アリスのお茶会(非エロ)
シチュエーション


午後2時58分。
秒針の音がしんしんとページの間に染みてゆく。
ここは、家庭教師として住み込みで働くエドガー先生のお部屋。
広々とした室内は塵一つなく磨き抜かれ、壁一面に陣取る本棚には膨大な量の書籍が並ぶ。
そんな自分好みの癒しの空間で、エドガーはお気に入りの長椅子に腰掛け優雅に読書を進めていた――のだが、

「遅いですね…」

エドガーは苛立った瞳で置き時計の文字盤を見た。
時刻は2時59分。もう4分も遅刻している。
55分には部屋にアフタヌーンティーが到着している筈なのに、未だにメイドが来る気配がない。
最近の若い者は仕事の時間すら守れないのか。
眉間にキリキリと皺を刻んでいると、ようやく廊下からワゴンの音が聞こえてきた。
ゴロロガロロロロロロ…カチャッ…カチャンカチャン…
長い床をタイヤが爆走し、食器が音を立てて跳ね回る。
遅刻に焦っているのだろうが、それにしても酷い運行だ。まるで子どもがはしゃいでワゴンを押しているような…。
ん、子ども?エドガーの胸に嫌な予感がよぎった瞬間、ワゴンは部屋の前でピタリと止まった。

「こんにちは〜!アリスのケーキサービスでーす」

可憐なハイトーンボイスと共に部屋の扉が開かれる。
まさかと言うかやはりと言うか、そこに居たのはメイドではなく、金髪のショートカットの美少女だった。

「――アリス様」

むっつりとしてエドガーは小説を閉じた。手袋の指で軽く眼鏡を押し上げる。

「メイドはどうしました?お嬢様にお茶は頼んでいませんよ」
「えへ、今日はメイドさんに代わってウエイトレスさんが出動なのです」

閉まりかけた扉をお尻で押さえ、アリスはよいしょよいしょとワゴンを室内に押し入れた。
ワゴンにはそれらしくケーキスタンドやティーセットが乗っている。
そして、頭にホワイトプリム、胸元にリボン。純白のエプロンドレスのアリスは確かにウエイトレスに見えなくもない。
ただ、その短過ぎるスカートはいかがなものか。
アリスがテーブルにワゴンを運ぶ最中、目の前の長椅子に座ったエドガーからはスカートの中が丸見えになった。

本日のアリス様のショーツは、フロントにハートの刺繍が付いたベビーピンクである。

「はぁ…」

思わずエドガーが漏らした吐息にアリスは喜々として食いついた。

「え?今見えた?私のパンツ見ちゃってハアハアしたの?」
「いえ、見苦しくて汚らわしくて喩えようもなく無様な物を目にして溜め息が出ました」
「ムッ…!」

綿毛が弾けたようにアリスの頬がプクッと膨れる。

「また下らない企みがおありなのでしょうが、気味の悪い接待はお断りしますよ」

き、気味が悪い!?
その侮辱がとどめとなり、プックプクに膨れたアリスの頬はとうとう噴火した。

「もおぉぉお!バレンタイン!!今日はバレンタインデーだから来たの!先生の馬鹿!」
「……」
「いいい痛い痛い〜!馬鹿じゃないですごめんなさい」
「…バレンタインですか」
「そうだよ、せっかく先生のためにケーキ焼いたのに意地悪ばっか言ってさ!どうしてこんなに性格悪いの!?」
「……」
「いたっ、痛い!ケーキトングで太ももつねるのやめて下さいってば!」

トングをトレイに戻し、エドガーは再び溜め息をついた。
そういえば今日は2月14日だ。

(バレンタイン…先生のためにケーキ焼いた…)

アリスの言葉が頭の中でふわふわと反響する。
まったく、お馬鹿の分際でどうしてこういう事はマメなのだ。
こんな馬鹿なものに努力を費やす前に、淑女としての教養とマナーを身につけろこの馬鹿。
エドガーの鉄面皮の下で、複雑な感情が幾つも交錯した。

「そんな怖い顔して…、先生キライ…。もう帰る」

トボトボとワゴンを押すアリスの背に向かい、エドガーは咳払いをした。

「待ちなさい。全く気が進みませんがケーキを頂きます。これも調理実習の一環と言えるでしょう」
「え?先生食べるの?」

期待半分、不信半分な目でアリスが振り向く。

「仕方ありません。食育のためです」


テーブルにはナプキンやカットラリーが並び、アフターヌーンティーの支度が着々と進められていた。
張り切ってお茶を淹れるアリスを後目に、エドガーはテーブルに置かれたケーキを注意深く観察した。

ざっくりした生地に白い粉砂糖がふるわれ、きちんと1ピースに切り分けられて皿に盛られている。
生地の断面から覗くのはチェリーだろうか。
アリスお手製という怪しい一品だが、見た目はいたって素朴な焼き菓子である。
食べられなくはなさそうだと安堵していると、アリスが危なっかしい手つきでカップ運んで来た。

「お待たせ〜、お茶ですよ」

カップを満たすのは不透明の褐色だ。エドガーは意外そうにカップを持ち上げた。

「ほう、コーヒーですか」

お茶といえば紅茶だと思い込んでいたが、アリスのチョイスは違ったようだ。
珍しい香りだが何という豆なのだろう。
しかし、アリスはふるふる首を振って笑った。

「これ紅茶だよ」

ギョッとしてエドガーはカップの中を凝視する。
ドス黒く煮詰まった液体は到底紅茶には見えない。一口飲めば二日は不眠になりそうな代物だ。

「不思議だよね。普通に葉っぱをザクザクってポットに入れてドバーってお湯を注いだのに、紅茶の色にならないんだよ」

流石はアリス。人にお茶を淹れてもらう事はあれど、自分では淹れた事などないお嬢様である。

「…アリス様は、生まれて初めてご自分でお茶を淹れたのですね」
「うんっ!」

アリスはエドガーの隣に腰を下ろすと素早く擦り寄った。
初めてのお茶汲みを褒めてもらえると期待しているのだろう。撫でて撫でてと青い瞳が輝いている。
エドガーはアリスのキラキラ目をばっさり無視して質問を続けた。

「ケーキ作りも初めてですか?」
「うんっ!アリス史上初手作り!初めて厨房に立ったんだよ」

食の安全性が大きく揺らぐ発言である。
このケーキも紅茶同様にザバザバ、ドバーっと非常識な目分量で作られたに違いない。

「味見はしたのでしょうね」

暗雲たる思いで念を押す。
すると、何故かアリスは焦ったように目を反らした。

「味見…してないの」
「は?」
「このケーキ、アリスは食べられないから」

何を言っているのだ。
俄然険しくなったエドガーの視線に耐えきれず、アリスは困ったようにピヨッと唇を突き出す。
このアヒル口、宿題を忘れたのを誤魔化そうとしている時と同じ顔だ。

…さては。
エドガーの目が鋭く光った。

「ぷっ!」

アヒル口を指で摘まれアリスが悲鳴を上げる。

「食べられないのは、ケーキに一服盛ったからですか」
「ぶっ…ぷはっ!そんな事してないもん!」
「毎日毎日馬鹿な悪企みをなさっているアリス様の事です。信用出来ません。何を入れました?下剤ですか?」
「入れてない!」
「ならば、その証拠にここでケーキを召し上がって下さい」
「やだ!」
「ほう…」

エドガーはケーキサーバーを手に取ると、鞭のように手の平で打ち鳴らし始めた。
その姿はまるで野獣を躾る調教師である。アリスは震え上がってフォークを手にした。

「わっ、分かったよう!食べるよう!」

ケーキを一口頬張る。

「あむっ」

アリスは複雑な顔でもぐもぐと小さな口を動かした。
直ぐに吐き出したり目を回したりしないということは、味の攻撃力はさほど高くはないらしい。
もぐもぐ…ごっくん。

「さあ、どうですか。胃の洗浄が必要な事態ならば医者を呼んで差し上げますよ」
「ひぃっく」

返事の代わりにすっとんきょうな声が上がった。

「ひっ…く、ひっく…」

しゃっくり?

エドガーの見守る中、次第にアリスの目がトロンと下がりだした。
風呂上がりのように桃色に染まる顔。ふらふらと頼りなく揺れる上体。

「…これは…」

エドガーは皿に残ったケーキを一欠片口に入れてみた。
微かに酒の香りが口に広がる。生地に練り込まれたブランデー漬けのチェリーの風味だ。

「…うぅ〜…ひぃっく」

恐ろしい事に、たかがお菓子に使われた少量のブランデーで酔っ払ってしまったらしい。

「子どもだ…」

思わずそう呟いたエドガーに、アリスは真っ赤になって踊りかかった。

「ほらぁ!やっぱり子ども扱いするや〜!らから食べるのやらっていったんにゃらい!」
「ぐっ…」

飛び付かれた勢いでエドガーは長椅子に押し倒される。

「なーにが毒を盛ったりゃ!こなくしょー!」

馬乗りになったアリスがエドガーの胸ぐらを掴んで吠えた。
エドガーは強張った顔でずり落ちた眼鏡を掛け直した。見上げれば、完全に目が座ったアリスの顔がある。

まさかアリス様、酒乱なのか。

「分かりました。分かりましたから落ち着きなさい」

何とか鎮めようとするエドガーだが、怒りに火の着いたアリスは興奮した小型犬のように暴れまくった。

「先生にこの乙女心が分かってたまゆか!ひぃっく、いい加減なことゆうなら!」

元気一杯にキャンキャンキャンキャン喚きたてる。エドガーは渋い顔で耳を塞ごうとした。

「アリスはなぁ、先生が好きらっていうかやお酒のケーキ作ったんりゃもん!ちゃあんとリサーチしたんら!」

耳に突っ込みかけた指がピクリと止まる。
確かに、ブランデーやウイスキーの効いた菓子をメイドによく発注していた。
思いがけないアリスの気遣いにエドガーはしばし沈黙した。
規則正しい秒針の音を掻き消して、キャンキャン、ひっくひっくとやかましいアリスの声が部屋に響く。

「ひぃっく、うう…アリスはいっつも努力をしてうのに…先生は全然好きににゃってくれないんら〜…ひっく……」

やがて怒りが燃え尽きたのか、アリスはぽてっとエドガーの上に倒れ込んだ。
小ぶりなメロン程ある胸がクッションのようにプニュッと潰れる。

「うぅん…ひっく…早くアリスを好きになえ〜……ひっ…く」
「……いつの間に手段が目的にすり替わったのですか」

しかし、それには答えず、アリスはそのままエドガーの胸に顔を埋めて寝息を立てだした。

はあ。

三度目の溜め息をつき、エドガーはアリスの体をそっと抱き起こした。

「まったく、体ばかり大きくなって」

立派な胸の下から脱出し、アリスをごろんと長椅子に寝かせてやる。
そこで、エドガーはふとアリスの胸に目を止めた。
胸元を飾るリボンに見覚えがある。
あの本を包んでいた赤いリボン――。
エドガー自ら選んで結った、アリスに一番似合う色の絹のリボンだった。

「んぅ…わらひのお茶が飲めないんれふかぁ…」

寝言でまでくだを巻いているお馬鹿が風邪をひかぬよう、エドガーは脱いだジャケットをアリスにそっと掛けてやった。






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