シチュエーション
敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず。 というわけで、昔の偉い人の格言に従って両者のスペックを比較してみよう。 まずはターゲットの綾咲から。 綾咲優奈。二年D組出席番号21番。 身長157センチ。体重と詳しいスリーサイズは不明だが、バストサイズはCカップ (目を合わせるだけで相手の胸の大きさがわかるという特技を持つ、 クラスメートの歩くセクハラ人間・山田からの情報。ちなみに最初、葉山に聞いたらボコられた)。 モデル級とはいかないが、スタイルも良い。 もちろんそれだけではなく、容姿は端麗の一言に尽きる。物静かなお嬢様と言った顔立ちに、 柔らかな物腰を兼ね備えており、腰まで伸ばした癖のない黒髪は清楚な彼女の雰囲気を際だたせている。 成績の方も優秀で、なおかつ運動もそれなりにこなす。特技は幼少の頃から習っているピアノ。 どこから見ても、蝶よ花よと大切に育てられた、完璧な箱入りお嬢である。 しかし外面に反し、実は短気。だがワガママ放題というわけではなく、 礼を失した相手に対する沸点が低い、というだけの話である。 例を挙げよう。その名も『昼休み案内事件』。 春の始業式に合わせて転校してきた綾咲は、一躍男子の注目の的となった。 こんな普通の学校では一生お目にかかれないようなお嬢様タイプの転校生、しかも器量よし。 男子連中が浮かれるのも無理はない。野郎どもは休み時間のたびに席を囲み、あれやこれやと 質問を途切れることなく投げかける。彼女も最初のうちは何とか笑顔で乗り切っていた。 しかし、そんな我慢がいつまでも続くはずがなく……事件は起きた。 昼休み。隣のクラスの男子生徒が、案内にかこつけて綾咲を食堂に連れてきた。 そいつは綾咲が押しに弱いと判断したらしく、いきなり携帯の番号を聞くわデートの誘うわ おまけにスリーサイズまで聞き出そうと多重攻撃を仕掛けたらしい。 今まで積もるものがあったのだろう。 綾咲は平手打ち一発、「あなたのような人に案内して欲しくありません!」と言い放ち、その場を後にした。 殴られた当人と周囲は、呆然と見送るしかできなかったという。 この出来事が切っ掛けで、彼女は校内に並ぶ者のない有名人となった。その他にも色々事件はあるが、割愛。 このような事件を数々引き起こしたにもかかわらず、綾咲の人気は落ちることはなく、 数々の男達が果敢にも思いを告げ、砕け散っていった。 中にはサッカー部のレギュラーがチームになり、全員で告白したという噂もある。アホか。 撃破記録を打ち立てていく綾咲に、付いたあだ名が『難攻不落』『撃墜王』 『イゼルローン要塞』『鉄壁のファイアウォール』等々。 綾咲は下心ありありで近寄ってくる男どもに嫌気が差したのか、はたまた最初からそっちの素質があったのか、 クラスメートの葉山由理(女)に告白しており、現在返事待ちの状態である。 そんな超ハイスペックお嬢に相対するはこの俺、爽やかナイスガイ篠原直弥。 身長体重スリーサイズ顔面偏差値、面倒くさいので省略。まあ十人並みと考えてもらえればいい。 成績は中の下、得意スポーツはマラソン。校内自転車競争タイムアタック記録保持者にして、 校内エンゲル係数最高値記録保持者という、輝かしい二冠を達成している。 タフネスと打たれ強さを兼ね備えた、日々赤貧と戦うクール・ガイ。それが俺だ。 さぁ、果たして直弥は綾咲優奈を惚れさせることができるのか? 次回へ続くっ! 「駄目だ無理だ帰ろう」 結論は光のごとく早かった。というか、考えるまでもないし。どう見ても不可能だろ、これ。 そうと決まれば善は急げ。俺はそそくさと立ち上がり、爽やかな青空と気まぐれな雲に別れの挨拶を飛ばす。 「アデュー」 「ちょっと待たんかい」 しかし背後から恐ろしい力で肩胛骨が圧迫され、俺は動きを止めざるを得なかった。 「用意した弁当一粒残さず平らげて、一体何処に行くつもり?」 肩をがしっと掴みながら、絶対零度の表情で凄むは葉山由理嬢。 怖いっす、葉山さん。目を合わせられないっす。 「いや、食後の運動にひとっ走りしてこようかと」 「大丈夫よ。5限の体育、あんたの得意なマラソンだから。血ヘド吐くまで思う存分走りなさい。 安心した? 安心したなら、座れ」 葉山さんは、にっこりと笑いながら容赦のない命令を下した。抗う術は我が手にはない。 観念するしかないようだった。 腰を下ろす。と同時にとんでもないことを約束しちゃったなぁと、改めて後悔の念が沸いてきた。 いや、弁当に釣られたから自業自得なんだけどさ。 翌日の昼休み。俺と葉山は誰もいない美術室で昼食を取りつつ、今後の方針と対策を練っていた。 議題はもちろん、『綾咲優奈をいかにして篠原直弥に惚れさせるか』についてである。 嫌々とはいえ引き受けた以上、何もしないのは気が引ける。そんなわけで攻略の第一歩として、 様々な角度から両者を分析してみたのだが、その結果『素手で北極熊に勝つ方がまだ簡単』という、 夢も希望もない予想に終わってしまった。 「いくら対策立てようが、結果は同じような気がするけどなぁ」 すでにお手上げ状態な俺を、葉山が叱咤する。 「一度受けたんだからぐちぐち言わない。それにやる前から諦めてどうすんの。 当たって砕けろって格言もあるでしょ」 「お気楽に励ましてくれますが、粉々になるのは俺なんだぞ?」 「大丈夫よ。骨は拾ってやるから」 血も涙もない素敵な答えが返ってきた。俺の繊細なハートをなんと心得てやがりますか、こいつは。 「で、そこまで言うからには、何か対策は練ってるんだろうな?」 俺の問いに、葉山は自信を持った様子で肯く。 「昨日考えたんだけどさ。いくらあんたが男子の中で一番優奈と仲がいいとはいえ、 いきなり告白なんかしたら当然失敗するじゃない?」 当たり前である。それで成功するならこんな『綾咲優奈攻略特別会議』(たった今命名)など開かない。 今まで思いを告げた数多くの英霊たちもお空の星となっていない。 「その理由の一つとして、お互いのことあんま詳しくないってのがあると思うの。 あんた優奈の好きな食べ物とか、好みの異性のタイプとか、知ってる?」 俺は首を横に振る。 先程思い浮かべたプロフィールは、クラスメートやちょっと綾咲に興味のある人間なら簡単に耳に入るものである。 葉山がパイプになって少しは話をするといっても、あくまで俺と綾咲の関係はクラスメートであり、 それ以上ではない。彼女の住む場所や携帯電話の番号も知らないという間柄なのだ。 「だからさ、もっと会話を増やして、優奈にあんたのことを知ってもらうの。 そうすれば優奈の篠原を見る目が変わってくるかも」 まあ正当派な手段だろう。悪くない手だ。上手くいってもお友達止まりで終わりそうな気もするが、 他に方法を思いつかないのも確か。うむ、葉山もいろいろと考えているようだ。ちょっと感心。 「で、具体的な行動は?」 葉山は待ってましたとばかりに、まるで推理小説の探偵が犯人を告発するかのごとく、 ビシッと俺に指を突きつけ、 「これから毎日、放課後は優奈と帰りなさい!」 「…………………………」 前フリが長かった割には恐ろしく地味な作戦だった。 「……何というか、気の長い話だな」 というか、たかだか20分程度会話が増えたところで、あなたに向けられている恋心を ねじ曲げるなんてできそうにないんですけど。 「千里だろうが万里だろうが、まずは一歩踏み出さなきゃ何も変わらないでしょ。 塵だって積もれば人の目に付くわよ」 「対策というよりヤケクソだな」 「い・い・か・ら! 早速今日の放課後から始めるわよ。最初は私も一緒に行ってフォローするから。わかった?」 「イエッサー」 あからさまにやる気なく返事したのだが、葉山は満足げに頷いて立ち上がった。 慣れた手付きで空の弁当箱を二つ、元通りに包む。 俺が食った分、洗って返さなくてもいいのか。アフターケアも万全だね。 と、そこで思い出したことがあったので、聞いておく。 「なぁ、お前料理の味付け昔と変わった?」 「どうして? 何かおかしかった?」 「いや、美味かったけどな。けど、味が昔と微妙に違うような気がする」 ちなみに葉山は自分で弁当を作ってきており、今回俺に用意されたものも奴の手作りである。 以前から金がないときに時々おかずを恵んでもらっているため、 葉山の味に慣れた舌は些細な変化も見逃さない。全然自慢にはならないが。 「そっか。うん、うん」 葉山は何か一人で納得していたが、突如意地の悪そうな笑みを浮かべた。何か腹に一物ありそうな、その笑顔。 「その辺は試行錯誤中だから」 毒でも混入してるんじゃないだろうな。注意しろ俺、次からアーモンドの匂いはしないか確認だ。 ……待てよ。そういえば俺の好きなおかずばかり入っていたな。 気合いを入れるとは言っていたが、好きでもない男の弁当にここまでするだろうか。 怪しい。怪しすぎる。まさか、もう既に!? 「由理……恐ろしい子……!!」 「また思考が変な方向行ってない?」 冷たい目で突っ込まれるが、俺の心に芽生えた疑心はそんなことでは摘まれない。 「危うく騙されるところだったぜ。まさか俺に毒入りリンゴならぬ毒入り弁当を食わせることが目的だったとは。 だが貴様の企みは全て看破した。そのような手に引っかかる篠原直弥ではない。 自らの愚かしさを胸に刻み込み、とっとと尻尾を巻いて帰るがいい、この魔女め!」 「じゃあ明日から弁当いらないのね? お金がなくて空きっ腹抱えてても、 私はあんたに弁当恵んでやらなくていいのね? 仕方ないか、毒入りだもんね」 「犬とお呼び下さい女王様」 あっさりと屈した。コウモリもびっくりの速度で葉山の前に跪く。 「毒入りだから私の作った物は食べないんじゃなかったの?」 「毒を喰らわば皿まで、という言葉もございます女王様」 葉山が恐ろしく冷ややかな視線でひれ伏した俺を見つめる。 全身を針でつつかれるような錯覚に襲われながらも、俺は服従の姿勢を崩さない。だって餓死したくないんだもん。 やがて葉山はゆっくりと、長い、長いため息をついた。 「何でこんなの選んじゃったかなぁ……」 「苦言を呈すようですが、お決めになられたのはあなた自身です女王様」 「そういやそうだったわね。……気持ち悪いからそのポーズやめなさい。それから言葉遣いも」 「貴様が望むなら、そのようにしてやろう」 女王様のお許しがでたので起立、着席。いきなり態度を横柄モードに変えて、ふんぞり返ってみる。 「じゃ、私先に戻るから」 しかし彼女はノーリアクションだった。疲れた様子で席を立つ。ツッコミ待ちだったので少し寂しい。 いや、ボケすぎだとわかっているが。 葉山は巾着を指に引っかけてからくるりと背を向け、 「放課後、忘れないように」 そう念を押してから去っていった。 一人になると、途端に美術室は静けさに包まれる。耳に届くのは遠くから聞こえる生徒の喧噪のみ。 俺は脇にあった絵の具のチューブを手の中で転がしつつ、行儀悪く椅子に足を置いて、天井を見上げる。 「何でこうなっちまったんだか」 俺と葉山と綾咲。友人で括れる関係のはずなのに、今は各人の思惑が交差して、居心地が悪い。 しかも事の中身は恋愛が関係している。正直、こういうのは苦手だ。憂鬱な気分に浸りつつ、ため息を吐く。 ま、葉山も成果が上がらないとなれば、じきに諦めるだろ。弁当が無くなるのは痛いが仕方ない。 「わかってるさ。やるだけはやるよ」 言い訳のように呟いて、俺は放課後の戦いに備え、目を閉じた。 授業終了のチャイムが鳴り、やってきた放課後。 ざわめきに包まれた教室を抜け出し、誰よりも早く自転車置き場へ直行し、愛車に跨る。 ここからは校門が見通せるので、行動を起こさず待機し、ターゲットが出現するのをじっと息を潜めて待ち伏せる。 こうしていると第三者からはストーカーか誘拐犯に見えるかもしれないと思ったが、 悲しいのでそれ以上は考えないことにした。 やがて校舎が帰宅部中心の下校組第一陣を吐き出す。 皆後ろ姿だが、その中には見慣れたしっぽ頭と腰まである長い黒髪もあった。 特徴的な髪型の友人を持つと判別の手間が省けて便利だ。 二人が校門から消えるのを見計らって、作戦開始。 俺は軽快に自転車をこぎ、門を抜け、あっさりと葉山達の横に付けた。二人はブレーキの音に揃って顔を向ける。 「よ、もう帰りか? 早いな」 表情、声色共にこれ以上無いってぐらい自然を装えている。 我ながらほれぼれする完璧な演技だ。自分で自分を誉めてあげたい。 「はい。今日は由理さんの部活がないですし、掃除当番でもないので」 そうにこやかに返したのは綾咲の方である。 葉山はというと綾咲の目が届かないのをいいことに、にやにやと意地悪く笑みを浮かべている。面白がってやがるな、こいつ。 まぁいい、今の俺は自分に課せられた任務をこなす一兵士。いわば現代のターミネーター。 上官がどんな表情をしていようが関係ない。与えられた役割をこなすだけだ。 「そうか。それじゃあまた明日な」 別れの挨拶を告げ、俺は愛車・グローバルスタンダード号(和名・世界標準丸)の ペダルを踏み込む。 行け、グローバルスタンダード号! 輝く未来へ向かって! 「待たんかいコラ」 突如左方向から加えられた運動エネルギーによって、俺と相棒はド派手な音をさせながら、 翼をもがれた鳥のごとく地面に引き落とされた。 全身を揺さぶる激しいシェイクが終わると、景色は一転、晴れやかな午後三時の空に。隣では車輪がからからと空転している。 あぁ、今日も世界は平和だなぁ。 この平和がいつまでも続くといいなぁ(意訳・自転車に乗っている人間を蹴倒すのはやめてください)。 「し・の・は・ら〜〜〜〜」 が、平穏な時は仮りそめのものだった。視界に映ったのは憤怒の色を纏わせた一人の少女。 鬼だ。鬼がおられる。彼女の怒りを鎮められるなら出家してもいい、そう思えるほど恐ろしい顔をしていた。 葉山は俺の襟首をひっ掴むと、 「ひ・る・に・言・っ・た・こ・と・わ・す・れ・た・の?」 言葉の句切りに合わせて前後上下左右に激しく揺さぶった。 ゲームセンターのジョイスティックでもこんなアクロバットな動きはしない。 つーか首が絞まって……やばい……死ぬ……。 必死で葉山の手を叩きギブアップの意を示すと、ようやく俺は解放された。 慌てて息を吸い込み、勢い余って咳き込む。二、三度深呼吸すると、ようやく呼吸が正常に戻った。 しかしまだ終わっちゃいない。今まさにそこにある危機。葉山さんがすごく怖い目をして僕を見ておられます。 「それで、どういうつもりよ?」 尻餅をついた状態の俺に目線を合わせながら、綾咲には聞こえぬよう声量を絞って問いかける葉山。 俺は彼女から目を逸らしつつ、ちょっと顔を赤らめて、同じように小声で答えた。 「一緒に帰って友達に噂とかされると恥ずかしいし……」 「どこの乙女だあんたは」 葉山は更に眼光鋭く俺を見据える。しかし真実は言えない。 勢いでボケてみましたなんて告白したら、死亡診断書が作成されてしまう。 『篠原直也 死因・自業自得』 嫌すぎる。反省してます神様助けて。 「あのう」 一方的に激しい火花が飛び散る空間に、置いてきぼりになっていた綾咲が控えめに割って入ってきた。 いつもの光景と思っているのか、戸惑いの色はなく、無理に俺達を止める様子もない。 しかしそれで充分。葉山は綾咲に感情の矛先を向けるわけにもいかず、毒気を抜かれてしまっている。 ふっ、勝った。ふぬけた葉山相手ならこの状況をうやむやにする事などたやすい。 勝利の女神は俺に微笑んだ。ありがとう、女神綾咲。 「あー、どうしたの、優奈」 葉山が決まり悪そうに頭を掻きながら立ち上がる。しかし綾咲は答えず、ゆっくりと俺達を見比べると、ポンと手を打った。 「わかりました。由理さんは篠原くんと一緒に帰りたいのですね?」 『はぁ?』 とんでもない発言に、俺と葉山がシンクロした。 一体どうしたらそんな珍解答が弾き出されるんだと一瞬思ったが、改めて回想すると葉山の行動は確かにそういう風にも取れる。 あながち的はずれな勘違いでもない。となると、これを利用しない手はない。 「あのね、そんなわけ」 「実はそうなんだ。どうやら葉山は三人で帰りたくて仕方がないらしい」 否定の言葉を遮られ、葉山が殺意のこもった眼差しを向けてくるが、気にしない。 「やっぱり。由理さんも早く仰ってくださればよかったのに。それでは三人一緒に帰りましょうか」 「ああ、そうするか。ところで葉山、さっき何か言いかけたか?」 「……別に何でもないわよ」 明らかに葉山は不服そうだった。その顔が『あんた後で覚えてなさいよ』と語っていたが、勝者の余裕で受け流す。 そして転がったままの自転車を起こし、三人肩を並べて歩き始めた。 冬空の下、三種類の靴音と車輪の奏でる金属音が響く。 自転車通学の定で、俺には友人と共に帰路についた経験は少ない。 毎日通る道に別の移動手段を使うというのは、新鮮でもあり妙な気分でもあった。 入学したての新入生に戻ったような錯覚を感じながらハンドルを押していると、視界の隅に何か引っ掛かった。 チラリと視線をやると、葉山が綾咲の死角から何やらジェスチャーを送ってきている。 なになに、『優奈に話しかけなさい』? おお、そういえばそうだった。すっかり当初の目的を忘れていた。 よかろう、世が世なら一大ハーレムを築いたと言われるこの俺の話術、しかと拝聴するがいい! 「えーと、今日はいい天気だな」 「そうですね」 会話終了。 「……………………」 葉山がすごい目で俺を睨んでいた。 まずい。この結果では監督はお気に召さないらしい(当たり前だが)。慌てて俺はサインを送る。 『待て、もう一度チャンスをくれ。俺はスロースターターなんだ。次は成功させる』 深呼吸一つして、肚を決める。用意は万全。よし、振り向かない若さと躊躇わない愛を胸に、再度出陣! 「明日も晴れるかな?」 「天気予報では、しばらく雨の予定はないそうですよ」 「そうか。それはよかった」 篠原直弥の楽々1分口説ッキング・完。 「……………………………………」 葉山が般若のような目で俺を見ていた。 えーと、これはまずい事態ではないのですか? だが俺の力量ではこれが精一杯なのだ。 今まで恋愛とは無縁の人生を歩んできた男に、多くを期待してもらっても困る。 人選ミスだ。俺に責任はない。しかしそう主張しても、鬼監督は許してくれない。それどころか、 『今度まともな話をしなかったら命はないと思いなさい』 下される最終告知。あの表情は本気だ、間違いない。奴はやると言ったらやる女だ。 もう失敗は許されない。ゆっくりと息を吐きながら、心臓の鼓動を落ち着ける。 熱をもっていた頭が冬の空気で冷やされ、思考が研ぎすまされていく。 目標、綾咲優奈。成功確率1%未満のミッション。失敗すれば命はない。 へへっ、俺もとことん馬鹿な野郎だぜ。崖っぷちに立ってるっていうのに、笑いがこみ上げてきやがる……。 戦場の兵士を気取りながら、話しかけるタイミングを待つ。 3・2・1・ここだ! 「あの、篠原くん」 思いっきり肩すかしを食って、俺は前へ倒れ込みそうになった。が、踏ん張って耐える。 せっかく向こうから切っ掛けをくれたのだ。これを生かさなければ。 「な、何かなレディー。我輩に聞きたいことでもあるのカイ?」 しかしさっきまでの冷静さは星の彼方へ吹き飛んでいた。駄目だ俺。これじゃあ完璧に動揺しているのがバレバレだ。 「篠原くんっていつも自転車通学なんですか?」 だが綾咲は気にした風もなく続けてくる。これが葉山なら即座にツッコミが入るところだ。なかなか大物なのかもしれない。 俺は自然に自然にと己に言い聞かせながら、 「ああ。中学の頃からずっと。ほとんど毎日これだな」 と言いながら、自転車のサドルを叩く。 十年の月日を歩んできた俺の相棒・グローバルスタンダード号。安物のママチャリだが、そのスペックは侮れない。 なにせ俺の無茶な走行に今なお耐え抜き、時に電信柱に直撃してもフレーム一つ歪まないスーパー自転車だ。 雨の日も風の日も雪の日もこいつと苦楽を共にしてきた。もはや一心同体と言っても差し支えない。 「綾咲は? 歩きってことは家はそんなに遠くないんだな」 「はい。雪ヶ丘の方ですよ」 雪ヶ丘。古くからある高級住宅街である。今にも倒壊しそうな木造ボロアパートに住んでいる俺にはきっと一生縁のない場所だ。 そんな寂しい現実を噛みしめている俺の背中を軽く押す手があった。 「篠原も途中まで一緒でしょ。じゃ、私はこれで」 「ちょぉっと待ったー!」 いきなり別の道へ去りかけた葉山を慌てて引き留める。綾咲と距離を取り、彼女に聞こえぬよう小声で葉山に詰問を始める。 「お前、どういうつもりだ! フォローするんじゃなかったのか!?」 「だって私こっちだし」 と、二又に分かれた道を指さす。確かにこいつの家はここで曲がった方が早く着くが。 「だからといってさっさと帰ることはないだろう。今日くらい最後まで付き合え」 「駄目だって。いつもこの道で別れてるんだから、優奈が怪しむでしょ。それじゃ、頑張って。健闘を祈っておくから」 「こら待……」 「優奈ー、また明日ねー」 「はい、また明日」 制止虚しく葉山は勝手に別れの挨拶を交わすと、軽快なステップで角の向こうへ消えていった。 呆然と立ちつくす俺。南極に置き去りにされた犬の気持ちが分かったような気がした。 やるせない孤独感を胸の内いっぱいに抱えながら、のろのろとした足取りで綾咲の元へ戻る。 「何のお話をされてたんですか?」 「つまんねー話だよ」 にこにこと脳天気に問う綾咲に、俺は全身に漂う疲労感を隠そうともせず答えた。 「気になります」 綾咲がちょっと不満顔になる。 「子供は知らなくてもよろしい」 「私達同級生ですけど」 「いや、隠す必要もないんだけどな。今日英語の時間寝ちまったから、ノートを貸してくれって交渉してただけ」 「そうなんですか」 綾咲はあっさり納得した。ふっ、甘いな。俺がノートを他人に借りてまで勉強する男だと思っているとは。 無意味に勝ち誇りながら、一人減った帰路を歩む。葉山というパイプがいなくなったせいか、互いの口は開かれない。 監視の目が無くなったので無理に親睦を深めなくてもいいのだが、この空気は居心地が悪い。 ある程度親しい友人相手なら無言の空間も気にはならないのだが、俺と綾咲はまだそこまでの関係ではない。 雰囲気を改善するため何か話そうとするものの、女子が喜びそうな話題などストックしていない。 仕方ない、次善の策だ。先程の話を続けよう。 「しかし雪ヶ丘に住んでるのか。でかい家なんだろうな」 「一軒家ですから結構大きいですよ。おばあさまが生まれた育った家で、お母様も嫁ぐまでは住んでいたそうです」 なるほど、綾咲がどうして引っ越し先にこの土地を選んだのか不思議だったが、祖母の生家があったのか。 「でもあまり利点もありませんよ。一人で住んでますから、部屋が多くても使いませんし。逆に広々としすぎて、夜は少し怖いです」 一人暮らしとは初耳だった。 そしてそんなことをあっさり他人に話してしまう綾咲に不安を覚えて、柄にもなく忠告してみる。 「俺が言うのも何だが、女の子が一人で暮らすってのは危なくないか?」 「あ、篠原くんも一人暮らしでしたね。大丈夫ですよ。信頼できる人にしか話してませんし」 俺もその中に入っているらしい。無防備に人を信じすぎてるぞ。まったく、これだからお嬢は。 「そういうことじゃなくてだな。現代日本は物騒だろ。泥棒とかストーカーとか。やっぱり誰か家族に来てもらった方がいい」 「もしかして心配してくれてます?」 綾咲が俺の瞳を覗き込むようにして聞いてくる。俺は身体を引き、あさっての方を向きながら曖昧な返事をした。 「まぁ、ダンディーな英国紳士で男気溢れるジェントルメンな俺としては、クラスメートの身を案じていなくもない」 曖昧というよりわけがわからなかった。 綾咲はしばらく俺から視線を外さなかったが、やがて「そうだ!」と手を打った。何か名案を思いついたらしい。 「じゃあこういうのはどうでしょう。篠原くんが家に来てボディーガードをする、というのは。それなら怖いものなしです」 な、なななな何を仰りやがりますでございますか、この娘は。 ボディーガードということは24時間警備員で必然的に一つ屋根の下。 若い男と! 若い女が! 一つ屋根の下! 心にダムはあるけど決壊寸前だ! いかん落ち着け俺。動揺を静めるため素数を数えるのだ。駄目だ自分の思考さえコントロールできん。 とりあえず何か言ってやろうと思って綾咲を見てみると、彼女は必死で笑いをこらえている表情をしていた。 頭が冷却液に浸されたように冷えていく。 「お前な……タチの悪い冗談はやめい」 「ばれました?」 ペロリと小さく舌を出しておどける綾咲。俺は一気に体力を消耗して、肺の空気を空にするように大きく息を吐いた。 まさか綾咲にからかわれるとは。不覚。 「俺が真に受けて家まで押し掛けてきたらどうするつもりだったんだ」 「お茶とクッキーをお出しします」 「……………………」 完敗。心にたっぷり敗北感が塗り込められる。こいつがこんな口達者とは知らなかったぞ。 屈辱の二文字を胸に、肩を落として自転車を押す。一方姫はご満悦のご様子。ちくしょう今に見てやがれ。 とりあえず復讐の第一歩として呪いの言葉を吐いていると、先行していた綾咲が急に振り返った。 育ちの良さを伺わせる動作で、丁寧に頭を下げる。 「茶化してごめんなさい。それと、心配してくれてありがとうございます」 満面の笑みで言われると、こちらも毒気を抜かれてしまう。仕返してやろうという気が見事に霧散してしまった。 この卑怯者め。仕方ない、今回は見逃してやろう。 ……いや、決して笑顔に騙されたわけじゃないよ? って、誰に言い訳してるんだ、俺。 何だかよくわからないが墓穴を掘りそうだったので、誤魔化すように足を早める。 綾咲はそんな俺を気にした様子もなく、微笑みを崩さぬまま横に並び、告げた。 「安心してください。完全に一人きりって訳じゃありませんから」 投げ掛けられた彼女の言葉に疑問符を浮かべる。 「どういうことだ?」 「やっぱり部屋が多いとお掃除とかは大変なのでお手伝いさんを雇っているんですけど、 時々その方達が泊まっていってくれますので」 お手伝いさん、ときたもんだ。 「おばあさまが屋敷を管理していたときから働いてもらっている人達なので、とてもよくしてくれてるんです。 おばあさまのお茶のみ友達だったらしくて、話を聞いてたら全然退屈しませんよ」 なるほど、年寄りの相手が苦痛でなければ気楽な環境だろう。友人の孫となれば小言や説教もなさそうだし。 しかしお手伝いさんか。そんなもの俺はテレビのミステリードラマでしかお目にかかったことがないぞ。 一体何を見たというのだお手伝いさん。 どうしていつも殺人事件現場に居合わせるのだお手伝いさん。 何故警察にもわからない犯人を言い当てられるのだお手伝いさん。 ……思考がちょっとずれてきた。ニュートラルに戻そう。 「そんな人までいるとは。さすがはお嬢、格が違うな」 思わず感嘆の息が漏れる。俺のような貧乏人には一生縁のない話だ。 「卒業してもし俺が職に困ってたら是非とも雇ってくれ。そのときはお嬢様とお呼びしよう。……って、あれ?」 さっきまで横にいた綾咲がいない。はてどこに行ったのやらと首を傾げていると、 「篠原くん」 背後から声が投げ掛けられた。振り向くと、いつの間にか綾咲は数歩後ろの分岐点で立ち止まっている。 そういえば雪ヶ丘組とはここでお別れだったな。 「ああ、俺はこっちだから。それじゃあまたな、綾咲」 手をひらひらと振るものの、彼女は挨拶を返してこない。挑むような視線でこちらを見つめている。 「どうした?」 怪訝に思って声を掛けると、綾咲は表情を笑顔に変え、ゆっくりとした動きで俺の正面にやってきた。 そして。 「えい」 ………………………………………………………………。 「あの、綾咲さん?」 「はぁい、何でしょう?」 「もしかして怒ってらっしゃいます?」 「いいえ。私、怒ってなんかいませんよ」 嘘だ。絶対嘘だ。だって顔は笑っているけど、目が全然笑っていない。 それに全身から殺気が放たれている気がするんですけど。 しかし俺の顔面が引きつっている理由はそれだけではない。 一番の問題は、綾咲が舞踏会のダンスに失敗したお姫様のような体勢になっていることである。つまり。 「ではどうして俺の足を思いっきり踏んでいるんですか?」 「さあ、どうしてでしょう? 自分でお考えくださいな」 にこにこと微笑みながら無情なセリフを放ち、綾咲は更につま先に体重を掛けた。 正直に言うと、かなり痛い。が、口答えはできない。 何故なら綾咲さんがとても怖いからです、はい。生物としての本能が今の彼女に逆らうなと告げています。 「俺、何かまずいこと言った?」 「心当たりありません?」 残念だが無かった。額に汗を浮かべながら首を横に振ると、彼女は重心をつま先から踵へと移行。 ひぃ、お慈悲を! という俺の願いも虚しく、 「えい。ぐりぐり」 綾咲の靴が縦横無尽に俺の足の上を蹂躙する。 綾咲が怒りを振りまいているのは転校初期よく目にしたが、感情を露わにするわかりやすい形だった。 だからこんな風に静かに怒る姿は見慣れていない分だけ恐怖が増す。しかも今回の矛先は俺。 身も凍るような恐怖に逃げ出したいのだが、そういうわけにもいかない。 今ここで綾咲の機嫌を直さず放置してしまうと、明日からこの状態の彼女と下校を共にすることになってしまう。 考えただけで寿命が縮まりそうだった。ここは手っ取り早く謝罪して窮地を脱せねば。 しかし何に対して謝ったものやら。肝心の綾咲が怒っている原因が意味不明なのだ。 迂闊に『何故怒っているんだい、子猫ちゃん。俺に理由を話してみなベイビー』とか聞くと、更なる攻撃が待っているだろう。 SS一覧に戻る メインページに戻る |