似非千夜一夜
シチュエーション


大臣アリ・ハサンは、数代続けてスラブからの女奴隷を解放して妻とした家系に生まれ、一族は金髪・碧眼が珍しくなかった。
大臣もまた、スラブ女を妻とし、生まれた一人娘は透けるほど薄い金髪とサファイアの如き碧い目をしていた。
彼女はファティマと名付けられた。

「あの、跳ね返り娘め!」

大臣は時折そうこぼしたが、その口調はどこか嬉しそうだった。
わがままいっぱいに育った姫には、いつも二歳年上の少年奴隷がついていた。
身分こそ奴隷であったが、父は大臣家で知恵袋として重宝がられた学識豊かな教養人であり、母は大臣の乳兄弟だった。
一家は衣食住全てにおいて最上のものを与えられ、その代わり、代々その知識に磨きをかけることが求められていた。
アーティフというその少年は、穏やかな気性を認められいつもファティマに仕えていた。
黒髪に縁取られた顔は綺麗に整っており、濃い睫毛に縁取られた黒曜石の瞳は彼がその血統にたがわず賢いことをしめしていた。

「ファティマ様。そのように日の当たる場所におられては、いつぞやのように夜、痛い痛いと泣くことになりますよ」

からかうようにアーティフが言う。

「アーティフ。私を『ファティマ様』と呼ぶのはよせといったはずだ。呼び捨てでよい」
「しかたないだろう。もう二人とも子どもではないのだから」

アーティフは端正な顔に困ったような微笑みを浮かべた。
午後の中庭で、ファティマは金髪を輝かせながらむきになって言った。

「ファティマと呼べ。でなければ部屋には戻らない」
「しかたないな……。ファティマ、来い。算術の講義をするから」

少女は嬉しそうに少年に走り寄った。
アーティフにとってこの金色の少女は幼い頃からの宝物だった。
たとえ結ばれることなどなくても、そばにいられるだけでよい、それ以上のことは決して望むまいと思うたび、心がちりちりと痛んだ。

その平安が破られたのは、カリフからファティマを息子の嫁にという話が持ちかけられたからだった。
最初、ファティマは躍り上がって喜んだ。
美丈夫と評判の高い長男の嫁として望まれたのだと思ったのだ。
来客の顔など見てはいけないという戒めもなんのその、ファティマは何度か家に来ていたカリフの長男をこっそり見そめていた。
そして、一目で夢中になった。
だから、実はファティマを望んでいるのは似ても似つかぬと評判の次男だと聞いたとき、あまりのことに打ちのめされ、部屋で泣くしかなかった。
あまりに気性の激しい彼女のかんしゃくをなだめられるのはアーティフしかいないというのは、屋敷の誰もが認めるところで、
彼は母に説き伏せられ、いやいやながらも彼女の部屋に向かった。
穏やかで優しい、そういつも誰からも言われた少年だったが、ファティマの部屋に行く顔つきは険しかった。

「ファティマ。入るよ」

少女は寝台につっぷして泣いていた。嗚咽のたびに豊かな金髪が揺れた。
少年がその背中をそっとなでる。
彼女は顔を上げた。碧い瞳は泣き濡れて腫れていた。

「アーティフ。わ、私は……嫁ぐのならカシム様と決めていたのに……。あ、あのように醜い男のところに……」

確かにカリフの次男は美男とは言い難かったが、醜いというほどではなかった。
女にとって心に決めた男以外は皆醜く見えるのだろうかと思うと、少年は短刀で心臓をえぐられるようだった。

「おまえから父上に頼んでおくれ。この縁談はやめてくれと……。おまえの言うことなら、父上は聞いてくれる」
「ファティマ、それは無理だ。俺はただの奴隷なんだよ」

それを聞いて、ファティマはアーティフの胸に飛び込み、声を限りにして泣いた。
切れ切れに「カシム様」と愛しい人の名を呼びながら。
アーティフの、ファティマの背を撫でる手が次第に震えてくるのを、彼女は気がつかなかった。
いきなり、彼女は強く抱きすくめられた。
いつも誰よりも優しかったはずの少年の気配にただならぬものを感じて、彼女は身を捩ろうとしたが、思いの外少年の腕は力強く振りほどけない。

「ファティマ、ファティマ……!」

名を呼ばれ、いや、と叫ぼうとしたその刹那、彼女の唇は少年の唇でふさがれた。
滑らかな舌がすべりこんできた。
あまりのことに、彼女は動けなくなった。

「ファティマ。俺のファティマ」

熱にうなされたようにアーティフは呻き、細い肩を力の限り抱いた。

「俺のものだ。俺だけのファティマ……誰にも渡さない……!」

抱擁があまりにもきつく、彼女は気を失った。

気がつくと素裸だった。
彼女を抱きしめるアーティフも生まれたままの姿だった。
彼の唇はファティマの真っ白な項を行きつ戻りつしていた。
このような狼藉とはもっとも遠いところに少年はいたはずだった。
だからこそ、宦官でもないのに嫁入り前の娘の最も近いところに置かれていたのだ。
ファティマはその碧い目をいっぱいに見開いてアーティフを見た。
彼は泣いていた。黒い瞳からは際限なく涙がこぼれ出ていた。

「ファティマ。おまえは嫁ぐことで俺と別れるのは辛くないのか。
俺はおまえが結婚すると聞いて、気が狂いそうだった。だのに、おまえはカシム様のためにだけ泣くのか?
俺のためにこぼしてくれる涙はひとしずくもないのか?」

彼の唇は象牙よりも白い乳房へと移った。そしてその頂にある薔薇を摘んだ。

「い、いや……いや!」
「おまえが嫁いでこの家からいなくなったら、もう会えない。
そしておまえは他の男にこの肌を許す……そう考えただけで、俺は生きている心地がしなかった。」

細い両脚が広げられた。
アーティフの重みが体にかかると同時に、彼女の密やかな場所に破滅の痛みが襲いかかった。
しばらく体を蠢かしていたアーティフは、体を痙攣させると白い熱情をファティマの中に放った。

花嫁となるために、彼女はさまざまなことを学ばなければならなかった。
その中には、女がどのようにして男から子種を授かるのかということも含まれていた。

──アーティフがしたことは、夫だけに許されるはずのことだったのだ──

ファティマは慄然とした。
妊娠はしていなかったのが僅かながらの救いだった。

カリフの次男アリは、先年迎えた第一夫人を狂ったように愛していた。
夫人が子をなさないことで、第二夫人を迎えろと周囲に言われても、かたくなに拒み続けていた。
婚礼の夜、青ざめて新床で夫を待つファティマに、アリは言った。

「別に固くならずともよい。私はおまえに何をするつもりもない」

そう言って、絞めたばかりの鳩を短剣で刺し、その血を敷布に散らすと部屋を出た。
あとでわかったことだが、その晩もアリは第一夫人と共に過ごしたのだった。
処女でないことをどのように言いつくろえばよいのかと怯えていたファティマはとりあえず安堵した。
しかし、この屋敷には自分の居場所がないことをも思い知った。

石女といわれていた第一夫人が妊娠したのはその直後だった。
屋敷で過ごすうち、ファティマは自分があんなに恋い焦がれたカシムにはなんの気持ちも持てないことに気がついた。
思うのは、いつも優しかったアーティフのことばかりだった。
最後に言葉を交わしたのはいつだっただろうと考え、それが彼が自分を穢した日だということに気づき、呆然とした。
あの日を境に彼は西方の語学を修めたいといって異教徒の家に足繁く通い、ほとんど屋敷にいなかったのである。

「……アーティフ……」

名を呼ぶと懐かしさで胸がいっぱいになり、涙がこぼれた。

──この涙は、おまえのために流している涙だよ──

ファティマは自分にとって一番大事な人が誰だったのか、ようやくわかった。

第一夫人が産んだ子は男だった。
最高の教養を我が子にと望んだアリは、大臣に若き学者であるアーティフを譲り受けたいと申し出た。
アーティフを手放したくはなかったが、まだ子をなさない娘の、婚家での立場を考えると大臣はそれを諾とするしかない。

「ファティマ様。ご無沙汰しておりました」

慇懃に膝をついてアーティフは挨拶をした。

「皆、下がれ。アーティフは私の幼なじみだ。つもる話がしたい」

そういってファティマは侍女たちを部屋から出した。
しばらくの沈黙ののち、アーティフは重い口を開いた。

「俺の顔など見たくなかっただろう……。俺は生きている資格のない人間だ。
自ら命を絶って永遠の地獄をさまようべきだったのに、どうしてもおまえの顔をもう一度だけ見たくて、生きながらえてきた」

そういって彼は大きく息をついた。

「もう何も思い残すことはない。おまえの手で殺してほしい」
「それがおまえの望みか」
「……ああ」
「では、そこに直れ」

彼は跪き、目を閉じた。
死を覚悟した彼に与えられたのは、抱擁と口づけだった。
ファティマは泣いていた。

「アーティフ、アーティフ、もうどこへも行くな。一生私のところにいろ」
「……許してくれるのか、ファティマ……。俺を……」
「いや、許さない。私を一人にしたおまえを一生許さない。罰だ、私のそばから離れてはいけない」

アーティフは金色の、彼の宝物を抱きしめた。
泣きながらもう一生手放さないと誓った。

アリがファティマとアーティフの仲を見て見ぬ振りをしたのは、やはりどこか良心が咎めていたからなのだろう。
ファティマは二人の娘を産み、彼女たちはそれぞれカリフの孫娘として良縁を得て嫁いでいった。






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