シチュエーション
![]() 7.死か服従か 余程、こういう事に慣れていると見える。 一ノ瀬の見せる笑顔には、はっきりとこの取引に対する自信の色が表れていた。 眼鏡の奥に映る色は、先程まで見せていた見る者の心を爪弾くあの笑みを、獲物を 弄ぶかのような、ぎらぎらした視線へと変化させ始めている。 本人がどこまで自覚しているのかは知らないが、今やその瞳の色は隠し切れていな かった。 研いだ爪まで透けて見えそうな目付きに、指先まであった血の気が引いていく。その 温度差にぞくりと背筋が震えた。 「……俺への要望は?」 冴え返り始めた頭に鈍く響く頭痛が、この上なく鬱陶しい。 奥歯を噛み合わせ、射る様に見つめてくる視線へと挑むように睨み付けながら、髪を 掻き毟りたくなる衝動に耐えた。 「さあ…何だと思います?」 一ノ瀬は思わせ振りに、挑発的とも取れる笑みを浮かべる。小首を傾げると、緩やか な髪が、さらりと流れた。 からかっているのか。 俺の身に降り掛かっている出来事中、一番大きな懸案は相川鈴音だが、まさか彼女 の前から姿を消せばこの問題は解決するので、転校させるとかじゃないだろうな。 若しくは今朝の態度は実はライバル宣言で、呟いた様に見えたのは目の錯覚では なく、『消えろ』だったりするとか。 真剣にそんな事を考えていると、突然一ノ瀬が噴き出した。 「そんなに考え込まないで下さい。すごい百面相してますよ」 尚も手で口元を覆い、目をきらきらと輝かせながら一ノ瀬は笑い続けた。 「わたしからの条件は簡単です。――藤沼さんに、一度鈴音とデートしてもらいたい んです」 言葉に対する知覚を促すような声色で、一ノ瀬の口から『正解』が告げられた。 何!?一ノ瀬はライバルでなくて、相川の味方なのか! 予想は意味を成さない程遥か彼方へと吹っ飛ばされ、横からとんでもない提案が脇 腹を抉った。 「聞き入れてくだされば、ファンクラブや新聞部や生徒会長も抑えてみせます」 っておいおい、さっきより項目増えてるじゃないか。 「……生徒会長?」 生徒会長も何か企んでるのかよ。 「生徒会長もです」 俺の独り言にも近い言葉にも、一ノ瀬は律儀に相槌を打った。 生徒会長がどんな経歴の持ち主なのかは、以前述べた。 「どうやって抑えるつもりだ」 「わたしが執行部の役員だという事をご存知になれば、大体の予想は付くだろうと思 います」 なるほど。知らなかったが、一ノ瀬もそうなのか。それなら、内部圧力と外部圧力の 両方が何とかなりそうだ。なりそうなのが、怖い。 しかし、ファンクラブは「クラブ活動」なんだろうか。男子の半数が入会していると噂さ れているから、クラブ活動としては人数問題はクリアしているだろうが、相川を愛でる というだけで、部活の申請が通るとは思えない。何かでカムフラージュしてるとか? 「ファンクラブも、生徒会の力で何とかなるのか?」 「そちらは生徒会として動く事はありません。飽くまでわたしの人脈の中で話を付け ます」 人脈。およそ高校生に相応しからぬ言葉だ。 だが、素直に一ノ瀬にその力があることを納得してしまった。 「なるほど」 その感情を素直に表に出しながら俺は俯き、一ノ瀬が声を出さずに薄く笑んだのを 視界の端に見た。 身体の変調は動揺から落ち着いてきた為か、いつの間にか大分増しになっていた。 「――それで、そちらのメリットは?」 「勿論、鈴音が喜びます」 意外な質問をされた、とでも言うように一瞬目を丸くしながら、一ノ瀬は即答する。 うん。そうだろうな。目を輝かせながら喜ぶ彼女の姿が目に浮かんだ。今朝の事もあ るし。 と、そうではなくて。 「それは何となく分かるんだが、俺の言ってるのはそこじゃない。君は俺と相川を デートさせる事で、何を得る?」 一ノ瀬が態々渦中の人物に話を付け、宥めて自粛させる理由は何だ。 再び鼓動が重く響き出す。勝手に膨らんでいくイメージを、必至に振り払う。 「幼馴染みの恋を応援するのに、メリットも何もあるんですか?」 返事はさらりと、まるで予め予測されていたように滑らかだった。 俺は心の内で唸る。そう簡単には本性は見せないか。 「じゃあ聞くが、幼馴染みの恋を応援するのに、普通取引なんかを持ち掛けるか?」 瞬間、一ノ瀬の表情は変わらなかった。間を置いた後、笑みが濃く刻まれる。 清々しいとでも表現できそうな、酷く満たされた笑みだった。それを逆に不気味に感じ るのは、間違っているだろうか。 「……取引は不成立だ。多分これ以上話していても、埒が明かないだろう」 俺は早口で捲し立ててから踵を返し、入り口にある上履きを履き直す。 踵の違和感を直してから、扉の縁に手を掛けた。 怖い怖い。こんな空間はさっさと立ち去るに限る。それに、これから野暮用もあるし な。 「行かない方がいいと思いますよ」 「ん?」 唐突に掛かった声に、外へ向けていた身体を一端内側に向き直らせた。 一ノ瀬の姿勢は、いつの間にか窓辺の教職員用の机に浅く寄り掛かりながら足を組 む格好へと変わっていて、更には乾いた眼差しで俺を見据えていた。 「まさか、彼らの靴の裏を舐める方がいい、なんて仰いませんよね」 何? 「何の話だ」 「さあ?」 取引に応じない者には興味無し、とばかりについ、と視線を逸らし、一ノ瀬は先程ま で揺れていた模造紙に目を遣った。 模造紙は、相変わらず窓を閉じられた時から微動だにしていない。 暫く逡巡した後、それ以上の反応の見込みが無い事を悟り、踵を返した。 廊下へ一歩踏み出す。妙にひんやりとした廊下の空気が纏わり付いて、俺を絡め捕った。 「藤沼さん」 呼ばれた声に、扉に掛けた手を止めた。 「考えてみてください。そんなに悪い話では無いと思います」 俺はそれには返事せず、ぴしゃりと後ろ手に扉を閉めた。 ――まさか。 図書室が目に入ると、急き立てられるようにして中に飛び込んだ。 しん、としていた廊下同様、図書室にも人の姿は見当たらない。 奥の窓辺に移動し、べたりと窓ガラスに張り付くようにして外を見下ろす。 ここからグラウンドの奥にある道場がよく見えるはずなのだが、木が邪魔して見通せ そうになかった。 ――まさか。 俺は裏ポケットから携帯を取り出し、番号を探す。 何度かコール音が鳴り、ぷつりと音が途切れると、『はいはい』と暢気な声が聞こえた。 「皆澤、今どこにいる?」 『どこって、もう部室に来てるけど』 電話の向こうからバタンとロッカーが閉まるような音と、判別出来ないが話し声がして いる。 「おまえ、そこらへんでさ、運動部じゃない奴らが屯するの見てないか?」 『……もしかして、例の団体?うわ、忙しいこった』 「元凶のおまえが言うな」 その言い種に、今度奢らせる事で手打ちにしたことを思い出し、舌打ちする。 『ちょっと様子見てくるわ!』 「ばれない様にな」 その楽しそうな声に溜息を吐きながら、電話を切った。面白い事に目が無い奴だか ら、上手くはやるだろう。 ――まさか。 一ノ瀬の言った言葉は、どこまでが信用できるものなのか。 暫くして、手の中の携帯が震えた。 『藤沼。何か道場の方に、制服の奴らが集まってるっぽい。10人くらいかな。ありゃ、 たくさん遊んでもらえそうなメンツだな』 「マジか」 頭を抱えそうになる向こう側で、皆澤は心底愉快そうにたっぷりと愉悦を含んだ声で 笑った。 『お前死ぬのか?』 事態を楽しむ、何とも直球な質問に思わず力が抜ける。 「おまえが間接的に殺すようなもんだろ」 殺意を込めて返事をすると、こちらに聞こえる音声が一部歪む程に、皆澤はげらげら と大笑いした。 「死んだらおまえに取り憑いてやる。――偵察バレてないだろうな?」 『忘れ物取りに帰ったフリしたから大丈夫だろ。――楽しみにしとくわ。じゃあな』 最後までこちらの苦労も知らずによくもまあ。当日の内に高いもの奢らせるんだっ た! 別に呼び出しに応じるつもりは無かったが、これは既に包囲完了? 準備している間に呼び出された俺には、これから教室に帰って鞄を取ってくるのも不 可能そうだ。今頃俺が見つからずに、探されてるかもしれない。 この件、どこまで一ノ瀬が関係しているんだ。 再び裏ポケットに手を突っ込み、携帯と入れ違いに、ピンクの封筒を取り出した。 これを一ノ瀬が仕組んだと考えられなくも無い。先程言った様に人脈もあるようだし。 しかし、物事の全体として捉えて見ると釈然としない部分がある。 一ノ瀬の当分の目的が言葉の通り、「俺と相川をデートさせる事」だと仮定しよう。 そうなると、俺達をデートさせたいのに態々奴らを焚き付けるかだ。 そんな事をすれば、奴らを抑えると言った言葉に矛盾するので、焚き付けたというの は中々考え難い。 それより、焚き付けなくとも勝手に奴らが動き始めると予測し、それに乗じて取引を持 ち掛けたと推察した方がしっくりくる。 恐ろしい事に、この手紙は奴らにとっても、一ノ瀬にとっても俺への有効な足留めの 道具として成立したのだ。この、怪しい「後輩」からの手紙は。 まるで操られるように、いや、気付きもしない内に、俺は一ノ瀬のテリトリーにうっか りと踏み込んでしまっていた。足はあっても動けず、手も打てず、もうどう足掻く事も 儘ならない。 決めなくては。 果たして頭の切れる一ノ瀬が、一度デートさえすれば、その他の煩わしい事から解放 されるという条件のためだけに、蜘蛛の巣を張り巡らすかのような不可視の罠を張る だろうか。 旨い話には裏がある。彼女とのデートは俺にとっては旨みは無いが、この状況を何と かする、という条件は、メシアの出現と騒いで拝む程にありがたい。 一ノ瀬は俺を逃す気は無いらしい。でなければ、罠だと暗示させるようなことを言った りはしないだろう。 全ては一ノ瀬の思う壺。――これから俺が取ろう行動も。 俺は忌々しく思いながら封筒を弾くと、真っ直ぐに元来た道を行った。 声も掛けずに扉を開ける。どうせ現れるのは俺しかいない。相手も分かっているはず だ。 本立ての中にあったのであろう、教科書か何かに目を落としていた睫毛が、現れた人 影に上を向いた。 「その取引に応じるのは、今からでも有効だろうな」 「無論です」 キャスター付き椅子の軋んだ音を立てる背凭れに背中を預け、眼鏡の蔓に手をやり ながら俺を見上げた顔には、全て予定通りと書いてあった。 俺は今、どんな顔をしている? 「じゃあ乗った」 瞼の裏には彼女の焦る顔が、やけにはっきりと描かれていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |