シチュエーション
目の前の男。その顔をよく見れば見るほど、それがよく知る人物の持ち物だと思い知る。 「な・・・あ、あんた・・・」 ちょっと待て。おかしいだろう。何故。何故あんたが、ここにいる?あんたは七年前に、ふらっと勝手に居なくなって。それから咲耶が変わってしまって。なんで。なんで今更、のこのこと現れた? 「あんた・・・ここで、何してやがる!?」 言った後から自分でも驚くほど、大きな声が飛び出した。俺の背を掴んでいた咲耶がびくりと身を震わせたのが、着物越しでも分かった。 「か、和宏君、これには訳が・・・」 「うるせえっ!訳だぁ!?んなモン知った事か!」 驚いた咲耶の手を振り払い、目の前の憎い者の襟首を掴む。まるで自分の身体じゃないかのように、腕はスムーズに動いた。 「っぐ!?」 「か、かずくん!?やめ・・・」 「あんたのせいでっ・・・あんたのせいで咲耶はなあっ!」 そうだ・・・この男さえ居なければ。この男さえ居なければ咲耶は、今のようになる事だって無かった。 俺の後ろに隠れて人の目に怯える事も、彼女の親族から後ろ指を差される事も無かった・・・全部、この男のせいで―――――! 「―――かずくんっ!」 どん、と。またしても、背に衝撃。覚えのある温かさが、俺を捕まえる。・・・何か言われる前に、俺は両手の力を抜く。高橋光也が、俺の前に屈み込んで苦しそうに二、三度咳き込んだ。 それから、咲耶は俺を見る。その目には大粒の涙が浮かんでいて。いつもよりも若干険しくなった瞳が、真っ直ぐに俺を見据えていて。 (・・・あ、やべ) また泣かせちまった、と気付いた瞬間。 ―――――パンッ、と乾いた音。 ビンタ、と言うにはあまりにも力の入っていない一撃が、俺の頬を張った。 「・・・・・・」 俺は何も言わなかった。否、言えなかった。・・・まさか、咲耶にビンタ喰らうとは思ってなかったんだ。 「・・・っ・・・」 そのまま、咲耶は何かを言いかけて・・・結局、何も言わなかった。呆然とする俺たちを置いて、俺が元来た道を走り去っていく。 「咲耶っ!」 光也の声だけが、夜の境内に虚しく響いた。 「な、なあ和宏君・・・咲耶は一体、どうしてしまったんだ?話し掛けても、逃げるだけで何も話してくれないんだ・・・」 (どうして・・・しまった・・・だと?) ごめん咲耶。俺、やっぱりこの男は許せないや。そう思ったときにはもう、俺の拳が光也の頬に突き刺さっていた。 「あんたのせいだろうが!あんたが咲耶を置いて行ったせいで・・・!」 目を白黒させる光也を見下ろして、俺は吼える。本当なら、もう五、六十発はぶん殴ってやりたいが、俺は辛うじて自分を押し止める。 「わ、私の・・・?」 「・・・七年前、あんたが居なくなってからの事だ」 俺は、無様に尻餅を付く光也から目を逸らす。本当なら、こんな奴に何も話してやりたくない。だが、この男が事情を知らなければ・・・また、咲耶に近付こうとするだろう。 「あんたが消えてから暫く、咲耶は何の連絡も、うちに寄越さなかった・・・あんたの言った通りにしなければ、あんたが怒って帰ってくるって信じて、あいつは・・・」 「な・・・そ、そんな・・・」 相当、堪えている様だった。娘が何も知らずに保護を受けられる環境を、この男は作ろうとしていた。けどその娘の賢さが、それらをすべて壊したんだ。当たり前だろう。 「三日だ。たった十歳の子供が、三日間も、誰も帰らない家の留守を守ってたんだぞ・・・それから、あいつは俺たち家族以外の人と、話すことが出来なくなったんだ!」 怒鳴り、ふう、と息を吐く。これで全部だ、と言う代わりに、俺は光也に背を向ける。こんな奴よりも、家に向かったであろう咲耶のほうが、よっぽど心配だった。 「か、和広く・・・」 「呼ぶな」 俺は顔だけ振り向いて、憎き男を睨む。 「『光也おじさん』は、七年前に死んだよ。あんたは咲耶の父親でも何でもない、ただの幽霊だ!」 叫び、走り出す。待ってくれ、話を聞いてくれと、何かに縋るような声が、背後から俺を呼び続けていた。もちろん、後は一度も振り向かなかった。 咲耶を追って家に辿り着いたとき、父さんと母さんは居なかった。 「・・・なんで、こんな時に・・・!」 テーブルの上に置いてあったメモ書き・・・祭りのついでに近くの居酒屋でクラス会を開く、と言った趣旨のそれを右手で握り潰し、くしゃくしゃに丸まったそれをゴミ箱に叩き込む。 咲耶が部屋に居るのは知っていた。履いていたサンダルは玄関にあったし、暗い廊下に、開けっ放しになったドアから月の光が差し込んで、少女の姿をくっきりと浮かべていた。 決心が付いていないのは、俺だった。 (・・・こういう時、なんて言えば良いんだ?『気にするな』とか?それとも、『俺が守る』とか?・・・アホか、俺は何様だ) 自嘲し、心を落ち着かせて彼女の部屋へ向かう。・・・取り敢えず、無事を確認したら直ぐに自分の部屋に戻ろう。気まず過ぎる。 (なんだかんだで、俺達は結局他人同士だもんな・・・あいつの家のことに、俺が首を突っ込むわけにもいかない、か) その事実を再確認したとき、不意に、左胸の辺りがぎりっと痛んだ。けど、俺はそれに気付かないふりをして、ドアの脇の柱―――ドアをノックしようとしたけど、開いたままだった―――を、こんこん、と叩く。 「咲耶、入るぞ」 返事は、聞かなかった。咲耶は、浴衣を着たまま、ベッドの上で膝を抱えていた。 「幾らか、落ち着いたか?」 「・・・・・・(ふるふる)」 問いに、首を横に振る咲耶。当たり前だよな。そう一人ごち、俺は彼女の脇に腰を下ろす・・・普段何気なく撫でていた彼女の頭が、妙に遠く感じた。 「・・・・・・」 そのうち、咲耶は俺の浴衣の端を掴んでいた。・・・捕まったってのが正しいのかもしれない。俺はそれを除けず、そのままにしていた。 「・・・・・・」 咲耶はそのまま、俺の左腕に寄り添うように身を寄せてくる。そして、俺の方をおずおずと見上げると、言い辛そうに、口を開いた。 「・・・さっき・・・ごめんなさい」 「ん・・・いや、いいって」 さっき、というのは、先ほどのビンタの事を言っているのだろう。咲耶は手を伸ばして、俺の左の頬に触れる。正直言って痛くも痒くも無かったが、それでも咲耶は、腫れてもいない頬を、摩っていた。 「俺の方こそ、ごめんな。もう殴らないって言ったのに・・・」 「・・・・・・(ふるふる)」 また首を横に振る。 「・・・・・・かずくんは、悪くない。悪いのはあのひとだもん・・・」 言葉に、俺は溜息をつく。 ・・・あんた呼ばわりした俺が言うのも何だが、実の娘に『あの人』としか言われなかったあの男が、少しだけ哀れだった。 不意に、左腕に微かな震えが伝わってきて、俺は息を呑んだ。 「咲耶?」 俺の声に顔を上げることも無く、咲耶は俯いて・・・両手で自分の肩を抱いて、震えていた。寒いのかと思い、そう問おうとして・・・俺は固まった。 伏せられて口元は見えないが、微かに聞こえた。 「・・・っ・・・ぃ・・・」 苦しげに、呻くように、彼女が何かを言おうとしているのを。 「咲耶!?おい、どうした!?」 咄嗟に、咲耶の肩を抱いて軽く揺さぶる。俯いていた彼女の顔には・・・ 「・・・っ・・・ぁ」 大粒の涙が、浮かんでいた。 「・・・こわい、よ・・・かずく・・・っ!」 そのまま咲耶は、俺に抱きついて嗚咽を漏らす。 「ど、どうした?」 一瞬で、鼓動が跳ね上がる。どうかしたのは俺の心臓だけだ。でも、そんな事はどうでもいい。咲耶が、今、涙を流している。それだけ見れば充分だ。 咲耶は俺の胸に顔を埋めて、ひっくひっく、と、子供のように泣きじゃくる。 「・・・だって・・・変だよ、こんなの・・・今まであの人、なにも・・・何も、言わなかったのに・・・」 ・・・彼女は、自らに降りかかった『異変』に、怯えていた。それもそうだろう、彼女にとって、あの男が目の前に現れるなど、有り得なかった事だ。 その有り得なかった事が、起こった。それはつまり、これから更に様々な異変が、咲耶の身に降りかかる・・・その予兆とも取れた。 (・・・冗談じゃねえぞ) 知らず、震える背を抱き締めていた。 (こいつが、何したってんだよ。父親に置いて行かれて、親戚に会うことも出来ないままで・・・これ以上、こいつがどういう目に遭わなきゃならないってんだよ!) 或いは、ずっと近くに置いておきたかったのだと思う。もしかして、彼女が俺の遠くに行ってしまうのではないかと・・・俺はどこか漠然と感じていた。 「・・・守るから。俺が、守るから」 口を突いて出たのは、馬鹿げてると思った言葉。意味がないと思っていても、言わずには居られなかった。 「だから・・・だから、ここに居てくれ・・・俺の傍に・・・!」 咲耶は、何も言わなかった。けど、その代わりに顔を上げて・・・涙を拭かず、黙って目を閉じる。 俺は、何かに導かれるように、彼女の顔に、自分の顔を重ねる。一瞬だけ、唇が触れて、離れて・・・そして、また触れた。 「ん・・・っ」 息つく暇なく唇を再び塞がれて、咲耶が小さな呻きを漏らす。いつしか、彼女の腕は俺の背に回されていた。 「咲耶、俺・・・」 いつか言いたかった、ただ一つの言の葉。それが今・・・ 「・・・君が、好きだ」 音を伴って、空気を震わせて。やがて彼女に届く。見詰めた彼女の瞳が、再び涙に濡れて・・・ 「・・・っ」 今度は咲耶から、唇を重ねてくる。 頭の中で、誰かが言う。 『良いのか、これで?彼女は情緒不安定になっているだけだ。今本当に、咲耶に必要なのは誰なんだ?』 ・・・弱っているのに付け込んだ、とか。どさくさ紛れ、とか。傷の舐めあい、とか。何を言われても、俺に反論の材料は無い。それでも・・・ (知るか) 声に心の中で答えて、俺は三度、咲耶を抱き締める。 月明かりに照らされた、六畳一間の狭い部屋の中。呼吸に疲れて眠りに落ちるまで、俺達は、唇から繋がった熱を共有していた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |