ワインの口付け(非エロ)
シチュエーション


「エティエンヌ、着替えを」
「畏まりました、お嬢様」

腰を下ろしたベッドから立ち上がろうともせずに、フランシスカは右腕を伸ばし肩の高さに上げた。
そんな物草極まりない挙措にさえ気品が漂っているのだから、育ちの違いというものは残酷なまでに決定的だとエティエンヌは思う。
このトルコブルーのドレスの脱がせ方は――と記憶を辿り、直ぐに思い当たって、その長い指を動かした。飽く迄慎重に、繊細に、しかし迅速に。

「お嬢様、両腕を上げて下さいませ」

無言で万歳の体勢を取るフランシスカに、純白の夜着を纏わせる。
高級の絹が、負けず劣らずに極め細やかな令嬢の肌を滑ってゆく。

薄い布地の上からカシミヤのカーディガンを羽織らせながら、フランシスカの端正な横顔にちらりと視線を遣り、エティエンヌは内心で溜め息を付いた。

年代物の純金を熔かして流したような、僅かに白銀のくすみを帯びたブロンド。
同じく白銀を含んだアイスブルーの瞳はぱっちりと大きく、理知的に輝いている。
肌は新雪もかくやと思うほどに白く、しかし頬と唇は春を思わせる慎ましやかな桃色。

一点の非の打ち所の無い美貌に浮かぶ表情は、しかし、誇り高いと言うよりは殆ど傲慢と呼んでよかった。
その上、今日は一際機嫌の悪そうに眉をひそめているのに気が付いて、エティエンヌはさり気なさを装って自分の女主人へと言葉を掛けることにした。

「ダンゲルマイヤー伯の件は、残念でございましたね」

フランシスカの形の良い鼻が鳴らされる。

「残念だなんて思っていないけれど。全く、私の誘いをふいにするなんて、あの軍人気取りの田舎貴族!」
「奥方のお身内に不幸があったと仰っていました」
「それにしたって!やっぱりドイツの田舎者は礼儀というものを知らないのね。――ふん、断られて却って良かったかも知れない」

辛辣な言葉とは裏腹に、かの青年貴族に袖にされたことにフランシスカが相当なショックを受けているのは明白だった。
背が高く、少々粗削りだが十分な美形で、無骨なようで頭の回転が速い――理想的なドイツ貴族である伯爵に、フランシスカはすっかり熱を上げているのだ。
彫刻のような繊細な造形とエスプリ、それから寝所での技巧に重きを置くフランス貴族とは違った魅力に、物珍しさを感じているだけかも知れないが。

しかしフランシスカの誘いは、伯爵家に仕える下男によって丁重に断られた。
彼が口にした理由――奥様の伯母上が嫁ぎ先で急にお亡くなりになり――が、単なる体の良い言い訳に過ぎないことに、エティエンヌははっきり気付いている。

無論、口には出さない。

「構いやしないわ。ねえエティエンヌ、確かフィリップもこちらに亡命していたわよね?」
「ええ、程近い場所に妹君の嫁ぎ先のお屋敷があるとかで」
「なら、近い内に訪問します。可愛い赤毛のフィリップ、すっかり私に夢中になっていたもの」
「畏まりました、直ぐに手配を済ませます」

二十にも届かないくせに、一端の貴族女らしい好色を気取る女主人はなかなかに滑稽でもあった。
恭しく頭を下げることで口の端が笑みの形に歪んでしまうのを隠す。
四歳年上の亡命貴族のことを考えて、フランシスカの機嫌は少し戻ったようだった。

「頼んだわよ」
「お嬢様の仰せのままに。――それでは、今宵はもうお休みになられますか?」
「そうね……」

視線を天井の方へ上げて、フランシスカはちょっと首を傾げる。そんな仕草は年相応にあどけない。
次の瞬間に浮かべた悪戯っぽい笑顔も少女らしいと言えるものだったが、エティエンヌには幾分タチの悪いものに見えた。
思わず、端正な眉を僅かにしかめる。

「――いいえ、エティエンヌ。今夜は私に付き合ってもらうわ。どうせもう、仕事なんて残っていないでしょう?」
「……えー。残念ながらお嬢様、夜のワインセラーのチェックがまだ――」
「うそつき」

エティエンヌは完全にしかめ面になった。
嘘を見破られたからではなく、全くの言いがかりだったからで、しかもフランシスカ自身にもその自覚があることが分かったからだ。

「嘘ではありません、お嬢様。執事は嘘をつきません」
「ふん。あらそう。なら早くチェックを済ませて、部屋に戻ってきなさい。あまりに待たせるようなら、先に寝てしまうわよ」

寝てしまうのならばその方が助かるのだが、命令とあらば仕方がない。
エティエンヌはせめてもの抵抗として、大げさに溜め息をついた。このくらいなら許されて然るべきだと思う。

「畏まりました。少々お待ち下さい、お嬢様」

普段なら楽しみなワインセラーへ向かう足取りが重い。

そんな風にあまりに憂鬱だったせいか、それとも古びたドアの軋む音にかき消されたせいか。

「…………ばか」

部屋を出る際にフランシスカが口にした呟きは、エティエンヌに聞こえることはなかった。

+++


「遅いわ」

ワインのチェックをできる限り手早く終え早足で部屋へと戻ったエティエンヌを迎えたのは、形の良い眉を吊り上げたフランシスカの怒りの表情だった。
尊大に足を組んでベッドに座り、三白眼に近い上目遣いで頭一つ分以上背の高い執事を睨みつけている。

「いつまで待たせるつもりなの、この間抜け」
「……誠に申し訳ありません、お嬢様」

丁重に頭を垂れたつもりだったが、不覚にも、声に含まれた僅かな不満を隠し切れていなかったようだ。
フランシスカは下りてきたエティエンヌの頭を力任せに平手で引っぱたいた。その弾みで、掛けていた丸眼鏡が軽い音を立てて絨毯に落ちる。
それを拾おうともせず、エティエンヌが低頭の姿勢を保ったままでいると、不意にフランシスカは両腕を彼の頬へと伸ばし、その顔を少々強引に自分の方へ向かせた。

東洋人との混血である執事は、どこか中性的な美貌の持ち主である。その黒い瞳は、フランシスカの氷の視線を受けても揺らぐことはない。
彼女の淡紅色の唇が己の唇を塞いだときも、それは変わらなかった。眉ひとつ動かさずにそれを受け入れる。

男の両頬を挟んでいた手が、耳へと滑り、首筋を擽って、そして首の後ろへ回される。
低い位置に引き寄せられ、エティエンヌは片手をベッドシーツについた。
もう片方の手はフランシスカの細い肩に添える。上質の生地越しに手の平に伝わる体温は高い。

フランシスカの舌が、エティエンヌの唇を割って滑り込んできた。
ねっとりと熱い舌を絡ませ合い、歯列をなぞり、唾液を交換する。粘着質な音が直接互いの頭蓋に響く。

性急ではない。しかし酷く嫌らしい動きだ、とエティエンヌは冷静に思う。如何にすれば男の情欲を煽るかを知っている。
ボタンの縫い方さえ知らない貴族令嬢が身に付けた、数少ない技術の内の一つがこれだ。
しかし何を恥じることもあるまい。事実、フランシスカは誇らしげですらあるのだ。
貴族の女とは結局のところ、こうして――

「……っ、ふ。何か、他のことを考えているでしょう」

唾液の糸を引きながら唇を離したフランシスカが、生まれてこの方荒れたことなどないであろう指で口元を拭いながら、咎めるようにそう言った。

「――いいえ。お嬢様は貴族たるに相応しい美しい方だと、そう考えておりました」
「あら。今更じゃなくて?」

エティエンヌの誤魔化しに、しかし彼女は満更でもない様子で微笑んで、軽い音を立て黄色い肌の執事の頬に口付けた。

「隣に来なさい、エティ」

寝台に呼びつけるときに限り、フランシスカは彼女の執事を愛称で呼んだ。
執事としてのエティエンヌと、愛人としてのエティを呼び分けているのかも知れない。
何れにせよ、エティエンヌ自身の立場はそう変わらないのだった。高慢で美しい令嬢の享楽に奉仕する、哀れな奴隷であるという点で。

「エティ。今夜も私を夢中にさせてくれるのかしら」
「それが、お嬢様のお望みであれば」
「……もう、相変わらずお決まりの答えしかしないんだから。白髪の老執事でもあるまいし、大人しくってお堅いだけじゃつまらないわ」
「それでは、獣のように荒々しく振舞っても宜しいので?」

それは単純に、彼女のいつもの我侭をはぐらかす言葉のつもりだった。
執事の分際で主人を乱暴に犯すような真似が許されるはずもない。
その言葉はすぐに否定されて、普段通りの丁寧で従順な手管を命じられるはずだと、エティエンヌは確信していた。

――しかし、

「あら。それってとても面白そうだわ、エティ」
「……何ですって?」

エティエンヌの片眉が跳ね上がった。

「他の貴族の愛人たちって、私に色んなことをしてくれるけれど、乱暴なことは絶対にしないんだもの」
「それは、喜ばしいことなのでは?」
「そりゃあ、お姫様みたいに扱われるのは好きよ。でも少し飽きちゃった」
「……」

呆然として言葉を失うエティエンヌに、フランシスカの熱を持った身体がしなだれかかった。
慎ましいながらも柔らかな胸の双丘が、エティエンヌの胸板との間に挟まれて形を変える。

「エティ、命令よ」
「……はい」
「私を乱暴に奪ってみなさい。嫌がってもやめなくていいわ」
「しかし、お嬢様……」
「口応えは無し。いいじゃない、ごっこ遊びのようなものよ。フィリップだって、お医者さんごっこが大好きなんだから」

でもこっちの方が楽しそう、と笑うフランシスカの表情はとても淫靡だ。
可憐な少女がはっきりと欲情し、強引に自分を犯せと言う――魅惑的に過ぎる状況に、エティエンヌの自制が振り切れそうになる。

しかし。
如何に彼女自身の命令であるとは言え、言われるがまま好き放題に扱ってしまえば、事が終わってからフランシスカが自分を糾弾する可能性は無きにしも非ずだ。
元が我侭な少女のことである。自分が言いだしたことであるのも忘れて、後先考えず解雇を宣告しかねない。
そうなれば――

――やはり、ここは何とか上手く誤魔化して、穏便に済ませよう。
エティエンヌはそう決意し、

「それに、あの礼儀知らずのドイツ貴族の相手をする練習にもなるかもしれないわ。ねえ、せっかくだから貴方、あのジャガイモ臭いドイツ訛りで私を口説いてみてくれない?」
「…………」

想像の斜め上を行く少女の言葉に全てが馬鹿らしくなって、決意をあっさりと翻し忠実に命令を実行することにした。
……最後の一つを除いて、ではあるが。






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