コトノハ ヒラヒラ第三話(非エロ)
シチュエーション


奥さんを亡くしてから男手一つで咲耶を育ててきた彼女の父親が、多額の借金と幼い咲耶を残して失踪したのは、七年前だ。

その日、小学校に咲耶が来なかった事に、俺は気付いていた。けれど、風邪でも引いたんだろうと思って、特に気にも留めなかった。
次の日も、咲耶は学校に来なかった。風邪がまだ治らないんだろうと思って、やはり俺は気にしなかった。
また次の日も、咲耶は学校に来なかった。相当質の悪い風邪なんだろうと思って、今度お見舞いに行ってやろうと思った。
けれど、その日はそろばん塾があって忙しかったし、何より、女子の家に遊びに行くのは当時の俺にとってどうにも気恥ずかしいものがあって、結局行かなかった。
次の日に何も連絡が無くて、やっと俺はおかしいと思った。担任に、咲耶の欠席の内容を聞いても、連絡が何も無いために分からないと言うのだ。担任も咲耶の家を訪ねてはみたそうだが、玄関に鍵が掛かっていて、誰も居なかったのだと言う。
そして俺は、その事を父に話した。すると父には、何か心当たりがあったらしく、以前に咲耶の父から預けられていた合鍵を引き出しから引っ張り出すと、俺を連れて咲耶の家へと向かった。
咲耶の家の郵便受けには、もう何日分も新聞が溜まっていた。父の顔つきは段々と深刻になっていき、俺は訳の分からない不安に襲われた。
そして、合鍵でドアを開けた時。

――――数日の間まともに食事もせずに父親の帰宅を信じて、痩せ細った身体で懸命に家の留守を守っていた、一人の少女が居た。

咲耶は俺達の姿を見た瞬間、安心したように微笑むと、椅子からずるりと崩れ落ちた。咄嗟に父が受け止めた為、怪我は無かったのだが、その瞳がいつもの快活な、輝きに満ちたものでなかった事は、傍で見ていた俺にもわかった。

『あの大馬鹿野郎!!』

親友が娘を置き去りに蒸発した事を悟った父の怒号が、人気の無くなった部屋に響き渡った。温厚な父が激怒した事も、当時はそういった事情を理解できなかった俺にとってはショックだった。
けれど、訳も分からず、泣きながら咲耶の名前を呼んでいた俺にも、たった一つだけ、分かる事があった。


咲耶の幸せな時間が終わって、それが二度と再開される事は無くなってしまったのだ、と。


後になってから分かった事だが、咲耶の父は失踪する日、予め事の顛末を記した手紙を咲耶に渡していたのだ。今日からお父さんはしばらく会えないから、夜になったら山口さんの家に電話をかけてお家に来てもらって、この手紙を見せなさい、と。
聡い子供であった咲耶は、父の表情から、それを行えば父親とは二度と会えないことを直感で感じ取った。そして、子供なりに考えて、言われた事をしなければ、お父さんが怒って帰ってくる、と考えたらしい。
そして咲耶は、数日の間、子供一人で過ごすには大きすぎる家の中で留守番をしていたのだ。

咲耶に異変が起こったのは、その次の日。病院で目を覚ました後だった。意識を取り戻した咲耶に、傍に着いていた看護士が話しかけたらしい。けれど、咲耶は何も答えなかった。
表情で何かを伝えようとはしたし、首を縦に振るか横に振るかで意思表示も出来た。けれど、医者や看護士、カウンセラーがどれだけ話しかけても、咲耶が言葉を発する事は無かった。
俺がそんな咲耶の様子を担任から聞いて、学校を飛び出していったのは、更に翌日の事だった。病院の受付で咲耶の病室の場所を聞くと、彼方此方から聞こえてくる注意の声も聞かず、全力で走り出した。

『さくやっ!』

病室に辿り着いたとき、面会謝絶の札が出ていたが、『めんかい』から下の漢字がまだ読めなかった俺は、無視して扉を開け放った。病院に相応しくない乱暴な登場に、当然医者に怒られて看護士につまみ出されそうになったのだが。

『・・・かず・・・くん・・・?』

誰もが目を瞠った。咲耶が意識を取り戻して、初めて発した言葉。それは、病院の廊下を平気で走り回り、面会謝絶のドアを乱暴に開け放つような、馬鹿な子供の名前だったのだから。
もしかしたら俺の存在が、咲耶の回復のための何らかの鍵になっている、と医者達は踏んだのだろう。俺の両親が必死に頼み込んだこともあって、保護施設に入れられる筈だった咲耶は急遽、俺の家に引き取られる事になった。
咲耶はそれから、俺と、俺の家族以外の人間とはまともに口を利かぬまま、七年の時を過ごした。

喫茶店帰りの騒ぎから十数時間が過ぎて、翌日。朝から俺は注目を浴びていた。教室に入ればクラスの連中が俺を見て眉を顰め、廊下に出れば大抵の奴らが視線を逸らして道を空ける。

(・・・まあ、あれだけ派手にやらかせばこうなるだろうな)

汚いものを見るような視線と、珍しいものを見るような視線。遠慮もへったくれも無いそれらを浴びて、どうにも肌がぴりぴりとする。なんとなく、頬に貼った絆創膏の下の傷まで、じくじくと痛んだ気がした。
品行方正且つ成績優秀と名の知れた二年三組クラス委員長の山口和宏が、現役の運動部員をあわや殺人未遂の目に合わせたという噂は、翌日には既に学校中に広まっていた。
とりわけ仲の良かった奴らは心配して、何があったんだと話しかけてくれたけど、他のやつらには既に『キレると容赦なく殺戮に走る男』のレッテルが貼られてしまったらしく、怖がって誰も近付いて来ない。
そうこうしている内に、俺は校内放送で呼び出された。行き先は、校長室だった。

「俺が先に殴りました。特に理由は無いです。ただ、むかついたから殴りました」

俺の言葉に、校長以下数名の教師は、呆気に取られていた。そちらを見ていないから何とも言えないが、多分隣を向けば、古賀以下三匹の馬鹿が、揃って同じような表情を浮かべているのだろう。

「しかしだね、山口。日頃の君の生活態度を見る限り、私達には、君がそんな軽薄な理由で暴力に訴えるような人間とは思えないのだが」

校長の髭面の奥から言葉が流れる。何でも良いから煮るなり焼くなりしてもらってさっさと終わりにしたかった俺は、ぶっきらぼうに述べる。
「ええ、日頃からいい子ちゃんのふりしていて疲れましたし。なんでもいいからストレスの捌け口が欲しかっただけです。そこに、ちょうど良くこの三人が居た。それだけです」

スラスラと口を突いて出た台詞に、担任と教頭は唖然としていた。しかし、校長はふーっと大きく溜息をつくと、未だに納得の行っていない部下達を一瞥して、こう言った。

「なるほど、よくわかった。明日から終業式までの一週間、同校学生間における暴力行為で山口を停学処分とする。朝倉と篠田が山口に振るった暴力は正当防衛とするが、反省文をA4レポート用紙で十枚、明日までに提出する事。尚、山口はこの後、ここに残りなさい。以上」
「すんませんでした」

深々と頭を下げる俺につられて、隣に居た古賀、篠田、朝倉の三馬鹿がぎこちなく頭を下げる。そのまま教頭と担任に連れられ、三馬鹿が退室する。擦れ違いざま、古賀がこっちを見て、何か複雑そうな表情をしていた。

・・・・・・勘違いすんな、お前を庇ったわけじゃない。俺はここにいる教師達にまで、咲耶のことを知られたくなかっただけだ。

そして、校長室には俺と、その部屋の主だけが残った。

「・・・・・・さて、和宏。あれで良かったのか?」
「ああ、助かったよ伯父さん」

部屋の主・・・この高校で校長を務める俺の伯父、山口和樹(やまぐちかずき)は、やれやれ、といった表情で俺を見た。立っていた俺にソファに座るように促すと、自分の机から煙草の箱と、使い古されたオイルライターを取り出した。

「おいおい、ここって禁煙じゃないの?」

俺が言うのも聞かず、四角い形の彼方此方に傷が目立つライターの火打石を指先で弾く伯父さん。やがて伯父さんが俺に背を向けて、大きな窓をガラガラと開け放つ。
一瞬だけ吹き込んだ風に流されたのだろう、煙草特有のいがらっぽい匂いが、換気しきれずに俺のほうまで微かに漂ってきた。

「吸いたくもなるわい。ったく、お前は何を考えとるんだ・・・教師として和也に合わす顔が無いぞ。俺はあいつに何をどう言い訳すれば良いんだ」
「悪かったって、つーか親父にはもうバレてるし既にボッコボコにぶん殴られたよ」

俺が顔に張り付いた絆創膏の一つ―――取り巻き共のパンチではなく、親父の拳骨で発生したもの(複数)―――を指差して苦笑いを浮かべると、伯父さんは、あいつならそうするだろうな、と言って軽く笑った。
やがて、開け放った窓からすぱーっ、と紫煙を吐いた伯父さんは、先程よりも若干硬い・・・要するに真面目な声で言った。

「古賀のハナタレ小僧が、咲耶ちゃんのことで何か言ったらしいな」
「げ、なんでもうバレてんだよ!?」
「今朝方、お前の親父に電話で聞いた。咲耶ちゃん、お前が和也に殴り倒された後で和也と華澄さんに涙ながらに説明して『和宏は悪くない』って訴えたそうだぞ」

親父達にそこまでバレてるって伯父さん知ってたんじゃん・・・

「ていうか、咲耶・・・あれほど何も言うなって言ったのに」
「まあ、お前の気持ちもわからんではない。咲耶ちゃんの前でその話をさせて傷付けたくないと思うお前の気持ちは、立派だと思う」

伯父さんはそこで一旦言葉を切り、煙草を携帯灰皿の蓋に押し付けて火の消えたそれを灰皿本体の中に放り込むと、子供の悪戯を窘める様な優しい声音で俺に言った。

「けどなあ、あの子の事を心配するあまりお前が暴走してたら、本末転倒も良い所だぞ。お前だって、それは嫌だろう?」

それは、昨晩親父にも言われた事だった。親父の時は拳骨のサービス付きだったけど。

『咲耶を心配するお前の気持ちは分かる。だがな、お前はそうやって咲耶の為と思って突っ走って、結局あの子に心配をかけたんだぞ。それを忘れるな』
「・・・ああ、気を付けるよ」

二人分の忠告をありがたく受け取って、その意味を噛み締めた。






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