シチュエーション
玄関を少しだけ開けて、相手を見る。 相手を確認するだけの間を置いて、僕は固まった。 訪ねてきたのはみのるだった。白のジャージードレスを着てハイヒールを履いている。 みのるは僕の顔を見ると、にこやかに笑った。 「おはよ、なおき君!」 「ああ、おはよう……」 「元気ないね、どうかした?」 どうかしているとも。なんでみのるがここに来ているんだ。 よりによってあおいとでかけようとしている時に現れるなんて。 あおいの準備が終わる前にみのるを帰さないとまずいことになりそうだ。 「みのる、今から出かけるから……悪いんだけど帰ってくれないか?」 「どこにいくの?」 首を傾げて怪訝そうな顔をするみのる。 僕が言うべき言葉を言う覚悟を決め、口を開いた。 「実は今から――」 「なおきは今からあたしと一緒にでかけるの。ごめんなさいね」 振り向くと、あおいがそこに立っていた。 申し訳なさそうに笑顔をつくり、みのるを見ている。 「ああ、確かあなたは……なおき君のお友達のあおいさんでしょ?」 「それは昔の関係。今はちょっと違うわね」 「え?」 「なおきとあたしは、恋人同士。婚約までしてあるわ」 あおいはそう言うと左手を持ち上げた。薬指に嵌っているものを見せ付けるように。 あおいの指輪を見て、みのるは表情を少し沈ませた。 「そうなんだ……」 「そ。だから悪いけど……」 「でも、私も恋人だよ。だって、まだ、別れていないから」 みのるの言葉を聞くと、あおいは玄関を開けてみのると対峙した。 あおいは両手を組んで、少し背の高いみのるを見る。 みのるは手を後ろに回したままにこやかにあおいを見返す。 僕は2人の横に立った。いつ、どちらが動き出しても止められるように。 「あなた、自分で言っていること、理解してる?」 「もちろん。まるでストーカーみたいだよね」 「なおきからきっぱりと言われたでしょう。あなたとは付き合えないっていうことを。 それなのにまだ別れていないと言い張る。あなたはなにがしたいの?」 「なおき君ともう一度付き合いたい。ただ、それだけ」 みのるはそう言うと僕を見た。 「ねえなおき君。今からデートに行こう」 「デ、デート?いや……僕は今からあおいとデートに行こうとして……」 「じゃあ、それをキャンセルして私と行こう。私達、恋人だもの」 みのるは僕の右腕を掴むと、体を寄せてきた。 肩には柔らかいみのるの頬が押し付けられている。 まずいって、この状態は。 こんな姿を見たらあおいがなんて言うか……。 「ふうん、そう。譲るつもりはないわけね」 「はい」 「……わかったわ」 え? あおいはそう言うと、目をつぶって首を2回振った。 僕に対してアイコンタクトをしてくるわけでもなく、みのるに文句を言うわけでもなく。 今すぐ暴力を振るおうとしないのはありがたいけど、どうにも不気味だ。 「なあ、あおい……」 「なおき、家に鍵をかけて」 「え……鍵?」 「デートに今から行くんでしょ。あたしとなおきの、ふたりだけで」 あおいは僕の左手を握り、歩き出した。 当然、僕はあおいに手を引かれるかたちで歩かされる。 みのるは、あおいの反応に虚をつかれたのか、僕の右腕を離していた。 もう一度僕の右腕を握ると、あおいは口を開いた。 「あおいさん、どういうつもり?」 「どうもこうもないわよ。あたしとなおきはデートに行くの。予定通りに動くだけよ」 「……私のことは気にならないの?」 「ついて来たいんなら勝手にすればいいわ。目的地がたまたま、同じなんでしょ?」 「へえ……」 みのるは僕と腕を絡めて歩調を合わせて歩き始めた。 あおいのことなどまるで気にした素振りを見せず、僕に笑いかける。 「私、この町に戻ってきてからまだ日が浅いんだ。なおき君、案内してくれる?」 「え?えっと……」 返事に困り、あおいの方を見る。 あおいは僕の手を引きながら半歩前を歩いている。 表情が普段と変わらない不機嫌さを保っているので怒っているかどうか分からない。 ただ、あんなことがあったんだから怒っているのではないだろうか……いや、絶対に怒っているな。 「なおき、今いくら持ってる?」 「3000円ちょっとかな」 「じゃあ銀行に行かないとね。今日はなおきのお小遣いでおごりだし」 「な!なんでそんなことに……」 あおいは立ち止まると、僕をじとりとした目で睨みつけた。 「文句、ある?」 「……いいえ、ありません」 表情を変えずに、肩を少しだけ落とす。 左手にあおい、右手にみのる。美少女2人に脇を固められた、いわゆる両手に華の状態。 しかし、実際にはあまり心地いいものではない。 路地ですれ違う主婦の視線が痛い。後ろからも誰かから見られている気がする。 もしかしたら、自分が気づかないだけで女性と2人で歩いているときも同じ目を向けられているのかもしれない。 歩きながら、意味も無くそんなことを思った。 本来、女の子とのデートは楽しい気分でするものだ。 手を繋いで歩きながら買い物したり、映画館に行って好きな映画を見たり、 喫茶店に入って他愛のないおしゃべりをしたりするだけで楽しい。 1人の女の子とデートするだけでも楽しいのだから、2人だともっと楽しいだろう。 ……と考えるのは間違いだ。たった今、僕はそのことを実感している。 あおいに左手を握られ、みのるに右手を握られて歩くというのは予想以上に疲れる。 みのるは時々、見慣れないものを見かけては僕に話しかける。 「なおき君、あのデパートっていつ出来たの?」 「去年の8月ごろかな。この辺りでは一番大きいところだよ」 「へー……ちょっと入ってみようよ」 みのるが急に方向転換し、僕の右腕を引っ張りながら歩き出した。 右腕が引かれると、左腕を握りながら前進するあおいの力と拮抗することになる。 必然的に僕の体は綱引きの綱のようになる。 「あおい、ちょっと止まってくれ!」 「なに?」 「喫茶店で休んでいかないか?ほら、あそこの」 両手が塞がっているので、顎でデパートの方角を指す。 あおいはデパートの方を見ると、僕の右手を掴む力を少し緩めた。 「……そうね、なおきがそう言うんなら、そうしましょう」 言い終わると、今度はデパートの方向へ歩き出した。僕の手を引いたまま。 ふと、周りを見回してみる。 駐車場に停めてある車から出てきた人の視線がいくつか浴びせられていた。 カップル、家族連れ、男だけの集団、女だけの集団。 近くを通りすがると、かなりの高確率で観察される。 女の子2人に手を引かれている僕の姿は、他人からはどう見えているのだろう。 いや、考えるのはやめよう。屈辱的な答えしか出てこない気がする。 デパートの店内に入ると、あおいが手を離した。 僕とあおいの肩は触れ合わないぐらいの距離を開けている状態だ。 人がたくさん居るところで手を繋いでいると他人の邪魔になるし、 人前で手を繋ぐのは恥ずかしいから、という理由かららしい。 しかし、そんなあおいとは対照的にみのるは僕の腕を離そうとしない。 「ねえ、喫茶店はどこにあるの?」 「2階にあるんだけど、って、そんなに強く引っ張らないでくれ」 「早く、早く行こう?」 みのるに導かれるがまま、エスカレーターに乗り込む。 今日は客の入りはほどほどで、他に乗っている人はいなかった。 みのるは僕と同じ段に立って、肩を寄せてきた。 「こうしてると、私達恋人そのものだね」 「いや、僕にはあおいがいるんだけど」 「むう……でも、今の姿を見たらどっちが恋人に見えるかな?」 言われるまでもなく、どちらが恋人に見えるかは一目瞭然だ。 そして、今の僕とみのるを見ているあおいにもそう見えているのだろう。 おそらく後ろにいるあおいを見るために、首を左にゆっくり曲げていく。 肩越しに見たあおいの目は、僕ではなくみのるに向けられていた。 あおいの目は睨むものでもなく、いつもの不機嫌なものでもなかった。 目を少しだけ細めて、みのるの背中をじっと見つめていた。 「あおい?」 「ん、何?」 「いや、元気ないみたいだけど、どうかしたのか?」 「……別に」 あおいはそっけない返事をすると、1階のフロアに視線を移した。 喫茶店に入って、空いている丸テーブルに座る。 椅子はテーブルを囲むように4つ置かれていた。 僕の右にはみのる、左側にはあおい。2人は向かい合うようにして座っている。 注文を取りに来た店員にコーヒーを3人分注文すると、店員は一礼して去っていった。 みのるは僕の方に椅子を軽く寄せて話しかけてきた。 「この辺りで他に新しくなったところはあるの?」 「他には特にないかな。いくつかお店がなくなったりはしたけどね」 「へー……」 「みのるはイギリスに行ったんだよな。あっちはどうだった?」 「まあ、一言で言っちゃえば……いまいち面白くなかったかな。 あ、あっちでの生活が面白くなかったわけじゃないよ。 私は日本生まれの日本育ちだからそう思ったんだよ。きっと」 「そうなのか。イギリスには一度旅行してみようかと思ってたんだけど、考え直したほうがいいかな」 「行きたいんだったら行ったほうがいいよ。まるで別世界に行ったような気分になるから」 「でも英語なんて喋れないからな。宿すらとれないかもしれない」 「大丈夫だよ。その時は私の家に泊まればいいよ」 「え?両親の出張は終わったんだろ?もうあっちには住んでいないはずじゃあ……」 「あ」 聞き返すと、みのるは口に右手をあてて固まった。 目は大きく開き、僕の顔とテーブルの間を泳いでいる。 「みのる?」 「えっと、あの……向こうに親戚が住んでるから、そこに泊まればいいってこと」 「ああ、そういう意味か」 海外に親戚が住んでいるというだけで結構凄いことに思えてしまうのは、 僕が日本からでたことがないからだろうか。 それに、イギリスで2年間も生活してきたということは、みのるは英語を喋れるということだろう。 英語のヒアリングがまったくできない僕にとっては実に羨ましいことだ。 「お待たせしました」 ウエイターがトレイを持って僕らのいるテーブルの前にやってきた。 みのる、僕、あおいの順にカップを置くと、トレイを脇に持ち替えた。 なんとなく、僕を見つめる彼の目つきが鋭い気がする。 「ご注文は以上でお揃いですか?」 「はい」 「ごゆっくりどうぞ」 ウエイターは頭を下げると、テーブルの前から去った。 コーヒーに角砂糖とミルクを入れて、スプーンでかき混ぜなら2人のカップを見る。 あおいは何もいれず、ブラックのまま飲んでいる。 みのるは角砂糖を3個入れて、しっかりとかき混ぜた後で口をつけた。 取っ手がまだ熱いままのカップに僕が口をつけると、あおいが口を開いた。 「みのるさん」 「なに?」 「イギリスは紅茶が美味しいらしいけど、本当?」 「そうみたい。お父さんが美味しい美味しいってよく言ってたから」 「そう」 あおいはカップをソーサーの上に置くと、テーブルに肘をつき組んだ手の上に顎を乗せた。 「他にも聞いていいかしら?」 「いいよ。どんなことでも」 「日本から発つとき、それまで住んでいた家はどうしたの?手放したのかしら」 「うん」 「今ご両親はどこに?」 「日本に帰ってきてるよ」 「それじゃあ……ご両親の住所はどこ?」 あおいの言葉を聞いて、みのるはカップを持ち上げる手を止めた。 音を立てずにカップを置くと、手元に視線を落としたまま返事をした。 「昔住んで……、いや、えっとね……」 「昔住んでいた家には住んでいないわよね」 「……どこでもいいでしょ、そんなこと」 「そうね、確かにどうでもいいことだわ」 組んでいた手を解くと、あおいはコーヒーカップの中身をあおった。 カップをソーサーの上に置くと同時に、あおいは口を開く。 「なおきの家の前の、アパートの家賃はいくら?」 「なんでそんなことを、あなたに言わなくちゃいけないの」 「比較したいからよ。あたし達が借りているアパートとどっちが高いのかと思って」 「……3万円」 「あら、家賃値下げしたのかしら。半年前、あそこに住む人から聞いた話では4万円だって……」 「っ!それがいったい、なんなの!」 みのるは大声を上げ、テーブルの上を叩いて立ち上がった。 あおいは椅子に座ったまま、表情を変えずにみのるを見上げている。 「さっきから人のことを詮索するようなことばっかり言って!結局何が言いたいの!」 みのるの怒声を聞くと、あおいは椅子をゆっくりと引いて立ち上がった。 店内にいる全員の視線を浴びながら、2人は見詰め合う。 どうしてかわからないけど、みのるはかなり怒っている。 ここで僕が怒りをおさめないと、周りの人に迷惑だ。 「2人とも、とりあえず座って……」 「なおき君は黙ってて!」 僕の声を一段と大きな声で遮って、みのるはあおいを睨みつける。 「答えて!何が言いたいのよ、あなたは!」 「あたしが言いたいのはね……無理しないほうがいいんじゃない?ってことよ」 「なっ……」 「言っている意味、わかるわよね?」 あおいはそう言い残すと、テーブルの上の伝票を手にとった。 頭を下げながらレジに向かい会計を済ませ、店員に向けて頭を下げると、喫茶店の出入り口から出て行った。 僕は座りながら、立ち去るあおいの後ろ姿を見ていた。 あおいの質問を聞いているとき、ひとつ気づいたことがある。 みのるの発言につじつまの合わない部分があったということだ。 みのるの方に視線を移すと、彼女はテーブルに手をついて下を向いていた。 長い髪が顔を隠しているから表情はわからないが、「なんで……そんなこと……」という、 誰に向けられていない呟きは聞こえた。 周りのテーブルについている客は僕たちから目を離して会話を始めた。 それでも何人かは時折ちらちらとこちらを見る。どうやら話のタネになってしまったようだ。 「みのる、とりあえず店を出よう」 「……うん」 みのるの手を引きながら喫茶店を出て、しばらく店内を歩き、人気の少ない場所で立ち止まる。 今いる場所は裏手にある階段で、エスカレーターから離れていることもありほとんど人がこない。 僕が階段に腰を下ろすと、少しの距離を空けてみのるも同じ段に座った。 みのるはぼんやりと下の階段を見つめたままだった。 僕から話しかけようと思っていたのだけど、みのるの沈んだ顔を見ていると声をかけられなかった。 横顔を見つめたままでいると、やがてみのるの唇が小さく動いた。 「ごめんね、なおき君」 「どうして謝るんだ?」 「私、いくつか嘘をついてたの」 「……いくつ?」 「ふたつ……ううん。ふたつと半分。住んでる場所のこと、家庭のこと、あと半分は私の性格……かな?」 そこまで言うと、みのるは立ち上がった。 「ここじゃなんだから、外に出よう。別の場所で説明してあげるよ」 僕とみのるはデパートから出ると、入り口近くに置いてあるベンチに座った。 近くにある自販機で缶コーヒーを2本買い、1本をみのるに渡す。 さっき喫茶店でコーヒーを飲んだばかりだったが、今の僕は喉が渇いていた。 プルタブを開けて、コーヒーを口に含む。 一番甘いカフェオレを買ったのだが、いまいち味がわからなかった。 みのると2人で沈黙したままベンチに座り続ける。 僕がコーヒーをちびちび飲んでいると、みのるが喋りだした。 「まだ私の両親は、イギリスに住んでるんだ。 両親の出張が終わったっていうのは嘘。 向こうの大学が夏休みになったから、私だけで日本に来たの」 「なんでわざわざ日本まで来たんだ?」 「それはもちろん、なおき君に会いたくなったから。あ、これは嘘じゃないよ。 もう一度会って、私の気持ちを伝えたかったの。私が大学を卒業するまで待っていてほしい、って」 みのるは短く笑うと、コーヒーを口にした。 缶を少しだけ傾けていたから、少しだけ飲んでいるように見えた。 「でも馬鹿だよね。2年間も音沙汰なしなのに、まだ付き合えると思ってたなんて。 なおき君の近くにはあおいさんがいるはずだって、勘付いてたのにね」 「そう思ってたんなら、なんで諦めないなんて言ったんだ?」 僕の言葉を聞くと、みのるはむっとした顔になった。 「……ちょっと考えたらわかるはずだけど」 ちょっと考えたら、と言われても。 昔のみのるは僕を困らせるためにあんなことを言う人じゃなかった。 しばらく会っていなければ性格が変わることもあるかもしれないけど、どうも納得できない。 「……我慢できなかったの。久しぶりになおき君に会ったら。 昔の楽しかったこととか、会えなくて寂しかったこととか思い出すと、 どうしても気持ちを抑えることができなかったの。 ごめんね。そのせいで2人の邪魔をすることになっちゃって」 みのるは僕に向かって頭を下げた。 顔を上げたときの目は、本当に申し訳なさそうにしていた。 「……僕の方こそ、ごめん」 「?どうして謝るの?」 「僕はみのるがもう帰ってこないと思って、それであおいと……」 「気にしすぎだよ、なおき君は。そこがいいところでもあるんだけど」 みのるは缶コーヒーを一気にあおると、くずかごに放り込んだ。 「今からちょっと付き合ってもらってもいい?」 「いいよ、どこに行く?」 「私が今住んでいる部屋」 みのるはベンチから立ち上がると、僕に背を向けて歩き出した。 僕はコーヒーの残りを飲み干してくずかごにいれて、みのるの後を追った。 ***** デパートから歩いて、みのるの住むアパートに到着した。 アパートの階段を登り、向かいにある自分の家を観察する。 あおいはもう帰ってきているんだろうか? 喫茶店で何も言わなかったからどこへ行ったのかわからない。 自分の部屋を見ても窓が閉め切られているせいで中の様子は伺えない。 できれば、僕が帰ってきたときにあおいがいてくれたら気が楽だ。 文句か何かを言われるならできるだけ早い方がいい。 みのるは昨日僕を連れ込んだ部屋の前にくると、呼び鈴を押した。 おかしい。自分の部屋なら呼び鈴を押すはずがない。 部屋の中に他の人が住んでいるということなのだろうか。 いつまで待っても、ドアの向こうからリアクションは帰ってこない。 「今いないみたいだね」 「他に誰か住んでるのか?」 「ここ、見てみて」 みのるが指で指したのはドアの横についているポスト。 ポストには、みのるの苗字とは違う苗字が書かれた紙が貼りついていた。 じゃあ、ここはみのるが借りている部屋ではないということか。 みのるは部屋の鍵を開けると、ドアを開けて中へ入っていった。 「どうぞ」 「うん。お邪魔します」 昨日僕が入ったばかりの部屋は、特に変わっている様子はなかった。 部屋の中は整理されていた。 本は全て本棚の中に収まっていて、床に放置されていない。 テーブルの上には何も乗っていない。余計なものがないのかもしれない。 ふと、机の方を見たら写真が飾ってあった。 みのるとは違う女性が映っていた。 写真の中の女性ははにかんだように微笑んでいた。 「その写真に写っている人が、この家に住んでいる人。 私の友達。日本にいる間だけ間借りさせてもらってるんだ」 「じゃあ、ここに住んでいるっていうのも嘘?」 「住んでいるという意味では嘘はついていないけど。うん、結果的にはそうなるよね」 みのるは畳の上に座ると、僕を見上げた。 「座ったら?」 「ああ、うん」 促されるままに、みのると向かい合うようにして胡坐をかく。 「なおき君は……」 「うん?」 「えと……あおいさんとどこまでいってるの?」 「どこまでって、どういう意味で?」 「ほら、結婚を前提に付き合っているわけだからさ、その……」 みのるは僕から目をそらすと、ちらりと下を見た。 その仕草で、みのるがどんな意図の質問をしたのかがわかった。 「まあ、その……いくとこまでいっている、って感じかな」 「……ふーん」 みのるは半眼で僕を見た。 「不純」 「なんでそうなるんだ」 「婚前交渉を行うなんて、不純です」 今時何を言っているんだ、と僕は思った。 だが、もしかしたらイギリスでは婚前交渉を行うのは当たり前ではないのかもしれない。 それか、両親が貞操観念に関して厳しい人なのかもしれない。 しかし、女性からそう言われると悪いことをしたような気分になってしまうのは何故なのだろう。 「昔付き合っているときは私に何もしてこなかったくせに」 「何もしなかったわけじゃないだろ」 「私とは、キスまでしかしなかった」 「高校生だったらそんなものだと思うんだけど」 「知ってた?高校のクラスメイトは何人も経験済みだったらしいよ」 「……それは知らなかった」 高校時代に仲の良かった友人は誰一人としてそんな話はしなかった。 僕が他人のそういったことに干渉しないようにしていたからかもしれない。 「あの時、無理を言って抱いてもらえばよかったかな」 「は?」 「そうしたら、もしかして、私のこと……」 そう言って、みのるは僕をまっすぐに見つめた。 みのるの言葉の続き。僕にはなんとなくわかる。 『海外へ行ってしまっても、待っていてくれたのかも』。 僕は、みのるを抱いていたら、みのるが戻ってくるのを待っていたのだろうか? ――きっと、違う。 抱いていたとかいないとか、そんな事実が必要だったわけじゃない。 僕に必要なものはみのるとの約束だった。 約束があれば、僕はみのるのことをずっと待っていた。 あの時、みのるが海外へ行ってしまったとき、僕は悲しんだ。 海外へ行くみのるに何も言わなかったことを、僕は悔やんだ。 きっと、何よりも先に、僕は言うべきだったのだ。 『いつか日本に戻ってきたら、また恋人として付き合ってください』、と。 何故そんな簡単な一言を言い忘れてしまったのか。 高校生の僕にとって、みのるは誰よりも大切な存在だったのに。 そして、みのるが僕を、僕が想うのと同じぐらい想っていてくれたこともわかっていたのに。 けれど、今は違う。 僕にはあおいがいる。誰よりも大切な、婚約者がいる。 あおいを裏切りたくない。かつてのように失った悲しみを味わうつもりはない。 あおいに悲しい思いをさせるなんて、僕は嫌だ。 だから、僕は口にする。みのるに期待をさせるわけにもいかないから。 「ごめん。たとえみのるとそういうことをしていたとしても、待っていたとは思えない」 「…………まあ、やっぱりそうだよね……当たり前か」 「ごめんな、みのる」 「別に、謝らなくても」 「ごめんな、ごめん」 下を向いて、ひたすらに謝る。 謝罪の言葉を言わずにはいられなかった。 「……なおき君は、本当に優しいよね。 私みたいに、いきなり戻ってきて迷惑なことを言う女さえ邪険に扱わない」 「僕は優しくなんてないよ」 もし優しい男であれば、恋人の気持ちがわかる男であれば、みのるを待っていたはずだ。 「あおいさんが羨ましい。これからなおき君をずっと独占できるなんて」 「……独占というより、支配の方がしっくりくるけどね」 「そうだね。あおいさん、ちょっと怖いから。……あ、悪く言っているわけじゃないからね。 ものすごく察しがいいし、独占欲も強そうだし、って意味。浮気したら、すごいことになりそう」 「まあね……」 仮に僕が浮気したり、もしくはあおいに浮気の誤解をされた日にはどうなることか。 おそらく修羅場は免れないだろう。 そして、僕は刺される。これはほぼ間違いない。 「どうしよっかなー。今からなおき君と……うふふ」 みのるの目があやしく笑う。 この目は、よからぬことを企んでいる目だ。 「なんだよ。その目は……」 「んーん、なんでもないよ」 「本当に?今から僕をどうにかしようとか考えてないよな?」 「……まさか。そんなことするはずないじゃない」 「目を逸らさずに話してくれないか」 僕から顔を背け、とぼけた振りをするみのる。 その仕草を見ていると、自分の気持ちが楽になる。 僕はみのるに許されているのではないか、と。 また、僕はいつまでも後悔し続けなくてもいいのではないか、とも。 ***** みのると別れ、自宅に帰る。 玄関を開けると、そこにはあおいが待っていた。 「ただいま」 僕がそういうと、あおいはいつも通りの眼差しを僕に向けた。 「おかえり、なおき」 見る者に何を考えているのかわからなくさせる、不機嫌そうな目。 もしかしたら僕とみのるがいることを心配に思っていたのではないかと期待していたが、 あおいの表情からは何も読み取れなかった。 「なおき、お昼は?」 「いや、まだ食べてない」 「そう。よかった、料理が無駄にならなくて」 「……もしかして、僕が帰ってくると思って、作って待ってたのか?」 壁掛け時計を見ると時刻は3時を回っていた。 僕がご飯を食べて戻ってくるかもしれなかったのに。 それに。 「怒ってないのか?」 「何を?」 「いや、何をって……」 僕は視線をアパートの方角へ向けた。 「あの子と何かあったかも、って?」 「うん……」 「あんた、昼飯抜きがいいの?」 あおいの目がさらに細くなり、声までが不機嫌になった。 なぜか知らないが、今のあおいは怒っている。 僕が何かおかしなことを言ったのだろうか。 「あんたがあの子に何かするわけないし、あの子があんたに何かするわけないでしょ」 それはどういう意味なのか。 僕にはみのるに手をだすわけがない、というのはわかる。 あおいは僕を信頼してくれているということだろう。そう思ってくれるのはありがたい。 しかし、みのるが僕に何もしないということを、なぜあおいは知っているんだ? 「あの子、無理してるのがバレバレだったわよ」 「みのるが無理をしてるだって?」 「……あんた、本当にあの子と昔付き合ってたの? あの子の昔の性格を思い出してみなさいよ。どんな性格だった?」 天井を見上げながら、黙考する。 みのるは昔、僕にベタベタしたりしなかった。 人前で手を繋ぐことを恥ずかしがるような女の子だった。 だから僕自身、みのるに強引なことをしなかった。 僕がキスまでしかしなかったのも、みのるのためを思ってのことだった。 あおいは、みのるの性格まで理解していたのか。 「思い返してみると、再会してからのみのるの行動はおかしかったかも……」 「そういうことよ」 みのるは僕に背をむけると、さっさと台所へ向かっていった。 靴を脱いで、居間へ向かう。 そこには、ラップをかけられた冷やし中華が用意されていた。 「はい、これ」 あおいは冷やし中華のたれと、水の入ったコップを僕の前に置いた。 たれをかけて、時間が経ったせいで固くなった冷やし中華を箸で混ぜて、食べる。 正午から時間が過ぎていたけど、麺はちょうどいい固さだった。美味い。 「あおい、おじさんとおばさんはいつ戻ってくるんだ?」 「明日は戻ってこないって連絡があったわ」 「それじゃあ、明日、ちょっとだけつきあってくれないか?」 「またデートのお誘い?いいわよ。明日はあの子も来ないだろうし」 「いや、実はみのるがらみの用事で……」 「……へえ」 あおいは僕の前から冷やし中華の皿をどけた。 そして、自分で箸を持って食べだした。 「あ、いきなり何を」 「続き」 「へ」 「付き合ってあげるわよ。どこにいけばいいわけ?」 箸を止め、怒りを押し殺した声であおいが言った。 「実は、駅につきあってほしいんだ」 「駅?今度は海水浴にでもいこうっての?」 あおいは、眉間に深いしわを寄せた。 さらに不機嫌になったことを告げるサインだ。 あおいは海水浴にいくのが好きではない。 あおいが自分のスタイルを気にしているということを、僕は知っている。 小柄で、起伏が弱い体をしているあおいはスタイルが丸わかりになる水着を着たくないのだろう。 「悪いけど、そういうことならパス。2人で行ってきなさい」 「いや、待って。そういうことじゃないんだ」 「じゃあ、どこにいくつもりなのよ」 「実は、明日、みのるが――」 ***** 翌日、僕はあおいの運転するバイクの後ろに乗って駅までやってきた。 僕1人で来てもよかったのだが、あおいが運転するといって聞かなかったのだ。 あおいはバイクを駐輪場に停めると、ガードレールにもたれかかった。 「それじゃ、ちゃっちゃと済ませてきなさい」 「あおいは行かないのか?」 「あたしが行く必要なんかないでしょ。あの子の見送りなんて」 今日、みのるはイギリスへ帰ることになっていた。 僕はそのことを、昨日みのるの口から聞いていた。 駅から空港バスに乗って空港へ向かい、イギリス行きの飛行機に乗るらしい。 そうなったら、もうみのるとは会えなくなる。 多分、今生の別れになってしまうだろう。 「せめて、何か伝言でもないのか?」 「伝言ね……」 「ほら、元気でねとか、また会いましょうとか」 「……1回だけなら許してあげる」 「え?」 「1回だけなら許してあげる。そう言って、あの子に」 「ああ、うん。わかった」 駐輪場から離れて、駅のロータリーへ向かう。 駅から出てくる人と、駅に入っていく人たちが暑そうな顔をして歩いていた。 僕もポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭った。 気温と、日差しと、風と、道路に浮かぶ陽炎がまだまだ夏であることを証明していた。 いくつかあるバス停のベンチ、その一つにみのるが座っていた。 「みのる」 「あ、なおき君。今日も暑いね」 「うん」 みのるはノースリーブのシャツとデニムのショートパンツといういでたちだった。 足元には大きなバッグ。それを見て、みのるがイギリスへ帰るという事実が現実味を帯びてきた。 「あおいさんは?」 「来るように言ったんだけどね、僕1人のほうがいいだろうってことで来なかった」 「そうなんだ。あおいさんともお別れしたかったな」 「代わりに伝言を預かってきたよ」 「どんな?」 「1回だけなら許してあげる、って言ってた」 みのるは、わからない、というふうに首を傾げた。 僕も考える。1回というのは、どういう意味なんだろうか。 おそらく、みのるが何かするのを、1回だけ許すという意味だろう。 答えが解らず考え込む僕と対照的に、みのるは何かに気づいたように眉をぴくりと動かした。 「あ、わかった。どういう意味か」 「どんな意味なんだ?1回って」 「なおき君に」 「僕に?」 聞き返す僕に、みのるは何か言おうとして口を開いた。 しかしそれをやめ、かぶりを振り、また口を開いた。 「……やっぱり、やめた。なおき君に意味を教えるのも、私がそれをするのもやめ」 「なんでだよ。変なことなのか?」 「うんん、そうじゃないんだけど、むしろ嬉しいことだけど、あおいさんに悪いから。だからしない」 「……よくわからないけど、本当にそれでいいのか?」 「その方がいいの。きっと、その方が私のためにはいいんだ」 そう言って、みのるは笑った。目と唇だけを緩ませて、笑った。 控えめな微笑みが、僕に向けられていた。 僕は笑うこともできず、みのるに何か言うこともできなかった。 「なおき君。私もあおいさんに伝言があるんだ」 「みのるも?」 「うん。あのね……こんなときだからって譲る必要はないよ。無理しない方がいいんじゃない?って言って」 「なんか、どこかで聞いた台詞だな」 「気のせいじゃない?」 やりとりが終わったところで、バス停の前に空港バスが到着した。 先頭のドアからたくさんの人が降りていく。 バスの中心にある乗り込み口がバス停のベンチの前で開いた。 みのるはバッグを肩に担ぐと、口を開いた。 「それじゃあ、私、行くね」 「ああ、うん……」 「あおいさんと、お幸せにね」 「みのるも、元気で」 「………………うん」 みのるは下を向いて、次に固く握られていた右手を顔の前に持ち上げて、手を広げた。 手のひらを数秒見つめ、嘆息すると僕に笑顔を見せた。 満面の笑顔だった。 みのるはバスに乗り込むと、僕の方を振り向いた。 「それじゃ、バイバイなおき君!」 「ああ!バイバイ、みのる!」 手を振って、精一杯大きな声で、僕は返事をした。 ドアが閉まり、バスが動き出す。 ゆっくりとロータリーを走るバスは、車線に合流する手前で一度停止すると、 車の流れが途切れたところで発進した。 僕からみのるに伝えたい言葉はあった。けど、言わなかった。 みのるはバイバイ、と言った。みのるはきっと、僕の言いたい言葉を、言ってほしくなかったのだ。 だから僕もバイバイ、と言った。みのるにはきっと、あの言葉で充分だったのだろう。 そうでなければ、最後に見た顔が笑顔だったのを納得できないから。 ***** 駅からバスに乗り、自宅へ向かう。 たった今僕の前から去っていった女性と気持ちを重ねるつもりで窓の外を見る。 日本から離れて、イギリスへ向かう人の気持ちはわからないが、 こみ上げてくる感情のせいで、車の走り回る風景すら別物に感じられた。 手元の携帯電話の液晶画面を見る。 あおいから送られたメールの文章が表示されている。 『待ちくたびれたから先に帰る』。これだけ。 駐輪場に戻り、あおいとバイクがいないことに気づいてからメールを確認すると、このメールが届いていた。 そのせいで僕はこうやって1人、バスに乗って自宅へ帰るはめになったわけだ。 けれど、正直ありがたくもあった。 今の僕は、1人になりたい気分だったから。 あおいが僕に気を使って先に帰ってくれたのか、本当に待ちくたびれたから帰ったのかはわからない。 前者であったら嬉しいな、と僕は思った。 自分がこれからやらなければいけないことを整理する。 あおいの両親、僕にとっては昔から仲良くしてきたおじさんとおばさんが帰ってきたら、挨拶に行く。 挨拶が終わったらあおいと同棲しているアパートに帰り、もうすぐ始まる大学の準備をする。 大学に通いながら、あおいと持ちつ持たれつの生活を繰り返す。 そして、大学を卒業して、お金が溜まったらあおいとの結婚式を挙げる。 想像の中で、少しだけあおいを裏切るつもりで結婚相手を変えてみる。 後ろ姿は浮かぶけれど、その相手は僕に顔を見せてくれなかった。 結婚相手をあおいに戻す。たちまち、ぱっと想像のもやが晴れた。 あおいは、不機嫌そうな顔を緩ませて、頬を少しだけ紅くしていた。 この想像を現実にしよう。そのために、努力していこう。 僕を信じてくれるあおいと同じように、僕もあおいを信じよう。 あおいと2人なら僕は大丈夫だ。 バスが自宅近くにあるバス停に到着した。 お金を払い、バスを降りる。 クーラーの効いていたバスの中と、外気温との温度差がじっとりとした汗を浮かび上がらせた。 ツクツクボーシが騒がしく鳴いている声が聞こえた。 ツクツクボーシの声を聞くと思い出すのが、あおいと一緒に遊んだ昔のことだ。 昔のあおいはプールに出掛けるのが大好きだった。 帰ったら、あおいをプールに誘おう。 積極的に誘えば、プールなら一緒に行ってくれるはずだ。 ご機嫌をとるために、どこかの自動販売機でジュースを買っていこう。 僕はジュースを探し求め、歩き出した。 あおいには、何を買っていこうか? 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