ひとつだけ・3(非エロ)
シチュエーション


兄ちゃんと会ったのはそれから5年後の事だった。

『父親が亡くなった』

その事を聞いた時、真っ先に浮かんだのは“殺されたりしたんではあるまいな”などという不謹慎な
思いであった。
(元)妻や娘にあれだけの修羅場を演じていたろくでなしだから、まあまともな死に方はしないであろう
事は常々予測されていた事態ではあった。

――実際は不摂生が祟っての何ちゃらであり、まあそれはそれで納得するに値したのだが――実の
娘なのである、あたしは。離縁したとはいえそこは親子の情愛というもので涙の一粒も零れるものなの
だろうが、そんなしおらしさは微塵も残ってなどいなかった。
それどころか生前はあれだけ周囲に迷惑をかけまくり疎まれていた人間が、死んでしまった途端
一気に同情を集める存在になるというのがおかしくて仕方がなかった。
前妻である母はおろか、ついこの前までねんごろだった女(どうもその辺は相変わらずらしい)も
姿は見えず、別れたとは言え血を分けたあたしという娘でさえもこんな状態なのだ。
こうなった今、眉をひそめられるのは生きているあたし達なのだ。しかも母はあたしに

『お父さん死んだんだって』

と一方的に連絡を寄越しただけで、線香一つあげにくるつもりはないらしい。
だから、式を取り仕切ってる叔母を除いての最も近い身内の立場としては、それを一手に引き受け
無ければならなかったのだった。
母というひとが少々自己中なのは今に始まった事ではない。
中学生のあの春の日、新しい土地で待っていたのは、新しい父親という見知らぬ男の人とその連れ子
であった。
何も聞かされてなかったあたしは突然の変化を受け入れるに間に合わず、戸惑い、後退り、閉じこもって
しまった。

「葵?」

低いやや粘りのある声に弾かれるように振り向く。

「ああ、やっぱり葵だ。……俺の事わかる?」

黙って頷くと、久しぶりだなと答え父の棺の前に跪く。
黒いスーツの肩を背中から眺めながら、やっと家族に会えたような気がして少しだけ嬉しくなった。
こんな時だというのに。

「今お前、働いてるんだってな」

飲み物を口にしながら通夜の席の隅っこで並んで座った。
叔母さんに聞いたのだろうが、あたしの事などもう忘れていると思っていたので驚いた。

「大丈夫なのか?……ちゃんとやっていけてんのか?」
「うん。大丈夫へーき」

母親があたしには寝耳に水だった再婚をした。だがあたしにはその相手と連れ子に馴染めず新しい
学校に溶け込むのにもいっぱいいっぱいだったため、気がついたら家での居場所はどこかへ行ってしまった。
母も新しい夫と子供に気を遣うのを最優先にしあたしの事は見て見ぬふりをした。
完全に孤立したあたしは中学の担任に進路は無理を言って就職先を探してもらい、卒業すると同時に
そこの寮へ入った。

「結構気楽にやってるよ。仕事しんどいけど、もう慣れた」

中卒でデスクワークなど出来るはずないので工場の肉体労働ではあるが、それなりに充実はしていた。

「そうか。友達とかいるか?楽しいか?」
「え?ああ、うん」
「彼氏とかいたりしてな」

どくん、と胸が跳ねた。
きゅうきゅうと押し潰されるような痛みに襲われ、そっと胸を押さえた。

「どうした?」
「……ううん。ひ、人のことより兄ちゃんは?……その、け、結婚とか」
「ああ、俺か?俺はまだしてない」
「えっ!?」

あたしの頭の奥の方で苦い記憶が呼び出される。
呼んでも呼んでも届かなかったあの早春の別れの日。
何が言いたいのか察したのだろう。ふ、と小さく息を洩らして笑うと

「結局すぐだめになったんだよ、あれは。だから別れてしまった。まあ、俺には背負いきることができな
かったんだよ。……若かったんだ、多分」

勢いに任せて突っ走った恋はあっという間に散ってしまったのだろうか。

叔母は何も言ってはいなかったしあたしも聞けはしなかった。
あの出来事はもしかしたら母子の間にちょっとした溝を作ってしまったのかもしれない。――あたしみたいに。

母が父となかなか別れようとしなかったのは次が居なかったからだと思う。
実際あの人はあたしより明らかに新しい父親という人を大事にしていたし、円滑な家庭が組めないのは
あたしの努力不足によるものだとよく責められたからだ。
結局男無しでは生きられない女なのではないだろうかと哀れにさえ思う。
あたしはそうはなるまい――そう考える度、誰がどう見ても愚かだと思うような惨めな実父との結婚
生活をきっぱり断ち切る勇気の無かった母を情けなく苛立たしく嘆いていた。

――幸せとは誰かに縋らなくては手に入らないものなのだろうか。
望んでも望んでも自ら掴み取れないままのそれを欲しては、未成年故の脆い立ち位置にある自分の
弱さに唇を噛んだ。


***

棺の蓋がいよいよ閉じられた時、本来なら駆け寄って涙の一粒でも流すべきなのだろうがあたしには
そんな感傷は残ってなどいなかった。
案の定数少ない参列者は眉をひそめていたし、叔母は心底情けないとでもいいたげに仏とあたしの
顔を交互に見ては溜め息をついていた。

「――お疲れ」

火葬場の庭でやれやれと空気に当たっていたあたしに兄ちゃんが声をかけてきた。

「大変だったなお前ひとりで。よく頑張ったな」
「あたしは何も……」

わんわん泣いて『お父さぁん』なんて棺にしがみついたりしてたわけじゃない。逆に『一体何をしに
来たのか』と思われる方が余程普通の捉えられ方だろうに。この人は何を見てそんな事を思うのだろうか。

「頑張ってないよ。冷たいよ。あたしは」
「……泣く事だけが別れじゃないよ」

はっと顔を見上げると、長年会わずに居たはずの兄ちゃんの昔と変わらぬ瞳がそこにあった。

「取り方なんて人それぞれだろう」

目を細めながら今出て来た建物を見上げていた。

「色々な事があった。ありすぎて自分の感情を置き去りにしてきてしまったんだよお前は。それは仕方の
ない事だと思う。それでも今こうやって最期にちゃんと送り出してあげてるだろう?ここにいるだろう?」

本当ならここへ来ない選択肢もあった。なのにここへ来る事を決めたのはあたしだ。母に言われた
ところで拒否しても多分叔母にチクチク言われる位の事で済んだのだろう。

「葵。お前は優しい子だよ」

成長しても女のあたしが決して抜く事のない背丈は、どんなに追いかけても追いつけない年齢と同じく
何年経っても差をつけたままで、その手のひらは気付けば髪に触れられる。

――昔のように力強い優しさでわしわしと乱される事は無かったけれども。

「もっと楽になれ。兄ちゃんの前でくらい意地張るな。頑張らなくていいんだ」

そう言って見上げる先を同じ様に見上げれば、灰色の煙が細長い煙突から風に煽られて空に流れる。

『あたしはここにいるのに』

あの日泣きつきたくてもこの存在を心に置いてくれなかったその人のたった一言に救われた気がした。
生きていてもいいのだと思うことができた。
だが、静かに命の終わりを見上げるあたしの隣で携帯電話の向こうに語り掛ける横顔は、すぐまた
側から離れていってしまうのだろうという予感に忘れていた胸の痛みを思い出す。

誰だって縋りついて寂しさを癒やす存在というものが欲しいのだ。それを軽蔑し責めて目を背けて
おいて同じぬかるみにはまっていたあたしは実は母と同じだった。

「兄ちゃん……恋人できた?」

携帯を切った兄ちゃんのどことなく弛んだ頬に、あたしは汚れた我が身を恥じた。

「お前は?」

笑って首をふった。
でも本当はこの人にだけは知られたくないと思っただけだった。

――あたしは既に女であった事を。




兄ちゃんが結婚したと聞いたのは、それから暫くしてからだった。


――将希26歳、葵18歳の秋――






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