シチュエーション
3.ザ・チェイス だかだかと廊下に足音を利かせながら、一気にストレートラインを駆け抜け る。 丁度下校時刻の時間だが廊下に生徒がいる事も無く、教室にぽつりぽつり と残っているのが時折見えた。 さすがに人がいなさ過ぎるとは思ったが、こいつらの事だから何か「警報」で も発したのではないかと疑ってしまう。考えすぎか。 後から少し距離を空けて、同じように無言でエージェント達が追って来る。 数えてはいないが、恐らくうちの教室に残っていた全員、つまり10人程が後 ろにいると思われる。 誰か1人くらい「待てー」とか言えよ。そっちの方が雰囲気が出て、恐ろしくな くていい。おまけにただのおふざけだと思われて、不用意に出会ってしまった 無関係な人間に変な目で見られる確率が減るだろ。 壁にぶつかりそうになりながら突き当たりを右へ折れて、階段を2段飛ばし で駆け上がる。 鞄が邪魔だ。 カンカンカンと甲高い音が勢いよく響く。 遅れて同じ音が出鱈目に鳴らした鐘のように複数続く。 何だか変則的な闘牛でも行っている気分だ。 どこまでもしつこくしつこく追って来る奴らを見て、そんなことが頭を過ぎる。 今のところ付かず離れずの安全距離を保ってはいるが、それもいつまでもつ のやら。 闘牛は時間制限までに闘牛士が出来るだけ美しい形で、牛を倒さなくては ならない。 ならば。 4階、5階、6階を経て、気力を振り絞り、最後の階段も駆け上がる。 バン! 続くのは最上階、屋上。 いい感じに暮れかけ始めている空は、まだ端の方が青かった。 ここまで全力疾走してきた身体に、屋上の風は深呼吸したくなる程気持ち良 い。 なんて悠長な行為をしている間も無く、俺は急いで柵の方へと走る。 ガガン! 登り切って来た男達に鉄扉が跳ね飛ばされる。 全員無言でハアハア合唱してるのが離れていてもはっきりと聞こえていて、そ れが耳元で囁かれているようで、夢でうなされそうな程怖いんだが。 俺は既に柵を越えていた。 「じゃお疲れ!」 男達に向かって、さすがに疲れて引き攣ってはいたが笑みをつくり、声を掛 けると、ひょいと縁から宙へと身を躍らせた。 面々が一瞬詰まったような顔をするのが飛び降り様見えて、内心にやりとし た。 連中はどう思っただろうか。下には勿論、床がある。 スタンと膝を付きそうになりながらも、無事に着地した。 ちょっと高さがあって上へ下へと振り回したから、屋上へ来た時点でフラフ ラだった連中には飛び降りるのはきついだろう。 屋上へ着いた時点でほっとしていたし。斯く言う俺も足の裏が痛い。 悪いが俺は自分の主義を崩すつもりは無い。人に見られながら告白の返 事をするなんて真っ平御免だ。 飛び降りた先は、非常階段だった。 その階段を下って適当な階の扉を開け、追って来る気配がない事を確認 し、その扉の鍵を内から閉めると俺はその場を立ち去った。 告白現場を押さえるつもりなら、彼女に張り付いていればいいものを。何で 俺にマークを付けたんだ。 そう疑問をぶつけてやりたかったが、俺は既に奴らから見えないところにい た。多分。 願望でそうあって欲しいという気持ちと、奴らならまだ何かあるんじゃないだ ろうかと思う恐怖で心は晴れない。 疲れた。 へたり込みたいが、場所と状況がそうもさせてくれそうにない。 こうまでされる彼女の凄さを改めて思い知らされた。 一体、俺がエージェントと呼ぶこいつらの正体とは何なのか。 唐突な話だが、うちの学校にはMが多い。 唐突かつ情けない事この上ないが、聞いて欲しい。 頂点にいるのは勿論、相川鈴音嬢。 事の発端はとんでもなかった。 ちょうど1年程前の食堂だったと聞いている。 彼女が友人と昼食を取るために、食堂へとやって来た。 無事角の席を確保し、二言三言その場で会話し、後ろを空けるか彼女が何 かをするために、テーブルの外へ一歩身体を出していた時の事だった。 がつんと前方不注意の男が後ろからぶつかって来て、彼女は蹌踉めいた。 男は舌打ちをし、零れた湯飲みを直すと悪態を吐いて去っていく。 これはいけない。男としてどころか人間的にも宜しくない。 もしぶつかられた人が彼女じゃなくて、ぶつかったのも彼じゃなかったら、展 開は違っていただろう。 しかしながら、神はこの運命を下した。 「お待ちなさい」 ぽたりぽたりとブレザーから雫が垂れるのも厭わず、彼女は男を呼び止め た。 「ああ?」 人間というのは、いつ何時たりとも注意しなくてはならない。たった一言で自 分の人間性を知らしめてしまう時もあるのだ。 男は柄が良くないことで有名な2年生だった。当時の3年も避けて通る感じ だったらしい。 「お待ちなさいと言ったのです。ぶつかっておいて舌打ちを一つ、詫びもせず に去るというのは、どういうつもりなのですか」 何だか口調が若干今と違うことは置いといて、高潔な姫君という言葉がぴっ たりだったと、その場にいた人物は後で評した。 顔だけ振り返っていたその男は、身体をくるりと彼女の方に向き直らせた。 1年の華奢な総代vs2年のがたいのいい不良。 どう見ても勝負は明らかだった。周りも止めるかどうか迷っただろう。 だがすでに剣呑さが漂う雰囲気で、どちらにしても手遅れだった。 「おめー1年だろ」 「それが何です」 「俺のことを知らないんなら、知っておいた方がいいのかもな」 カタンとトレイを傍の机に置き、男は彼女の腕を掴んだ。 因みに周りは避難していてもう誰もその机の周りにはいなかった。 拙いと誰もが思う中、彼女は動じもせずに言葉を発した。 「謝るつもりはないのですか」 男は言葉を無視して彼女の腕を引いた。 「痴れ者!」 途端に彼女は空いていた右手で、男に雷光の如き張り手を食らわした。 バチンと物凄い音がして、男は勢いよく吹っ飛び、そのまま近くのテーブルに うつ伏した。完璧に入ったと誰もが思った。 そこに彼女の怒涛の口撃が始まった。 「この、大莫迦者!最低の汚らわしい俗物が!たった一言詫びればその場は 収まり、互いに嫌な気持ちをせず済むというのに、相手に不快感を与えるよう な態度を取り、人に被害を与えて通り過ぎるなどという事が罷り通るとお思い ですか!恐らくは何方からも注意を受けずに過ごされて来られたようですけ ど、そんな事ではこの先どんな人生を歩まれるのか目に見えています。今な らまだその不遜に気付き、更生するには充分に時間は――」 長いのでここらへんで省略させてもらう。とにかく彼女は男を罵倒し、更にこ んこんと説教を与えた。しかし素晴らしい肺活量。 恐らく誰にとってもこんな場面は、人生に一度あるかないかの出来事だろ う。 誰もがまともに張り手を食らって動けずにいたとばかり思っていた男が、睨 め付けたままの彼女のある言葉に反応した。 「――お分かりになったかしら?分かったのでしたら、何かお言いなさい」 彼は今までとは違う調子の声で、低くうわ言の様に呻いた。 「……はい、女王様。俺が間違っていました……」 断言できる。その場にいた全員の頭の中が、「え」で覆い尽くされていただろう ことを。 何かのスイッチが入ったらしい、その男は彼女に跪くとがばりと土下座をす る。 「お許しください。私は未熟で人を尊敬する事を知らず……」 男は悔恨の涙を流して詫び、その姿に彼女は満足した。 この男が陶然となっているのを、当事者以外の者はまるで信じられない奇跡で も見たかのように硬直していた。 と、このように彼女は1人の男を更生らしきものをさせてしまっただけでなく、 その場にいた男達のM化への促進をさせてしまったらしい。 彼ら曰く、「ときめいた」らしいのだが。 あっという間にファンクラブが出来、彼女は崇め奉られ、瞬く間に彼女は神 格化された。別名、三ツ丘高の女王。但し女王と呼んでいいのは彼らだけ(と いう事になっている)。 現在は全校男子生徒の半数近くが会員だとかいう噂だ。 一体どこで、その女王っぷりを目にして入会していくと言うのか。 勿論、俺は会員では無いので全体数を把握していない。活動内容についても 知らん。 因みにこの叱咤された第1号は今の生徒会長だというのだから、本当に人 生というものは分からない。 生徒会長は、彼らのカテゴリーに属する人の中で最もラッキーだと言われて きた。 何せ彼女は今まで男嫌いと目されてきたのだから(只今絶賛看板撤廃中)。 以後彼女に触れた男はいないらしい(今日の午前8時57分までの記録よ り)。 後述しておくと、咬まされた平手は跡が残らなかったそうだ。恐るべし相川 鈴音。 そんな彼女に返事をしに行かなければならない。 間接キスを頂くとばかりに俺の唇を狙う者、殴ろうとする者、殺意の篭もった 眼差し、その他の軽い嫌がらせ、色々ありました。 全て排除、通過済み。 でもそんなもんは今日で終わりだ。 俺は特別棟2階のトイレの外壁から手を離し、飛び降りる。 今日まで運動神経を鍛えさせてくれた環境に感謝。 ここから裏庭は逆方向にあるのだが、遠回りしていけば安全だろう。 俺が若干汗臭いのを嫌がらなければいいのだが。 草の間に落とした靴を探り当てる。上履きは仕方が無いが、持って出る他 あるまい。 安全を確認すると、俺はエージェント溢れる校舎を離れた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |