ひとつだけ・2(非エロ)
シチュエーション


使い込んだ小銭入れから残りのお金をぶちまける。

「ひい、ふう……何とかなるか」

母親のパート代とたまにあたしが手伝う内職での暮らしは楽ではない。
それでも月に僅かばかりの小遣いは与えて貰ってはいたのだが、他の子達と違い毎日の昼食もそれで
賄わなくてはならないため楽ではなかった。
父親は小学校を卒業する頃には全く姿を見せなくなった。
いいヒモの口でも見つかったのじゃないか、と叔母に母がこぼしているのを聞いてしまった事がある。
もうあたしには父親にも母親にも円満な家庭を望むだけの気力もなにも残ってはいなかった。
多感な思春期に於いて既に人生の大部分を諦めて、俯き唇を噛む日々が続いていた。

食費の入った封筒から千円札を抜いて近所のスーパーへ行く。
中学生になってからは夕飯の支度はあたしがやるようになった。といっても夕方の値引きシールの
貼られた安い鰯やアジなどの魚を焼き、味噌汁を作るくらいのものだったのでちっとも上達などしな
かったのだけれど。

「あ」
「よう、買い物?」

門を曲がったところでばったり兄ちゃんに会った。

「うん。兄ちゃんは……?」
「ん?ああ、まあちょっとな。……んじゃ俺急ぐから」

挨拶もそこそこに落ち着かない様子で駅の方へ駆けていく。
他の子達みたいに可愛い流行りの私服など持ってはいないあたしは、無理やり着ている小学校からの
それを誰かに見られるのが恥ずかしくて、いつも平日は制服姿でうろついていた。
いそいそとした後ろ姿を見送りながら、こんな時に会うなんて――学年の割には少々くたびれた
誰かからのお下がりのセーラー服に予備さえない靴を恥じ、ちくちくと締め付ける得体の知れない痛みに
怯えていた。


『子持ちの年上の女性と付き合っているらしい――』

少し前に、叔母が母に話していたのだという。
そんな事を中学生の娘に話す女親もどうかと思うのだが、その頃のあたしにはそれをどうこう考える
よりも、兄ちゃんに恋人ができたという事実の方が受け止めるには重いものであった。

小学校低学年のうちは当たり前にくっついていたあたし達だったが、徐々に父親が家に寄り付かなくなり、
兄ちゃんが高校生→大学生へと成長しその生活が変化するにつれてそんな事も無くなっていった。
特に邪険にされたわけではないし、あたしが避けたわけでもないけれど、『いつでもおいで』と言われると
安心していつの間にか足は遠のいていく。
本心は

「兄ちゃんとあれしたいなあ、これ話したいなあ」

という気持ちがはちきれんばかりに溢れてはいたのだけれど、何となくもたもたしているうちにその
きっかけを失った。
会えると思えば会わなくなってしまうものだというありきたりな事に、その頃のあたしは気がついては
いなかったのだった。

――そんなちょっとした心の寄りどころがどれだけ自分にとって大切なものだったのか、あたしは
この時死ぬほど苦しみ思い知る事になるのだ。


母と脚のぐらつき始めた不安定なこたつの上に広げられた紙を挟んで向かい合う。
テレビのドラマでよく見る事のある緑色の枠のそれには、ミミズの這ったような字で父親の名前が
書かれてあった。

「そういう事だからね」

いつかはこんな日が来るであろう事は予想も覚悟もしていたし、どこかで密かに願っていた事でも
あった筈だった。

「……まさかやめてとか言わないわよね」
「別に」
「なら良いんだけど。ちっとも寂しそうじゃないのね、あんた」

なんだかあの人が気の毒に思えるわ、とぶつぶつ言いながら片方の欄に名前を書き込んでいた。
おとうさんがかわいそう。わかれないで、とでも言えば満足するのか?どっちにしろ面白い顔など
しないくせに――。とりあえず何か文句を当て付けるものが無ければ気が済まないのだろう。そういうひとなのだ、この人は。
気の毒なのはどっちだ。

「明日にでも荷物、整理し始めなさいね」
「え?」
「引っ越すから。このアパートにいる必要もないし、あたしの知り合いに新しい仕事紹介して貰ったからね」


***

久しぶりに訪ねた兄ちゃんは慌ただしく片付けものをしていた。

「……どっか行くの?」

ちょっと大きめな鞄に衣料を詰め、紙袋まで使って教科書を持ち出そうとしていた。

「ああ?うん。ちょっとな」
「旅行?……じゃないよね」
「ん……。家、出るんだ」
「えっ!?」

聞いてない。

「独り暮らしするの?兄ちゃん」
「……」

荷造りの手を止めてちょっと困ったようにあたしを見て、また黙って続きを始めた。
その時、一番認めたくない可能性が頭の中を掠めて、まさかとは思いながらも半分恐いもの見たさに
突き動かされるような気持ちになり、冷静に考え直すより先にそれは口をついて出た。

「もしかして好きな人と暮らすの?」

ほんの少しだけ動きを止めた手はまた忙しなく動き、

「ああ」

とだけ答えた。

「嘘」

あっさりとあたしの疑問は解決したものの、その後にやってきたのはそれまでに無かった痛い程の
喪失感だった。

「行っちゃうの?」

こんな時に。

「兄ちゃん……学校どうするの?まさかやめちゃうの?」
「いや。やめないよ。バイトもするけど、後1年行けば卒業出来るし」
「じ、じゃあまだここにいたらいいじゃない。おばちゃんはどうするの?」
「……母さんが許してくれなきゃ仕方ないだろう?」

まだ子供の部類に入るであろうあたしにだって、子持ちの年上の女性ともなれば反対する叔母の心も
解らなくもなかった。
だがそれ以上にあたしは。

「あたしは……?兄ちゃんがいなくなったらどうしたらいいの?」

守ってやりたいと言ってくれたその手は、見えない誰かのために差し出されようとしている事実が
胸を押し潰されるような息苦しさを産み始めていた。

「……葵」

すっと差し出された手のひらが頭の上に優しく乗せられた。

「……ごめんな。俺がいなくても頑張れな。葵は強い子だから大丈夫だ」

ガラガラと心に入ったヒビが一気に広がって、縋りたい気持ちが行き場を失って崩れてゆく音がした気がした。
その事実をかき消したくて耳を塞いだあたしの頭にある兄ちゃんの手は変わらず暖かくて、こんな
時なのにそれが嬉しくもあり、同時に夕べは風呂に入れなくて汚れているはずの髪が恥ずかしくて仕方が無かった。

「あたし、おか、お母さんとね……」

プツンと切れた心の糸を繋ぐ間もなく、後から後から堰を切った様に涙が溢れだしては膝の上を濡らしていった。

「うん。聞いた。こんな時にごめんな。何か力になってやりたいけど……」
「だったら!」

いっちゃやだ。
そう言いたくて、でもそれは言ってはいけないと解っていて――ような気がして、口を噤んだ。

「……兄ちゃん。結婚するの?」
「いや、俺もどうしていいかよく解らないんだよ」
「じゃあ何で行っちゃうの?もっと先だっていいじゃない。おばちゃんだって可哀想だよ」
「……解らないからそうするんだよ。俺な、他に何も考えられる程余裕が無いんだ。待つ自信も。

……葵にはまだ解らないかもしれないけど。今、他には何も欲しくないんだ」
ふっと笑って離した手は、また教科書を探り、向けられた背中はそこにあるのに見えない壁で遮られた
様に遠く感じた。

「……バイバイ」

独り言のように小さな声で呟いて玄関へと足を向ける。

「葵」

僅かな期待に動いた心は、だが虚しく潰される。

「――元気でな」

返事も返せず振り向けず、別れの時間はあっさりと終わりを告げた。
それからひと月後、新しい土地で中学2年の春を迎えた。

いつもそこにいて、悲しい心を受け止めてくれた。声を聞いてくれた。
そのあたしの心が全く届かなくなってしまったこの時、それを奪ってしまった見知らぬ誰かを憎み、
リアルな胸の苦しみと痛みを、

……初めての恋と同時に失恋という形で記憶の奥に葬った。


――将希21歳、葵13歳の春――






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