島津組 番外辺/その名を呼ぶのは
シチュエーション


その男がやってきたのは、俺と彼女が出会った時と同じ、雨の夜だった。
冷たい雨が地面を叩く音がしていて、俺は雨の音を聞きながら彼女の隣で文字を書く練習をしていた。宿題の書き取りに彼女が丸をつけてくれたと同時に、屋敷の入り口のほうからカラカラとベルが聞こえてきた。
俺と彼女は顔を見合わせ、彼女は練習帳を早く片付けるように俺にいいつけ、髪を整えるために鏡の前に立った。俺はノートと鉛筆をまとめて、彼女を未練がましく見ながら隣の続き部屋に移った。

ここは、娼館だ。
外からではそれとはまったくわからないし、実情を知る人間もごく限られているが、彼女を含めて三人の女が三階建ての広い屋敷に暮らしている。一階ごとにひとりの女が春をひさいで生きているのだ。
三人の女の客になりたい男は、ここの主人、黄に連絡をする。客にしてもよいと黄とオーナーが判断すると、男は客として年間契約を結ばされる。
決してここのことを他人にはいわないことなどを誓わされて、やっとこの館に入ることが許されるのだという。
黄はいつか絵本で見た吸血鬼のような顔をした老人で、実際、昔ここから逃げ出そうとした女を絞め殺して血を飲んだ、と使用人たちに恐れられている。
本当かどうかは知らないが、もしもそれが事実でも俺は驚かない。文句をいう使用人たちを、持っている杖で何度も打ちつけるのを、俺は見たことがある。
もちろん俺自身も何度も何度も痛めつけられている。あの細く小さな体のどこからこんな力が出てくるのだ、と思うほどの力で、殴り、蹴り、杖でぶたれるのはもうすでに日常だ。
何かで苛立つと、必ず俺を呼び出して暴力を振るう。商品である女をぶつわけにはいかないから、その腹いせに俺をぶつのだ。
そのせいで俺の体には、無数の傷が残ってしまった。それでも俺はここを離れるつもりはない。なぜなら、俺の命は彼女のものだからだ。
あの雨の夜、川に飛び込んで死のうとしていた俺の命を、彼女は買ってくれた。
それ以来、俺は彼女のそばで生きている。いつか、彼女をこんなクソみたいなところから救うために。

俺は黒孩子だ。黒孩子とは、中国の産児制限、いわゆる一人っ子政策によって、生まれたものの出生届を出されない子供のことをいう。
出生届が出されないということは戸籍がない。あらゆる社会制度からは外されてしまう。生きていながら生きていない。存在を国から認められていない、闇の子供だ。
中国の農村に生まれた俺は、兄が体を壊して労働力としてあてにならなくなった、ということを理由に、黒孩子になることを承知の上で生まれた子供だった。
もちろん、そうしないと家族全員が暮らしていけないという実情があったから、という理由は俺にも十分わかっていた。
兄の病気療養にも金がかかり、年の離れた一番上の姉は、一人都会へ出て働き、仕送りをしてきてくれたが、それでもやはり金は足りなかった。
姉が何をして金を稼いでいるのか、その頃まだ子供だった俺にはわからなかった。たまに帰ってくる姉が甘い菓子をたくさん持ってきてくれることしか、俺は興味がなかったからだ。
ある日、俺は帰ってきていた姉に手を引かれ、列車に乗った。この時の俺は初めての列車、初めての旅、初めての都会を楽しむことに必死で、別れの時に両親が涙を流していた理由に気がつかなかった。
今にして思えば、両親は両親なりに、俺のことを愛してくれていたのだろう。
たとえ、金のために俺をマフィアに売ったとしても。たとえ、俺が人間ではなく臓器として売られていくのだと、うすうす気づいていたのだとしても。俺も別に怨みはしない。その金で曽祖父を始めとする家族が生き延びるためには、仕方がないのだ。
姉もまた、俺の手をつないでいる間中、ずっと泣いていた。俺に腹は減ってないか、疲れてないか、もっと遊ぼうか、とあらゆる贅沢をさせてくれた。そして最後に俺に菓子を買ってくれ、人目もはばからず俺を抱きしめ、声を上げて泣いた。

「姉さん、何故泣いているの?」

姉の気持ちも知らず、俺は尋ねた。姉は俺を見て、また泣いた。そして涙を拭くと、俺の手をまたつないだ。

「あんたは、姉さんが守ってあげる」

その時の姉の毅然とした表情は、今でも記憶に残っている。俺を路地裏のゴミ置き場へ隠して、姉はどこかへ立ち去った。決してここから出ないように、誰にも見つからないように、といいおいて。
ねずみの赤い目に怯え、ゴミにまみれながら、俺は姉の帰りを待った。どれだけ待っても帰ってこない姉を求めて街を歩くと、人だかりを見かけた。その中心に姉が横たわっているのを見て、俺は恐ろしくて駆け出した。
姉がさんざん慰み者にされた挙句、嬲り殺され、ビルの屋上から紙くずでも捨てるかのように落とされていたことを知るのは、もう少し先のことだ。

それからは、俺は残飯をむさぼり、軒下や橋の下で雨露をしのいで過ごした。最後に姉が買ってくれた菓子の包み紙をお守りのようにポケットに入れ、寂しくなったらそれを握って自分を勇気づけていた。
だがそれも限界だった。もう数日間も何も食べておらず、浮浪者や浮浪児から新参者として攻撃され、俺の生きる気力は無に等しくなっていた。
いつものように姉の菓子の包み紙をポケットの中で握っていると、年かさの浮浪児が俺の腕をねじりあげた。その拍子に菓子の包み紙が風に飛ばされていった。
ひらひらと風に舞い、あっけなくどこかへ消えてしまった包み紙の頼りなげな姿が、自分と重なり、俺の中の何かがぷつりと音をたてて切れた。
気がつくと、立ち上がることすら困難なほどに叩きのめされて、俺は路地裏に転がっていた。ねずみが俺の脇を駆け抜けていく。ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきて、俺の体力を更に奪っていく。
涙を流す力もなくし、俺はよろよろと立ち上がった。
血を吐き、壁を伝うようにして、地面を這うようにして、俺は歩いた。歩いているうちに、雨は激しさを増してきていた。痛めつけられた結果の発熱と、冷たい雨とで俺は震え、歯はがちがちと音を立てていた。
雨が俺を川に誘ったのか、彼女が俺を呼んだのか、俺にはわからない。ただわかるのは、この時、欄干に手をかけて、荒れる川に身を投げようとしていた俺を、彼女の腕が救ってくれたことだけだ。

「ひどい熱ね」

そっと俺に傘をさしかけてくれ、彼女はいった。

「ほっといてくれ、もう、俺は死ぬんだ」

彼女の手を振り払おうとしたが、その力すら俺からはもう失われていた。彼女は俺を欄干から引きおろした。

「ならば、死になさい。そして、私のために生き返って。あなたの新しい命、私が買うわ」

俺はぼんやりと彼女を見上げた。

「あなたの命は、私のものよ。これからは私のために生きなさい」

何故か、俺は彼女に頷いていた。それまでの俺の人生は、ずっと誰かに使われ、誰かのために生きてきた。それ以外の生き方など考えもつかなかった。
どうせ誰かのために生きるのなら、こんな綺麗な女の人のために生きるのがいい、子供ながらにそう思ったのかもしれない。
彼女は頷いた俺を抱きしめ、近くの車に乗っていた威厳のある風体の老人に、俺を養うことを求めた。老人が頷き、俺は車に乗せられた。彼女がずっと俺を抱きしめていてくれた。
暖かかった。
このぬくもりを失わないためなら、なんでもできると思った。
それが、今から五年前、十歳の時のことだった。

俺が隣の部屋に移り、宿題の続きをしていると、彼女が扉を開ける音がした。男の声と彼女の声が重なるようにして聞こえてきて、俺は耳を塞ぐ。
やがて彼女は男に抱かれ、あられもない声をあげる。男の要求に従って、彼女は男を悦ばせるために自分を殺す。満足するまで彼女を抱いた男が、シャワーを浴びて帰っていくと、彼女は俺がいる部屋の扉を叩く。

「英毅。薬をちょうだい」

乱れた髪を直そうとも、男がつけた情事の痕跡を隠そうともせず、彼女は俺に手を差し出す。ここに来て最初に彼女からもらったもの――新しい俺の名前を繰り返し呼ぶ。

「だめだよ、香梅。やっと、抜けたんじゃないか」

五年前、俺が彼女と出会った頃、彼女はひどいヤク中だった。娼婦として男に抱かれると、狂ったように薬を求めた。
男に抱かれるたび、昔愛した男を思い出して胸に穴があいたようになるのだと、ある時彼女はいった。その穴を埋めたくて、薬に頼ってきたのだと。
代わりに俺を抱けばいい、といったのは俺だった。子供だったからいえたことだ。俺がそういうと、彼女は目を見開いて、そして弱々しく笑った。それ以来、彼女は薬をやめた。
けれど俺を抱くことだけは、決してしなかった。それが俺は寂しかった。

「ああ、そうだったわね。ごめんなさい」

うつろな瞳の彼女の夜着の胸元を整えてやり、俺は手を引いて彼女をソファに座らせる。それから小さなキッチンでお茶をいれて、彼女に渡す。心を落ち着かせる漢方茶だ。おいしくない、といつものように彼女は文句をいいながら、お茶をすする。
その間に俺はベッドを整える。シーツや毛布を新しいものにとりかえ、風呂場と部屋を簡単に掃き清める。窓を開けて空気も入れ替えたいところだったが、雨脚が強くなっていたためにあきらめた。

「落ち着いた?」
「ええ、少しね。ありがとう。もう一杯くれるかしら」
「もちろん。すぐにいれてくるよ。何か果物も切ってくる」

俺がキッチンに下がった時、その男はやってきた。

その男は、今までにも何度か彼女を訪れていた。けれど必ず事前に黄に連絡があり、黄が俺を地下室へ閉じ込めてから、やってきていた。地下室へ閉じ込められるため、俺はその男の姿を見たことはなかった。
だが彼女がどんな男の時よりも陰鬱な顔をすることと、男が去ってからの錯乱ぶりがひどいことがあって、俺は見たこともないその男を憎んでいた。
おそらく、黄はそれに感づいていたのだろう。だから俺を地下室に閉じ込めるのだ。そうでなければ、俺はそいつに何をしているかわからない。それなのに、今日は突然そいつはやってきた。

「ジジイが死んだぞ」

扉を開けるなり、男は勝ち誇ったように叫んだ。

「嘘よ」
「嘘でこんなことをいうか。本当だ。長男である俺が名実ともに、李家の主、組織の長だ。いいか、お前の主だったジジイはもういない。お前は俺のものだ」
「離してッ!」

彼女の叫び声を聞いて、はっと我に返り俺は部屋に駆け戻った。

「彼女に何をする」
「なんだ、この餓鬼は」
「俺は彼女の僕(しもべ)だ。お前こそなんだ。彼女から手を離せ!」

手にしていた果物ナイフを男に向けて、俺は走った。もう少しで男にたどり着く、というところで、いつの間にかやってきていた黄の杖が俺の腕を打った。床にナイフが落ちるのを、俺は愕然として見た。そして黄に食って掛かろうとした瞬間、杖が首筋に振り下ろされた。

「英毅!」

彼女の悲鳴を最後に、俺は意識を失った。

意識を取り戻すと、俺は椅子に縛り付けられていた。椅子の背に手を回され、椅子の足にしっかりと俺の足も結び付けられていて、身動きが取れなかった。かろうじて動く首を振って、意識を集中させる。
ここはどこだ、と思っている俺に、男女の睦みあいの音が聞こえてきた。
睦みあいなどという優しいものではなかった。男――李は彼女の手首を縛り、ねじ伏せるようにして彼女を抱いていた。
李のたるんだ腹が、彼女のしなやかな腰に打ちつけられている。

「香梅!」

俺が叫ぶと、李は彼女を抱きながら俺を見てにやりと笑った。

「お前、こいつに惚れてるだろう。こいつの裸を見たいと思っていたんじゃないのか?え、小僧?見せてやるよ、俺に抱かれてよがってる女でよけりゃあな」

そしてずるりと彼女の中から自身を抜き、彼女を膝に抱えるようにして後ろから再び貫いた。
その瞬間、彼女がああ、と声をもらした。見ないで、と彼女の目が訴えていた。俺から顔を背けようとした彼女の顎を掴んで、李は俺のほうに向けさせた。長い舌が彼女の頬を伝い、閉じていた彼女のまぶたを舐めまわした。

「目を閉じるな。小僧、お前もだ。よく見ろよ。ほら、お前が望んでいた女の裸だ」

李の手がわしづかみにした彼女の乳房は、李の手の中から零れ落ちるほどに豊かだった。
李の太い指が撫で回している彼女の乳首は、先端まで硬くそそりたっていた。
李のたるんだ腹が包み込んでいる彼女の肌は、桜色に上気していた。
李が持ち上げている彼女の脚の間には黒い茂みがあり、その中へ李の一物が滑り込んでいた。
李の一物が貫いている彼女の秘所は赤く割れていて、李の動きに従ってひくりひくりとうごめいていた。
見ないでという彼女の祈りに、俺は目を閉じようとした。けれど、俺は彼女の裸体を見続けた。
俺が釘付けになっていることに満足したのか、李は高笑いをしてから彼女の顔をベッドに押しつけて、犬のようによつんばいにさせた。
そして館の主人を呼ぶ。俺の死角に立っていたらしい黄がベッドに近づくと、脱げ、と李は黄に命令した。黄がためらいもせずにベルトをはずしズボンと下着を下ろす。
次に李は彼女の髪を掴んで顔を持ち上げた。

「しゃぶってやれ」

しわだらけの老人の下半身を、黄は彼女の口元に押しつける。あきらめたように彼女は口を開け、しなびた性器を唇にくわえた。

「歯は立てるなよ、香梅?」

大きく開いた彼女の脚の間を、李が動く。そのたびに、俺の耳にふたりの性器から溢れた粘液が混ざる音と、肌と肌がぶつかる音が鳴り響く。
だらしなく口をあけて彼女の愛撫を受けている黄が、腰を振っていた。彼女の喉の奥まで突いているようで、彼女が苦しそうにうめく声が聞こえる。
彼女がそうやってふたりの男に蹂躙されるのを、俺はただ見ていた。
守りたいと思った彼女が苦しんでいるのを、こんなに傍にいるのに助けてやることもできずに、椅子に縛りつけられているだけだった。
なにより俺を絶望に追いやったのは、こんな状況なのに、俺自身が勃起していることだった。

やがて獣のような唸り声をあげて、李が彼女の中に射精して果てた。黄もすぐに、彼女の口の中に精を吐き出し、崩れ落ちるようにしてベッドに腰をついていた。

「吐き出すな、飲め。飲み干せ」

李が彼女の顎と頭を押さえ込み、彼女の喉を黄の精液が下っていった。

「お前、興奮してるのか。勃ってるじゃないか」

まだ全身で息をしている黄が俺を見て、荒い息をしながら俺を指差した。その指摘が、李の嗜虐心を刺激したらしく、李は下卑た笑みを浮かべて彼女の髪を掴んだ。

「お前の可愛い小僧が、お前と俺たちの交わりを見て興奮してるそうだよ。可哀想に。慰めてやれ」

彼女の髪を掴んでベッドからひきずりおろし、彼女が小さく悲鳴をあげるのもお構いなしに、李は俺の椅子の前へやってきた。ぐっと俺の股間へ彼女の顔を無理やり寄せる。それから、俺が持っていた果物ナイフで俺のズボンを切り裂いた。
すでにぎりぎりまで昂っていた俺自身が、切り裂かれた下着の間から飛び出すようにして跳ね上がる。

「ほうら、もうこんなになってお前を待ってる。さあ、ほら」
「やめて、香梅。お願いだ。ごめん、ごめんよ……。俺、俺……」
「謝ることはないだろう、小僧。実際、いい体をしているよ、この女は。お前が勃起するのも無理はない――だがな、お前がこいつを抱くことはない。こいつは俺の所有物だからだ。
明日からはお前はもうどこへでも行くがいい。こいつはいるが、お前はいらんからな。けど、俺は優しい男だ。最後にこいつにしゃぶってもらうことは、許してやろう。ゆっくり味わえよ、小僧」
「い、いやだ、いやだよ、香梅、やめてくれよ」

俺が情けない声を出すと、李と黄はゲラゲラと笑い、そして彼女の顔を俺の股間に押し付けた。さっき黄の股間にしたのと同じように。
彼女はゆっくりと唇を開き、硬直した俺を飲み込んだ。
彼女の涙が、俺の性器を伝っていった。

「いやだ、いやだ。香梅。お願い、許して。やめてくれ、香梅!」

けれど心が抵抗するのと反比例して、俺の体は素直だった。あっという間に俺は彼女の唇を白い粘液で汚していた。後悔という言葉ではいいあらわせないほどの後悔が、俺を襲う。
さきほどとは違い今度は、吐き出せ、と李は彼女に命令した。のろのろと彼女は、俺の膝に俺の穢れを吐き出した。それを見て、ふたりの男は再び笑った。そうして、彼女をまた引きずり倒し、かわるがわる、時には同時に、彼女を犯した。
彼女はもう抵抗しなかったし、俺ももう彼女を見ようとしなかった。
李たちが陵辱に飽きるのを、ただただ願いつつ、ぼんやりとしていた。頭がうまく回転せず、けだものが二頭、獲物に喰らいついている映画のワンシーンを見ているような感覚だった。
頭も、心も、全てがからっぽになった気分だった。いまだ衰えない雨の音だけが、俺の頭に響いていた。

夜が終わり、さすがにくたびれたのか、ふたりのけだものは部屋を出て行った。彼女はふたりが消えてから扉の前に崩れ落ちた。
どれだけ時間が経ったのか、やがて彼女は力なく立ち上がり、俺の拘束を解いてくれた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、英毅。弱い私を許して。ごめんなさい」

座ったままの俺の頭を抱きしめ、彼女はむせび泣いていた。目の前にある彼女の肌には、無数の打ち傷と情事の痕が残っていた。

「もう私はあなたを守ってあげられない。あの時買ったあなたの命、あなたに返すわ。だから、あなたは逃げて。早く、ここから」
「俺は、そんなもの、いらない。俺の命も、未来も、何もかも全てお前のものだ、香梅。だから、今更手放すなんていわないで」

どれだけ俺がいっても、彼女は首を横に振るだけだった。
しびれていた手足にやっと感覚が戻り、俺の頭を抱きかかえている彼女を、できるだけ優しく自分から離す。裸のままの彼女を、今まで俺が座っていた椅子に座らせる。ソファもベッドもやつらの痕跡がくっきりとしみついていて、そんなところに彼女を座らせたくなかった。
ぐったりと椅子の背にもたれかかっている彼女を置いて、俺は風呂場を洗い、湯をためる。新しい夜着を用意してから、俺は彼女の手を引いて風呂場へ行った。
湯はまだたまりきっていなかったが、シャワーを使って彼女の体を丁寧に洗う。やつらが残した白い粘液が、すっかり乾いて彼女の肌を汚している。それをたっぷりの泡を使って洗い流した。
乱暴された痕が、うっすらとあざとなって浮かび上がってきていた。悔しくて、悲しくて、俺は涙を浮かべながら手ぬぐいを使っていた。

「英毅……」

なすがままになっていた彼女が、ぼんやりと俺の名を呼んだ。

「なに、香梅。痛い?」
「いいえ。ちっとも痛くなんかないわ。大きくなったのね、私よりももう、背も高い」
「当たり前だ、もう俺、十五だぞ」
「そう、そうね。あなたを橋の上で拾ってから、もう五年も経つのね。私も年をとるはずだわ」

自嘲するように彼女は喉の奥で笑った。片手で覆った両の目からは、大粒の涙があふれていた。

「何いってんだ。香梅は、出会った時も今もずっと綺麗だよ。けど俺は、あの頃の子供とは違う。もう大人だ」
「英毅。大人になったというのなら、もう私があなたを守ってあげる必要はないでしょう。ここから出てい――」
「さっきもいったろ、香梅。俺の命はお前に渡したんだ。離れるなんて、まっぴらごめんだ。香梅がここにいるなら、俺もここにいる。ここから逃げるなら、俺も一緒だ」
「逃げる……?ここから……?」

そうだ、逃げればいいんだ。
話の勢いでいったことだったが、俺の頭は香梅を連れてここから逃げ出すことでいっぱいになる。逃げた先に幸せがあるとは思わないが、ここにいたって幸せはかけらもない。それなら、せめてこんな場所から逃げたほうがまだましだ。

「逃げてどこにいくの」
「わからない。けど、どこに逃げたとしたって、ここよりはマシだよ」

呆然としていた彼女の目に、少しずつ生気が戻ってくるのを、俺は見た。

それから俺たちは逃げ出す準備をした。
とはいえ、お互い走りやすいような格好をして、それから彼女がめていた金や宝石を、分割して俺の服の裏地に縫いこむことくらいだった。
「いい?何かあってもあなたは逃げるのよ、私のことは置いていきなさい」
「嫌だ。香梅がいないのなら、ここから逃げたって意味がない」
「生きていれば、またきっと会えるわ。約束して、何があっても命を捨てることだけはしないって」
「ああ、香梅にもらった命だ。捨てない、大事にするよ。だから、香梅も死なないで」

そして俺たちは館に火をつけて逃げ出した。逃げるという意志さえあれば、こんなにも簡単に逃げ出せる場所だったのだと、あっけなさに笑ってしまう。
ふたりで必死に走り、場末の木賃宿へ逃げ込んだ。そこは、昔、館で働いていた男が開いた宿だった。

「よく連れて出てきてくれた、坊主。俺にもできなかったことをお前は成し遂げたんだ。すごいぞ、坊主」

くしゃくしゃと俺の頭を撫でる男は、本当に彼女を救おうとしてくれているようだった。
俺は体を拭い、服を部屋で乾かした。彼女もためらいながらも服を脱ぎ、そして俺に背中を向けて濡れた体を拭き始めた。痛々しいその肌に、恐る恐る俺は唇を寄せた。

「痛い?」
「いいえ。痛くなんかないわ、英毅」

もっと優しく口づけて、と彼女がいった。
雷が、どこかに落ちた音が遠く響いていた。今にも崩れそうなこの宿を揺らすほどの勢いで、雨が降っている。
俺は彼女を抱きしめながら、もっと雨と雷が激しくなればいいと思っていた。そうすれば、俺たちの声は誰にも聞こえない。彼女のささやき声や吐息を独り占めできる。

「初めて、英毅?」

暗闇の中、俺たちは向かい合っていた。彼女が俺の頬をそっと撫でながらそう訊いた。
俺は未だ童貞ではあったが、口や手での経験ならあった。館のほかのふたりの女は、俺が女の体を洗っている時に勃起しているのをからかいながら、気が向くと手や口でしごいてくれた
俺はそのことを彼女に伝えた。

「そう。女を抱いたことはないの?」

初めての経験は、彼女がよかった。それがかなう夢かどうかなんかはまったくわからなかったが、俺は彼女で童貞を捨てたいと、いつしか願っていた。
使いで街に出ればいい寄ってくる女がくることもあったが、そんな女はどうでもよかった。

「俺、童貞は香梅で捨てたかったんだ」
「女の子みたいなこというのね」

くすりと彼女が笑い、恥ずかしさに顔が赤くなり、俺はうつむいた。

「ありがとう、嬉しいわ、英毅」

ゆっくりと彼女の顔が俺の顔に近づいてきて、俺たちは口づけを交わした。彼女が俺の体を強く抱きしめ、柔らかな彼女の体の丸みを、俺は全身で感じていた。
愛してる、と俺はうわごとのように繰り返していた。そのたび、彼女は目を細めて微笑んだ。
長く抱き合った後、彼女は固く屹立した俺自身に触れた。体を横たえ、なまめかしく脚を広げる。

「英毅、いらっしゃい」

脚と同じように広げた腕に誘われるように、俺は彼女の脚の間に体を滑り込ませた。
目の前で揺れる豊かな乳房にむしゃぶりつく。彼女は俺の頭を抱き、髪をずっと撫でてくれた。

「そんなに強く吸ったら痛いわ。もう少し優しく吸って。そう、舌の先で飴玉を舐めるみたいに、先端を転がして……。ああ、上手よ、英毅」

そんな調子で彼女は俺に女の抱き方を教えてくれた。いわれるがまま、俺はただ彼女を喜ばせたくて、必死で愛撫を繰り返した。
舐める、吸う、撫でる、触れる、揉む。その全てに彼女はため息のような声をもらす。彼女の吐息が俺の耳たぶをくすぐり、俺の背中で踊る彼女の指が俺を高めていった。

「香梅、もういいだろ。俺、我慢できない」
「いいわ。おいで、英毅」

子供扱いするなよ、といいたかったが、そんな余裕は俺にはなかった。自分の屹立を手にして、すっかり濡れそぼっている彼女の秘所へ当てる。

「ここ?」
「そうよ、そこ。わかる?濡れてるでしょ?」
「うん……」
「中までいらっしゃい、英毅。焦らさないで」

ごくりと息を飲み、俺は彼女の中へ進んでいった。すっぽりと俺を包み込んでくれる彼女の中の感覚は、普段の彼女の姿と同じだった。優しくときおり激しく導き、うねる。
俺の名を小さく呼び、吐息をもらし、俺の背中にしがみつき、甘い香りをふりまく彼女を、俺の五感はどこまでも敏感に捉えた。俺は本能の赴くままに、腰を動かしていた。

「ああ、香梅。もう……、だめだ」
「いいのよ、いって。英毅、あなたが好きよ」

彼女の言葉が俺の脳髄を打ち砕き、俺は彼女の中で果てた。

荒い息を整えながら、俺は彼女の隣に横になった。そっと俺の胸に彼女が寄り添ってくる。その肩を抱き、彼女の額に口づけを落とした。

「ねえ香梅、気持ちよかった?」
「ええ、とっても」
「ほんとう?」
「なんでそんなに疑うの?」
「だって、お客としてる時みたいに、声を出してなかったし……」

俺がいうと、ばかねえ、と彼女が笑った。笑うと俺の腕の中の彼女の肩が揺れ、息が俺の胸をくすぐった。

「お客としてる時は、演技しているのよ。ちっとも気持ちよくなんかないから、自分で自分の気持ちを高めていかなくちゃ、できないのよ」
「そうなの?じゃあ、今は?」
「演技なんか必要ないくらい、ほんとうに気持ちよかった、ほんとうよ」

もう一度、俺たちは長く口づけをした。そして彼女は起き上がり、服を着込んだ。

「あなたももう着なさい。ここを出て行くから」
「え?」
「聞こえるでしょう、雨に混じって、何かを探している声がする」
「どういうこと?」
「悲しいけれど、売られたのよ。さあ、早く」

慌てて服を着て、そっと扉を開ける。
階段を上がってくる男を見つけるや、彼女はナイフを手の中に閃かせた。俺を背後に守るようにして、男の喉笛を横に切り裂く。血飛沫が俺たちを赤く染める。

「武器を持っている!」

後ろから来ていた男が慌ててあとずさった。彼女は何かの拳法使いのように男を殴り倒し、彼女はそいつの首をへし折った。
驚いている俺の手を掴み、彼女は階段を駆け下りた。
階下にいた宿の男が、すまない、と彼女に謝った。

「恨まないわ、陳。お互い生きるためには仕方がない」

にこりと笑顔を宿に残し、彼女は扉を開けて入ってきた黄を羽交い絞めにして、外に出た。

「な、何をする、香梅」
「何もしない。ただ、盾になってもらうだけよ」

外は激しい雨が降り続き、俺たちを染めた血をあっという間に洗い流していった。
黄は、俺たちを追ってきていた男たちを全員引き上げさせた。自分の命と引き換えにするつもりはなかったのだろう。もしくは、李の力を持ってすれば、俺たちがどこへ逃げてもすぐに探し出せるという考えがそうさせたのかもしれない。
それでも黄を盾に俺たちは進み、大通りへ出る瞬間に彼女は黄の喉にナイフを突き立てた。
驚愕の表情を黄は浮かべて凍りついたまま、黄は死んだ。

「八つ裂きにしても収まらないけど、あんたも使われてるだけだから、可哀想といえば可哀想よね。さようなら」

彼女はそういい捨てて、黄の死体を路地に捨てた。
そしてまた俺たちは走り出した。
彼女が倒れるまで、俺たちは走った。どこへ向かっているのかもだんだんわからなくなっていた。ただわかっていたのは、彼女の体が限界だということだけだった。
その昔、姉と別れた俺がやっていたように、俺たちは軒下や橋の下で体を休めた。
彼女のための薬や食事を買おうとするのを、彼女は止めた。けれど数日の後、俺は我慢がならず薬を買うために薬局へ向かった。彼女にはもう俺を止める力すら、残っていなかった。
橋の下にダンボールを敷き、彼女をその上に横たえて、俺は通りに出る。
その道すがら、体格のいい鋭い目つきをした男とすれ違った。間違いなく、そいつは中国人ではなかった。そしておそらく、表の世界の人間でもなかった。一緒にいた男は中国人とわかった。通訳として雇われているに違いない。
韓国か、日本か、もしくは香港あたりの人間かもしれないな、と俺は思い、立ち止まりそうになった足を再び通りへと向けた。
彼女が縫い付けてくれた金で薬と温かい食べ物を買う。
これで少しは彼女が元気になってくれると思うと、俺の足取りも軽くなる。

「香梅!」

彼女と別れた場所に、彼女はいなかった。

こうして俺の中国での物語は終わった。

一年後、成田空港。
手荷物ひとつで日本に下り立つ俺を、彼女が迎えてくれる。

「香梅」
「ああ、英毅。よかった、生きていてくれたのね」
「当たり前だ、死なないって、約束したじゃないか」
「悪ィが、日本語で会話してもらえないか、おふたりさん」

彼女の隣にいた男が薄ら笑いを浮かべていった。あの日すれ違った男だった。
この一年、必死で学んだ日本語の脳みそをフル回転させる。
そうだ、これからは日本で暮らすのだ。彼女のために日本で生きることを選んだのだ。

「まだ、日本語は上手じゃない。変な言葉使いをしたら、許してください。島津さん」
「それだけしゃべれりゃ、十分だ。うちの馬鹿娘よりゃ丁寧だぜ」

豪快に笑ったその男の名は、島津隆尚。日本のマフィア――ヤクザの親分だと聞いている。そして彼女はその妻として生きているのだと。
彼女が認めた男は、俺から見ても立派な男だった。

「あなたと、あなたのファミリーと、それから――それから、あなたの家族のために、俺の命と忠誠を捧げます」
「いや、俺は忠誠だけもらっておこう」

島津隆尚は、そういった。

「お前の命はとうの昔に、彩に捧げたままなんだろう。俺はそれを奪うつもりはねえよ。その代わり、何があっても彩だけは守ってやってくれ」

彼は俺の知らない名前で彼女を呼ぶ。そのたびに俺の胸に、年月の重み――離れていた年月、知らない年月がのしかかり、心が軋む。痛む心に気づかないふりをして、俺は頷いた。

「……はい。もちろんです」

じゃあ行こうか、と彼は踵を返して歩き出した。
振り返りもしない彼の背中を見つめた。今の彼女を守り、幸せを与え、与えられている男の背中は、実に大きく存在感があり、そして堂々としていた。成功も苦労も知る、年月が積み重なった背中だった。
俺が中国で彼女を幸せにできなかった分、島津隆尚が日本で彼女を幸せにしているというのなら、俺は彼らの幸せを守る。それが俺の幸せだ。俺の命も、未来も、運命も、なにもかも全て彼女のものなのだから、それでいい。
私のために死ぬ覚悟があるというのなら、お願いだから、私のために生きて。
彼女がいつもいっていた言葉。今、俺はこの言葉をかみしめて、新しい人生を生きる決意をする。きっとあの雨の夜、俺と彼女が出会い、俺の命を彼女が買ったのは、このためだから。

「英毅」

彼女が俺を呼んで、わずかの時間、俺の手に触れてくれた。
そのぬくもりだけで、十分だった。
この名前は彼女から授けられた、彼女だけのものだ。彼女以外にこの名前を呼ぶ人はもういない。彼女が俺を「英毅」と呼ぶ限り、俺は彼女の忠実なしもべだ。何度生まれ変わろうと、それだけは変わらないだろう。
けれどもし、次に生まれ変わるなら、恋人や夫婦でなくていい、あなたの子供として生まれたい。
そうすれば、あなたが死ぬまで見守ってあげられる。最期の瞬間にあなたの傍にいてあげられる。

「英毅」

彼女がもう一度俺を呼んだ。

「すみません、今、行きます」

俺は、新しい一歩を踏み出した。






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