの純白の衣装に飾られたお嬢様。

「どうかしら、似合う?」

と自信なさ気に俯いておられたが正直な所、どの衣装に身を包まれても目が眩むばかりで。
本当に旦那様になられる方はどれだけお幸せなのかと思った。

「よく……お似合いです」

馬鹿の一つ覚えのようにそう言って「もう、ちゃんと見てよ!」と少し拗ねたように笑う姿のお嬢様。
しかし最終的に候補を二つに絞られて「藤田は、どっちが好き?」と聞かれたのには困った。
何を言っても「もう十分に吟味は済んだのよ!どちらに決まってもいいのだからお前が決めなさい」と仰られ…
わからないなりに必死で考えた末に選んだものがこの箱には入っていた。
箱が手を離れると、お嬢様は少し表情を崩されて微笑まれた。

「お前の好きなドレスを選んでも、お前のところへお嫁に行ける訳じゃないのよね」

そしてそのまま私を手で制すと屋敷の中に入っていかれた。

車の中で考えていた手配や、こまごまとした用事を済ませて部屋に戻ると外はもう闇に包まれていた。
お嬢様には他の者がついている。
ご機嫌を損ねたのだろうか、今夜は藤田は呼ばないと仰っていると聞く。
医師が言うには体調に問題ないようだが油断はできない。
明後日にはご結婚を控えられているのだ。
あと数分で終わる今日が終わればもう、すぐだ。
ぼんやりとお嬢様のことを考えながら部屋を片付ける。
片付ける、と言ってももうあらかた荷物は運び出しているのですぐに終わってしまう。
ベッドに腰掛けると、思い出す。
初めてお会いしたのはお嬢様が四歳の頃。
その頃はまだ旦那様も奥様も健在で、絵に描いたような幸せな家庭だった。
何が気に入られたのか、お嬢様付きの執事になって十五年。
数いる執事の中から「私、それなら藤田がいいわ!」と仰られた声を今でも覚えている。
それまで居並ぶ執事の中でどれにしたらいいのかわからないというように悩んでいたお嬢様が
奥様になにか囁かれて、すぐに自分に決められたのだ。
あの時、奥様はなんと仰ったのか。
まだ経験の浅い自分が選ばれたのが不思議で、何度かお伺いしたことはあったが、軽くかわされてしまった。
ご多忙の中、外出した先で事故に遇われ、亡くなってしまった今ではもう伺うことは叶わない。
お屋敷にはお嬢様にはお爺様であられる大旦那様と、沢山の使用人がいたが、お嬢様をお慰めすることは叶わなかった。
そして、確かこんな夜だった。
お嬢様が「藤田」と私の名前を呼んで、この部屋にいらしたことが…

「…藤田?」

幻聴ではなかった。
部屋のドアを開けた隙間からあの時と同じように、お嬢様の小さな顔が覗いていた。

「返事がないからいないのかと思って…勝手に開けてごめんなさい」

使用人ごときに頭を下げる必要などないのに。
だがそんな所も私のお嬢様の育ちのよく、可愛らしい所である。
幼少の頃から、変わらず……いや、美しくなられた。

「いえ、こちらの方こそ申し訳ありません。少し考え事をしていたもので」

ベッドから立ち上がる。
主人が立っているのに使用人が座っていていい道理があるはずもない。

「どうかされましたか?呼んでくださればこちらから伺いますのに」

他の使用人達は何をしているんだ。
お嬢様に足を運ばせるなんて。

「本当に何もないのね」

私の質問には答えず、部屋を見回す。

「他の使用人は下がらせたわ。話があります」

ああ、お嬢様の耳にできるだけ入らぬようにと思っていたが、聞いてしまわれたんだな。

「ここを辞めるって本当なの?」
「はい」

返事を聞いて俯いてしまうお嬢様。
ああ、そんな表情をさせたくなかったのに。

「じゃあ、明日まで…っていうのも?」

絞り出すように、か細い声でお嬢様が聞く。

「はい。ですがお嬢様のスケジュール管理は半年先まで済んでおりますし学校の方も…」
「そんなことを聞いてるんじゃない!」

叫んだお嬢様の頬は濡れていた。

「どうして黙っていたの」
「私事ですから」

使用人の都合をお嬢様の耳に入れるまでもない。

「だから最近、新しい執事が入っていたのね」

確認、するように。
噛み締めるようにしてこちらを睨むお嬢様。

「はい。引継ぎは全て済んでおります。今からでも私がいなくても何の不自由もおかけしません」
「今からでも?」

今度は目を丸くして、こちらを見上げる。
本当に、よく表情の変わるお人だ。
そんな所も、いや、これはやめておこう。

「はい。しかしお嬢様、そろそろお部屋に戻られませんと…」

よくみればお嬢様は夜着の上からカーディガンを羽織っただけの軽装である。
こんな格好でいたら風邪を引いてしまう。
明後日は……いや、もう日付が変わったので明日には結婚されるお方のすることではない。

「では藤田。お前は即刻解雇よ」

少し考え込んでいた風のお嬢様はそんなことを口に出した。

「主人の意向を汲み取れない執事なんて要らないわ」
「はあ」

いきなりのことに間の抜けた返事を返す。
日付の変わった本日、お暇を頂くのが今すぐに変わっただけだ。

「では、今すぐに荷物をまとめてこちらを出ます」

そう言うとお嬢様は深く、深くため息を吐いた。

「お前は本当に馬鹿ね」

笑って、お嬢様はこちらに身を預けた。
いきなりのことに対応できずにいると胸の辺りで声がする。

「どうして、ドレスを選ぶのにお前を連れて行ったと思う?」

白い生地に包まれたお嬢様が思い浮かぶ。

「どうして、この寒い中手袋を失くしたなんて嘘を吐いたと思う?」

そう、ドレスを頼んだ店に連絡したが忘れ物はなく、手袋は今日お嬢様の着ていらしたコートから見つかった。

「どうして、あの道を二人で歩きたかったのだと思う?」

それは……

「どうして、結婚相手をこの家に入れずに三年も待たせるのだと思う?」

答えられない。
思いつく、答えはある。
だがそれをお嬢様の口から聞きたい。

「……どうして、ですか?」

自分でも笑ってしまうくらい、声が震えたのがわかった。
それがおかしかったのか、私に身を預けたまま顔を向けたお嬢様は笑顔だった。

「お前に綺麗だと言ってもらいたかったし、お前と手を繋ぎたかったし、お前と恋人同士のようなこともしてみたかったし」

まくし立てるようにそう言うと、そこで息を継ぐ。

「それに――お前と一緒にいたかったからよ」

少し、顔を赤くしたお嬢様は女の顔をしていた。

「もう一つ、教えてあげる」

そっと、お嬢様が私の背に腕を回す。

「お嫁に行くときには藤田を連れて行っていいといったから、私は結婚を決めたの」

じわりとお嬢様の熱が伝わってくる。

「そうしたら離れないでずっと一緒にいられると思って」

ずっと、見ないように、気付かないようにしていた。
もうお嬢様は、出会った頃の少女ではなく女性になっていたことに。
お嬢様から向けられる視線の意味に。
年齢や、立場を弁えろと言い聞かせなくてはならないほど、
結婚式を見届けられず、前日に屋敷を逃げ出すように職を辞するほど、自分がお嬢様に囚われていたことに。

そろそろと普段の自分からは考えられないくらいに鈍い動きでお嬢様の背に腕を回す。
壊れないように、そっと包み込むと息を整える。

「お嬢様、私からも聞いて頂きたいことがあります」
「なあに?」

少し身じろぎしてお嬢様が上を向く。

「アリス様、ずっと…………お慕いしておりました」

やっとのことで口に上らせる。

「初めて、名前で呼んでくれたわね」

蕩けるような笑顔を見せられて、今更ながらに心臓の音がうるさく聞こえる。
視線をそらすと弁解するようにまくし立てる。

「他所はどうかわかりませんがこちらのお屋敷では、使用人は主人の名を呼んではいけないことになっております」
「そうなの?!」

顔をそらしてもお嬢さまが覗き込もうとしてくる。
そうすると身長差で自然とお嬢様が上目遣いになるわけで。

「どうりで呼んでくれないはずだわ…」

腕の中でお嬢様は小声でそんなことを言う。
それが愛しくてたまらない。

「でも私は解雇された身ですので」

背に回されていたアリス様の手を取り、口付ける。

「これくらいはお許しください、アリス様」

手の甲へのキスは尊敬。

「ちょ、ちょっと藤田、お前……何を!!」

自分から抱きついてきた人とは思えないほどに体中を赤くしているアリス様。
どうにも言葉にならないようだ。
名前を呼ぶだけでこんなに喜んで頂けるなら、これから何度でも呼ぼう。

「な、なに笑っているのよ!」
「いえ、自分はアリス様のことが本当に好きだなあと思いまして」

これ以上赤くはならないと思っていた顔がますます赤くなる。

「ふじっ、お、まえ…」

すべるように後ろに下がったアリス様がこちらを指差して何事か話そうとするがわからない。
しかしこれ以上は無理そうだ。
自覚した上に、お嬢様と使用人という箍が外れた今、自分に迷うことはない。
だが――名前を呼んで愛を囁いただけでこれでは、先は長そうだ。
これからの長期戦を覚悟しながらアリス様が落ち着くのを待つ。

「そ、そういえば、もう一つ藤田が聞きたがっていたことを教えてあげるわ」

アリス様は深く、息を吐き出すとそう切り出した。

「私が執事を選ぶときにお母様が耳打ちしてくれたことよ」

平静を装ってはいるが多少上擦った声になる。
自分のためにここまで心を乱してくれているというのは微笑ましいというか、正直に愛しい。
手招きに応じてお嬢様の顔に耳を寄せる。

「ずっと、一緒にいてもいいと思える人を選びなさい、って」

何を言われたのか理解できなくて動きが止まる。
四歳の頃から、自分と一緒にいたいと思ってくださっていたわけで。
頬に血が上っていくのを感じながら幸せに浸っていると両頬を抑えられる。

「……え?」

声が出たがどうか。
唇に暖かい感触があって、すぐに離れた。
キス、と言うには稚拙あったそれをされたと理解したときにはアリス様はこちらに背を向けていた。

「私は負けず嫌いなの!」

前言を撤回するべきかも知れない。
たった今お嬢様のそれが触れていたであろう唇を手で押さえながらぼんやりと考えた。

それから、ですか?
二人がどうなったかなんてお話しするまでもありませんよ。
私は小早川のお屋敷に相変わらず勤めております。
まあ、雇い主は変わりましたが。

「藤田、藤田はいないの?!」
「すぐに参ります!」

では、主人が呼んでおりますので私はこれで。






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