シチュエーション
奈々子は伸び上がって道路のかなたを見やった。 バスはまだ来ない。 今年のバレンタインデーは都合のいいことに土曜日だ。 私立高校に通う奈々子は休みだが、公立高校に通う耕介には授業がある。 奈々子は考え抜いた末、手作りチョコ作戦に出ることにした。 毎年、高級チョコをプレゼントしても、耕介はひたすら恐縮するばかりで、 こちらの好意に気づいてなどくれないのだ。 奈々子は今年こそ、チョコとともに思いの丈をぶつけるつもりだった。 胸には、耕介の母の千鶴子に教わったチョコレートガナッシュがある。 ガナッシュなら簡単に作れるという千鶴子のアドバイスだった。 奈々子はこちらにやってくるバスに気づき、慌てて髪を整えた。 ラッピングした箱を背中に隠す。 バスはゆっくり停車すると、もったいぶるように後部ドアを開けた。 まず、おばあさんが降りてきて、次に子ども連れの若い母親が現れた。 奈々子は、はやる気持ちを抑えて耕介を待った。 三番目は、丸々と太った中年女性だった。奈々子はため息をついた。 このバスには乗っていないのだろうか。 そのとき、ブレザー姿の耕介が現れた。 「耕介!」 奈々子は急いで走り寄った。奈々子を認めた耕介が、白い歯を見せる。 だが、バスからはもうひとり、同じ校章をつけた女の子が降りてきた。 耕介になれなれしく話しかける。 「ねえ、この人が奈々子お嬢さん?」 「うん、そうだよ」 耕介が振り向いて答える。奈々子には見せない気さくな表情だった。 「あ、ごめんなさい、お嬢さん。この人は同じクラスの益田詩織さんです」 耕介が紹介する。詩織が「初めまして」と言いながら、頭をちょっと下げる。 奈々子は渋々お辞儀を返した。 「益田さん、こちらが奈々子お嬢さん。俺とお袋にいつも親切にしてくれるんだ」 「それで、今日はどんなご用件なのかしら?」 奈々子は尋ねてから、しまったと悔やんだ。明らかに敵意をむき出しにした尋ね方だった。 嫌な女だと思われてしまうかもしれない。 「あの、耕介くんと一緒に勉強しようかなと思って。ね?」 詩織が耕介を見上げながら答える。 「あの、今日は庭仕事ってない日ですよね? もちろん、仕事があれば 真っ先に片づけますけど」 「いえ、やってもらうことはないわ。大丈夫よ」 「よかった」 耕介がほっとしたように笑う。 詩織と一緒に勉強することがそんなに楽しみなのだろうか。 奈々子は、ほの暗い怒りが胸にふつふつと湧き上がってくるのを感じた。 「あれ、もしかしてそれってチョコ?」 詩織が奈々子の背中を指さす。奈々子はとっさに耕介を見た。 耕介はどんな反応を示すだろう。 だが、耕介はいつも通り、すまなそうな顔をするだけだった。 「ひ、暇だからチョコレートガナッシュを作ってみたのよ。よかったらふたりで食べて」 奈々子は箱をぞんざいに突き出した。耕介は受け取ると、頭を下げた。 「ありがとうございます。お嬢さんの手作りをもらえるなんて、俺、夢を見てるみたいです」 奈々子は呆然と立ち尽くした。 それが耕介の本心ならば、今ここで死んでも悔いはなかった。 「ねえ、吉岡。家庭科で作ったトリュフ、渡しちゃったら?」 詩織が耕介の脇腹を突つく。耕介は恥ずかしそうにかぶりを振った。 「無理だよ、あんなの。お嬢さんにあげられるわけないだろ」 「なんで? よくできてたじゃんか」 詩織が耕介のバッグパックをはたく。 耕介が「マジでできてねえって」と言いながら、詩織をはたき返す。 奈々子はじゃれるふたりを見て、心の底から羨ましいと思った。 耕介はどんな時だろうと、自分をお嬢さんとしか見てくれないのだ。 「っていうか、あたしがあげたやつ全部食べたじゃん。あれより、吉岡の作った やつのほうが絶対よくできてるってば」 「……もらったんだ」 奈々子はハッと我に返った。無意識のうちに呟いていたようだった。 耕介がうなずく。 「全然おいしくありませんでしたけどね」 「何それ、ひどーい」 詩織がまた耕介のバッグパックをはたいた。耕介が「ほんとのことだろ」と返す。 奈々子は寂しくなった。 毎年、耕介にチョコを贈るのは自分ひとりだけだと、固く信じて疑わなかったのだ。 「あたし、トリュフ食べたいな」 また無意識のうちに口走っていた。耕介が意外そうに奈々子を見る。 「絶対、後悔しますよ」 「何よ、あたしにチョコをあげるのは嫌なの?」 奈々子が睨むと、耕介が首をすくめた。 「ほんとにいいんですか?」 耕介はまだ心配そうだ。奈々子は力強くうなずいた。 「わかりました。それなら……」 耕介はバッグパックのジッパーを開けると、中からタッパーを取り出した。 それを奈々子に手渡す。奈々子はタッパーを開けて、息を呑んだ。 まるで売り物かと見まごうようなトリュフが詰まっていたのだ。 奈々子は急に不安になった。 このトリュフに比べれば、自分の作ったチョコレートガナッシュは児戯に等しい。 渡さなければよかった。 「奈々子お嬢さん、マジよくできてると思わない?」 詩織が同意を求めるように尋ねる。奈々子はにっこり微笑んだ。 「ええ、本当にそうね。うちのシェフだってこんなにうまくは作れないわ」 「そんな、お嬢さん。褒めすぎですよ」 耕介が照れくさそうに鼻の頭をかく。いつもの癖だ。 「すごーい、専属のシェフがいるんだ」 詩織が無邪気に目を丸くする。奈々子は笑顔がひきつるのを感じた。 「ねえ、吉岡。奈々子お嬢さんのやつも開けてみてよ。あたし、どんなのか見たい」 耕介が機嫌をうかがうように、上目遣いでこちらを見る。 奈々子は反射的に「いいわよ」と答えてしまった。 耕介にあんな顔をされると、とてもだめだとは言えなかった。 すると、詩織が耕介から箱を奪い、かわりにラッピングをはがした。 耕介に開けてもらいたかったのに、と奈々子は心中で詩織を呪った。 詩織が丸いピンクの箱を開ける。 中から現れたのは、ぺたんこにしぼんだガナッシュだった。 小麦粉の塊がところどころ浮き出ていて、まるで白カビでも生えたかのようだ。 耕介と詩織は何も言わない。言葉を失ったのだろう。 奈々子は耐え切れずに、耕介から箱を奪い返した。 「いいのよ、こんな失敗作食べなくて。暇だから作ってみただけなんだもの」 奈々子は試しに端っこをつまんでみた。この世のものとは思えないほどまずい。 手作りが愛情の証だなんて思ったのが、そもそもの間違いだった。 最初から最後まで千鶴子に作ってもらえばよかったのだ。 奈々子は何だか泣きたくなった。菓子もまともに作れない自分が情けない。 「そんなことありませんて。おいしそうですよ」 耕介はひょいと手を伸ばすと、ガナッシュをつまんだ。 奈々子が止める間もなかった。 口に含んだとたん、耕介の目が死んだように見えた。 だが、耕介はなんとか飲み込むと、もうひとかけらつまんだ。 「お願いだからやめて、耕介。無理しなくていいのよ」 「無理なんかしてませんよ」 耕介が白い歯を見せてにっと笑う。 「俺、めちゃくちゃ嬉しいんですよ。だって、お嬢さんが俺のために作って くれたんですもん。今だって踊り出したいくらいなんですから」 「やだ、いくらなんでも大げさよ」 奈々子は笑ったが、本当は大声で泣きたかった。嬉しくて仕方なかった。 耕介が再びガナッシュをつまむ。奈々子もそれにならった。 耕介と目が合うと、ふたり揃って吹き出してしまった。 うしろで、詩織が不満そうに口を尖らしているのが見えた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |